1990年。ある冬の日曜日。
ルーカス・ホルトバウムは、久しぶりに故郷にある教会に足を運んでいた。
小さな町の、小さな教会。白く濁った冬の空。教会の尖塔が静かに曇天を突いている。
中に入ると、ミサは既に始まっていた。
数人の信者が静かに祈りを捧げる中、ルーカスはそっと最後列の端に腰を下ろした。
粛々とミサは終わり、人々はゆるやかに立ち上がって帰路に着く。
その中でただ一人、ルーカスだけは席に残っていた。
年老いた神父ハインブルは、そんなルーカスの存在に気づき祭壇を降りていく。
「やあ、ルーカス。君がミサに来るなんていつぶりかな」
老神父は懐かしそうに微笑んだ。
神父はルーカスのことを小さな子供の頃から知っており両親とも縁が深い。しかし、ルーカス自身は信仰にそれほど熱心ではなく、ミサに現れたのは十年ぶりぐらいのこと。そもそも彼はこの町から遠く離れた場所で働いているため、故郷に戻って来ること自体が珍しいことだった。
「ご無沙汰しております」
ルーカスは立ち上がり、神父に小さく頭を下げる。
そのとき神父は彼がドイツ連邦空軍の勤務服を着ていることに気がついた。
はるか昔、この老神父が国防軍での兵役に就いていた頃の記憶に基づけば、その階級章は彼が士官であることを示していた。話によれば空軍では戦闘機に乗っているそうだ。
「ご両親から聞いているよ。イラクに出征するそうだね」
「はい。来月には中東に」
「ここには祈りのために来たのかい? それとも、挨拶に立ち寄ってくれたのかな」
「どうでしょう。ただ、もう一度ぐらい来ておくべきかと思いまして」
ルーカスは少しだけ目を伏せ、言葉を選ぶように言った。
「それで十分だよ。理由は何であれ、主はいつだって君を受け入れる。好きなだけここにいていい」
「ありがたいお言葉ですが……そろそろ失礼しなければなりません。家族が待っていますし、ほかにも挨拶すべき人たちがいますので」
ルーカスの顔がやや曇り、老神父も同じく表情を暗くした。
わざわざ故郷に戻って挨拶周りをしているということは、それだけの「危険」が予想されるということだ。神父はイラク情勢が日に日に緊迫化していることはニュースで知っていたし、ドイツ軍が第二次大戦以来初めて戦場に兵士を派遣することも知っていた。
そして同時に……あるいはそれ以上に、ひとたび戦場に出れば無事に帰ってこれる保証が存在しないということを、あの大戦を生き延びた帰還兵の一人として十分に知っていた。
この小さな町の出身でイラクへの出征が決まっている軍人はルーカスを含めて二人いた。
もう一人は陸軍士官のフリッツ・フォン・フランフィテルといって、ルーカスの幼馴染であり義理の兄でもある。ルーカスはフリッツの妹を妻として娶ったのだ。
「そういえば、フリッツも帰ってきているそうだね。彼は陸軍だったか」
「えぇ。二人そろってイラクに行くものですから、その前に家族が一堂に会する機会を作ろうという話になりまして」
老神父は、しばしルーカスの顔を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「君が小さいころ、母君と一緒にちょうどあそこに座っていたのを覚えているよ。聖書の内容に文句ばかり言っていたこともね」
ルーカスは口元だけでわずかに笑う。
「……奇跡なんて都合が良すぎる、と言っていた記憶があります」
「今でもそう思うかい?」
「さあ……分かりません。ただ、奇跡があるなら、戦争なんて起きないでしょう」
神父は「そうかもしれないね」と静かに頷いた。
「君は立派な大人になった。良き夫であり、良き父親だと聞いているよ。時の流れは早いものだ」
神父はふと顔を上げ、ルーカスの横顔を見つめた。
「ルーカス、君は迷っているね。戦争に行くことを後ろめたく思っているのかい」
「多少は……」
「そうか。君はなぜ軍人になった」
「家族を守るためです。第三次大戦が始まればこの町は主戦場になる。だから、守る力が欲しかったのです。しかし、今や冷戦は終わり東西の国境もない。ここが戦場になる事もないでしょう。けれど、私が職業軍人であるという事実だけは、まだ残っています」
ルーカスは静かに息を吐く。
まるで吐息に乗せて胸の奥に深く沈んだものを少しだけ外に出そうとするように。
「私はおそらく戦場で人を殺すでしょう。命令されれば敵を殺すのが軍人ですから文句はありません。しかし、クウェートのため、自由のため、民主主義のため……そういう目的が、私には正しい行いなのか、必要な行いなのか、それが分からないのです」
沈黙が二人の間を包み込んだ。教会の壁際に並んだロウソクが静かに揺れている。
神父はただ言葉を待っている。
小さく息を吸ってからルーカスが静かに続けた。
「それに……戦場から戻ってきたときに、自分の何かが変わってしまっている気がしてならないんです」
神父はゆっくりと深く頷いてみせて、その老いた目で優しくルーカスを見つめる。
彼の耳には、一瞬だけ五十年前の銃声と悲鳴が聞こえた気がした。
そして目の前にいる迷える兵隊が、過去の自分と重なるようにも感じた。
「ルーカス。人は迷いながらも、歩かなければならない。そして歩いていると、ふと、道を間違うことだってある。それを悪い事だと思う人もいるし、それこそが人生だという人もいる。だけどね、死んでしまっては迷う事さえできなくなってしまうものだ」
そう言って神父は祭壇に向かうと、その横に置かれている十字架を手に取った。
「私はどんな場所にも、戦場であっても、そこに神がいると思っている。銃を持つときも、手放すときも、兵士の背後には主がおらせられる。そして、戦場でどのようなことが有ろうとも、罪を贖う気持ちがあれば『最後の瞬間』に主はそのすべての罪をお赦しになるだろう」
神父は一度区切り「だが」と続ける。
「まだその時ではない。君はまだ若く、帰りを待つ人が沢山いる。だから今は、迷いながらでも無事に帰ってくることを考えなさい」
神父はそれに続けて発しようとした最後の一言を、そっと胸の中にしまいこんだ。
罪に対する後悔は、生者の特権なのだから……。
ルーカスは立ち上がり、深く礼をする。
神父は彼の額に十字を切り、小さな祝福の言葉を囁いた。
「……神父、帰ってきたら、また来ます。次も十年後ぐらいに」
「では私もその時まで、この老体に鞭打って祭壇に立っているとしよう」
静けさの包む教会で、ふたりは小さく笑い合った。
「今日は車で来たのかな」
「えぇ。そうです。駐車場に停めてあります」
「ならそこまで送らせてくれ」
教会の扉を開けると、空にはまだ冬の曇天が広がっていた。
白く吐き出す二人の息がそんな寒空の中に溶けてゆく。
ルーカスと老神父は、肌を刺す冬景色の中へと歩みを進めた。
教会の裏手にある駐車場ではルーカスの家族が待っていた。妻のカロリーナ、息子のクラウス、そして彼の両親の姿も見える。
その隣にはもう一人の出征兵であるフリッツとその両親も揃っている。彼の家はルター派プロテスタント教会の信徒であり、近くにある教会の牧師と話していた。
「やあこんにちは皆さん。今日は一段と冷えますが、すっかり待たせてしまったようで」
「とんでもありません、神父様」
カロリーナは赤毛を揺らしながら柔らかく微笑む。彼女の足元では今年で8歳になるクラウス少年がじっと父のことを待っていた。
「ロンベルク牧師も、彼らの見送りですかな」
「ええ。うちにフリッツが来たので、ルーカスの顔も見ておこうかと。……しかし、若者を戦場に送り出すのは何とも言えない気持ちになります」
「まったくです。しかし、我々に出来ることはそう多くありません。せめて祈りましょう。彼らがまた故郷に戻ってくることを」
雪を踏みしめながら、車は教会を後にする。
神父と牧師がそれを見送っていると、空からはしんしんと雪が降り始めていた。
それは、大地が戦場に向かう男たちの運命に同情するがごとく。
あるいは、主がその運命を人々に啓示するがごとく。
神父は天を仰ぎ、十字を切り、そして呟いた。
"主よ、どうか彼らを守り給え……。"