Project:スムータ   作:北極鳥ユキ

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悪魔(ヴェンドニツァ)の顔/1991

 基地全体に響くサイレンの音。

 1991年1月17日。オアシス空軍基地は夜明けとともに動き出した。

 

 コクピットに滑り込み、ぱちっ、ぱちっ、ぱちっ、とスイッチを倒す。

 起動と共にエンジンに火が入り、計器類が一斉に回り始める。

 幾つかのランプが点灯し、全てが正常に動作していることを知らせている。

 

 双発のエンジンが出力を徐々に上げ、ごうごうという唸りが甲高い音に変わってゆく。

 キャノピーを閉じると、外界と完全に遮断された。

 整備士が機体を一周して、外からの最終点検を行っているのが見える。

 

「異常なし。グニャーズ、最終チェックを行え」

 

 目視による計器類と武器システムの確認。続けてフラップを確認。操縦桿を倒して、カナード、ラダー、エルロン、エレベーターのチェック。

 

「燃料、計器、武装システム、操縦、全て正常。安全装置解除」

 

 聞き慣れた甲高い燃焼音。

 居心地の良いコクピット。座り慣れた座席。

 収まりのいい操縦桿。指に馴染むトリガー。

 

 整備士にハンドサインを送り、機体はゆっくりと前進を始める。

 

 夜明け空──左手に見える地平線からは僅かに白っぽい朝空が顔を覗かせている。

 それはまるで頭の上に広がっている深い夜空を今まさに追い落とさんとしているようだ。

 

 そんな東の空を背景にして、ユーリ・イヴァンコフの操縦するSu-27Mが離陸滑走路に入った。

 

 スホーイ。空の王──制空戦闘機。

 滑らかさと鋭さを備えた、さながら翼竜のようなフォルム。

 そしてかつて、ソビエト連邦の制空を担っていた主力にふさわしい威厳を持った佇み。

 

「こちらオアシス管制。スヴァローグ01グニャーズ、離陸許可。すぐに後続が出る。900メートルまで上昇して、僚機を待て」

 

「了解」

 

 ヘルメットのバイザーを倒し、手を操縦桿に戻す。

 実戦──防空軍時代の実戦とは違う、本物の戦場。

 これまで何百とこなした訓練とも、何十とこなしたスクランブルとも違う緊張感。

 

 ユーリ・イヴァンコフは大きく息を吐き、操縦桿を握った。

 

 やることはただ一つ。自らの力を出し切って、敵を一機でも多く落とし、そして味方を一機でも多く帰還させる。

 たったそれだけの事だ。何も難しくない。

 給料も貰ってるし、ここにいるパイロット陣の中じゃベテランに分類されている。実戦でそれなりに活躍しないと面子が立たないってもんだ。

 

「スヴァローグ01出るぞ」

 

 ブレーキを解放。スロットルを上げる。

 振動と共に機体は加速、すぐに離陸速度に達する。

 

 前輪が大地から離れ、背中から重力を感じる。後輪が離れると、一瞬だけ今度はふわりと無重力感。上昇角に合わせてて機首を起こすと、再び地球の重力が全身に圧をかけ、彼を空の世界へと出迎えた。

 

 午前7時、オアシス空軍基地からは戦闘機が次々と離陸していった。

 

 ……

 

 なんとか生き延びた。

 

 クウェート上空で起こった米軍との初戦闘を終え、ユーリがオアシス基地に着陸して思ったのは、ただそれだけだった。

 

 格納庫まで滑走させている最中はまだ実感が沸かなかったが、コクピットから出てアンドレイ班長が出迎えてくれてようやく帰って来たのだと脳が理解できた。

 

「同志少佐、お疲れ様です。よくぞご無事で」

 

「なんとかな。敵機の破片が当たった気がするから、見ておいてくれないか」

 

「もちろん」

 

 格納庫から外に出て、滑走路を眺める。ちょうどスヴァローグ02とスヴァローグ03のMiG-29が着陸に入っているところだった。

 きゅぎいん、とタイヤの滑走音と共に、二機とも無事に着陸し、地上滑走に入るのが見える。

 無線で聞く限り、二人とも怪我もないそうなので一安心。

 

 直後、滑走路の方で爆発が響いた。

 

「ベロボーグ01が落ちたぞ!」

 

 あちこちから待機していた救助班や消防班が現れ、滑走路に走っていく。

 これで三機目か……。

 滑走路の中腹では残骸と化したSu-27が黒煙を上げながら轟々と燃え盛っていた。

 

 初戦は辛勝といった具合だった。

 クウェート方面から侵入した米空母艦載機の撃退という戦術的な目標は達成した。

 確認できた分の敵機撃墜数はAWACSを含む八機~十機。米軍が被った被害としてはベトナム戦争以来最大レベルだろう。

 これは戦闘機と地対空部隊の組み合わせにより、質量ともに勝る米軍に対して出血を強いるというアウス=アクラム大佐の計画が刺さった形だ。

 

 ただ、あくまでも辛勝に過ぎない。

 

 クウェート方面にはオアシス基地のロシア人部隊からスヴァローグ隊、ベロボーグ隊、ダジボーグ隊、ストリボーグ隊の全十二機。別の基地からイラク人パイロットのミラージュF1部隊が三機、そしてクウェートに配備されている無数の地対空陣地が迎撃に参加した。

 

 損害はミラージュF1は全機撃墜され二人が戦死。ロシア人部隊も二機被撃墜、一機損失で、三人が戦死。

 この作戦で事実上の囮を務めた地上部隊は、米海軍攻撃機隊からの爆撃を手ひどく受け、戦死者も損失した兵器も数えきれない。

 

 局所的な戦闘でこそ勝ったが、元の戦力差を考えれば戦争の趨勢に影響を与えるほどではなく、損害比だけでいえば負けてる。

 しかし、大佐は最初から「そういう作戦」であると語っていた。

 この戦争は初めから圧倒的に不利である。そんな状況で生き残るには、多大な犠牲を出しながら戦術的な勝利を重ねることで米軍を消耗させるほかないのだ。

 

 オアシス基地に帰還したユーリ・イヴァンコフは少しの休息を取った後、他のパイロットたちとデブリーフィングを行っていた。

 司令部内にある小会議室。その室内の空気は勝利の喜びとは程遠かった。

 

 オアシス基地には八十人近い元軍人のパイロットがいるが、実戦経験があるのは僅かに九人名。空対空戦闘に限っては二人だけである。

 それ以外の面々は殺し、殺され、という初めて経験した実戦の空気に当てられ、そこからまだ逃れることができずにいた。軍人はみな戦争のために訓練を積んできた。しかし、訓練を積んたところで実戦の恐怖とか、喪失とか、そういうものの本質を知らずにいたし、訓練で耐性がつくことも無かった。

 実に情けない話であるが、これが初戦を終えた兵士たちの実情だった。

 

「たった三人じゃないですか。いずれ慣れますよ」

 

 ただ一人、その空気に隔絶された小さな少女が呟く。

 顔に大きな火傷がある少女は他のパイロットたちから睨まれても飄々としており、デブリーフィングが終わるや否や会議室から立ち去った。

 

「”たった三人”だと? ふざけやがって。おい、ユーリ。あのガキをちゃんとしつけろ。お前ができないなら、俺がやってもいいんだぞ」

 

「落ち着てください。ちゃんと言っておきますから」

 

 ストリボーグ隊の隊長であるチェーホフ中佐から憎しみのこもった声で言われる。

 今日の戦闘ではストリボーグ02が撃墜されている。部下を失って落ち込んでいる中であの言葉だ。彼が怒る気持ちはよくわかる。

 同じように、隊長であるベロボーグ01を失ったベロボーグ隊の二人からも睨まれ、無言の圧を掛けられた。

 

「あいつには人の気持ちが分からんのかね」

 

「あの子はたぶん、慣れてしまったのだと思います。戦争とか、死とか……」

 

 廊下でフィオドラ中尉に愚痴をこぼすと、彼女はやや項垂れながら答える。

 

「だからといって……なぁ」

 

 スヴァローグ03ヴェンドニツァ──イヴァナ・レゾヴィッチ准尉。

 元ユーゴスラヴィア空軍所属。ボスニア内戦を経験し、我々の中で最も実勢経験豊富な兵士。そして、今年で十七歳になる少女。

 

 経歴書によれば僅か十六歳でボスニア内戦に参戦し、地上戦と航空戦を経験。クロアチア軍のMiG-21を撃墜し、更に米空軍のF-16とすら空戦を展開したという。

 

 顔の右側半分に大きく広がる赤い火傷の跡は、米軍機に撃墜された際に受けた傷らしい。

 米軍と戦って生き延びただけ奇跡だが、その代償は十代の少女が背負うには余りにも重すぎるものに思えた。

 

 彼女は元軍人の集まるオアシス基地の面々からすれば若いというより幼いという言葉の方が正確な年齢だが、戦闘機乗りとしての腕は確かで先の空戦でもF-14を一機撃墜していた。

 

 戦闘機乗りとしてはまさに天才的といっても過言ではないが、コミュニケーション面にやや難があり一匹狼気質が問題だとユーリは分析していた。

 もちろん彼女はオアシス基地の中で唯一、十代の少女であるし、セルビア人でもある。

 馴染むのが難しいのも無理ないが、それはそれとしてロシア語が堪能なはずのに必要最低限の会話しかしないし、ちょっとした日常会話とか、それ以外では返事すらしない有様。

 

 それだけならまだ許せるが、口を開けばデブリーフィング時のような他人の神経を逆なでする発言も珍しくない。

 ユーリやフィオドラ中尉は内戦で負った傷を考慮したうえで発言に寛容であろうと決めているが、全員がそうではない。

 ああいう発言がもとで部隊内での不和が生まれれば、戦場において隙を作ることになる。いや、最悪背中から撃たれることだってある。

 

 軍隊という組織で恨みを買うと最も恐ろしいのは、武器を持って背中に立っている味方なのだ。事実として平時の軍隊において士官や下士官の何割かは背中に穴をあけて”事故死”しているし、そういう事故の割合は戦時中になれば格段に上がることは有名な話だ。

 

 スヴァローグの隊長であるユーリにとって、少女は頭痛の種だった。

 ユーゴスラヴィアの学校では操縦技術は習っても、連携とか、協力とか、友情とか、そういうことは習わなかったらしい。

 あんな性格では故郷のボスニアに友達がいたのだろうか、とユーリは時々疑問に思っていた。

 

「少佐、よろしいですか」

 

 フィオドラ中尉と別れて司令部庁舎から出ると、壁に寄りかかるようにしてイヴァナ准尉が待ち構えていた。

 小さな体に着こまれたパイロットスーツの上からフライトジャケットを羽織っている。

 傍から見れば職業体験か、はたまた仮装の類と間違えてしまいそうだ。

 

「なんだ?」

 

「少しお話があります」

 

「ちょうどいい、俺も話がある」

 

 二人は庁舎から歩き出して、少し離れた位置にあるパイロット用食堂に向かう。途中、イヴァナは慣れた手つきで煙草を咥えて火をつける。

 初めて見たとき、その光景にユーリは目を疑ったものだ。

 イラクの法律には詳しくないが、これって大丈夫なのだろうか、と毎度思いつつ、今ではもう慣れてしまっている。

 ユーリも同じようにポケットから煙草を取り出した。

 

 兵舎に併設されている食堂からは、窓ガラス越しに午前九時のイラクと、フェンス越しの滑走路が見える。甲高いエンジンうなり声と共に、テーブルに置かれたティーカップがカタカタと震え、赤茶色の水面が揺れる。窓ガラス越しに見える滑走路からは、ユーリたちの後続となる戦闘機部隊が離陸しているところだった。

 

「まだ戦闘は続いているらしいな。ここは爆撃しないでくれると助かるんだが」

 

 そう言いながら、紅茶をすする。

 オアシス基地はイラクのほぼ真ん中にあるので、攻撃機やミサイルによる攻撃はかなり難しいはずだが、これだけの戦力を有している空軍基地を敵が放置しておくとも考えずらい。

 そう遠くないうちに一度ぐらい攻撃を仕掛けてくるだろう。そうなった時、この平穏な空間は粉みじんになるに違いない。

 

 いつまでこの紅茶を味わえるのやら、と考えながら、もう一度すする。

 

 イヴァナは牛乳、ユーリは紅茶をそれぞれ注文していた。

 テーブル中央にある灰皿から煙がふわりと昇っている。その薄いニコチンの空気の向こう側では、少女がちびちびと牛乳をすすっている。

 

 その様子は余りにも少女そのもので、故に手元でくすぶる煙草の火が余計にアンバランスに見えた。

 

「ところで准尉、さっきの発言だがな──」

 

 イヴァナは煙を吐き出しながら、あっさりと遮った。

 

「不適切でしたか?」

 

「大いに不適切だ。いいか? 味方は“たった三人”なんて言葉では数えられない。同じ軍に所属し共に戦い戦友はかけがえのない相棒であり、友人なんだ」

 

「でも、死んだ人数としては三人です」

 

 あまりにも率直すぎる返答に、思わず言葉を詰まらせる。

 

「戦争において死者は数でしかありません。事実として、ボスニアでは、一日で三人どころか、三十人、三百人と死にました。朝と昼の間に村が一つ消えることもありました。でも、一体だれがその名前を全て憶えているというのでしょう?」

 

 淡々とした口調は、感情がないというより、感情をどこか奥の方に押し込めてしまったようにも聞こえた。

 

「だから、皆、数でしか知らないんです。ボシュニャク人が何人死んだ。セルビア人が何人死んだ。クロアチア人が何人死んだ……。戦場に立った時点で、私たちは数字でしかないんですよ」

 

 確かにそれは事実だ。ユーリの脳裏にはスターリンの有名な言葉が思い浮かんでいた。『一人の死は悲劇だが数百万人の死は統計上の数字でしかない』という奴だ。

 だが、軍人はそれを認めてはいけないと思う。

 なぜなら、我々は、敵は、生きているからだ。

 お互いに親がいて、名前があって、家族がいる。

 人間同士の殺し合い──そういう戦争の本質を、決して忘れてはいけないのだ。

 

 さもなければ、過去全ての戦争や、そこで起こった人間の死は、忌むべき行為でも、悲劇にもならないじゃないか。

 

 二人の間にしばし沈黙が続いた。

 ガラス窓をさらさらとなぞる砂埃まじりの風だけが、二人の間を通り過ぎていく。

 

「少佐は今日が初の実戦だと聞きました。……怖かったですか?」

 

「俺は人間だ。そりゃ死ぬのは怖いさ。准尉はどうだった」

 

「私は、怖いのかどうかよく分かりません。いや、どちらかと言えば、忘れてしまったのかもしれません」

 

 イヴァナは顎を上げ、どこでもない空中を眺めている。彼女が見ているのはここの天井ではない。もっと遠く、ボスニアの空を見ているのだろう。

 

「ただ、目の前に敵がいて、撃たないと撃たれるから撃つ。それを必死に繰り返していたので、恐怖を感じる暇もありませんでした」

 

「……それで生き残ったわけだ」

 

「ええ。だから、ここでも同じことをするだけです」

 

 ユーリは煙草を深く吸い込んだ。

 

「ところで准尉、一つ聞いてもいいか」

 

「なんです?」

 

「どうしてイラクに来た。俺からしてみれば……君は十分に戦ったと思うが」

 

「お金が必要なんです」

 

「家族か」

 

「いえ。皆死にました」

 

「だったらどうして──」

 

 ユーリは続く言葉を紡げなかった。それ以上は、少女の触れてはいけない部分に触れてしまいそうで。すぐに忘れてくれと言ったが、彼女は首を横に振る。

 そして、赤く焼け爛れた頬を触って『答え』を提示した。

 

「顔を……治したいんです」

 

 言葉が出ず、手元の煙草をもみ消し、新しい煙草に火をつけることで、この気まずさと手持ち無沙汰を解消しようとした。彼は気づいてしまったのだ。悪魔(ヴェンドニツァ)のコールサインを持つパイロットが、どこまでも少女であることに。

 

 誰かが始めた一つの戦争が少女を狂わせた。

 そして少女を傷をつけた大人が彼女を戦場へ向かわせ、人殺しの戦争機械に仕立て上げた。

 

 ユーリは深くため息をつき、ユーゴスラヴィアと、イラク、二つの国に憎しみを感じた。

 そして歴史と、全ての大人と、少女の運命を、呪わずにはいられなかった。

 

 "戦争は少女を悪魔に仕立て上げた。こんなことが許されるのか?"

 

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