二度にわたる石油危機の影響を最も受けた国は西側諸国ではなく、ソビエト連邦であった。
当時のソ連は東側の友好国に石油資源を供与し響力を高めると共に、余剰となった石油を日本を始めとした一部の西側国や、第三世界の国々にも輸出し、莫大な外貨を獲得していたのだ。
既に限界を迎えつつあったソ連の社会主義経済はこの危機の影響を受けることなく、資本主義経済の成長に追いつくチャンスを得た。
しかし、かの国がそのチャンスを生かすことはなかった。
ソ連はこの外貨を西側から穀物輸入へと利用したのだ。
結局、その輸入によって外貨を使い果たし、やがて石油危機の終結と共に下落したことにより深刻な対外債務の増加へと突き進んでいくことになる。
石油危機は資本主義ではなく、共産主義を間接的に破壊することになるのだった。
ブレジネフ書記長は、石油危機がアメリカを始めとした西側を破滅させ、ソビエト連邦を勝利に導く手段だと考えていた。彼はソビエト連邦の穀物が、連邦国民によって食されている命の源が、どこから輸入されているかは重要視していなかった。
ソビエト連邦の穀物はアメリカ合衆国から輸入されていたのである。その上、第一次石油危機の際に獲得した外貨使い貿易を行ったことで、ソ連経済と西側経済の結びつきは強まっていた。
そんな時に西側経済で混乱が起これば、ソ連経済にまで影響が波及するのは時間の問題だった。
この「結びつき」はソ連に限らない話だった。
意外に思われるかもしれないが、冷戦下にあっても西側陣営と東側陣営の経済は密接に繋がっていたのである。これは経済的に豊かな西側諸国が、経済的に東側諸国を懐柔しようという試みからくるものであった。
主にその手段は投資や借金であり、東側陣営に所属する東欧のポーランド、ルーマニア、東ドイツなどは、この頃には既に西側からの莫大な借金をしていた。そんな中で、西側経済とソ連経済が同時に混乱すれば、もちろん東欧諸国は甚大な影響を受けることになる。
早くも石油危機の翌年、1980年。
東欧のポーランド人民共和国で後に同国の民主化運動の先駆けとなる出来事が起こっていた。
慢性的に経済が低迷していたポーランドでは、インフレーションが続くと共に、食料や物資が常に不足しているような状況だった。
そんな中でグダニスク市にあるレーニン造船所で、一万人を超える労働者が賃上げを求めてストライキを起こしたのである。
この動きはポーランド全土に拡大し、政府の影響を受けない自主的な労働組合が結成されることになった。『独立自主管理労働組合「連帯」』は後にポーランドを民主化へと導く組織である。
そして、造船所でのストライキを率いていたのは中年に差し掛かった無名の男であった。
その名をレフ・ワレサ。後のポーランド共和国大統領である。
さて、そんな80年代は、冷戦が最も激化した十年でもあった。
1981年にアメリカ合衆国ではジミー・カーター大統領に代わり、共和党のロナルド・レーガンが新大統領に就任。彼は
これによって、米ソ対立はキューバ危機以来の状態となり、急速に軍拡が進んで行った。
更にレーガン大統領は、後の世で「レーガン・ドクトリン」と呼ばれる戦略を取り、東ヨーロッパ諸国や、第三世界各国など、ソ連の影響下にある国の反共ゲリラや、民主化勢力を秘密裏に支援していた。
この戦略は、表の世界で行われていたほど壮大な物語ではない。しかし、その影響は確実に東側陣営を蝕んでいき、やがて来るソ連崩壊へと繋がっていくことになる。
"冷戦は激しく、されど冷たいままに終わっていく。"