You’re My Hero   作:大野 紫咲

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高度な技術の発達に伴い、今や電脳世界が現実世界を脅かすようになり始めた大都市、帝都。
あるVR企業の警備員として働く青年・ヨアは、仮想現実とリアルの狭間に漂う魑魅魍魎を映す事ができる、特殊な“目”を持っていた。
しかし、容姿と性別が原因で不当な扱いを受けてきたヨアは、ままならない現実と無力感に苛まれ、ある日ふと薬を飲んでこの世界から消えてしまおうとする。
次に目が覚めた時、ヨアの隣には見知らぬ女が眠っていて……?

しぶ版はこちら⇨ https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=23965643

X上で行われる、3月の合同朗読会応募作品。書き下ろしです。
※25.3.19改訂済みです


You’re My Hero

 夜の世界に、灯りが灯る。雑踏の中を人が行き交い、摩天楼が高く聳え立つ大都会。

 いつもの勤務を終えて帰ろうとしていたボクは、考え事をしていて呼ぶ声に気付かなかった。

 

「篠原。篠原!」

 

 真後ろで呼ばれながら肩を叩かれて、思わず振り返る。

 

「なんだ。羽多野か」

「何だとはなんだ。それに、従兄弟のくせに相変わらず随分他人行儀じゃないか? お前は」

「従兄弟がどんな仲だって言うんだよ。他の兄妹がいる時ならいざ知らず、お前しかいないんだから、羽多野で十分だろ」

 

 心配そうな目がこちらを隣から追ってくるのを感じて、ボクは思わず笑いながら目を逸らす。羽多野は、本名を羽多野暁人(あきと)という。暁人の母親と、ボクの父親がきょうだいだったはずだけど、うちの両親が離婚してから、あんまり親戚付き合いはない。高校時代からバイトとして入っていたこの会社で、暁人と最初顔を合わせた時はボクの方がびっくりしたぐらいだった。

 

 比較的裕福な商家の子息だったご令嬢——つまりうちの叔母さんと結婚し、自分のIT企業を経営し始めた暁人のお父さんは、社長の座に就いてからも成金野郎だの金持ちに取り入っただのと散々周りに言われてたらしいけど、それでも会社を大きく発展させ、暁人達三人の兄妹を立派に育て上げた。優秀でしっかりした父親だと思う。息子を金で釣ろうとした挙句、勝手に再婚して姿を消したどこかの父親とは大違いだ。正直、少し羨ましい。

 

「叔母さんは、元気?」

「ああ。未だに妹の分の弁当を作ってやってるものだから、流石に甘やかし過ぎだと、僕は言ってるんだがな」

人羽(ひとは)ちゃんって、確かまだ高校生でしょ。それは仕方ないんじゃない? それより、あんたまでまだ作ってもらってるなんて言わないだろうね。マザコン呼ばわりされても知らないからな」

「人聞きの悪い事を言わないでくれるか。流石に僕と兄貴は自分の弁当くらい自分で用意してる。まあ、台所で余ったおかずを、たまに拝借ぐらいはしているが」

「ほら、見たことか。そんなの、自分は弁当の中身を詰めてるだけじゃないか」

「それでも、何もやらないよりはマシだろう」

 

 ボクを見上げてくる非難めいた目を、ボクはあくまで涼しげな顔をして受け流す。これで、ちゃんと余裕があるように見えているかな。他人の家庭のしょうもない話なんて、欠片も羨ましくないという風に、あいつの目には映っているだろうか。

 何か物言いたげな間を感じて隣を見ると、暁人は何でもないというようにかぶりを振って、外の自販機を指差した。いいところの坊ちゃんでも、缶コーヒーは飲みたくなるらしい。ボタンを見ながら、暁人が言った。

 

「お前は、ミルクカフェオレだったか」

「そんな甘ったるい物飲むか。ブラックでいいよ」

「こんな時くらい、見栄を張るな。甘党だろ、お前は」

 

 別に甘党って言われる程じゃない。そう思ったけど口には出さず、ボクは缶コーヒーのプルタブに指を掛けながら呟いた。

 

「社長を継いだボンボンは、やっぱり夢も余裕もあっていいよな」

「何言ってるんだ。こっちは毎日、親父の尻ばかり追いかけててんてこ舞いだよ。とはいえ、今度からやっと、大きいプロジェクトを認めてもらえそうなんだけどな」

「ああ。例の、システムを実用化するってやつ」

 

 この会社は、もともとメタバース空間の提供を主な目的に、神経接続部品や回線、ゴーグルなどを主製品として売り出してきた。

 物質投影型顕現システム――MPMSと呼ばれるそれは、人間がVR空間に入り込むのではなく、VR世界の物質を現実世界に召喚するプログラムなのだという。3Dプリンターの上位互換と言われるそれは、瞬時に電脳世界の存在を現実に映し出す。最初はホログラフィのようなものから始めるが、やがて音楽を視覚化してライブパフォーマンスに応用したり、本や漫画の中身を実体化してテーマパークとコラボさせたり、果ては実体がない物の試食や試着にまで応用していく計画らしい。

 ますます現実と仮想現実の区別が曖昧になっていきそうな話だが、その潮流は止まるところを知らない。過激派の団体が、災害やテロを電脳空間から現実へ意図的に起こして、その恐ろしさを知らしめようとするという、半ば犯行予告めいた話もニュースで聞く。その規制が厳しい中で、うちの会社がどれだけ業績を伸ばしていけるか、正直疑問ではある。ボクの“仕事”も、それに合わせて増えてはいくんだろうね。

 

 その時。双方のスマホが特定の着信音で鳴り響いて、ボクらは思わず顔を見合わせた。

 

「……悪い。時間外労働だな」

「残業代は出してくれるんだろうね?」

「あんまりシビアな事言ってくれるなよ。うちだって今、新設のシステムが打ち上がったばかりで資金繰りが厳しいんだぞ」

「そっちの経営状態なんか知るかよ。ボクは、ただの嘱託警備員だ」

 

 地図で示された場所は、すぐ近くだ。スマホを同時にポケットへしまい、ボクらは夜の闇へと駆け出した。

 

 一歩路地裏に踏み込めば、漆黒の闇が足元に広がる。アナザーサイドと呼ばれる、現実世界とバーチャル世界の狭間だ。通常は特殊な機器がないと視認出来ないが、ボクならば見える。ゆっくりと、ボクは眼帯の下の目を闇夜に晒し、目を凝らした。

 

「今夜のダストは、数が多いね。人間の悪口と結びついて、不定形になってるのがタチが悪い」

「やはり、目に見えない感情や怪異と、同じく実体を持たないデータは、相性がいいんだな」

 

 感心したように暁人が呟く間にも、鮫のように黒い地面を泳いだ得体の知れない物質が、襲い掛かってくる。ボクらがダストと呼ぶそれは、顕現システムを通して現実にも影響を及ぼす、悪意のあるデータだった。

 

「篠原! 八時の方角だ」

「言われなくてもわかるっての!」

「そうだったな」

 

 この目さえあれば、敵の姿ははっきりと見える。だが、問題は丸腰からどうやってこの状況を打開するかだ。ボクも暁人もろくに戦えないし、ダストをこの場に惹きつけられているだけまだマシか、と思いながら、とっさに暁人の服の袖を引っ張って攻撃を避けさせた時だった。次々と撃ち込まれた光が、ダストを破壊する。静まり返った空間の入り口に、ネオンの光を背負った見覚えのある少女がいた。

 

「人羽ちゃん……!?」

「やっほー。ヨッハー、久しぶりぃ」

 

 手を上げてお気楽そうに走ってきたのは、寒々とした気温の中でも負けずにミニスカートを纏った、暁人の妹の人羽ちゃんだった。

 

「来てくれたのは助かったけど、その呼び方やめてって言ってるじゃん……」

「だって、『よっあー』じゃ音が詰まって呼びにくいんだもん。それに、会社で使ってるメアドの名前はヨナスにしてるじゃん?」

「だとしても、その呼び方と発音あんまり関係ないよね!?」

「え〜〜……わかった。じゃあ、しょうがないから、ヨアくんって呼ぶ」

 

 悪びれもせず、ぺろりと舌を出す従姉妹の人羽ちゃんに、思わずため息が出る。

 大体、ボクの名前がこんな柄にもないキラキラネームなのがどうかしてるんだ。夜明けから取った名前だとか親は言ってたけど、大体それなら「け」はどうしたんだよ、「け」は。おまけに「ヨア」じゃ英語のYou areと発音が似てるから、会社で外国の人とやり取りする時には、Jonasを使ってる。そもそも本名がこんな変な名前じゃなきゃ、わざわざ英語の名前を考える必要なんてのもなかった。

 

「バーチャル顕現化を使えば、拳銃も片手で扱えて楽だよねえ。二丁持ちなんて楽勝楽勝」

「人羽ちゃんは、拳銃使いなんだっけ」

「本当は弓の方が得意なんだけど、持ち歩きには便利でねえ。兄貴に教えてもらえるしっ」

「僕も、咄嗟に出した武器に力を込められれば、射撃で対抗できるんだが」

「まあ、人羽のこれは異能なんでしょ? しょーがないよ。兄貴は十分バックアップで頑張ってるじゃん」

 

 そう言って、人羽ちゃんが器用にくるくる回した拳銃が、光になって懐に消える。ボクは、バーチャルを媒介にした怪異を“視る”事ができる異能。人羽ちゃんのは、リアルの武器にも電脳系の霊力を付与して、怪異を撃破できる異能だ。正直、ボクのは見えるだけで退治はできないから、攻撃系の力を持ってる人は羨ましいなって思う。

 

「……別に、見えたところで守れなきゃ、何の意味もないんだ」

「篠原?」

「いや、何でもない。終わったなら早く戻ろう」

 

 暁人の前で、ボクは踵を返す。ボクがこんな危険で、なおかつ怪異を見極めるという他人には1ミリも信用されなさそうな仕事に従事しているのも、元いた場所で差別が横行していたからだった。暁人は配置換えも提案してくれたけど、ボクはそれに乗らなかった。あの手のイジメは、たとえ場所を変えようと出る時は出るし、その全部を暁人がいちいち取り締まるのは、本人がどれだけ望んだとしても、不可能だとわかっていたから。ボクは現実を見て、現実を呑んだ。

 それに、ボクのこの見た目に関するひそひそ話と好奇の視線は、たとえ誰を処分したところで、止むはずもない。警備部なら少しは変われるんじゃないかと思ったけど、ダメだったんだ。

 暁人が、ボクを引き止めるように声を出した。

 

「ヨア。お前がその容姿や性別を、気にしているのはわかっている。だが、僕は」

「別にいい。ボクが綺麗なのは事実。むしろこれで、人間の目も怪異の目も惹けるなら、万々歳ってモノでしょ?」

 

 嘘つき。本当のボクを誰も見ない世界なんか、もう要らない。

 トレンチコートを月の下で翻して、ボクはゆっくりと笑みを浮かべた。

 

 そのまま帰る気にもなれず、一人で入ったカラオケボックスの中。ボクは、運ばれてきたハイボールを一気に煽った。

 

(なんか、疲れたな)

 

 自分にはないものを羨むのも、欲しかったはずのモノを考えるのも、全部。

 ボクは、何が欲しかったんだろう。

 一番大切なもの。待っていてくれる誰か。握りしめたまま絶対に離したくないと、そう思えるような手。欠けている心の内を埋めてくれる、熱い何か――そんなものが欲しかった。だけど、そんなのは日常に簡単に転がっていたりはしない。

 電脳世界から現実世界への進出という、目まぐるしい科学的進歩の中でも、目にする物は変わらなかった。人の欲。淀んだ感情。切り捨てられて使い捨てられた物が、次々にアナザーサイドの狭間には吹き寄せられてくる。ボクだって、そのうちのひとつかもしれないのに。

 

 錠剤の感覚がざらざらと喉を通り抜けた途端、そんなに早く効くはずもないのに、とてつもない眠気が襲ってくる。目の力を抑える薬に、頭痛薬に睡眠薬。鞄に突っ込んだありとあらゆる薬とサプリメントを、一気に全部胃に流し込んだボクの手から、はらりと薬の袋が離れて床に落ちていくのが、意識が落ちる前に味わった最後の感覚だった。

 

***

 

 それから、どれだけ経っただろうか。

 ボクは、目を覚ました。体が、あたたかな布団の下にある。部屋の中が明るい。ここはどこだろう。

 

「ヒッ……!?」

 

 手を突いて起き上がり、隣を見たボクは、思わず飛び退くようにベッドの上を後ずさる。ふかふかな毛布を体に巻き付けて、包まるように眠っていたのは、大柄な女だった。ラプンツェルを思わせる、長く滝のような黄金の髪を頭頂から腰の下まで伸ばして、うっすらと金の睫毛を震わせながら眠る姿は、どこかの国のお姫様のようだった。

 

(姫……だよな……?)

 

 自分で思っておきながら、自分にツッコんだ。なぜだろう。あんまり、姫っぽい雰囲気には見えない。というか、こいつは誰で、ボクは一体こいつと何をしてこんな事に……そもそも、ボクは一体誰なんだ?

 ノースリーブのシャツと下着を身につけたままの、自分の体を見下ろした。褐色の肌には見覚えがあるのに、何だか他人の物のように感じる。そして、見渡した窓のない乾燥し切った部屋と、目がチカチカしそうなやたら真っ赤な内装。どう見ても、そういうホテルにしか見えない。こっちまで赤くのぼせ上がりそうな頬を、ボクは両手で挟んだ。

 

(ちょっと待てっ、どういう事だッ!?)

 

 昨晩、酒を飲んで前後不覚になったらしいという事にだけは、どうにか思い至った。というか、思い出すまでもなく、現在進行形で頭が二日酔いらしき痛みでガンガンしているからだ。軽く吐き気を感じるレベルに頭が痛い。

 精神面と肉体面、二重の痛みに頭を抑えて呻いていると、隣で寝ていた女が身じろぎをしながら目を擦った。

 

「んん……? 起きたのか。はよ。よく眠れたか? お前、昨日は寝つき悪いみてえだったからな」

 

 見た目からは想像がつかないほど勇ましい口調で口火を切ったその女は、薄着のまま座り直し、まっすぐに僕を見る。晴れた日の青空みたいな碧眼が、ボクを射抜いた。目の前で寝られていても状況がわからず戸惑う一方だが、目が覚めたら目が覚めたで、居心地が悪い。

 

「ええ……と……」

「ほら。これ、眼帯」

「あ、ありがと……」

 

 手渡された眼帯を、手に乗せる。これを外したという事は、ボクはこの女に晒したのか。この瞳を。

 

「どうした?」

「い、いや……あの、鏡、見せてくれる?」

「ん? ああ」

 

 手渡されたハンドミラーの中を、食い入るように覗き込む。記憶がない中で、肌の色と同様、これだけは覚えていた。紺色の両眼のうち、片側だけが、青と橙の混じり合った瞳。奇妙な色合いがずっと嫌いだった。思わずため息をついて目を閉じると、横でじっと様子を伺っていた女が言った。

 

「オレの勘だけど……あんた、死のうとしてたんじゃないか?」

「え?」

「あんまりあんたの様子がおかしかったんで、救急車呼ばなきゃいけなくなった時のために鞄の中一通り見させてもらったんだけど、薬の束が沢山入ってた。それも、ご丁寧に飲み終わった薬のシートまで。それを、路上でふらふら身売りしてたあんたに見せびらかされてよ」

「悪い……本ッ当に、なんにも覚えてない……名前以外、何も……」

「名前以外!? そりゃ、重症だな」

 

 女が流石に驚いた顔になる。途方に暮れたボクに、彼女は言った。

 

「まあ、自暴自棄になってたのかもしんねえけど、あの辺歩くのやめた方がいいぞ。碌でもない輩ばっかで危ないし。お前、女だろ?」

「……え?」

 

 間抜けな声が出る。だが、強烈に違和感があった。目が覚めた時から全身に纏っていた、どこか奇妙で慣れない、気持ち悪い感触の正体。気温や湿度のせいでも、体調のせいでもない。これだ。何一つ覚えていない、記憶が全部すっぽ抜けている状態なのに、これだけははっきりわかる。ボクは、女じゃなかった。こんな体は知らない。

 凄まじい寒気が襲って、思わず抱いた両肩の細さに、自分で驚いた。震えている体が、まさかこんなにも頼りなく感じる日が来るなんて。ガタガタと小刻みに揺れる肩に、そっと薄手の布が掛けられた。

 

「おい。大丈夫か?」

 

 気がつけば、隣にいた女が、バスローブ越しにボクの肩を抱いている。女は苦手だと思っていたはずなのに、なぜかこいつに触れられても、嫌悪感は感じなかった。歯の根が合わない口を、ボクはどうにか開いて答えようとする。

 

「あ、ああ……ごめん、何かこう、まだ、混乱してるみたいで……」

「まあ、記憶が戻ってないくらいだもんな。無理もねえよ。オレならしばらくここに居るから。動けるようになったら帰ろうぜ」

「でも、延長料……」

「気にしなくていい。ホテル代と、風俗の延長代払えるくらいの給料は、オレももらってる」

 

 歯を見せて、にかっと女が笑う。隙のない笑顔なのに、どこか人を安心させるようなぬくもりがあった。以前のボクだったら、何の裏がある事かと疑っただろう。今だって疑いたい。けど、こんな状況じゃ裏も表も見えない人間の厚意に、縋りたくもなるだろう。こんな、テレビの中から知らない女が這い寄ってこちらに迫ってきてる状況じゃ――

 

「……え?」

 

 幻覚かと思って、思わず目を擦った。けれど、確かに見える。派手な部屋の中の、薄型テレビの中からにじり寄ってくる、長い黒髪に血だらけの服をした女の姿。真っ青になるボクと、そんなボクが声も出せずに震えて指差すテレビ画面とを、側の金髪女が不思議そうに見比べる。あ、ダメだ。これ、見えてないやつだ。

 

 口を開けたり閉めたりしながら、必死で酸素を取り込むうちに、ボクはベッドサイドに置いてあったとある物に気が付いた。ガラス皿の下側からライトアップされた、水晶の塊。確か、水晶の原石には魔を祓う効果があるとか、聞いた事ある。たとえイミテーションでも、本物だと思い込めば効果ぐらいはあるかもしれない。

 ただ、ボクでは――何となくの直感だが、ボクではあの幽霊を退治できないという気がした。とっさにボクは、掌大くらいの大きさの尖った水晶を掴んで、ただならぬ様子で固唾を飲んでいる女に手渡す。

 

「こ、これ! これで、テレビの前殴って! 本当に壊さなくていいから、フリだけでいいからっ……! お願い……」

 

 ああ、おかしな事を言っていると思われただろうな。何せ、自分には全く見えないものを勝手にその目に映して、怯えているんだから。嫌になる。現実なのか非現実なのか区別もつかないままの、こんなおかしな目も、心も――いっそ、薬を飲んだというその時に、本当に消えてしまえればよかったのに。もうヤダ、こんな世界。涙が浮かんだ瞳を閉じた途端、ガッ、と何かが勢いよくぶつかる音がした。

 

 はっとして顔を上げる。勢いよく振り下ろした、金髪女の手の残像の後ろ側で、血だらけの幽霊がさらさらと砂になって消えていく。データが崩れ落ちていくようなその消え方に、どこか見覚えがあるような気がした。だが、それよりも今は、この女だ。ぽーんと軽そうに宙に放り投げた水晶を、キャッチして元あった場所に戻しながら、女は振り向いた。何を言われるのかと、心臓が縮み上がる。

 

「あんた、霊感とかある人?」

「わ……わかんない。けど、元から何か変な物が見えていたような気は……する」

「そっか」

「何も……言わないの?」

「いや、オレは確かに見えないけどさ。そういうの、見える人っているし」

「けど、薬のせいで錯乱してるって事も、考えられるでしょ。ボクの頭がおかしくなったんだって、思わなかったの」

「だとしても、あんたが“何か”を見て怖がってたのは事実だろ。たとえフリでも、一時的でも、それを追い払ってやれるんならオレは幾らだって道化になる。ていうか、実際に何かぶん殴った感触はあったしな。除霊の方法に鉄拳制裁ってあんのか?」

 

 不思議そうにパンチを繰り出す女。本当に見えてなさそうだったし、恐らくは彼女の力というよりは、その水晶が本物だったおかげな気はするけど。でも、おかげで助かったのは事実だ。

 

「ありがとう……信じて、くれて」

 

 信じる、なんて言葉が口から出るとは思わなかった。自分でもらしくない言葉が思わず口から溢れて、驚いているボクの前で、女も驚いたような目をしている。そして、華やかに笑った。

 

「いいって事よ。ま、そこに“何か”があるように振る舞うのは、俳優の十八番だからな」

「はい、ゆう……?」

「ああ。オレ、舞台俳優やってて……それも知らねえのか。ま、お前の記憶の中に最初からオレがいるかどうかは知らねえけど、そんな知名度あるとも言えねえしなー」

 

 気を取り直したように言った女は、不意にバスローブ姿のボクの前で、身を翻しながら言った。

 

「なあ。あんた、オレんちに来ないか?」

「へっ?」

「なんか、放っとくの心配だし。行き場がないなら、しばらくうちに居ろよ」

 

 それは、目が点になってしまうような提案だった。正直、幽霊が目の前に現れた事より信じられないでいる。

 

「あんた、名前は?」

「……夜明(よあ)。篠原、夜明」

「わかった。オレは、直生(なお)。鈴木直生だ。よろしくな、ヨア!」

 

 大きな広い手が、差し出すのも躊躇ったボクの手を握り返す。

 そうして、ボクは乗り掛かったんだ。どこに行くのかもわからない、“自分”を掴み直すための船に。

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