エンジンが唸り、また一つ、光が側を駆け抜けた。
次第に静寂を取り戻す街はしんと冷え、凍てつく大気は星の煌めきに一層磨きをかけている。
斯くしてある絶世の星天は、しかれど地上からあまりに遠い。伸ばした手で掴める距離、とは言わずとも、もう少しばかり温もりが感じられる場所まで身を寄せてくれたのなら。跋扈する冬も、蔓延する闇も、或いは多少緩和されて、出歩く人々は楽だったやもしれぬのに。
例えば、そこの木枯らしに遭った風な、長身痩躯の男も。
[…]
グレーのオーバーコートがふわりと揺れる度、異常な痩せ身の上にピッチリ着こなしたスーツが覗く男は、純白の手を擦り合わせる。真っ黒なビニール袋が落ちそうになるまでに行った摩擦は、どうやらその場しのぎにすらならなかったらしく、悴む両手はすぐにあるべき位置、ポケットの内側にまた潜り込んでしまった。
しじまの漣が返る廃墟に、終わりは当分見えそうにない。そよ風が肌に刺す針は増える一方で、男が寝床に着く頃には、飲まずとも得た針が千本を優に超えていよう
当然、望むところでない男はただでさえ大きな歩幅を更に広げるが、
[…?]
そんな男の視界に現れた淡い光は、まさに灯台の明かり。夜の海を渡りし船乗りの守り手、霧笛の知らせだった。
遠方に座する看板の明かりはやうやう白みを強め、正体を露わにしていく。
アレは何だ?アレは…エンジェル24だ!
[!]
天使の背に張り付くには悪魔的が過ぎる24の文字は、3や4で割り切れる神聖味をつゆ程も感じさせぬ低評価口コミで氾濫しており、入口の色褪せた求人チラシは、最早重厚感すら漂わせている。噂によれば、2021年から24時間休みなしで労働させられている生徒がいるらしいかのコンビニは、けれども男にとって天使以外の何者でもなかった。
ホットミルク、ホットカフェオレ、ホットコーヒー。蠱惑の響きが宿る語感が、誘蛾灯の如く男を誘う。その様は墓から這い出た死体宛らの挙動で、ゆらゆらと揺れ動きながらも目指すアルカディアは、角を曲がる度着実に近づきつあった。
[…!]
だが、もはや目前にまで差し掛かった男に、選択が迫る。
エンジェル24のネオン輝く看板はすぐそこだ。けれど、そこへ到達するには家屋の狭間、月明りも満足に刺さぬ裏路地を通らねばならず、避けようとするなら、相当に並ぶ家々を迂回する必要がある。
どの権力にも属していなければ、ヴァルキューレ警察の管轄でもないこの区域の秩序は、息を引き取って久しい。少し住宅地を離れれば、砂に埋もれたビル群が顔を見せるここは、かつて金貸屋が幅を利かしていたのだ。即ち、いつどこで襲われてもおかしくないということである。
そのリスクを承知で男は来たのだが、幾らそうとは言え暗い裏路地を、しかも夜に通るのには、二の足を踏まずにいられなかった。
男は迷う。考えるくらいなら迂回すれば良いという判断力を寒さで奪われてしまったが故に、割と結構な時間を。そうして何度も踏み出し、引くを繰り返した果ての選択は、前進であった。
[!]
底冷えた空気に澱みが混じる領域へ、男が踏み入る。万が一、怪しげな取引現場でも目撃してしまえば、毒薬を飲まされかねないリスクを許容し、楽園へと一途に進む。
外壁に銃痕が幾つも散らばり、吹き込んだ砂が積もった地にスケバンが捨てたと思わしきシガレットの箱があるそこは、感覚的には異界に近い。異界より参じた男は出自を棚に置くように不気味がり、早く暖かい飲み物が欲しいという切望も合わさって段々歩みを早めていく。
そうして、男は目の当たりにした。暗闇を切り裂く、穢れしかない輝きを。
ブラック労働の上に成り立つ、人口天使の御光を。
[!]
勝った。一体なんの勝負かは見当もつかないが、そう直感したかに男は拳を握る。最早その歩みを諫めるリスクはどこにもなく、堂々と歩む様はまるでウイニングランだ。
だからこそ、さぞ落胆しただろう。突如、御光を阻む三つの影が現れたのには。
「おおおおい!こここここを通りたいんならああああり金全部置いて行きな!」
「ああああったかそうなモンききき着やがってよォ…?あああアタシらへのあああ当てつけかァァァァ?」
「レジジジジジガガガガガガガ」
威圧的な顔にはバツ印のマスク。特徴的な色合いの服には慰血冴悪異珠苦李無や我絶死覇火我異威々などが連ねられ、手には武力の象徴たる銃を持つ彼女らは、間違いない。スケバンだ。しかし、些か様子が変である。
おおっ広げの筈の服はしっかり閉じられ、丸出しにしていたヘソには腹巻きで蓋が、足には、効果があるのか極めて懐疑的である穴あきタイツを装備している。少々、いやかなり奇抜なファッションをしている彼女らではあるが、とはいえこれをカッコカワイイと思う程各々のセンスは壊滅的ではなかった筈。壊滅的というのは、例えばアバンギャルド君などと名付けるネーミングセンスのことを指すからして、彼女らがそうするのは、ひとえに寒さのせいだろう。
こんな辺鄙な場所に張っていたことだったり、長身のスケバンが突如スロースターターを発揮したことだったり、とにかく情報量の多いワンシーンだが、男であれば困ったの一言で現状の表現が片付く。
男は声を出せない。正確には、まともな声を出せないであるが、そこはさておき発声による会話が不可能である男は、モモトークによる文面でのやり取りを主としている。故に、即自的なコミュニケーションは不得手なのだ。
よって、スケ番たちの要求たるクレジットの引き渡しには応じえないが、このコートなら使ってもらって構わないし、すぐそこのエンジェルマートで暖かいホットミルクを買うぐらいなら任せて。そんな複雑なニュアンスを男が伝えるのに多少の時間を要するのは、工務部の部長が相手が誰であろうと弾劾を実行するぐらい、当然の事実であった。
「ああああぁ?黙りこくりりりりやがってよおおおおォ?スかししししてんのかああああァ?」
両手も首も振る男に、全身が震えているMGのスケバンが苛立ちを露わにする。
意思の疎通はできそうにない。応戦の手段を持たなければ、そもそも暴力的な行為を選択肢に入れていない男は、どうにか彼女らを落ち着かせようと身振り手振りでボディランゲージを試みるも、火に油を注ぐが如く、勢いを盛んにさせるだけだった。
「レジジジジガガガガガ!」
「そそそそういやァ、やけにににに大事そうに袋かかかかえてるけどよおおおおォ?そそそそん中に何か、たたた"高い"モンでも入ってんのかかかかよォ…!」
[!?]
仲間の指摘から、SMGのスケバンが男の持つものの中身を推察すると、慌てて背後へ隠される袋。
いかにも、と何より答えを雄弁に語る愚行に、スケバンの口角が釣り上がった。
「ずずず"図星"みててててぇだなァ?ななななら、ちょっくらららら見せてもらおうかかかかァ…?」
ざっ、ざっ、とSMGのスケバンが一歩踏み出す度に、男もまた一歩後ずさる。数度反復される進退は、しかし男の背が凡そ2m半を超えるからして、歩幅の違いにより男がちゃっかり距離を稼いでいた。
「おおおおい!ちょっ!」
どんどん開いていく間合いに、SMGのスケバンが声を上げながら近づいていく。だが、遠のく男との距離は縮まらない。
「こここコントやってんじゃねねねねぇんだよ!」
このままなら、或いは逃げられる。男の抱いた淡い希望は、レッドウインター学園の中心に聳える書記長像よりも容易く撃ち砕かれた。
足元に巻き上がった砂埃の下。そこに身を埋める、7.62mmの弾丸によって。
「レジジジジジ!」
嗤うSRのスケバン。場に出て5ターンは経過していない筈だが様子はかなり好調に見え、弾を外してくれる、などという幸運には期待できそうにない。
男はいよいよ、打つ手を無くす。しかし、尚も黒い袋はどうか、どうかこれだけはと懇願するかの如く後生大事に背後に隠したままだ。
自身の行動が余計、スケバンの好奇心を擽っているのだと理解していない男に、SMGのスケバンは迫る。
「へへへ…」
「くくく…」
「レジジ…」
スケバンの手が触れてしまえば、たちまち黒い袋の中身もクレジットも、身に纏う服さえも奪い去られてしまうであろう。そうなってしまえば、男は良くて
心なしか、向けられる視線にやらしさが混じってきたような気もする刹那、男はまた、自身の肉体が世界に発信されてしまう展開を幻視し…
「ガッ!?」
―――鈍足の巨人が、膝を着いた。
[「「!?」」]
スロースターターは防御の値に影響しない。畢竟、SRのスケバンはたったの一撃で葬り去られたということである。
確かに防弾服などは着ていないし、油断していた側面も否めないが、とはいえ彼女も日々やんちゃに勤しむスケバンだ。やわな攻撃でやられるような、そんな脆さはしていない。
ということは、だ。異常性は、やはり奇襲した側にある。
無辺の天空を擁せし、大いなる隼を目に宿した。
学園都市最高の神秘たる、彼女に。
「いやぁ、ごめんねぇ。こんな不意打ち紛いなことしちゃって」
昼行燈とは、昼に点いているから意味がないのであって、夜に灯れば話は変わる。
間延びした声も、そうだ。昼間のだらけ切っている際に発しても、ただ弛み具合を強調するだけものだが、夜間の緊迫した戦闘下に投じれば、余裕を含む威圧へと転じる。
女子高生にして些か老獪が過ぎる彼女は、桃色の長髪を寒風に揺らしながら、倒れゆくSRのスケバンの影より出でた。
「まぁ、でも、先にお手付きしちゃったのはそっちだから、仕方ないよね?」
[ホシノ…!]
モモトークを開かずとも、男の言わんとすることを理解する彼女。小鳥遊ホシノは、右の太陽をわずかばかり閉じると、その場にスクールバッグを置いて、再びスケバン達を見た。
「今逃げるなら、見逃してあげるけど…」
そして一応、といった感じで逃走を勧告するが、さりとてスケバン達にも面子がある。
たった一人の、しかも自身より小柄な少女相手に逃げれば、仲間内で一生擦られるネタとなるのは疑う余地もない。挑発とも取れる勧告をされてそれを選んだとなれば、もっと始末が悪い。
寒さとは別の要因で震える体に気合を込め、MGのスケバンは、冷えた相棒に喝を飛ばした。
「っ!舐めやがって!!」
熱がこもり、銃身が回り出す。
だが、銃口が覗く先には、既に壁が聳え立っていた。
「…やっぱり、こうなるよねぇ」
「なっ!?」
がなるMGが吐き出した弾幕を全て受け止め、けれども一切勢いを減じることなく突進する黒き壁が、MGごとスケバンを建物の外壁へと押し潰す。
全身を伝う衝撃。まるでサンドイッチのハムなMGのスケバンは、黒鉄の壁がどけられると、心許ない足取りながらも、未だ立っていた。
「じゃあね」
そこに別れの散弾が加えられ、限界に達したMGのスケバンが地に伏す。
残るは一人。冬宛らに乾いた所作で、されどどこか艶めかしく白い息を吐いたホシノは、SMGのスケバンへ、ゆらり視線を向ける。
「…!動くんじゃぁねぇッ!一歩でも動いたらコイツを"撃つ"ッ!!」
瞬間、スケバンが取った行動は、男の背後に回り込み
仔細な関係こそ伺えねど、ホシノの仕草から二人が友好的な仲にあるのは容易に想像がつく。なれば、機能する筈だ。機能しなければ終わりだと。半ばヤケクソで賭けに出たSMGのスケバンを前に、ホシノはわざとらしく眉を上げ、変わらない声調で驚きを表現した。
「落ち着いて落ち着いて。せっかくの美人さんが台無しだよ〜?」
「"これ"で落ち着いていられっかよォーー!!いいから動くんじゃあねぇッッッ!!」
「分かった、分かったよぉ。おじさんびっくりしちゃうから、そんなに怒鳴らないで~」
「だからッ、"動くんじゃあねぇ"って何度も言ってんだろうがよォーー!!!」
[さっきから動いてないような…]
ホシノはただの1歩も動いていない。だが、SMGのスケバンはホシノがその場でブレイクダンスを踊っているかの如く激昂し、再三に渡り警告した。
これ以上なく錯乱し、幻覚すら見え始めているSMGのスケバンに、細身な男は身振り手振りで落ち着いてと伝える。ああ、そうだなと理解の早い彼女は驚く程急に落ち着くが、独特な口調は外れなかった。
「武器を捨てろ。どの道散弾じゃあ撃てねぇだろうが、思いっきり投げられても面倒だからなァ〜」
「おじさん、そんなに器用じゃないんだけどねぇ」
「いいから捨てろッ!じゃなきゃ、コイツが穴だらけになっちまうぜぇ。音楽室の壁みてぇによォー!!」
[吸音効果が付いちゃう…]
SMGを細身な男へ突きつけてみせたスケバンに、ホシノははいはいと肩をすくめて、自らの銃をゆっくりと地面に置き、足で手の届かぬ場所へと追いやる。
だが、SMGのスケバンはそれで満足しない。彼女は男にSMGを突きつけたまま、その背に回したもう一方の手の人差し指をピンと立て、万全に構えなくとも余裕をもってホシノの左半身を覆える、強固な盾を強く指した。
「ソイツもだッ!その"盾"も捨てろッ!!」
「えぇ~、これもぉ?」
「当たり前だ。これからテメェにブチ込む16777216発のうち1発でも盾に吸わせちまったらよぉ、悔しくて悔しくて、明日の授業の内容が頭に入ってこねぇからなァーー!!」
「授業は出るんだねぇ」
「当たり前だ。これでも無遅刻無欠席の模範生徒だからなぁ」
無寝ん無早(退)の境地にすら至っているらしいSMGのスケバンは、何ならここで昨日習った微分幾何学の解説でもしてやろうかぁ?と軽口を叩く。一体どういった経緯でスケバンの道を志したのか。甚だ疑問で昼寝もできないが、答えを得るにも何にしても、まずこの苦境を乗り越えなければならない。
握り慣れた相棒は遠く離れ、守りの要である盾も失われようとしている現状。如何に単身で特殊部隊を壊滅させられようと、如何に単身で戦車を破壊できようと、如何に単身でヘリに飛び移り墜とせようと。流石に徒手空拳で人質を取った敵をどうにかするのは無r…まぁどうにかなるかもしれないが、厳しいことには違いない。けれど、彼女の佇まいは、依然として悠然だった。
マフラーの上に浮かぶゆるやかな月は、依然として健在だった。
「…捨てろ、早く。その"盾"を」
「でも、これがないと、おじさんが吸音効果を備えちゃうし~」
「いいからつべこべ言わず捨てろッ!コイツを撃たれたくなきゃりゃあよォー!!」
あらゆる点で優位に立っている筈のスケバンが、にも関わらず、まるで追い込まれている側であるかに逼迫した様で叫んだ。寒さに震えていた彼女の額にはいつしか汗が流れ、細身な男のハンカチで拭かれている。
SMGのスケバンにそうさせていたのは、ひとえに不気味さだった。自由な空から引きずり落とされ、ぷちぷちと風切羽を一本ずつ捥がれていっている鳥が、尚も飛べると確信しているような。そんな不気味さが、SMGのスケバンの心にある余白を、じわじわと食んでいた。
強がりを隠す為の道化の赤紅が、その実作られたものでないのではと疑わしく思える。手の届かぬ場所にあるショットガンは、果たして本当に手が届かない場所にあるのだろうか?
見える範囲に武器はない。しかし、袖の内側は?スカートの中は?倒れた仲間達の武器はどこにあって、敵とどれ程距離がある?足元に段差はないか?先のアイコンタクトに他の意味が含まれていないか?
罰すべき疑わしきは、辺り一面に転がっている。とても視界に収めきれる量ではなく、文字に起こせば、失われた時を求めて長い旅が始まりそうだった。
恐怖に転じた度を超す不安に駆られ、SMGのスケバンは、無意識に銃をホシノへ向ける。撃つ側と、撃たれる側。その"立場の再確認"だけが、唯一彼女に安らぎを齎してくれるから。
「…本当に、置かなきゃダメ?」
「ああ」
「本当に?撃つのに後悔とかしない?」
「むしろせいせいするだろうなぁ。毎夜勉強して臨んだ期末試験で、花丸満点を取った時みてぇによォ~…!」
「…そっか」
SMGのスケバンの一貫した態度に、ホシノは諦めた様子で身の丈以上の盾を置き、そっと前に押した。
盾が傾く。あと数秒もしない内に倒れるそれは、間もなく覆い隠していたホシノの左半身を晒し、これ以上なく無防備にするだろう。その時が、SMGのスケバンの勝利だ。
すぐそこまで滴っている
ただ1人、誰かの言葉を除いて。
「―――なら
スケバンが異音に反応するより早く、傾いた盾から月が覗く。
太陽の守り手。パピルスの色をした者。都市イメトに祀られし蛇。呼び名に事欠かぬ神の瞳は、顔に充てられた微笑とは裏腹に、酷く冷めていた。その様相は、麗しくも冷たき夜を統べる女王以外の何者でもなく、故に彼女は、遅れて露わになった
「…ぁ」
割れるような乾いた銃声。
無骨な拳銃が下りる。砂塗れの街は、何事もなかったようにまた眠りに着いた。
[ごめんね。お仕事もあるのに邪魔しちゃって…]
「なに、誰も来ず暇をしていたところだ。しかし、こんな偶然もあるのだな」
[だね。最近はどう?危ないこととかなかった?食事も、ちゃんと取ってる?]
「先生は心配性だな。ああ、最近は特にこれといった問題はない。ここの業務も、つつがなくこなせていると思う。シャーレ前の店舗で研修を受けたのだが、そこにいた先輩が教え上手でな。業務以外も、色々学ばせてもらったんだ」
[ならよかった]
コーヒーマシンが微動し、仄かな甘さが香る。
純白で満たされていく容器は途中、ほろ苦くもあっさりと鼻を抜ける匂いが差し込まれ、最終的にふんわりとした薄茶に落ち着く。
そこに、細身な男はシュガーを1本垂らすと、その時間を楽しむ風にゆったり混ぜた。
[でも、何事もなくても、気兼ねなく呼んでいいからね。軽い相談だって、いつでも大歓迎だよ]
「…本当に、変わらないな、先生は。なら、今度食事にでも誘おうと考えていたんだが、どうだろうか」
[勿論行かせてもらうよ!]
男は店員と何度かやり取りし、最後に労いのコーヒーを渡して、エンジェル24を去った。
自動ドアを出た瞬間、肌を刺す張り詰めた冷気に、男は1つ身震いする。どうやら、一層寒さを増したらしいと知るに併せて、男は楽しげな会話を耳に―――実際は耳などないが―――した。
「それでよぉ、コイツがこの辺りで写真なくしたっつって、半泣きで電話かけてきてさぁー」
「仕方ないだろ!あんな良い角度で取れたマリーちゃんの写真なんてそうないんだから!」
「ありゃ、それは災難だったねぇ。結局その写真は見つかったの?」
「何とかな。でも、そうしてるうちに夜になっちまって、しかも皆奇蹟的に財布家に忘れててるもんだから、帰り代がなくてさ。歩くにゃ遠いし、もう羅生門するしかねぇ!ってなったんだよ。あんた達のおかげで助かったぜ」
駐車場の端に集まり、談笑しているのはホシノとスケバン達だ。場所が場所というのもあってか、遭難者用に売られていたふかふかのダウンジャケットと新品のタイツを装備するスケバン達の表情は穏やかで、少し前まで声を荒げていたSMGのスケバンも、額にある絆創膏のことは最早気に留めていないように見える。
そんな彼女らの会話を男が耳にするのと、桃色のアンテナが小さくピンと跳ねるのは、ほぼ同時だった。可憐な仕草をして振り返り、男を呼ぶホシノに続いて、スケバン達もそれを認識する。
「先生」
[待たせちゃってごめんね。はい、これ。スケバンの皆も、タクシーが来るまではこれを飲んであったまって」
「何から何までわりぃなぁ。家帰ったら、ちゃんと金返すからよぉー」
[ううん、気にしないで。経費で落とすから]
「流石にそれを経費は無理じゃないか…?」
細身な男は、そう言って右手と背から伸びる3本触手で把持したカップを各々に渡す。湯気立つそれを受け取った少女達は、舌を火傷しないよう注意しながら一口飲み、弛んだ表情で温もりを溢した。
「あぁー…生き返るぅ…」
「私、これを機にカフェ開こうかな」
「気持ちは分かるが落ち着け。まずはこのミルクを作った酪農家と牛さんに感謝の意を伝えに行くところからだろ」
[カフェ開くことは止めないんだ]
「もう決定事項みたいだねぇ」
突然決意に目覚めたスケバン達は、開業に必要な資金の具体的調達案から豆の入手先の選定基準、実現を構想する店舗のSWOT分析について語らい始め、仕舞いにはキヴォトス全区域への出店を目標とした、チェーン店化の検討を進める。
狸どころかペロロジラ並みの皮算用をするスケバン達は、しかし全く清々しい程いい目をしていた。本気の目である。よって、細身な男とホシノはそこに口を挟むような無粋はせず、ただただ隣で静観した。
[来た]
そうこうしている内に、タクシーはやってきた。
星とエンジェル24以外の光のない世界ではよく目立つランプが接近し、やがて制止する。細身な男は、日頃利用する機会もままある為に親しい間柄の運転手に挨拶し、アプリのチャットで二言三言交わすと、少女達を手招きした。
スケバン達は男に礼を言い、車内に入っていく。最後に、後部座席に腰を下ろしたSMGのスケバンが、ホシノを見て問うた。
「アンタは乗ってかなくていいのか?多分、この辺に住んでんだろ?」
「おじさんは大丈夫だよ。家も、そんなに遠くはないしね」
「そうか」
なら、またどっかでな。
男前ににっと笑んで手を振ったSMGのスケバンは、次いで、細身な男にも同じ仕草をする。その後、ドアが閉められたタクシーは、他のスケバン達の笑顔も乗せて、夜の街に消えていった。
手を下ろす2人の間に、静寂が訪れる。
[乗らなくてよかったの?]
「ん?」
「ホシノの家、ここからだと少し遠かったような…」
心地よい余韻のような静けさを暫く堪能してから、細身な男が切り出す。
少女は、それでもよかったんだけど、と前置いてから、答えた。
「誰かさんが駅に着くまで、また危ない目に遭わないとも限らないからねぇ」
[うっ…]
悪戯な視線に射られ、細身な男が情けなく竦む。その反応に満足したのか、少女は年相応に綻んで八重歯を覗かせると、駅へ歩を進め始める。
「じゃ、行こっか?」
ふと、ふわりと浮き上がったスカートは、どこか楽し気だった。
違う歩幅、異なる足音、けれども揃っているペースは、きっと意識の産物ではない。
倍近くある背丈も、そよ風に揺れるものもまるで似ていないが、それでも2人には、降り積もる沈黙も、信号の待ち時間も厭う様子はなかった。
「で、何でこんなところに来てたの?」
マフラーから口をひょっこり出し、柔らかな物腰で少女が尋ねる。細身な男は、まっさらな面を気まずそうに背けて、黒いビニール袋を後ろへやった。
その仕草を、隼が見逃す筈もないのに!
「ふぅん…えい」
[あっ!]
一瞬、少女が姿勢を低くしたと思うと、ビニール袋は、いとも簡単に男の手から攫われた。
大きさの割に、あまり重さを感じない袋を少女が開く。するとそこには、『MG 1/100 KAITEN FX MK.0
[…この辺りにしか、もう売ってなくて]
「…」
知る人ぞ知る伝説のプラモショップ。そこに一縷の望みをかけて連絡したところ、まだ1つあると聞いた細身な男は、居ても立っても居られなかったんだと続けて供述する。
しかし、誰が男の所業を責められようか。連日連夜で働いても底が見えず、むしろいずれはサンクトゥムタワーを超えるのだとばかりにうず高く積もる業務に頭をやられた男が、微かな癒しを求めて夜にプラモショップへ駆け込むことを、一体どこの誰が責められようか。
「…まぁ、おじさんはいいと思うけどさ。これ、あのミレニアムの会計ちゃんに見られたら、まずいんじゃない?」
[まずいね…とんでもなくまずい]
少なくとも糾弾者は1人いるし、彼女に細身な男が何と言おうと、定価で5するプラモデルを買った事実は、未来を雷が落ちる方向へと収束させるだろう。
想いを馳せる先の憂鬱に、高い場所にあった肩ががっくり落ちる。哀愁漂うその背を少女が優しく撫でていると、男は急に立ち直って、非情な現実から逃避するべく話を変えた。
[そういえば、ホシノは何でこんなところに?]
「うぇ!?」
途端に少女は動揺し、しどろもどろになる。
怪しすぎるあまり、いっそ怪しくないのではとすら考えられる挙動の背景に、細身な男は1つ、思い当たりがあった。
まだ、この地域全体に金貸屋が幅を利かせていた頃。少女が寝る間も惜しんで努めていた、ある行動である。
[まさか]
「あ、いや、違うよ?先生。そうじゃなくてね、何と言うか~、うへへ」
細身な男に訝しまれた少女は、もちもちした顔を気まずそうに背け、神妙なトーンで呟いた。
「…昼寝し過ぎたからか、全然寝付けなくて」
[…]
今日のアビドスの天気は晴れで、温度も湿度もほどほど。あらゆる要素が歯車の如くがっちりと嵌り、過ごしやすい1日を約束されたからには少女は、居てもたってもいられなくてねと続けて供述する。
しかし、誰が少女の所業を責められようか。特に生真面目な1年生から委員長として規範となる姿を求められ、日々増すばかりの事務作業や重圧と格闘している少女が、微かな癒しを求めて昼寝を決行することを、一体どこの誰が責められようか。
[…まぁ、私はいいと思うけど。今日は、何かやることはなかったの?」
「いやぁ~…これがあったんだよねぇ」
少なくとも糾弾者は1人いるし、彼女に少女が何と言おうと、すべき業務から抜け出した事実は、未来を雷が落ちる方向へと収束させるだろう。
想いを馳せる先の憂鬱に、低い場所にあった肩ががっくり落ちる。連なり項垂れたアホ毛を、細身な男は優しく撫でた。
示し合わせた訳でもないのに、2人は同じくして、肩を揺らした。
「ねぇ、先生」
一頻りおかしさに耽った口が、改まって開かれる。
細身な男が視界を下ろすと、長閑な青の中に自らの姿が映った。
「先生は、シャーレに帰ったら何するの?」
[溜まりに溜まったお仕事と、次の夜までにらめっこかな」
「…ならさ、このまま私もシャーレに行っていい?書面に目を通すだけでも、1人じゃなかなか集中できないんだよねぇ」
言葉の後、鳴ったくぐもった音に誘われ、男は無意識に焦点をずらす。そこにあったのはスクールバックで、開いたジッパーの奥には、書類の束が覗いていた。
男は驚き、焦点を戻す。すると、少女は会った時のように太陽を閉じて、しかしちろりと舌を出していた。
してやられたのだと知った男は、おもむろに大げさにこれ見よがしに、細長い手で目を覆う。そして、暫しそのまま何かを考え、ピンと来るものを閃いたのか、弾んだ様で返事を送った。
[おじさんがそう言うなら、仕方ないなぁ]
「あ、それ私の真似?」
答えが明白な問い合わせに、男は口笛が幻聴できそうなぐらい、あからさまな態度で顔を逸らす。
それがまた、あまりにあからさまな態度だっただから。2人は、再び笑いあった。
[じゃあ、行こうか]
一頻りおかしさに耽った細身な男が、どこか楽し気にチャットを打つ。
その指先からはいつしか悴みが消え、足取りも明るくなっていた。