↓読むと楽しいかもしれない続編↓
https://syosetu.org/novel/375740/
五月の朝は寒かった。
バイト初日になるはずだった日の前日に、家族がコロナウイルスに罹患した。その後自分も感染して、自宅療養期間が終わる頃には一ヶ月近い時が過ぎていた。
職場には、同じ日に入る同期が何人かいたはずだけれど、俺はその人たちよりも一ヶ月分の後輩ということになってしまった。そこから出勤したとして、職場で感じる遅れはインフル明けの学校の比ではないだろう。体に残っている気がする倦怠感は、ウイルスの後遺症なのか、それとも気持ちの問題なのか、自分では分からない。
職場までは自転車で五分もあれば着く。これがベッドタウンから都心へ出勤するサラリーマンのように電車で片道一時間などかかるようであれば、俺は初日から知らない駅で降りて行方をくらませていたかもしれない。倦怠感と憂鬱感の区別がつく前に到着する距離の職場でよかったと思う。
裏口に自転車を止めて上着を脱ぐ。仕事の内容は運送系倉庫での仕分け作業で、すでに倉庫の中からはピッピッと何らかの電子音が鳴っている。それが何の音なのか、一ヶ月上の先輩たちは当然知っているのだろう。
しかし正直、同期になる予定だった人たちの顔は少しも覚えていない。誰が誰なのかも分からず、とりあえず目につく人間に片っ端から挨拶しておく。
「おはようございます」
「おはようー」
「おはようございます」
「おはよ〜」
「おはようござ」
「あ! 百合園くん! おはよおはよ!」
一人だけ、久しぶりに会う友達みたいな勢いで駆け寄ってくる人がいた。縁の細い眼鏡をかけた、こちらよりも背の高い女性で、やけに美人。俺はこの人のことを知っている。
たしか名前は、
その輪上さんがいきなり、俺の手を胸の前に掲げるように握る。脱いだ上着で塞がっていない方の手を、その白い細指で包み、
「コロナ治ってよかったね〜! 心配してたんだよ?」
と、まだ二回しか会ったことがない(しかも二回目は始まってまだ数秒の)間柄とは思えない親しみをこめて言ってくれた。
はぁ、どうも……。と、気のない返事しか出来ない自分が悪人みたいに思えたけれど、どちらかといえば客観的に見ておかしいのは輪上さんの方だとも思う。
彼女は愛想の悪い新人の冷めた対応にも動じず、生きるために仕方なく働いている最中の人間のそれとは思えない笑顔を浮かべる。
「まぁ、とりあえず上着置いてきなよ。仕事のこととか、説明するからさ」
「あ、はい」
言われた通りに、事務所とはまた別の場所に設けられた休憩室へと荷物を置きに行く。一ヶ月と少し前に面接が行われたのも、その休憩室だった。
荷物を置き、身軽になった俺は部屋を出ようとドアノブに手を伸ばす。するとものすごい速度でそれがひとりでに開いた。
「ごめん百合園くん!! タイムカード! 先に!!」
不意打ちかつ勢いがありすぎて、思わず肩どころか踵まで跳ねかけた。
労基が正しく力を持ち始めている昨今、出退勤に関わるやり取りをルーズにすると、会社としてはそれが洒落にならないリスクと化すのだろう。輪上さんはこの職場の偉い人だからこそ、あからさまに焦っていた。
タイムカードは、事務所に置いてある、コンビニのレジにあるようなバーコードリーダーとガラケーを足して二で割ったようなゴツい機械で、従業員各々に配られたカードを読み取ることで管理する。そこまでは面接の段階でチラリと聞いていたけれど、しかし初日の自分の手際が悪いのか、それとも機械の方に年季が入っているのか、赤い光をバーコードにかざせども、一向に読み取ってくれない。
業務前からもたつく新人に痺れをきらしたかのように、後ろについてきていた輪上さんが「あぁ、あぁ」と声を上げながら、事務所の奥の方から同じ機械をもう一台持ってきた。
「こっち使って」
渡された方をカードにかざすと、あっさり読み取りが成功する。
「ごめんね、残業代付けとくからちゃんと。そこは安心して」
「はぁ」
俺はまた気の抜けた返事しか出来なくなる。この状況で残業代のことを心配する人などいるのだろうか? なぁなぁで済ませようとしないことにはもちろん好感が持てるけれど。
ともかく、それでようやく正式に、自分の初仕事が始まったことになる。俺は「ついてきて」という輪上さんに連れられて、再び休憩室の前までやって来た。
ほんの短い移動中に、視界のそこかしこでは、大小様々な荷物を山積みにしたキャスター付きの背高なカゴを動かしている人や、定位置に持ってきたそれからあっちへこっちへ荷物を運び仕分けていく人、仕分けられた荷物をトラックに積み込んでいく人等々の姿が見える。……しかし俺はそれらのどこへも連れて行かれることはなかった。
中でちょっと待ってて、と言われたのでおとなしく休憩室に入って待機する。すると一分か二分かした後、台車を二刀流にした輪上さんが、その持ち手の高さよりも高く積まれた小さな荷物の山……これから発送するのであろう小型のダンボール箱を大量に乗せて運んでくる。乗っている箱は全て小ぶりな以上重くはなさそうだけど、一度に二台の台車を動かして、目測では数え切れないそれを一気に運んでくる絵面にはなかなかのインパクトがあった。
休憩室の扉は台車がギリギリ通れる幅になっている。彼女は持ってきた荷物を二台とも中へ入れた。そして立ち尽くす俺を見ると驚いた様子で「座ってていいのに!」と言った。
幅広ながら簡素な作りのテーブルに、余り気味のパイプ椅子、誰が使っているのか分からないロッカーと、今日は使われていない傘立て。休憩室の中にある物はおよそそれが全てで、俺の上着は散り散りに置かれた余りパイプ椅子の一つにかけてある。
テーブルの傍に荷物山積みの台車を寄せてから、輪上さんは面接の時と同じ奥側の椅子に座る。手振りで「百合園くんも」と促されて、俺は彼女の向かいに座った。
輪上さんはどこからともなく、白紙のシールのような物と筆記用具を取り出してテーブルの上に置く。付箋のように束ねられたシールの量は分厚く、対して筆記用具は鉛筆と消しゴムだけというシンプルな物だった。
「さて。では今から、百合園くんにやってもらう仕事について説明しようと思います。準備はいいですか?」
「は、はい」
遊園地の係員のようなどこかおどけた言い方に若干困惑しつつ、俺は姿勢を正す。
輪上さんは台車に高く積まれた荷物のうちの一つを手に取り、こちらから見て正位置になるように向きを正してからテーブルの上を滑らせ、そこに貼られている伝票を俺に見せる。
注目すべき点を鉛筆の尻で指しながらの説明が始まる。
「ここ、送り先の住所が書いてあるでしょう」
「はい」
「で、こっちに意味ありげな空白があるでしょう」
「ありますね」
「ここには、送り先の住所に対応した数字を振る必要があります。その数字を書いて私に提出するのが、百合園くんの仕事です」
「数字……。……対応するっていうのは?」
「うん。これ」
聞くと、またどこからともなく、輪上さんが紙片を取り出す。それは小さく折りたたまれて線のついた早見表だった。
それによると、この倉庫から発送され得る住所は大まかに分けて14種類。それらの住所にそれぞれ、20〜33の数字が振られている。……つまり見る人が見れば、文字数がまばらで紛らわしい形もある漢字に注目しなくても、二桁の数字を見るだけで住所がパッと分かるようになっているわけだ。
しかしその数字は元々伝票に書かれているわけではないので、配達員の作業を助けるために俺がここでそれを記入していく必要がある……というのが、輪上さんからの説明だった。言われていること自体は単純で、理解に苦戦することはなかった。
が、肝心の早見表を見るとそれなりに尻込みしてしまう。不要不急の外出をコロナ以前から控えていたタイプの陰キャである俺には、近所なのであろうそれら住所のことがほとんどピンと来ないのだ。馴染みの薄い物を多分に含む14種類の地名と、それらに振られた素人がパッと見る分には謎の数字。作業時間の相当な割合が、早見表と伝票のにらめっこに割かれることは確実だった。
「じゃあ、さっそくやってみて」
見本として見せられていた荷物がずいっとこちらにもう一押しされ、鉛筆と消しゴムを渡される。俺は表を見ながら、伝票の空欄部分に「20」を記載した。
記載が完了した荷物は輪上さんに提出するのだという。いずれは全部を台車に乗せて、事務所で作業中の彼女のもとへまとめて提出することにでもなるのかもしれないが、今はとにかく目の前の彼女にそれを渡す。
向こうから見て正位置になるように箱を回転させてから、なるべくテーブルを擦らないように箱を差し出すと、彼女はくすっと笑って「丁寧すぎる」と言った。そして渡された箱を一瞥してからテーブルの端に避け、
「うん、正解!」
と満足そうに言った。
じゃあその調子で、どんどんよろしく。……そう言われて本格的な仕事が始まる。山積みの荷物から一つを取って伝票を見て、表の中から住所と数字を探し出し、それを記入する。そうしたらそれを輪上さんの方へ押しやって、次の荷物を取る。……その繰り返し。
輪上さんは輪上さんで、俺とまったく同じ作業をこなしていた。そして自身の前に提出された荷物が溜まってくると、作業の手を止めて提出物に目を通す。問題なく確認し終えたらそれをテーブルの端に避けて、また作業に戻る。
…………黙々とした時間が過ぎていく。壁にかけられた時計の秒針が刻む音や、鉛筆の先が紙面を走るリズミカルな音が目立って聞こえるような、真面目な静けさが続く。
台車に山積みになっていた荷物は思っていたよりも早いペースで、身をかがめなければ取れない低さにまで減って行き、やがては全てが数字記入済みとなってテーブルの上に積まれた。
「よし」
輪上さんが立ち上がり、テーブルの端で太い塔のように積まれた荷物を次々とすばやく台車に積み直していく。そして再びそれを二刀流にして「一瞬だけど休んでてね」と言い残し、休憩室を去っていった。
三分も経たないうちに、新たな荷物を山のように積んできた彼女が戻ってくる。そして再び着席し、率先して作業を再開する。……以後この流れの繰り返しとなることが説明されずとも分かった。
俺が応募したこのバイトは、始業が早朝六時であるかわりに、終業も午前八時とまた早い。単調な作業でも二時間程度なら耐えられるはずだと自分を信じたいところだ。「配達する荷物の仕分け」という業務内容の響きからイメージしていた作業とは少し雰囲気が違う気もするけれど、最低賃金を一回り上回る給料がもらえた上で楽な分には当然良い。
……しかし無言のまま、今ある荷物の半分ほどが再び記入済みとなった頃には、俺の心の中に一つ素朴な疑問が浮かんでいた。
バイト面接を担当するだけの立場にある輪上さんが、いつまでもこんなところでこんな作業をしていていいのだろうか? 彼女には何かもっと、他にもやるべき仕事があるのではないか。
そう考えていた矢先に、沈黙が解かれた。
「百合園くんって、高校は通信だったよね」
「え? あ、はい」
履歴書に書いたことなので輪上さんは当然それを知っている。ついでに言えば、高校卒業後に約五年もの空白期間があることについても。
場所が場所であることも相まって、面接の延長戦が始まるのかと思った。けれど彼女の口から続いて出た言葉は、それにしてはやわらかすぎる調子で。
「朝起きるのつらくない?」
「えー。まぁ、なんとかなる範囲です」
「家から自転車で五分くらいなんだっけ」
「そうですね」
「何時起きなの?」
「とりあえず五時に起きてみてます」
「えぇ、偉いね」
「どうも……?」
なんの話なんだ……? と、相手の意図を掴めないまま、手元で作業は進んでいく。自分の住んでいる地域は、数字で言えば32に該当する場所なのだと知る。
大体、今日出勤した時にすでに倉庫内で作業が始まっていたということは、少なくとも輪上さんとその他の社員さんたちは、バイト組よりも早く出社しているはずだ。しかもその全員が五分や十分で来られる距離に住んでいるとは確率的に考えられない。朝起きるのがつらいのはむしろ輪上さんの方だろう。……と思いはするけれど、口に出しても茶番っぽく聞こえるだろうから黙っておく。
その会話から数分も経たないうちに、輪上さんは再び降りていた沈黙を再び破った。
「趣味とかってある?」
「え?」
「履歴書ってそういうの書く欄ないでしょ? バイトの面接ってそういう話しないし」
「あー」
俺はその時になってようやく、彼女が世間話を振ってくれているのだということに気がついた。
一般論として、二時間ずっと黙って同じ作業をしていれば気が滅入る……というのはその通りだと思う。しかしその解決に雑談をするということは、裏を返せば輪上さんは、おそらく二時間みっちりここに居るつもりらしい。本当に他の業務は大丈夫なのだろうか?
訝しみつつ、雑談自体はやぶさかでもないので、俺はTPOに配慮した適切な答えを探す。趣味の中でも、できるだけ浅い範囲の話題を。
「趣味は、ゲームとかアニメとか、オタク系のことですね」
「アニメ何見るの?」
「なんかこう、美少女が出てくる感じのやつとか」
「へ〜。今期面白いのある?」
「あー、そうですね〜……」
今期、という言い回しが引っかかる。オタク特有の言い回しのような気もするし、テレビドラマなんかを見る人でも使いそうな言い回しだとも思える。
しかしその違和感の正体はおそらく、輪上さんが「私もアニメ見るよ」とは言わなかったことにあるのだろう。その相槌を経由せずにいきなり「今期面白いのある?」という返しをしてくる人はほぼ確定でオタクである。俺は一瞬それを喜びかけた。
……けれどなぜだろう、断定する寸前でなんとなく、彼女は自分と同類などではないような気がした。
まぁ相手がオタクでもそうでなくても、挙げるタイトル自体は変わらないのだけれど。
「今期は、「まちカドまぞく」ってやつが面白いです」
「どんな話なの?」
「どんな……? ……あー、魔族の女の子が、敵対してるはずの魔法少女と仲良くなる、ほんわかしたノリの日常系みたいな」
「へぇ〜、見てみようかな。今からでも追いつける?」
「あ、いや、今やってるの2期なんですよね。アマプラで1期も見れるんですけど」
「アマプラあるよ。見てみる」
「……アニメよく見るんですか?」
「いや、たまーに」
「たまーに」
「宝石の国とか見たよ」
「えっ。へぇ〜……」
ずいぶん良いところを突くなぁ、と思った頃には、台車の上から荷物がなくなっていた。
テーブルの上の記入済みの山をそそくさと積み込み、輪上さんは再び外へ。時計を見ると、すでに五十分ほどが経過していた。体感時間としてはかなり短くて、今後に希望を感じられる。
戻ってきた輪上さんは、台車の隅っこに水筒を乗せていた。着席するなり蓋を開けて飲み始めたから私物なのだろう。
「百合園くん、飲み物は持ってきてる?」
「いえ」
「持ってきたらさ、出発前のトラックの冷蔵スペースに入れて冷やしといていいからね」
「え。そうなんですか」
「そうなんですよ。ただ置き忘れたらそのまま夜まで帰ってこないから気をつけて」
「了解です」
水筒が回収不能になるだけならともかく、そういう事態になってしまえば小言の一つや二つは言われてしまうだろう。そのリスクを背負ってまで飲み物を冷やしたいとは思わないから、適当に返事をしておく。
その後もぽつぽつと間合いを測るように、輪上さんから雑談をもちかけられることが続いた。コロナってやっぱり相当しんどいの? とか、ゲームってどんなのやってるの? とか。そういった会話に応答しながら作業を進めるうちに、いつの間にか二時間のノルマが経過していた。
「お疲れさま。上がっていいよ。退勤の仕方は分かる?」
「来た時と同じですよね」
「そうそう」
「たぶん大丈夫です。お疲れ様でした」
タイムカードを押しに……もとい読み取りに行くと、何人かの人が読み取り機の前で列を成していた。誰がどういう立場の人なのかは分からない。おそらく何人かは同期になるはずだった人で、何人かはもっと上の先輩だ。
名前も知らなければ話したこともない人に、とりあえず「お疲れ様でした」を言っておく。向こうもこの人誰だっけと思っているかもしれない以上、不毛な感じは否めなかった。
ともかく、バイト初日は思っていたよりも遥かにあっさり終わった。乗り切ったという感覚はなく、大変結構なことに、肩透かしの感すらある。
裏口から外に出て、ズボンのポケットから自転車の鍵を取り出し、まだスーパーも開店していないような朝の町を颯爽と帰路につく。
……いや、そうしようとして、ペダルを三回転くらいしたところで、やけに空気が冷たいことに気づいた。ため息を吐きながらブレーキをかけ、引き返す。
裏口の方まで、輪上さんが走って出てきてくれていた。こちらの目当ての物を片手に。
「百合園くん! 上着上着!」
「すいません。ありがとうございます」
俺はそれを受け取って着込み、今度こそ帰路についた。短い道のりに一つだけある信号はちょうど青で、空はほどよく小さな雲の浮いた晴天だった。
上着を忘れた間抜けさにさえ目をつむれば、清々しい気持ちだと言える。
バイトは週三日ある。具体的には火、木、土のペースで。
俺たちが子どもだった頃は土曜の午前中に学校があるのが当たり前だったんだ……と、どこか得意げに話す昭和世代に苦笑を返し続けてきた身としては出来れば避けたかったけれど、雇う側としてはどうしても土日のどちらかに出てほしいとのこと。初日の出勤が木曜だったため、二日目の俺は土曜の早朝からしぶしぶ職場へ向かった。
早朝六時前ということもあって、行き道に人影はほとんどない。犬の散歩をする人が一人と、あとは時々駆け抜けていく車だけが、認識できる他人の存在の全てだった。
青信号を渡り、倉庫の裏口に自転車を止めて鍵をかけ、上着を脱ぎながら中に入る。今日もピッピッと、機械が何かを読み取る音があちこちから鳴っている。昨日見た感じだと荷物の伝票にバーコードが付いていたから、読み取っている物はおそらくそれだろう。荷物の所在の管理はデータ上でも行われているのだ。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
「はいおはようー」
「おは」
「百合園くん! おはよう!」
輪上さんは二日目も朝から元気だった。
彼女はすでに空の台車を二刀流していて、タイムカードを押して上着を置いたら戻って来てほしいと指示される。言われた通りに早足で身軽になってその場に戻ると、彼女からその台車を二台とも譲られた。
「やってもらうことは昨日と同じなんだけど、今日からは朝来たら、荷物を自分で持ってきてほしいんだよね」
「はぁ。どこにあるんですか……?」
「あっちの隅の、冷凍庫が並んでるところがあるでしょう? あれの一番角側の方は電源入ってなくて、中に百合園くんに数字を振ってもらう分の荷物が入ってるの」
「なるほど、角側ですね。分かりました」
「よろしくね」
そう言って輪上さんは事務所の方へ去っていく。やはり今日こそは、彼女には彼女の仕事があるのだろう。
俺は台車を二台押しながら、角川文庫のことを連想しながら冷凍庫へ向かう。暗記には連想が有効だ。「使われていない冷凍庫は角側、角川文庫」。よし、これで忘れない。
指示通りに、電源の入っていない業務用冷凍庫を開ける。すると確かにその中に荷物が積んであったのだけれど、思っていたよりも量が少ない。ちょうど一度に運びきれる程度の量しかない。
あとから補充されるのだろうか? と適当に考えながら台車の上に荷物を積んでいく。すべて積めたなら冷凍庫の仰々しい扉を閉めてから、ガラガラと台車を押して休憩室へ。
テーブルの上にはすでに鉛筆と消しゴム、それから例の早見表が置かれていた。シールのような物の束が今日は無く、代わりに手回し式の鉛筆削りが置いてある。
輪上さんの今後の居所を聞きそびれたな、とその時になって気づいた。作業が一周すれば済んだ荷物は彼女に提出しなければならないわけだけど、これではその際、まずは彼女がどこにいるのかを探すところから始まってしまう。まぁ社員の人にでも聞けばすぐに目星はつくのだろうけど。
先のことを考えても仕方がないので、とりあえず昨日と同じ席に座って黙々と作業を始める。住所と数字の対応はまだまだ暗記しきれないけれど、四つしかない上に一つは自宅の住所でもある30番台のことだけは次第に覚えられてきた。
……しかしまぁ、見張りもなしにずっと一人で単調な作業をしていると、働き始めて僅か二日目にして緊張感という物が抜けて来る。
仕事を一部しか暗記していないことと同じように、俺はその曲の歌詞をサビのワンフレーズしか覚えていなかった。
「同じ空 二人で見上げて〜 笑いあって つらいことも 乗り越えちゃおう〜」
最近見ているアニメ、まちカドまぞく2期のオープニング。その口ずさみが無意識に流れ出る。そこ以外の歌詞は本当に一つも覚えていない。
サビの残りを鼻歌で歌いきり、サビ以前の箇所はメロディーすら覚えていないものだから、また最初に口ずさんだ歌詞に戻る。それを繰り返すうちに、一つ目の台車が空になろうとしていた。
「同じ空 二人で見上げて〜 笑いあって つらいことも 乗り越」
「調子どう〜?」
「おっっ……」
突然の声と扉の開く音。休憩室の出入り口は自分の背中側にあって、外の足音など聞こえやしない。
突然に現れたのは輪上さんだった。カラオケ店員が部屋に入ってきた時とは段違いの緊張感がバックドラフト現象のように襲い来る。俺だって、誰かが来ると知っていれば歌など口ずさまなかっただろう。勤務二日目の態度としてそれはありえないことだと分かるから。けれどそもそも態度というものは、他者の目があってこその物ではないか。
心に冷や汗を流すこちらに対して、輪上さんは上機嫌に回り込んでくる。
「おお〜! 進んでるじゃん! 優秀優秀」
「は、はぁ」
そして彼女はものすごく自然な流れで、向かい側に座って鉛筆と、まだ未記入の荷物を手に取った。
初日と同じように、輪上さんが当たり前のように作業に加わる。時計を見ると、バイト始業からまだ二十分も経っていなかった。
「まちカドまぞく、見たよ」
座るなり始まった雑談に、ドキリと心臓が跳ねる。強烈な皮肉を寄越されたのかと思った。
「あ、あぁ。どうでした……?」
「面白かった。魔族の女の子って、最初は人間だったんだね。朝起きたら急に角とか生えてて、家系の話とか出てきて」
「あぁ、そんな感じですね」
「魔法少女の子が声低くてびっくりしちゃった。意外とすぐ馴染んだけど。あと妹がすごい良い子」
「あ〜分かります。先に見た目知ってたんですけど、最初に声を聞いた時はびっくりで」
「だよねぇ。でも一番好きかも、桃ちゃん」
「はぁ」
「百合園くんは誰推しとかあるの?」
「僕は……。…………シャミ子と桃、どっちもかもです」
「欲張り〜」
「いや、強いて言えばって感じですよ」
働き初めて二日目の職場で、朝っぱらから偉い人とアニメについて語ることになるとは思わなかった。
テーブルの上にはいつの間にか、昨日見たシールのような物が置かれている。輪上さんはそれを一枚剥がして記入済みの荷物にぺたりと貼り付け、そこに何かを書き込んだ。
シャミ子というのは魔族の女の子、桃というのは魔法少女の子で、二人は立場的に本来なら敵対し命すら奪い合う間柄になるはずだったのだけれど、お互いの性格が穏健派のため仲良くなって日常系を展開したりする。
俺はそんなまちカドまぞくというアニメの、ある二つの点が気に入っている。一つは、日常系の枠組みの中で意外なほどきちんとストーリーが進行し、その上その内容がほどよくシリアスなところ。そしてもう一つは、シャミ子と桃の関係性。
シャミ子は自分が突然魔族としての力(と容姿)に目覚めたことに困惑していた。しかもそのついでに1期1話冒頭から交通事故で死にかける。それを桃に救われたことで二人は知り合い、以後は魔族だの魔法少女だのという初耳な世界観での立ち回りについて、桃からアドバイスとサポートを受けることで学び、成長していくことになる。そしてそのように精一杯生きていく中で、二人の間には友情だとか、あるいはそれ以上の感情が生まれていくのだ。
俺はその流れや関係性の全てが気に入っている。逆に言えば、それらを構成する単体の要素、個人としてのシャミ子や桃、もといその他のキャラクターにはあまり興味がない。だから本当なら「推しは誰?」と言われても困るのだ。箱推しともカップリング推しとも言い難い、キャラに限らず作品全体に漂う包括的な魅力が俺の推しであって、それは「誰」という単位ではない。
……が、そんなややこしい話を単なる雑談のお誘いに対して投げ返しても仕方がない。俺も子どもではないから、世間話の距離感くらいは弁えている。
けれどそれはそうと、同アニメについて一つ確かめておきたいことがあった。
「ちなみに、何話くらいまで見たんですか?」
「追いついたよ。最新話まで」
「……え、昨日の今日で?」
「うん。一気見した」
「わ〜……」
早朝二時間の労働を終えて帰宅すればアニメ視聴なり昼寝なりやりたい放題な俺とは違って、輪上さんはもっと遅い時間まで仕事で忙しいはず。そんな人がアニメ1.5クール分くらいの量を一晩で一気見するなんて、並大抵のことではない。
昔、中学校で別室登校をしていた時、面倒見役の先生から「百合園くんの趣味はなに?」と聞かれたことがあった。当時の俺はその時ハマっていたゲームを答えたのだけれど、翌日、先生が聞きかじった程度の知識を仕入れて話を合わせようとしてくれたことを覚えている。……しかしその先生の知識は、最初の聞きかじりから一切進行することはなかった。大人は忙しいから、普通はそういうものなのだ。
ただ今の俺は、輪上さんのアニメに対する熱を素直には喜べない。彼女が最新話に追いついたということは、彼女がオープニング・エンディングを必ず飛ばして見る派の人でない限り、さきほどこちらが口ずさんでいた歌が何なのかをはっきりと理解されてしまったことになる。
新人の立場で仕事中に気を抜いていたことがバレた恥もあるけれど、女性声優二人が歌っているアニソンを一人で延々と歌っていたことを知られたことにも恥がある。俺は勝手にも倍の度合いで落ち込んだ。
そしてその傷をえぐるように、作業中の輪上さんが鼻歌を奏で始める。それは1期の方のオープニング曲のサビだった。聞こえないフリをする。
全ての荷物に記入を終えたら、輪上さんが台車にそれらを積み直してどこかへ持っていく。そして数分でまた山盛りの荷物を持って帰ってくる。
「他におすすめのアニメってある?」
と聞いてくる彼女は、どうやら今日もずっとこの部屋にいるつもりのようだった。
部屋の外では大勢の人が重たい荷物をせっせと仕分けているはずだけれど、その音は部屋の中にまでは入ってこない。……美人の異性とアニメについて話しながら二人きりで、まるで文化祭準備じみて軽い作業を繰り返していると考えると、自分が妙なシチュエーションの中に居ることを意識しないでもない。
妙といえば、そういえば一つ気になっていることがある。これは勤務初日よりも前から気になっていたことだ。
輪上さんは何歳なのだろう? かなり若く見えるけれど、二十代そこそこで面接を請け負うような立場になるものなのか? あまりそれが普通とは思えないけれど、しかし思える思えないの話をするのであれば、彼女が今ここで作業していること自体が不自然なわけで……。
「最近は、ゆるゆりっていうのを見てますね。アマプラで」
俺は細かいことを考えるのをやめた。
「それはどんな話?」
「なんか仲良しの女の子たちが、放課後にわちゃわちゃするみたいな」
「……百合園くんって、女の子同士のやつが好きなの?」
「え? いやそういうわけじゃないですけど」
「そう? 二連続だったから」
「たまたまですよ」
「じゃあ他に女の子がきゃっきゃするアニメ、知らない?」
「…………知ってますね」
「どんなのがあるの? おすすめとか」
「あー、ゆるキャン、メイドラゴン、きんいろモザイク。あと、けものフレンズとか?」
「めっちゃ知ってるじゃん」
「いや違うんですよ。美少女絡みで名作を求めると自動的に……」
「へぇ〜」
輪上さんは、何かを見透かしたようににやにやしていた。
名作を見ていると自動的にそういうラインナップになる。……より正確に言うと、この場で無難なアニメをチョイスすると自動的にそうなる。
俺だって普通に、いかにも男の子が好きそうなバトル系のアニメを見ることはしょっちゅうある。けれど好きなアニメは何かと女性から世間話の一環で聞かれて、それらの作品を挙げても話が広がる気がしなかった。一方で美少女アニメなら「典型的なオタク」といういじりやすいキャラが付く分、いくらかマシだと思ったのだ。
だから俺はそのついでに、にやにや顔の彼女へ、いじり方の例の一つを提供しようとした。
「まぁ、よくからかわれますけどね。ただでさえ百合園なんて、男っぽくない名前ですし」
レズビアンの隠語として「百合」という言葉が使われることがある。オタクの間では常識だけれど、通じなければそれはそれで「どういうこと?」と話が繋がる。我ながらそれなりに有効なネタだと思った。
けれど意外なほどに、その時の輪上さんはハッとした顔をする。
「ごめん、気にしてた……?」
「え?」
「名前のこと。気にしてたならごめん」
「え、いや。べつに……」
単なる雑談の切れ間とは異なる冷たさをもって、この場に再び沈黙が降りる。なぜなのか、予想外の気まずさが噴出してしまった。
しかし考えてみれば、狭い部屋の中で上司と二人きりで仕事をするだなんて、薄らと慢性的に気まずくなることの方が自然といえば自然だ。新人の立場で仕事中にうろ覚えの歌を口ずさんだ当然の罰が時間差で巡ってきたのだと思うことにして、俺は黙々と作業を続ける。段々と、20番台の住所のことも記憶に染み付くようになってきた。具体的には20と27だけ、なぜかピンポイントで覚えられた。
輪上さんは時々白紙のシールを剥がして記入済みの箱に貼り付ける。そして貼ったならば必ず、そこにサッと何かを書き込む。何を書いているのか、あえてじろじろと覗き込もうとは思わなかった。
それから台車が再び一往復したあと、輪上さんが久しぶりに沈黙を破った。
「私の名前さ、
「え? あぁ、まぁ、読めなくはないですけど。珍しいですよね」
「うん。よくリンジョウって言われる」
「それだとさらに珍しくなるような」
「でもあり得なくはないでしょ? だから正直、一発で確実に読める名前の人って羨ましいんだよね。百合園くんとか」
「え〜、どうですかね。ヒャクガッエンかもしれないですよ」
「ひゃく……?」
数秒の間を置いて、輪上さんが「たはっ」と吹き出す。
「百合園くんってそういう冗談いけるんだ。意外」
「思いつきですよ」
「すごいじゃん」
「どうも……?」
「百合園くんって、下の名前なんだっけ」
「
「あぁそうだ、翔くんだ。……ヒャクガッエン・ショウ、いいね」
「いいんですかね……?」
雰囲気がそこはかとなくヴィジュアル系みたいだとは思った。
つい数分前までまとわりついていた妙に重たい沈黙は、それで完全に取り払われた。なんとなくその流れに乗せられて、蛇足かもしれない言葉が出る。
「でも翔って名前も、初対面の人からするとショウなのかカケルなのか分からなくて、いつも困りますよ」
するとそれを聞いた輪上さんは、どこか嬉しそうな顔をして言う。
「私も。下の名前、
「あぁ、そういうパターンもありますね」
「甘い物そんなに好きじゃないからなおさらね」
「そうなんですか? 好きな物とかは……?」
「お酒」
「あ、僕も好きです」
「え、本当? なに飲むの?」
「なんでも飲みますよ。ただし土日だけです。決めとかないとアル中になる自信があるので」
「えー。吐くまで飲んだことある?」
「ないです」
「じゃあ大丈夫だよ」
「父が似たようなこと言ってましたよ」
「バイト終わったら飲むの?」
「昼間からは飲みませんっ」
……その日の作業は、初日に比べるとあまり進まなかったように思う。台車が往復した回数なんていちいち数えていないから、あくまでも体感の話だけれど。
でも、なんだか楽しかった。そして何かデジャブを感じるような気がして記憶を振り返ると、輪上さんとの会話は、高校の頃毎週話していたスクールカウンセラーの先生とのそれに似ていた。
作業の進みがおそらく遅くなっていることについて、輪上さんはまったく指摘しなかった。ただ彼女は俺よりも早く短針が二周したことを察知して、そろそろ上がっていいよと言ってくれた。
俺はタイムカードを押したあと、今日こそ上着を忘れずに、軽快に自転車を漕いで家に帰る。道中の青空と冷たい風が清々しい。高校卒業後の五年のブランクの間に辞めたバイトと違って、今度は続けられるかもしれないと思った。
けれど同時に、本当にこんなことでいいのだろうか……と思わないわけではなかった。まるで本当に文化祭準備をしているみたいで、働いているという実感がなかったものだから。
いずれ自分も、あの休憩室の外で働く日が来るのかもしれない。それは想像するよりも早く来るもので、何なら次の出勤日からそうなるかもしれない。……サドルに跨ったまま赤信号が変わるのを待ちながら、そんな不安が頭の中をうずまく。
家に着いて、今も職場にいる社員の人たちの気も知らずにソファでうつらうつらする頃には、やっぱり今回のバイトも長くは続かないような気がしてきていた。
六月になっても、早朝の空気は少しだけ冷たい。
結局のところ、俺が休憩室内での軽作業以外の仕事を任命されることは、その後一ヶ月の間まったく、その雰囲気すらなかった。
朝出勤したらタイムカードを押して、上着を置いて、事務所の裏に置かれた二台の台車を押して角側角川文庫の電源が入っていない冷凍庫から荷物を取り出す。それを休憩室の中まで運んで作業を開始すると、全てをやり終えるよりも早く輪上さんがやって来る。……本当に必ず来る。そしてずっと居る。だから俺は、仕事中に彼女の行方を探したことがなかった。
お互いの名前いじりをした日から少し親密になったような気がしていたのは、向こうも同じだったのだと思う。輪上さんの雑談には、日に日に踏み込んだ内容が増えていった。
「高校はどうして通信にしたの?」
「小学校からずっと不登校気味だったので、普通の高校は無理だと思ったんです」
「なるほど、そうだったんだ。聞いていいのか分からないし、答えたくなかったらいいんだけど。学校のどこが嫌だったの……?」
「……それが未だによく分からないんですよね。時間的な拘束だったのか、授業の内容だったのか、それ以外なのか。友達はいたんですけど」
「本人もよく分からないけど、とにかく行きたくなかったんだね」
「まぁ、はい。保健室登校、別室登校、フリースクール、それから給食だけ食べに行くとか。いろいろ恵まれましたけど、ダメでした」
「それは百合園くんもなかなか頑張ったね……」
「いや、頑張ったのは先生とか親とか、大人たちの方ですよ、明らかに」
「そんなこともないと思うけど。……高校卒業後の期間ってなにしてたの?」
「ほとんど引きこもりです。卒業してすぐ人生初バイトに挑戦したんですけど、最初のは十日、次のは初日で辞めて。以後数年、遊び呆けてました」
「遊び呆けてるって、またまたぁ。……えぇ、じゃあでも今まさに最長記録を更新してるんだ、すごいじゃん」
「勤務時間的には全然ですけどね。最初のところはフルタイムだったので」
「へぇ〜。最初からそれは大変だったでしょ。何の仕事だったの?」
「服の仕分けです。わけわかんなくて辞めました」
「え、それで今度は宅配物の仕分けに来たの? すごくない?」
「伝票はデザインじゃないから、分かりやすいかと思って。実際そうでしたし」
「初日で辞めたっていう方は?」
「夏休み期間限定の、ゴミ収集の手伝いでした」
「あ〜。合わなさそう」
「合わないし、土曜の早朝よりは遅い時間帯に出勤するのがよくなかったですね」
「へぇ」
「職場に向かう途中で、コンビニから出てくる家族連れを見て、あっ無理だって思ったんです。自分はあっち側にいなきゃって。……で、そのまま逃げました」
「え、うちにも土曜に来てるよね」
「早朝すぎて人が見えないからセーフかなって。ここに来るまでの間にコンビニってないですし」
「うわっギリギリだ〜。いや、なんか面白いね、そういうのが分かっていくのって。百合園くんの中の条件みたいな」
「今働けてるから言えることですけどね……」
「あはは。……うちに来るのも苦しくなっちゃったらさ、気軽に逃げちゃっていいからね」
「……え?」
「ただその時は、連絡一本もらえると助かるな。ごめーん!だるくなっちゃった! って感じでいいから」
「……あぁ、まぁ、はい。大丈夫だと思いますけど」
本当は、大丈夫なわけがない。最初のバイトだって、辞める時はバックレたのだ。不登校時代、自分で学校に欠席の連絡をしたことだって一度もない。それを急に、ごめーん、とはいかないだろう。……けれどもまぁ要するに、そもそも逃げたくならなければ良いのである。
輪上さんは踏み込んだ話をする一方で、ものすごい早さでアニメを見てくれてもいた。一日にタイトル一本分のペースで、話せる作品が増えていく。しかもどれも付け焼き刃の感想ではなく、明らかに全話完走した人の物言いが出てくる。
彼女は毎度、誰かしらの推しを作ってくるタイプだった。ゆるキャンは志摩リン、メイドラゴンはカンナ、きんいろモザイクは
推しの話題になるたび、俺もそれを聞かれた。まちカドまぞくの時と同じように、本当はほとんどの作品で包括的なところが気に入っていたのだけれど、俺は無難にキャラ個人の名前を答え続けた。なでしこ、トール、アリス、サーバル。そしてゆるゆりは、輪上さんと同じだ。
そうやって好きな物の話をするうちに、段々と嫌いな(あるいは苦手な)物の話題にも踏み込んでいくようになった。ごちうさが有名だけど見ないのかと聞かれたことが、その手の話題の発端だったように思う。
冗談を言うのが意外だと言われたけど、自分はこれでもお笑い番組が好きだ。ただしM-1は、ネタは好きだけれど、番組全体の雰囲気と審査員のことが気に入らない。ドッキリ番組全般も企画コンセプトの性格が悪いから嫌いだ。呪術廻戦とチェンソーマンが好きで、ワンピースとナルトはあんまり。ハンターハンターとレベルEは好きだけど、幽遊白書はそこまでハマらなかった。それから、カレーライスは好きだけどカレーうどんはあんまりだとか、牡蠣が好きだけど生では食べられないだとか……。
聞かれて、促されて。相手の好みも、自分の記憶力ではきっと覚えられやしないのに聞いて。そうしてずいぶんと、自分以外の人にとってはどうでもいいであろうことばかりを話した気がする。
俺も輪上さんも一応は、仕事の手を止めはしなかった。効率は落ちる一方だった気がするけれど、台車は何度も空になった。二時間が過ぎるのは日に日にあっという間に感じられて、俺は早起きが得意になった。
数字だって、表を見なくてもそらんじることが出来るようになった。20〜33まで、14種類すべての対応を暗記出来た。自分にそんなことが出来るようになるとは、初勤務の日にはまず思わなかったけれど、人間は分からないものだ。
……けれどある日、輪上さんがトイレに離席した時。俺はテーブルの隅に積まれた荷物の塔がどうしても気になってしまった。記憶が正しければ、そこには今も、例の白紙シールを貼られて何かを書き込まれた荷物が眠っているから。
あのシールはいったい何なのだろう? 覚えるべき業務としていつか教わるのかと思っていたけれど、未だにその気配の欠片もない。割れ物注意や天地無用のシールなら、白紙に手書きするまでもなくいくらでも事務所に正式な物が置いてあるはずだ。……ではいったい彼女は何を不定期に書き込んでいるのか?
部屋に一人きりとなったのをいいことに、俺は軽い気持ちでその塔を漁った。そして見つけた。シール付きの記入済み荷物を。
…………そのシールには「25」と書かれていた。
俺はそれを見て、心臓を氷の槍に貫かれたような感覚に陥る。
伝票に書かれた住所を確認すると、そこは確かに25番に対応している場所だった。しかしそのすぐ横、元々は空白で、この部屋の中で数字を書き足されるべきだった場所が、今はある物によって覆い隠されている。
ある物とは、まさにそのシールだ。空欄に記入した箇所の上に、それを覆うように「25」と正しい数字の書かれたシールが貼ってある。貼られたそれはぴったりと貼り付いていて、もう下に埋もれた欄を確認することは出来ない。
……これが何を意味するのかなんて明白だ。正しく25と書いてあった欄の上に、わざわざもう一度25と書いたシールを貼るわけがない。元々書かれていた数字は25ではなかったのだ。記入されるべき数字は、25以外の何物でもなかったのに。仕事にミスがあったのだ。
はたしてそれは輪上さんが自分で記入した分だったろうか。それとも俺が記入して彼女に提出した分だったろうか。記入済み荷物はランダムに混ざって積まれて、見ただけではどちらが担当した物かなど分からない。……けれどこれを「自分の物ではない」とするのは、いくらなんでも他罰的な楽観主義すぎる。
シールが貼られていく様を見たのは一度や二度ではない。興味と好奇心を抑えられなくなる程度には何度も、何度もそれは貼られていた。雑談をしながら、笑い合いながら、輪上さんは黙々と、間違った数字にシールを貼って正していた。
彼女は一度も俺を叱ったことがない。けれどそれは、俺に叱られる理由がないからではなかった。ならばなぜ彼女は、俺に「ミスが多いから気をつけてね」の一言すら言わなかったのだろうか。
……答えは簡単だ。過去のバイトの話を聞けば誰でも考える。この男は少しでもつらいことに直面すれば、すぐに逃げてしまうに違いない。つまり無断欠勤は、ミスを重ねることよりもなお相手を困らせる行いなのだろう。
何が「記憶が正しければあの中にシールを貼られた物がある」だ。何が14種類の数字をすべて暗記しただ。俺は、自分のミスに気付けてすらいなかった。甘やかされていることにも、何にも気付けていなかった。
記入は鉛筆で行っている。間違っていたなら消しゴムで消せばいい。なのに輪上さんはわざわざシールを使った。おそらくは俺に「間違いを正している」ということを悟らせないために。
……俺はその荷物を、そっと塔の中腹に戻した。そして椅子に座って、何事もなかったフリをした。何事もなかったかのように、作業を再開する。
ちょうどその時手に取った荷物の伝票には、25番に対応する住所が書かれていた。三度見返したが間違いない。そもそも25番の住所は、他のどことも少しも似ていない、間違えるはずのない文字列をしている。俺はその横の空欄に、極めて確実に、25を記入した。
21と22や、31と32は住所が似ている。「○○」と「西○○」のように、最初の一文字をうっかり見落とすと間違えてしまう仕様になっている。だからまだそこを間違えたというなら話も分かるところだった。……でも俺は25を間違えたというのだから、自分で自分が信じられない。俺は本当にそんな物を間違えたのだろうか……?
輪上さんが部屋に戻ってくる。着席した彼女は一瞬だけスマホを確認してから、弾むような声で言った。
「もうすぐ給料日だね」
「ですね」
働き始めてそろそろ一ヶ月になる頃だから、当然そういう話題もタイムリーになる。
一ヶ月、一ヶ月か……。と、長い期間を示す言葉が、頭の中をループする。一ヶ月も働いてすることが、ケアレスミスの濫造だったのかと。
「何に使うか決めてる?」
「いや、特には」
「えー、欲しい物とかやりたいこととか、なんかないの? パーッとやろうよ、頑張ってるんだからさ」
「はぁ。パーッと……」
言われて、いくつかの欲望が頭の中に浮かぶ。自分のミスに対する感情は、それらに一時的にかき消された。
けれど俺は知っている。俺は、思い浮かんだ物をどれ一つとして、自力でこの手に掴もうとはしない。そうしたいと心の底から思うことができない。仕事のミスとは関係なく、元々からそうなのだ。
「……欲しいものは、ないことはないですけど。それこそお酒とか」
「おお、いいじゃない」
「でも、自腹で酒を買ったことって、一度もないんですよね」
「あぁ、実家暮らしだもんね。ご両親も飲むって言ってたし」
「そうなんですよ。だからあんまり、欲しいものってないんです。テレビの録画もネットもアマプラも、家にありますし」
「新しいゲームは?」
「欲しくないわけじゃないですけど。そんなには」
「そっか。じゃあもしかして学生の頃のお小遣いとかも、何にも使ってなかったりするの?」
「いや、昔はいろいろ使ってましたよ。でもなんか、アンテナが下がっちゃって。カラオケとか行かなくなりましたね」
「あ〜そうなんだ。でもまぁ、またそのうち使い道も見つかるよね。百合園くん多趣味そうだし」
「輪上さんは何に使うんですか?」
「私? 私は、近所の外食店制覇を企んでる。毎月少しずつね」
「おぉ、いいですね。当たりはありました?」
「おいしくて、ハイボールが異常に安い焼き鳥屋を見つけたよ」
「おお〜」
上手く話をそらせた。
小学生の頃まで、お小遣いは家事手伝いのお駄賃としてもらっていた。その頃から俺は金を使うことが苦手だった。世の中のありとあらゆる物が、自分の労働に見合うものとは思えなかったのだ。皿洗い一回五十円のレートでは、ジュース一本百円も高く感じた。ゲームソフトの値段などは途方もなさすぎて、貯める気にもなれなかった。周囲の目には、俺のことが守銭奴として映っただろう。
中学生になるとお小遣いが月額制になった。子どもの基準としてはまとまった金額が寝てても手に入るようになったけれど、俺の守銭奴感は一切改善されなかった。小学生の期間は六年も……それも多感な時期の六年があったのだ。価値観が身に染み付くには十分だったのだと思う。両親はそんな俺を見て「お金の価値をよく分かっている」と喜び、褒めた。
高校卒業後、初めてのバイトを決心した頃の俺は、ひと月後にもらえる時給の集合体の額を計算して夢を見ていた。フルタイムで週三日働けば、月給は数万円規模になる。それは数千円のお小遣いを毎月受け取っていた自分にとって破格の金額だった。
けれど俺は実際のところ、そのバイトを十日で辞めた。仕事を辞められるなら金なんかいらないと思った。労働の苦痛は「欲しいもの・やりたいこと」を手にする喜びよりも遥かに重い。家の手伝いをしても社会に出て働いても、俺にとっては規模が変わるだけで、本質的な点が変わらなかったのだ。
……だから今でも、俺には自信がない。輪上さんと働くここでの仕事は楽しくて楽だ。働いているという実感がないほどに楽だ。けれどだからといって、俺は給料を使うことを喜べるだろうか。自信がないのだ。欲しかったゲームを遊んでいても、行きたかった場所を巡っていても、あの労働の対価がこの程度か……と心のどこかで感じ続けることになりそうな気がして、それを確かめるのが怖い。給料日が楽しみだとはとても思えない。
ではなぜそんな俺が今、三度目の正直で社会復帰よろしくバイトに励んでいるのかと誰かから問われれば。俺は「親がそうしろと言ったから」と答えるだろう。
けれどそんな話をここで輪上さんにしても仕方がない。彼女との会話はスクールカウンセラーの先生とのそれを思い出させるけれど、だからといって実際にカウンセリングが行われているわけではないのだ。ラインは弁えなければならない。
きっと仕事が楽だからこそ、俺は自分の給料に触れるたびに、その楽な仕事さえ満足にこなせなかった自分を思い出す。……あるいは、もしもミスの存在に気づいていなかったとしても、それで気兼ねなく自分の金を使えるようになったのなら。その時の俺は、「お金の価値が分かっている」と評した両親の目がやはり節穴で、自分が的外れな教育をされたのだということを確信することになるだろう。
……正直、パーッとやって楽しくなれる人のことが羨ましい。それを心底から生きがいに思える人のことが羨ましくて、いっそ妬ましい。
せっかく話をそらせたのに、その暗い感情が表に出ていたのだろうか。輪上さんは仕方なさそうに息を吐いて、シールの束をひらひらとはためかせる。
「ね、百合園くん。私がいない間に、これ見たでしょ」
「……修正液みたいな物ですよね」
「そう」
台車にいくらか残っていた荷物を、輪上さんが次々と自分の前に並べていく。元々残り少なかったそれは全て彼女の手元に並んで、手に取る物がなくなった俺は自分の作業を見失う。
輪上さんは、トンボを惑わせるみたいに鉛筆の先をくるくる回しながら言った。
「さてここで、百合園くんにクイズです」
「え」
「どうして私は消しゴムではなくシールを使うでしょう?」
「……それは」
俺は、今考えて思いついたフリをする。
「……修正していることを僕に悟らせないため?」
「どうして私はそんなことを?」
「…………ミスを注意すると、僕がバックレるかもしれないから」
「ぶぶー」
輪上さんの空いた片手の人差し指と鉛筆が交差して、バツ印になる。
「正解は、百合園くんに楽しく働いてほしいからでした」
「……はぁ」
「百合園くんは、どうして私がここで一緒に作業してると思う?」
「……うーん?」
それに関しては本当に分からない。どうして彼女がそんなに暇そうなのか。考えても分からないから、考えないようにしていた。
向こうも「分からない」が想定済みだったのだろう。答えが返ってこなくても動じずに微笑んで、続きを語る。
「私はね、百合園くんがミスしてないかどうかをチェックするために居るの」
「あー、はい」
「ってことは、百合園くんはどんどんミスをしていいんだよ。それを正すために私がいるんだから、それで自然でしょ」
「それは……。……そうはならないでしょう?」
「どうして?」
「ミスはしない方がいいから。それこそ、いつかはチェックする側に回れるくらいに」
「あっはっは!」
突然の、部屋の外まで聞こえそうな高らかな笑い声。それが完全には収まらないうちに、子どもをあやすみたいに、輪上さんは言う。
「まだ初任給ももらってないのに、意識高いなぁ! いいことだけど、気負いすぎても潰れちゃうよ?」
そう言って彼女は俺の方を見たまま鉛筆を持ち直して、手元を見ずにすらすらとそれを走らせる。そして全ての伝票の向きを見やすく揃えて、ずいっと十個近くある荷物の波をこちらに寄せた。
まさかと思い見てみると、記入された数字の全てが合っている。字は綺麗で、枠をはみ出していることもない。伝票をじっくり確認する暇などなかったはずなのに、完璧な仕事ぶりだった。
……ということは、あぁやっぱり、ミスをしていたのは俺だったのだ。
「ね、そんなすぐには無理でしょ。こういうのは」
「……ですね」
「だからまずは、楽しく働くことを覚えてほしいんだ。焦ったっていいことないんだから」
「なるほどです……」
そういう芸当が出来る人から見れば、確かに素人のミスはあって当たり前の物なのかもしれない。だからといって、それを俺が気にしなくてもいいわけではないのだけれど。
……その日、定時で上がった俺は、また上着を忘れて自転車を漕ぎ出していた。風の当たる感覚ですぐに気づいて引き返し、休憩室に戻ると、そこは無人だった。さっさと上着を回収して、逃げるように裏口へ向かう。
なるほどひと月に二度も上着を忘れるような人間は、雑談混じりに仕事をしていればいくらでもミスをするだろう。その間抜けな姿を、今日に限って輪上さんに見られるようなことがなくてよかったと思う。
帰る頃には日が照って暑くなっていたから、上着は自転車のかごに押し込んだ。一つきりの信号に引っかかって、色が変わるのを待ちながら、何とはなしに上を向く。
俺が落ち込んでいても、空は爽やかに青かった。
冷蔵庫・冷凍庫の温度は、扉を開けていると意外なほど早いペースで上がっていく。だからそこで作業をする時はできるだけ素早く終わらせなければならない。
荷物には時間指定や日付指定がされている物もある。冷凍庫の中にはそれらがごちゃ混ぜに積まれていて、早朝バイト組は、その中からその日の朝に指定が入っている物を全て取り出して、住所ごとに仕分けなければならない。それを一つでも見落とすと指定通りに配達されなくなるわけだから、結構な大事になってしまう。
俺はその日、先輩から「今日は頼むぞ!」とフレンドリーな激励を受けていた。前日に自分が冷凍庫からの荷出しを担当して一つ見落としを起こしてしまい、先輩がギリギリのところでそれを見つけてくれたのだ。
素早く作業を終わらせなければならないというプレッシャーが見落としを起こさせるのだ。俺はそう考え、今日に限ってはもはや、温度に関することは一度忘れる。それで多少怒られようとも、何が何でも見落としだけはしないようにする。激励を受けてなお見落としを二日連続で起こしてしまうようでは、速度と正確性のジレンマにすらたどり着くことが出来ないから。……そんなことではまるで話にならないから。
俺は作業スピードを犠牲にして、過去一念入りに冷凍庫の中を確認した。じっくりと時間をかけて、全ての荷物の伝票を二度凝視した。あとは後日以降の仕事で少しずつ、スピードとの両立を模索するだけだと思った。
だけどその日、先輩はまた、冷凍庫の中から見落とされた荷物を見つけた。彼はべつに俺に怒りはしなかった。ただ真面目なトーンで「百合園くん」と呼びかけ、まさか見落としがあるとは思わずに軽い調子で返事をした俺に向けて、至極当然のことを言ったのだ。
「これ、残ってたよ。冷凍庫の中」
「え……」
「あのね……。あんまり言いたくないけど、百合園くん結構ミス多くて。まぁまだ新人だから仕方ないし、気づいたところから皆でカバーしてるから問題はないといえばないんだけど。でも、今はそれでいいけど、ずっとそのままでは通用しないでしょ? ……頑張ってるのは見てたら分かるから、あとちょっと気をつけてほしいんだ」
「……はい。すみません、本当に……」
「いや、まぁそういう感じでよろしくね! 期待してるから!」
「はい」
期待されても困る。
頑張っているというだけでは通用しないことは、先輩ほどではないかもしれないけれど、俺だって知っている。……期待が的外れであることに関しては、先輩よりも俺の方がよく知っている。
正直思った。あれだけ確認してダメなら、これ以上俺にどうしろというのか。小学生の頃に始まった不登校から今に至るまでの社会不適合な人生について、俺はその全ての原因が自分の精神にのみある物だと思っていた。けれど実際は違ったのだ。
俺にはまともが分からない。物理的に、見えないから。
時間はちょうど定時だった。先輩は「じゃあ時間だし、上がってくれていいよ」と、相変わらずフレンドリーな態度を崩さずに言ってくれる。これだけどうしようもない人間を前にしてそのスタンスを保てるのはあまりにも凄いことだ。尊敬する。
……先輩が去ったあと、俺はふと背後を振り返った。
タイムカードを押しに行くべき事務所は正面前方にあったのに、誰に呼ばれたわけでもなく、何らかの違和感を覚えたわけでもなく、ただなぜだか分からぬままに振り返った。
朝の積み込みを終えたトラックの群れがエンジンを吹かし、柱だらけの倉庫内を今にも器用に駆け出そうとしている。……その中に、明らかに邪魔な位置のど真ん中に、荷物のたっぷり積まれたキャスター付きの大きなカゴが放置されていた。仕事中にいつも使っている、自分よりも背が高くて両手を広げてちょうどくらいの横幅の、大きくて邪魔なカゴだ。
カゴの中にはまだ荷物が山積みになっている。全て問題なく積み終えたはずなのに。積み終えたからこそ、トラックは走り出そうとしているのに。たった一つを積み忘れるだけでも、大問題になるはずなのに。
俺はその時、なぜ自分の仕事が上手くいかないのかにピンと来た。
荷物の量が多すぎるのが悪い。冷凍庫の中にもそれはたくさん積まれていた。量が多いから、見逃しもする。
ニュースを見るに、日本の物流は破綻しかけていると聞く。俺がバイトしている業者だって、時間指定の配達を段階的に控える方針を実施すると言っていた。……なのに毎日仕分ける荷物の量は多い。ただただひたすらに多すぎる。そうして運ばれていく全ての物が、どうしても必要な物というわけでもあるまいに。
人には人の地獄がある。それは俺のような人間こそよく知っていることだ。であれば逆に、人には人の天国がある。どの荷物が不要不急の品……または人を救う天国の品なのか、傍から見ただけでは分からない。……けれどその上で思うのだ。宅配物が不当に多すぎる。この溢れかえる量こそが、様々な側面から見た社会の癌なのだ。
俺は放置されたカゴに歩み寄る。誰だ、こんな邪魔な場所にこんな物を放置したのは。誰だ、こんな量の荷物を馬鹿みたいに送り付けてくる連中は。
どいつもこいつも、死んでしまえ。
全身の筋肉を総動員して、邪魔なカゴを無差別な方向へ投げる。キャスター付きのそれは勢いよく、暴走特急のように倉庫の中を駆け抜けていく。行き先に人がいれば轢かれて大事故になるかもしれない。そうでなくとも壁に激突していろいろな物が壊れるだろう。俺は確実にクビになり、なんなら警察沙汰になる。
そうなってしまえばいいと思った。明日からもここで働き続けるよりも、そうなった方がマシなのではないかと。
けれどその途端に、おかしなことが起こる。カゴが走った先の倉庫の壁が、ぐんぐんと無限に遠ざかっていくのだ。
壁が遠ざかり、倉庫が無限に広がっていく。カゴに付いたキャスターはあらゆる摩擦を完全に失ったかのように、一切衰えない速度でどこまでも走っていく。ほんの数メートル先にあった壁が、今はもう肉眼では捉えられない距離にまで遠ざかって、自分の背より大きかったカゴも、今や拳ほどのサイズに見えている。
俺はそんな異常現象を呆然と眺めながら、広がって遠ざかった壁の傍に倉庫の裏口があったことを思い出して、ぼんやりとこんなことを考えていた。
どうやって家に帰ろう……。
……スマホのアラームで目が覚める。妙な夢を見て、寝起きの気分は最悪だった。
俺の早朝バイトに合わせて、母も朝早くに起きてくれている。用意してもらった朝食を摂り、出支度をする。窓の外を見ると今日も晴天だった。雨だと自転車が使えなくなるのでありがたい。
タイムカードとして使っているバーコードから、給与明細はオンラインでも閲覧できるようになっていた。俺はそれを確認してから家を出る。残業なんてした覚えがないのに、少しの残業手当てが付いていた。休憩室を出てタイムカードを読み込むまでの間に過ぎるほんの少しのズレが集まった物なのだろう。
自転車に乗り、馴染みの道を行く。朝の六時前では野鳥の姿すらまばらになる。五分で済む道のりの中にあるたった一つの信号はちょうど青だった。
横断歩道の上を自転車で通り抜ける。……その瞬間に、妙な疑問が頭をよぎった。
今まで出勤する時に、雨が降っていたことはあったか?
今まで出勤する時に、信号に引っかかったことはあったか?
あるに決まっている……とは断言できない自分がいた。バイトが終わったあとに雨が降ったことや、休みの日に降ったことは間違いなくあったけれど、そういえば傘をさして歩きで職場に向かったことは一度もなかったかもしれない。
信号に引っかかったこと自体は当然記憶にある。けれどそれが行き道だったかと言われると自信がない。……なんだかこれまでずっと、確率的に考えて異様とも言えるほどの快適さで、職場へ向かっていた気がする。
裏口に自転車を停めてカギをかけ、上着を脱ぎながら倉庫の中へ。顔は覚えていても名前は未だに覚えられない面々へ挨拶しながら、まずは事務所へタイムカードを押しに行く。それが済めば上着を休憩室に置き、再び事務所の傍に置いてある台車のもとへ向かう。非効率なようだけれど、これが色々考えた末の俺のルーティンになっている。……来て真っ先にタイムカードを押さなければ輪上さんがうるさいのだ。
電源の入っていない冷凍庫は角側角川文庫。ゴツゴツとした手触りの扉を開き、中にある小さな荷物たちを台車に積んでいく。
手に取るついでに一つ一つ確認してみると、どの荷物にも日付や時間の指定は記されていなかった。まぁ当然だろう。一ヶ月の間、それを目撃したことは一度もなかったのだから。
冷凍庫の扉を閉じると、背後から馴染みの声がした。
「そんなに急いで出さなくてもいいのに」
からかうようにそう言うのは、やっぱり輪上さんだ。
彼女がいつもどこか上機嫌なのは、給料日の前でも後でも変わらず同じだった。
「片方持つよ」
言われて、二人して台車をがらがら押しながら休憩室へ向かう。
今日もまたいつも通りの仕事が始まるのだ。単純な作業と、頻度も内容も濃い雑談と。それから減らそうと思っても減らせないミスによって構成される、いつも通りの仕事が。
俺は輪上さんの手元を極力見ないことにした。いつシールが貼られているのかが目に入らないように、他人の動きに気を取られてなおさらミスが増えないように。自分の作業にだけ集中する。
「ねぇ、そうだ。私、いいこと考えたんだけど」
「はい」
「SwitchとPS4のオンラインに加入しない?」
「……なんでまた?」
「百合園くん、入ってないでしょ」
「月額制ですからね。親はオンラインでゲームしませんし」
「お給料入ったから、解禁できるじゃん。今こそじゃない?」
「いや、いいですよ。僕あんまり上手くないから、ネットの大海原に出たらボコボコにされますし」
「私と一緒にゲームしようよ」
「へ?」
「スプラトゥーンとかモンハンとか。ガンダムでもいいよ」
「全部持ってないです」
「買おうよ。私も買うから」
「……まぁ考えておきます」
「えぇ〜」
フラれちゃったかぁ。と、輪上さんはおどけて見せる。
俺がシールの正体と自分の重ねてきたミスに気づいた時、輪上さんはこう言っていた。「まずは楽しく働くことを覚えてほしい」。……彼女の振る舞いはその体現なのかもしれない。雑談一つ取っても「百合園くんを楽しく働かせるため」にあるのではないか? やけに前のめりな遊びの誘いを受けてそう思う。
給料日が楽しみでないなら、私が楽しみを作ってあげよう。そんな気概を、その時の輪上さんからは感じた。そしてそれが俺の中で、どうにも奇妙な感覚を呼び起こさせる。
もしもお喋りが、楽しく働くためにあるのなら。
仕事の内容自体も、楽しく働くためにあるのではないか。
……仕事という物は、担い手の機嫌を取るための娯楽コンテンツではない。お仕事体験ゲームがそういう風になるならまだしも、現実の仕事が「楽しく働くため」に存在することなんてあり得ない。頭でそれは分かっているはずなのに、俺はどうしてもその可能性を振り払うことが出来なかった。
部屋の外では、大きなキャスター付きのカゴを動かして、その中に山と積まれた荷物を仕分けている人たちがいる。その荷物の中には、両手で掴んで腰を入れなければ持ち上げられないような、大きくて重い物だって頻繁に混じっているだろう。なのに俺はこの一ヶ月の間ずっと、座ったまま片手でひょいと持てる荷物ばかりを相手にしている。まるで子どものお手伝い用に、簡単な作業をわざわざ用意して任されているみたいに。
「……あっ?」
その時俺は、おかしなことを思い出した。
このバイトの面接を受けた時、そういえば俺は、確かに聞かれたはずなのだ。「結構重い物も運ぶことになりますけど、大丈夫ですか?」。俺はそれにハイと答えた。その記憶がある。
……そしてその時の面接官は男性だったと記憶している。
「どうかした?」
「え、いや。なんでも……」
ハッキリと、面接官の顔まで思い出せる。働き始めてから一度も会ったことのない、なのに記憶に残っている、男性社員の顔……。
なんだいったい、この感覚は? 面接は二度あったのだろうか? どちらか一度がその男性で、もう一度が輪上さんだったのか? いや、そんなわけのわからない話があるものか。たかだかバイトに、二度も対面の面接があるものか。
しかし一度違和感を持ち始めると、次々とおかしなことが気になり始める。
重い物を運ぶと言われて来た仕事で、俺は軽い物ばかりを相手にしている。……しかしこの軽い荷物たちは、その実いったい、どういう物なのだろう?
朝、使われていない冷凍庫の扉を開けると、中に台車二台分の荷物が入っている。しかし一日にこなす仕事の量は台車二台分では済まない。ならば毎度輪上さんが取りに行く三台目以降の荷物は、空になった冷凍庫に、誰かが再び詰めている物なのか? それともまったく別の場所から運ばれてきている物なのか? どちらにしても違和感がある。どちらにしても、なぜそんな面倒なことをする?
そもそも考えてみればおかしいのは、この荷物に数字を振る作業自体の意味合いだ。外ではピッピッと音が鳴る機械で伝票のバーコードを読み取りながら仕分けがされているのに、この部屋にあるのは筆記用具ばかりで、俺は一度も伝票のバーコードを読んでいない。それはつまりデジタル上のデータとしては、仕分けが完了していないということを意味する。
俺が数字を振った荷物を、部屋の外の人たちが機械で読み取って仕分けている……? それではまるで二度手間じゃないか。しかもその二度手間を行うために、誰かが冷凍庫や、それか何故か二度目以降はそれ以外の場所に、この荷物たちをまとめて運んでいる……?
…………なぜ俺はこのことに一ヶ月もの間、疑問を持たずに過ごしていたのだろう? 自分で自分が不気味に思えてくる。けれど本当により一層不気味なのは、自分自身以外に関すること。
輪上さんの手元を見ないようにしていた俺は、けれど今になって顔を上げる。彼女の目を見る。……目が合うと、気さくな微笑みが返ってくる。
俺は、バイトとは立場が違うはずの彼女がなぜいつもここで俺とのんきに働いているのか、その謎の真相を未だに知らない。俺の抱く疑問は、初めから何一つ解明されていないのだ。そしてその中心には輪上さんがいる。
ある一つの仮説が……馬鹿げた仮説が頭をよぎる。俺はそれを、彼女に話そうとした。
「……ところで輪上さん」
「うん?」
「今朝、変な夢を見たんです。仕事でミスをする夢だったんですけど、夢の中の俺は、この部屋の外で働いてたんです」
「へぇ」
「それが妙に生々しくて。……まるで過去の記憶を見ているみたいで」
「百合園くんは」
輪上さんが作業の手を止める。
手元を見なくても正確に文字が書けるはずの彼女が、鉛筆を手放す。
「前のバイトは、なんで辞めちゃったんだっけ」
「え……」
「服の仕分けのバイト、十日で辞めちゃったんでしょう。どうして、どんな風につらかった……?」
「どんな風にって……。……服の見分けがつかないんですよ。定義がデザイン的で、曖昧だから」
「うんうん。それで?」
「それで……? それで、嫌になったんです」
「仕事が上手くいかなかったから嫌になって、辞めちゃったんだね」
「そうです」
「じゃあきっと、それが今でもトラウマで、夢に出てきたんだよ」
「え」
「過去の記憶みたいだったんでしょう? そういうことじゃない?」
「それは……」
言われてみれば、そうかもしれない。
俺は以前のバイトで服の仕分けをしていた時、確かにこう思った。おしゃれに着飾ることは素晴らしいことだけれど、その何倍も、弊害の方が大きい。服の過剰な多様性は滅びるべきだ……と。
私服でなくとも、学校の制服や、各種職業の制服だって、どれも格好よかったり可愛かったり洒落ていたりして、十分に魅力的だ。であるならば、着飾る魅力というものは、それでかなり十分だ。国民は、国から支給される「国民の制服」を着るようになればいい。そうすれば今ほど細かな仕分けをする必要はなくなり、自分のように苦しむ人間が生まれずに済む。
……と、当時の俺は本気で思った。それと同時に、自分の考えがいかにあらゆる方面から見て間違っているのかも、頭では自覚しているつもりだった。しかし自覚した上の感情でもって、服の多様性という物に、死に腐ってほしい、この世から消え失せてほしいと心から思ったのだ。
そのうち、服を見ること自体に憎しみが伴うようになった。家で洗濯物を見ても、道行く私服の他人を見ても、多様な服を発想し作る人間やそれを尊ぶ者たちのことまでを考えて、全員を憎み、そちらにその性根を曲げる気がないのであれば全員一度死ねばいいという考えが頭をよぎるようになる。バイトを辞めたのは十日目だったけれど、憎しみが湧くようになり始めたのはそれよりももっと早かった。
さすがにこれはダメだと自分でも思った。このまま働いていては自分は不幸になるし、まともな思考ともお別れをすることになる。なんとしてでも仕事を辞めなければならない。そう直感して、勤務十日目にしてバックレた。まともに退職を相談すれば、あと一ヶ月は働いてくれと言われることが目に見えていたから、それでは話にならないと思ったのだ。
その時の感情が反映されてあの夢を形作ったのだと言われれば、確かにそれもあり得そうな気がしてくる。……けれどそれでは、この職場に漂う諸々のおかしな疑問点についての説明がつかない。輪上さんは今、俺を口先で丸め込もうとしているのではないか?
しかし、だとすればなぜ、彼女はそんなことをするのか? それすら解けない疑問になる。俺はそれらの全てを放置して、このまま謎に楽な作業と、楽しいお喋りに興じていていいのだろうか……?
「……すみません。ちょっとトイレ行ってきます」
「はーい」
俺は、最後の確認をすることにした。
トイレは一箇所のみ、倉庫の隅の方にある。以前輪上さんもそれで離席した通り、休憩室の中にはない。……だから俺は出来るだけ遠回りをして、そこに向かった。
部屋の外はそこかしこで荷物の仕分け作業が行われている。遠回りをすれば当然、その風景を観察する機会を得る。俺はチラリとカゴの中の荷物を見た。
するとやはり、どの伝票にも元々数字が振られていた。住所に対応する番号が、太い活字できっちり印刷されている。そしてそれは、片手で楽々と持ち上げられるサイズの荷物についても同じだった。
しかもそれどころか、倉庫の中には01〜19に対応する荷物まで普通に存在していた。おそらくそう遠くはない場所なのであろう聞いたことのない住所が跋扈していた。観察すると、どうも倉庫内で東軍西軍のように管轄が分かれていて、01〜19担当側と20〜33担当側が存在するようだった。
つまり俺が行っていた仕事は、倉庫内の半分かそれ以下だったということになる。部屋の外にある荷物を確認しなければ、そんなことにも今日まで気づけなかった。
……考える時間を確保するついでに、実際にトイレにも行く。小便器の前でズボンのファスナーを下げて、頭の中で、まずは結論を述べる。
俺が今までしてきた仕事は、どうやら俺専用のおままごとだったらしい。それはそうだ。せっかく機械で住所を伝票に印刷できるなら、対応する数字だって初めから同じように刷ればいい。人間がそこだけ手書きするなんて、そうするに足るだけの合理的な理由がない。だからあの作業は、根本的におかしかったのだ。
そしてそのおかしさが意味することとは、つまり、俺がなぜか職場ぐるみで甘やかされているということ。給料だって確かな額が支払われているのに、なぜか毎日おままごとを任されている。そしてその甘ったるく不可解な陰謀の進行役として、輪上さんがいる。彼女が全ての真相を知っている可能性はそれなりに高いと言えるだろう。
……けれど彼女は、俺のことをはぐらかす。さっきの口ぶりからしても、俺がいくら違和感に言及しようと、適当にそれっぽい言葉で煙に巻くつもりだろう。
ということは、俺が考えるべきなのは、どうすれば彼女を「真相を話す気」にさせられるのかということ。
より正確に言うのであれば、どうすれば彼女から「百合園翔の記憶をいじった理由」を聞き出せるのか。俺はそれを考えなければならない。記憶操作だなんてそんなことが可能なのか……なんてことは、聞き出したあとに考えることだ。そうでなければ説明がつかないようなことが、もはや実際に起こってしまっているのだから。
俺は今や確信している。俺は実際に、冷凍庫の中の荷物を見落としたことがあるのだ。あの夢は一度目のバイトのトラウマから生まれたわけではない。同じ人間が、再び仕事で追い込まれて、再び同じ精神状態に陥っただけのことなのだ。そういう理屈でも説明がついてしまうのだから、面接等のその他の違和感と合わせて考えると、記憶操作という結論になる。
……そして俺は、ズボンのファスナーを上げる頃には、一つの妙案を思いついていた。その案が通用するかを確かめるためにポケットからスマホを取り出して、あることについて調べてみる。
……その結果、妙案は必勝法に化けた。あとは「得体の知れない真実を知る覚悟」を決めるだけになる。
だけどその覚悟は、妙案を確認した時点ですでに半ば決まったような物だった。スマホの検索結果に、真相の一端が載っていたから、それを見て見ぬフリすることが俺にはできなかった。
休憩室に戻る。椅子に座るなり、俺は輪上さんに聞く。
「すみません。一瞬だけ、スマホ触ってもいいですか」
「いいよ?」
仕事中にも関わらず、理由も聞かずに即答で許可が降りる。やはり甘やかされている。
……俺はそこで、来期の放送予定アニメを調べる。
俺が本来バイトに入る予定だったのが四月、コロナで遅れて実際に働き始めたのが五月、それから一ヶ月が経って六月になった。その六月はまだ日も浅く、気が早いかとも思ったけれど、案外とそこには、七月からの夏アニメの情報がまばらに載っている。
「輪上さん。来期のアニメ、リコリスリコイルってやつが始まるんですって」
俺が言うと、彼女は子どもをたしなめるような苦笑を浮かべる。
「仕事中になに見てるのよ」
「……輪上さんは、
「……見た目の話? まぁ私は」
「いや、性格の話です。千束とたきな、性格的に好みなのはどっちですか?」
「……なに言ってるの? まだ放送されてないんだから、そんなの分かるわけないでしょ」
「でも僕には分かります」
トイレでその情報を見た時。それまで忘れていることすら忘れていた記憶が、一挙によみがえったのだ。
俺がリコリスリコイルの本編を視聴したのは、倉庫でのバイトをバックレて辞めた後のことだった。
「僕は初め千束派だった。彼女は初めの頃、たきなを救う女神みたいだった。会えて嬉しい、嬉しい、と笑顔で言う彼女を見て、僕は自分が千束派であることを確信したんです。……でも千束は女神じゃなかった。物語が進むにつれて、彼女のメンタルがただのか弱い女の子であることが分かっていって、その逆に、たきなのメンタルが異様に強いことを知りました。機械で心臓を代用しなければ生きられない千束を救うために戦うたきなは、神は神でも鬼神のようだった。でも僕は、とにかく神様みたいな女の子が好きなんです。だから途中からたきな派に変わりました」
「…………百合園くん?」
輪上さんの顔が凍りつくところを、俺はその時初めて見た。
その凍りつき方は、怒りによるものでもなければ、失望によるものでもない。……彼女はきっと、話にならないようなミスを指摘されたあの日の俺と似たような表情を浮かべていた。
「前例から察するに、輪上さんが好きになるのはたぶん、千束でもたきなでもなく、胡桃だと思いますけど」
胡桃というキャラは、新アニメの事前情報には出ていない。彼女の存在は、それ自体が物語序盤のネタバレになる、極めてシークレットなものだから。
過去の記憶に関することは話術で煙に巻けても、俺が未来の出来事を知っているとなれば、誤魔化しようがない。これで輪上さんに、これ以上はぐらかされる理由はなくなったはずだ。
「……なんか俺、いろいろおかしいんです。輪上さん、いったい今、ここで何が起こってるんですか……? さすがに頭がおかしくなりそうなんですけど……」
「…………そうだよね」
彼女は額を手でおさえて、背もたれに体重を預ける。そしてとても心外そうに、重々しく言葉を紡ぐ。
「本当のことは、ものすごくショッキングな話になるけど。それでも聞きたい……?」
「はい」
「聞かずに、ずっとここで面白おかしく働く選択肢もあるんだよ?」
「それは、今は無理ですよ」
「……わかった」
微笑みが絶えて、眼差しに真剣さだけが残る。彼女は伴う責任の分だけ重くなった声で、判決文を読み上げるかのように真相を述べる。
「百合園翔くん。君は、2025年の2月に、交通事故で亡くなってる。享年は26歳。自転車に乗って、家族全員でおじいちゃんの家に遊びに行く途中で、ちょうどすぐそこの信号を青で渡る時のこと。突っ込んできた車に、君だけが轢かれたんだ」
……まだ23歳のつもりでいた俺に、彼女は重ねて告げる。
「つまりここは、死後の世界ってことになる」
額を押さえて背もたれに項垂れるのは、俺の方になった。
真相を聞いた途端にあっけなく、俺は全ての正しい記憶を思い出したのだ。元々磐石には程遠かった「記憶のロック」は、そのくらい軽くかけられていた物らしい。
「あぁ思い出した。なんで晴れと青信号なのか」
正気を取り戻した宣言として呟く。
「あの日バイトをバックレたのは、今にも雨が降りそうな曇りで、信号に引っかかったから。それで、そのシチュエーションにならないようにしてたんですね?」
問うと、輪上さんは気まずそうに目をそらす。けれどついに否定はしなかった。
生前、23歳の頃。精神的に追い込まれた俺は、いつバイトを辞めようかということばかり考えていた。けれど「今すぐにでも辞める」という大前提の感情に反して、それを実行に移す最後のきっかけをずっと欠いていた。辞めたい、いつ辞めよう。辞めたい、いつ辞めよう。……そう考えながらも、なんやかんやと一週間近く出勤していたように思う。
けれどある日、朝食のあとに窓の外を見ると、シトシトと雨が降っていた。これでは自転車が使えないということでいつもより早く家を出た俺は、しかし歩き始めたあとになって、すでに雨が止んでいることに気がつく。
またいつ降り出してもおかしくないような重い曇天を見上げながら、乾いた傘を閉じて杖がわりにして、職場までの道を行く。カツンカツンとアスファルトを突く傘の先が、タイムリミットまでのカウントダウンを鳴らしている風に聞こえる。……辞めたい、いつ辞めよう。辞めたい、いつ辞めよう……。
一歩一歩、惰性と根気を踏みしめて、通勤ルート唯一の信号までたどり着く。するとその日その時、信号の色は赤だった。ロクに車通りもない横断歩道の前で、「おたくで働いている男が信号無視をしていた」とは万が一にも言われないために、目と鼻の先にある職場を見据えながら、俺は信号が青になるのを待った。
けれど待っている最中に、気がついたのだ。なぜ自分が今まで惰性で出勤出来ていたのか? それは車輪のおかげだと。自転車はほんの一歩踏み出せば、回転した車輪が、人間の一歩よりももっと遠い距離まで連れていってくれる。勢いよく踏み出せばもっと遠くへ、下り坂ならどこまででも。……一方で徒歩は、一歩が一歩でしかない。慣性の概念がない。
雨が降って仕方なく歩くというのなら、仕方がないのだから自然だと分かる。しかし自分は今、雨という仕方なさも無しに、ただ慣性だけを失っている。あげくに赤い信号が、そのことについて考える時間まで与えている。晴れていても、雨が降っていても、青信号でも、俺は今と同じことを考えはしなかっただろう。
バイトを辞める最後の「きっかけ」とは、今だ。
青信号を渡った俺は、横断歩道が途切れた先でそのまま明後日の方向に歩き始めた。ポケットの中のスマホに、職場から電話がかかってきても、親から電話がかかってきても、数時間の間すべてを無視して歩き続けた。そして長い長い散歩のあとで、足の痛みを感じながら家に帰った。
俺はバイトを辞めた。後日正式に連絡をして、会社から支給されていた品を返却して、ギリギリまで引き止めてくれた人たちに丁重なお断りをした。二ヶ月に満たない程度の勤務期間からは、それなりにまとまった金額の給料と、日数で数えた場合のバイト最長継続記録が得られた。
無職に戻ってから、俺はその金で映画を見に行った。シン・ウルトラマンを見た。びっくりするほど面白かった、その感動を覚えている。けれど帰り道にはこんなことを考えた。この感動を二度三度と、これから先も何度もずっと味わうために、またいつかは何かしらのバイトを頑張ってみようだとかは、これっぽっちも思えないなぁ……。
次の月にはゲームを買った。エルデンリングは70時間プレイしたあとで、これはソウルシリーズ中でぶっちぎりのワースト作品だと断定した。なぜ世間での評価が高いのか未だに分からない。中学の頃からどハマりしていたシリーズにここで裏切られることになるとは夢にも思っていなかった。
やりきれない気持ちを解消するために、もう一本ゲームを買った。ポケモンレジェンズ・アルセウス。こちらはかなり面白かった。小学生の頃に入手できなかったポケモンや育てきれなかったポケモンが、夢のようにぽんぽんと手に入る。あの頃叶わなかった憧れのパーティを揃えて冒険に繰り出すのは、それだけで未練が晴れて満たされた気持ちになることだった。
その二本のゲームをクリアするには、ニートであってもそれなりの日数を要した。……けれどその最中に脳裏をよぎる思考はずっと、映画の帰り道と何ら変わらなかった。
世間がなんと言おうとシリーズ最悪の駄作だと思っても、仕事よりは遥かに良い物だった。子どもの頃の夢を巡り巡って叶えても、満たされた気持ちには「あぁ仕事を辞めてよかった」という思いがつきまとう。ゲームは楽しいけれど、その楽しさをこれからも次々と手にするために、またいつかは何かしらのバイトを頑張ってみようかな……とは、これっぽっちも思えなかった。
無職に戻って生活する中でことあるごとに、俺の頭には「仕事を辞めて正解だった」「二度と働きたくない」「働かない方が自分にとっては正解だ」という思考がよぎる。何度繰り返しても、それは色褪せなかった。
毎週楽しみにアニメを見ても、毎日おいしい物を食べても、ついでに週末は酒に酔っても、時々家族で旅行に行っても、はるばる遠方から遊びに来てくれた友達に会っても、ネットで絡んだ異性と親密な仲になれても、そうやって常に「明日の楽しみなこと」をストックしていても、……どんなにいいことがあっても必ず、「でもこれらを将来に渡って得続けるためにもう一度頑張ってみようとは、これっぽっちも思えないなぁ」という感想が頭をよぎる。
何せ、バイトをしていた頃に比べて、無職になった自分が失った物は何もなかったのだ。むしろバイトをしていた期間にこそ、目に見えない物が削れて、精神的に重要な何かを失っていたように思う。
そしてその考えは、26歳になっても一切変わらなかった。三年が経過してなお、俺は「バイトを辞めてよかった」という気持ちを噛み締め続けていた。年齢の重なりが洒落にならなくなり、社会的にどんどん救いようがなくなっていることは自覚していたけれど、それでもあの曇りの日に、自分は正解を選んだのだという確信があった。友達は結婚したし、親の老いは目立つし、弟はスーツを着て働き始めたけれど、それら全てだって、自分の考えを覆す材料にはならなかった。
……輪上さんはそれを俺に思い出させたくなかったのだろう。記憶のロックはそのためにかかっていたのだと思う。でなければ一度くらい、バイトがある日に雨が降ってもよかったはずだ。行き道の信号に引っかかってもよかったはずだ。
俺は職場ぐるみで自分が甘やかされていると思っていたけれど、それは正確な認識ではなかった。正確には、この死後の世界ぐるみで、俺は甘やかされていたのだ。
……となると、ここはいわゆる天国なのだろうか? ランドセルを背負った頃から、見てくればかりが大人になるまで、ずっとまわりの人間に迷惑ばかりをかけ続けて、それを反省もしないような人間が、天国になど来られるものなのだろうか。
俺は輪上さんに説明を求める。ここが死後の世界だとして、なぜ俺は、ここでこの仕事をする運びになったのかと。
彼女は悲痛な面持ちで、しかし淡々と答えを教えてくれた。
「まず前提として、私は神の使い……いわゆる天使なんだけど」
「はぁ」
「私は、亡くなった人の中から、そのまま天国に送るには不安の残る人物を選出して、その面倒を見る仕事を請け負ってるの。……仕事といっても、私が望んだことでもあるんだけどね」
「あぁ、なるほど。つまり素行に問題がある人間を、どうにかして善人に矯正しなければならかった」
「ううん、違う。天国に善悪の区別はないから」
「……そんなことあります?」
「うん、ある。百合園くんはたぶん、天国があれば地獄もあるって思ってるよね」
「まぁ」
「でも、ないの。地獄なんて。それは、君たち日本人が刀を作りはじめた頃には、もうとっくに廃止されていた制度だから」
「……地獄って廃止になるんですか? ていうか制度?」
「そう。神様……いわゆる創造主っていうのは、何百何千万人も居てね。その神様たちの中で、大きな議論が起こったんだ。自分たちで勝手に生み出しておいて、人間の善悪を裁く権利が我々にあるのかって。……それで全体の結論としては、そんな権利はないってことになった。私もそう思う。神様は、自分たちの娯楽のために生命を生み出したんだからね」
「娯楽……」
「でも、勝手に生命を生み出すことを罪とするなら、勝手にそれを葬ることも罪でしょう? だから神様は全ての人間を死後「天国」に送ることで、せめてもの罪滅ぼしをしようとしてるんだよ」
「それで、善悪の区別もなく、全員が天国に行けると?」
「そういうこと」
「……天国ってどんな場所なんです?」
「その人の願いがなんでも叶う場所。オーダーメイドの「理想の世界」って感じかな」
「……それが全ての人間に一つずつ分配されるんですか」
「そう」
「そんなことが可能なんですか」
「出来るよ、大勢の神様が居るんだもん。……まぁさすがに限界はあるから、天国の中では、誰も地球より広い範囲には移動できなくなってるんだけど。でっかい箱庭を想像してもらえると分かりやすいかな」
「…………いや、そんなことが、もしもそんなことが可能なら、今すぐこの世全ての人間を天国送りにしないことは、邪悪以外の何物でもなくないですか?」
「うーん……。それが、そうとも言いきれないんだよね」
「どうして」
「質問に質問で返すようで悪いんだけど。……百合園くんはどうして、ここで私に働かされていたと思う? 理想の世界が……天国があるなら、そこに直接送ってくれればよかったのにって思わない?」
「それは……。……いや、その通りですけど。いや本当に、僕は今なんでここにいるんです……?」
改めて当初の質問に戻る。
話しているうちにいつの間にか、輪上さんは天使たる者の余裕を取り戻していた。その声音には、神の罪滅ぼしの担い手として、誇りが垣間見える。
「それはね。願いをなんでも叶えられる力を得たとしても、人間が幸せになれるとは限らないから」
「……え、詭弁の話ですか?」
「ううん、違う。本当にそうなんだよ? だから私の仕事は、そういうタイプの人を助けてあげることなの。百合園くん、あなたみたいな人を」
「俺……? 俺は、願いが叶うなら……」
叶うなら、二度と働かない。そしてその上で、思いつく限りすべての娯楽を手に入れる。いや、それだけじゃない、健康も、安全も、欲しいものは本当にすべてだ。それで幸せになれないはずがない。
真実が明らかになったあとでも、俺の視界にはおままごとの小道具が転がっている。わざとらしい空欄に鉛筆で数字を振られた、どこへ届くこともない架空の荷物たち。……おままごとだと分かっているのに、そこに自分の振った数字が正しかったのかどうか、まだ今一度確かめたくたくなってしまう。
けれどそう、そんなことだって。天国に行けば「絶対に仕事をミスしない力」を願って、それを得ればいいだけのこと。輪上さんの話す天国の存在が本当なら、そこに行って幸せになれない人間などあり得ない。俺はそう確信していた。
なのになぜか、輪上さんは俺を哀れむような目で見る。それは人間より遥かに上位の存在から向けられた、慈悲の眼差しだったのかもしれないけれど。
「私ね、思うんだけど。百合園くんは、もしもここで働く経験をせずに天国に行ってたら、いつかは道楽程度にでも働いてみようって思えたかな?」
「…………」
「願えばお金はいくらでも手に入る。というかもはや、お金で買える物ならなんでも、願うだけでその場で手に入る。……そんな世界に行った百合園くんは、もう二度と働こうなんて思わなかったんじゃない?」
「…………それは」
否めない。いや、むしろ確実にそうなる。
働こうとそもそも思わなければ、「仕事をこなす力」を欲することもなかったに違いない。それは確かにその通りだ。けれど、でもそれで、だとしたら何だというのだろう? そこにいったい何の問題がある……?
「それは、でも、働かなくていいなら、働かない方がいい。特に僕のような人間にとってはそうでしょ。なのに、なんでこんなリハビリみたいなことを」
「苦手意識をなくしてほしかったの」
「……苦手意識?」
「ここで私と楽しく働いて、これくらいの仕事なら自分にも出来るぞ!って百合園くんが思ってくれれば、働くことは必ずしも苦しいことじゃないって思ってくれれば、その意識を持ったまま天国へ行けるでしょう?」
「いや、だから、それが何なんです……? そもそもが働かなくていいのに」
「そうだけど。でも、苦手意識を持ったままだと、百合園くんはそれを天国で思い出すよ。きっかけがあるたびに、楽しい時でも幸せな時でも、ふとそれが頭をよぎったりしない? 働くことに対する苦手意識とか、憎しみとか」
「…………」
「君は、家族旅行で泊まった部屋でUNOでもしながらお酒を飲んで、楽しく寝落ちしたその夜に、両親と大喧嘩する夢を見るような子じゃないの。…………心配なんだよ、私は」
「……………………なるほど」
言われて、そんなこともあったなぁと思い出す。常に労働への嫌悪が頭にあるのだから、そういう時にそういう夢だって見るだろう。
そこまで説明されて、ようやく輪上さんの考えていることが分かるようになった。確かにすべて、彼女の言う通りだ。
リハビリを経ずに天国に行っていたら、俺は必ずどこかで何度も、何度も何度も、「自分は働けない」ということを思い出していただろう。その思考は毒だ。幸せになるのを邪魔することは間違いなく、万能の力を得た上でなお、致命的に心を腐らせる可能性だってなくはない。
輪上さんは神の使いというだけあって、見定めた相手である俺のことはなんでも知っているようだった。ということは彼女は俺が給料で映画を見に行きゲームを買い、楽しみながらも同じように暗い気持ちになっていたことも知っているのだろう。
だから彼女はさっき、俺をゲームのオンライン対戦に誘ったのだ。生前の俺は月額料金をケチって、ついに一度もオンラインプレイを体験しなかった。つまりそれがまだ手をつけていない未開拓の趣味だったからこそ、リハビリの光明があると考えたのだろう。
しかしそうすると、分からないことがある。
「天国なら、なんでも願いが叶うんですよね」
「うん」
「僕の記憶を操作していたあたり、輪上さんも結構いろいろなことが出来るんですよね?」
「まぁね」
「じゃあなんで、初めから僕に「完璧に仕事ができる力」を与えて、生前の職場と同じ環境に放り込まなかったんですか。そうすれば僕が違和感を持って、余計なことに気づくこともなかったかもしれないのに」
簡単すぎる上に意図が不明な仕事、なぜかマンツーマンでずっと傍に居てくれる上司。そういった違和感が俺のロックされた記憶を呼び起こしたことは間違いない。輪上さんとしてもその解錠は不本意だったはずだ。その点が引っかかる。
問われた彼女は、難しい顔をした。答えは持っているけれど、それが相手からの理解を得られるとは思っていないような、ギリギリまで頭をひねって心を痛める、大人の顔だった。
「……まぁ、そうすることも出来たんだけど。なんならリハビリなんかせずに、苦手意識を頭の中から直接取り除くとかね」
「そうですよね」
「でもそれって、ほとんど殺人でしょう? 百合園くんのそっくりさんを連れてきてすげ替えることと、勝手に頭の中をいじることは、そんなに違わないと思うの」
「……言いたいことは分かります」
でも記憶をいじってましたよね? という言葉が喉まで出かかる。けれど寸前で彼女の逡巡に気がついて、それを飲み込んだ。
神の力で記憶を操作するなら、もっと強力にロックをかけることだって出来たはず。だけど輪上さんはそうしなかった。彼女はきっと「相手の幸せのために必要な措置」と「倫理的な正しさ」の間で葛藤してくれたのだろう。その結果が、少しの違和感をきっかけに外れるゆるいロックとして表れた。
そしてそこまでの話を理解したことで、俺はそのもう一歩先にある彼女の意図にも思い当たる。
本人の能力をいじることは出来ないという縛りの中で、どうしようもない無能から仕事への苦手意識を取り除くには、仕事の方を簡単にするか、失敗してもそれが気にならないような環境を作り出すしかない。……彼女はなぜその後者を、自分一人で担ったのか?
この倉庫全体の仕事を簡単な物にして、従業員を全員聖人みたいな性格にして、その中に俺を放り込むという手もあったはずだ。そしてそうすれば、少なくとも「なぜかずっと傍にいる暇そうな上司」という違和感は取り除くことが出来たはず。なのになぜ彼女はわざわざ自らが体を張って、余計な違和感を一つ足したのだろう?
……その答えはとっくに、俺自身が口にしていた。未来のアニメの話を……リコリスリコイルの話をした時に、俺ははっきりと言った。「神様みたいな女の子が好きなんです」。
神の使いである輪上さんは、俺の趣味を最初から熟知していた。
神の使いである輪上さんは、文字通り神様みたいな女性である。
彼女は俺の苦手意識を中和するために、体を張ってそれを用意してくれたのだ。
けれどその神様は、今や威厳を失った様子で、普通の女の子のような顔をして、申し訳なさそうに弱々しい笑みを浮かべている。
「でも、私は失敗しちゃったね。私の考えた方法では、百合園くんの苦手意識をなくしてあげることが出来なかった。……いや、ううん、出来なかったというか、その前に嘘が全部バレちゃっただけだよね。…………天使なのに、下手くそでごめんね」
神の使いが、人間の中でも相当出来の悪い俺なんかに向けて、謝罪の言葉を述べる。
彼女は神の使いだから、人間の前で節操もなく泣いたりはしなかった。けれど彼女の心の中からは、涙に震える声が聞こえてくるかのようだった。
わざわざ俺に目をつけ、過去を調べ、人格を理解し、出来るだけそれに手を加えない形で、自ら現場に出向いてでもより良く天国へ行けるようにしてくれようとした、俺にとっての文字通りの天使。輪上さんは、間違いなく底無しにいい人、聖人だ。そんな人が、俺に「ごめんね」と言う。その心痛は、俺のような人間のクズには測りようもない。
いつか誰かから、「百合園くんは、自分を助けてくれようとしている相手のことを突き放している」と指摘されたことがある。そんな発言は、助けようという気持ち自体にそれだけで価値があると思っているような、善人面したエゴイストの言うことだと思って、生前は聞く耳を持たなかった。
けれど今回の俺は、完全に余計なことをしてしまった。楽な仕事、優しい異性、平和な生活。それらが全て手元にあるのだから、ただそれで満足しておけばよかったはずなのに。どうして俺は、真相なんて物を求めてしまったのだろう。つらい記憶を必死に隠そうとしてくれている相手を、どうして突き放してしまったのだろう。
地獄が廃止になっていて、本当に助かった。そうでなければ俺の行き先は……。……と、そうやって最後の最後まで、救いようのない感想を抱いてしまう。
輪上さんは、黙ってしまった俺の様子をうかがう。そしてまるで、蜘蛛の糸にすがる側になったかのような声で、言う。
「……ねぇ、百合園くん。全部が嘘だって分かった上で、それでもここで、私と働いてみる気はない?」
「……リハビリになるからですか」
「なる、かもしれないから」
「それは……。すみません。やめておきます」
予想通り、ただ涙が流れていないというだけの、悲しそうな顔を返される。心が痛い。彼女の話に乗っておけばよかったのだろうかと、断った直後から考えてしまうほどに。
けれど俺は知っている。俺のような人間には、天国の存在を聞いてなお、ここに留まり続けることを選ぶなんて殊勝なことは出来ない。いくら心が痛もうと、この楽しい休憩室の中に引きこもることと引き換えに、オーダーメイドの理想の世界を手放すなんてことは、俺には出来ない。
けれど同時に、嘘が明かされたからといって、この一ヶ月の生活が無意味になったとも思っていない。
「輪上さん。僕はやっぱり、天国に行きたいです」
「うん。いいよ? 今すぐにでも連れて行ってあげる。……けど、本当に向こうで幸せになれる?」
「それを試したいんです。今……この一ヶ月と今で、コツを教えてもらったから」
「え……?」
天使は意外そうな顔をする。優しい嘘で塗り固められた箱庭に閉じ込めていたことを、俺が恨んでいるとでも思っていたのかもしれない。だとすれば神の使いにしては、とんでもない勘違いをしている。
俺は彼女に感謝している。天国に行きたいのは、この箱庭が気に入らないからじゃない。「幸せになる方法」のチュートリアルを終えて、本番に挑んでみたいと思ったからだ。
きっと輪上さんは忙しいから、週に三回・二時間のペースで俺に付きっきりになることは出来ても、それ以上のことは出来なかったのだろう。それで俺のリハビリにこの職場を選んだのだ。……だから俺は天国に行って、自分でもっと贅沢に時間を使えるようにする。
自分の人生を幸せにするためには、23歳では大人すぎるのだ。
「天国に行ったら、人生をやり直したいと思うんです。無職の頃からではなく、不登校の頃から」
「……どうやって?」
「神様みたいな女の子しかいない世界を作ります。僕はまだ、人間みたいな人間が通う学校や、その世界のことしか知らないから」
「…………百合園くん」
それが、彼女が俺の名前を呼んだ最後の瞬間になった。
輪上さんは、それまでの悲愴さをあっという間に吹き飛ばして、「たははっ」と笑ったのだ。
「いいね! それは確かに、はやく天国に行かなきゃだ!」
天国の受付は、カラオケにそっくりだった。俺はまずそこで、そもそも天国には受付の概念があるんだ……ということを知った。
休憩室の出入り口の扉を開くと、そこには運送系倉庫ではなく天国の受付があった。驚いた俺が振り返ると、パイプ椅子に座った輪上さんが「元気でね」と手を振ってくれる。俺は同じように手を振り返して、一歩踏み出した。
扉は、背後で勝手に閉まる。振り返っても、もうどこにも扉はない。
「ようこそ天国へ、百合園さま」
カラオケそっくりのその受付は、しかし妙に照明が薄暗く、ドリンクバーも見当たらなければ、部屋から漏れ聞こえてくる歌声もない。壁も床も黒色を貴重にしていて、正面にあるカウンターの向こうに、社員制服じみたベストを着た男が立っている。
あぁ、あの芸能人に顔が似ているな……と思ったけれど、名前が出てこない。しかしどうでもいいので、俺は明らかにここの進行役である彼の前まで行く。
「……どうも」
勝手が分からず適当な挨拶をすると、向こうは上品に頭を下げた。
「ご存知かとは思いますが、ここは天国の受付になっております。百合園さまがお望みの世界を仰っていただければ、我々「天使」の方でそれを御用意させていただきます」
「……望みを聞いてもらえるのは、ここで一度きりですか?」
「いいえ。天国の中では、いつでも注文用タブレットをお使いいただけます。変更、キャンセル、追加注文。いつでも、何度でも、どのような内容でも承ります」
「なるほど。じゃあひとまずは気軽に選んでも大丈夫ってことですね」
「左様でございます」
「要望は、この紙に書けば?」
カウンターの上に置かれた、枠線だけを引かれたほとんど白紙のアンケート用紙を指しながら聞く。
「用紙でも口頭でも、どちらでも可能となっております」
「なら口頭でお願いします。……一つ聞きたいことがあるんです」
「なんでございましょう」
「えぇと、あなた……そちらは、
「存じております」
「彼女がさっきまで俺と居たことも?」
「はい。百合園さまと輪上の、ここ一ヶ月のやり取りも、プライバシーに配慮した範囲ですべて把握しております」
「なら、「神様みたいな女の子」についても……?」
「えぇ、理解しているつもりです」
「……もしかして俺が注文しに来た内容も?」
「……申し訳ありません、存じております」
存じてるんかいっ。無駄に回りくどいやり取りをしてしまった。
そういうことなら話が早いと、俺は存じ上げられていた内容をそのまま天国に注文した。
そこからは詳細を詰める話になる。
「学校に通っていた頃からをやり直すというお話でしたが、具体的にはいつ頃からに致しましょう……?」
「中学一年生からでお願いします。それと、生徒の精神年齢は大人にしてください」
「かしこまりました」
輪上さんの誘いを蹴って天国へ行くと決めた時には、俺はもうそういった詳細までを頭の中で決めていた。
六年もある小学校からやり直すことは単純に心理的なハードルが高く、またいくら自身の体も当時に戻るとはいえ、大人の精神で年齢一桁のガキんちょに混じって生活するのはつらい。かといって生徒の精神年齢を引き上げれば、それは見た目とのギャップで、見ているこちらの頭がおかしくなってしまうだろう。
けれど中学生、特に女子なら、生前の世界でだって精神的には大人びていた。見た目は中学生のままでも、中身を引き上げればさほどの違和感なく、おそらくそれなりに馴染んで生活できるようになるだろう。……というか、そうするしかないのだ。高校は通信であった俺が、自身の人生から「標準的な学校」をやり直すのであれば、中学がどうしても上限になってしまう。
その他にも、俺はいろいろと注文をつけた。自身の体、家庭環境、学校の環境等々は当時の状態を再現してほしいこと。ただしそれ以外の「時代その物」は巻き戻さないでほしいこと。……全てのコンテンツが見飽きた物の再放送になる世界に居ては気が狂ってしまいそうだから、時代は2025年から始めざるを得ない。
そして最後に、物は相談だけれども……と。
「ちなみになんですけど」
「はい」
「その天国の中まで、輪上さんに来てもらうっていうのは無理ですかね……?」
ダメ元で、俺はそれを聞く。
受付の人は、大して表情を変えもしなかった。
「……なるほど。それについては、少々入り組んだ答え方をしなければなりません」
「というと?」
「輪上絵瑠本人を天国に招くという話であれば、なにぶん彼女も多忙ですので、不可能という回答になってしまいます」
「まぁそうですよね」
「はい。……ただし、彼女と細胞レベルで同一の個体とされるクローンを生成して、そのクローン輪上を天国に招き入れることなら可能です」
「クローン輪上」
丁寧な口調から急にパワーワードが出てきた。思わず復唱してしまう。
しかしなるほど、さらりとそんな回答が出ることを聞いて、俺は輪上さんの気苦労の一端を改めて知った気がした。なんでも簡単に実現可能な世界観の中では、正しい倫理観を保つことも簡単ではないのだろう。
……実際俺は、まったく彼女のように強くはない。おそらく二度と会えない相手に軽蔑される可能性と寂しさを天秤にかけるなら、それは後者側に大きく傾いてしまう。
「なら、そのクローンをお願いします」
「かしこまりました」
「……注文は以上で」
「はい。ではそちらの通路を進んでいただいて、34番の部屋が、百合園さまの天国の入口となっております」
「34番ですね」
「えぇ34番です。……あぁそれと百合園さま」
通路へ向かおうとしたところを呼び止められてつんのめる。
「申し訳ありません。最後に一つだけ、お耳を貸していただいてもよろしいですか……?」
コソコソ話をするように口元に手を当てたジェスチャーと共に言われる。
しれっとクローンを提案するような相手がなお声をひそめる話とはなんだろう……? 緊張しながらも耳を近づけると、彼は間違いなく俺以外の誰にも聞こえない声で言った。
「天国の中の女性を、サキュバスに設定することも可能ですが、いかがでしょう?」
自然と俺の声まで小さくなる。
「サキュバス……?」
「見た目は若くとも実年齢は三桁という、性を司る魔族のことです。しばらくは中学生として生活される百合園さまが、一応は十代半ばであるクラスメイトとそういう仲に発展することがあれば、何かと問題になりますでしょう……? 何せ彼女らは「神様みたいな女の子」ですから、あり得ない話ではないように思うのです」
「なるほど……。やっぱり天国にも児ポはあるんですか」
「いいえ、ありません。気持ちの問題です」
「あぁ、そういう……」
そうだった。天国には法律以前に、善悪がないのだった。
俺は迷わず、サキュバス化のオプションを追加した。
「いってらっしゃいませ」
今度こそ見送られて、通路の方へ。天国の入口は34番、34番だ。これだけは、絶対に間違えられない。
……と思ったのだけれど、小さく飛び出たプレートが各部屋の番号を示している光景を見た時、俺は思わず笑ってしまった。
廊下の左右に等間隔に設けられた扉。その全てから、「34」のプレートが飛び出している。つまりはどこへ入っても正解なのだ。天国への入口は、間違えたくても間違えられない仕様になっている。
34番。生前に職場で見た「住所を表す番号」には存在しなかった数字。俺はそのうちで、一番手前の扉を開く。
これで正式にさようなら。33番まであった生前の、俺にとってはクソみたいな世界。何もかも全てが嫌いだった……とは口が裂けても言えないような、そういうところがまた
朝食を食べ終えたら制服に着替える。
天国の中では、眠気と戦いながら朝支度をする必要はない。体はいつでも元気に健康で、試したことはないけれど、その気になれば不眠不休でも動けるはず。……聞くところによるとサキュバスの体も似たような性質をしているらしい。
シャツのボタンを一つ一つ留めていく。俺は下から順に留める派だけど、世の中には上から派もいると大人になってから知った時には驚いた。まさか俺があまり登校していなかったせいで、その話題にいつの間にか乗りそびれていたのだろうか。
ズボンを履いてベルトを締める。ワイシャツもベルト付きのズボンも、高校卒業から数えて着るのはおよそ八年ぶりだ。それからフックで固定するタイプの簡易的なネクタイを付けると、親に高い金を出して買ってもらったスーツを着たのは、成人式に着た一日きりが最初で最後になってしまったな、本物のネクタイの締め方なんて欠片も覚えていないや……と生前のことを連想してしまう。
なるほど輪上さんの言う通りだった。いや言う通りどころか、もはや仕事に関わるまでもなく、たとえ天国に来ようとも、俺の人生にはネガティブな感情の影が頻繁に差し込む。苦手意識、罪悪感、憎しみ、トラウマ、劣等感……。おそらく今後も事欠かないだろう。
けれど俺はこれからの人生を通して、それら全ての克服を図る。時間割通りに教科書やノートを指定バッグへ詰め込み、いざ登校。
「いってきます」
八年ぶりとあって、さすがにその声には覇気がこもらなかった。……あるいは、そもそも学生だった当時ですら覇気などとは無縁だったのだから、今はそれが自然なのかもしれない。
中学の校舎は、家から少し行ったところの、長い上り坂の先にある。その坂道は広く、左右にらそれぞれの方角の住宅地へと繋がる路地が伸びている。
六コマ分の教科書が入った重量級のバッグでもえんやこら……と坂を登っていると、横の路地の一本から見覚えのある人物が現れた。
いや正確には、俺はその人のことを今日初めて見た。けれど一目見ただけでも、それが誰であるのかは明白だったのだ。
顔立ちにあどけなさを足して、背を少し縮めて、倉庫作業には合わないスカートを履き、眼鏡のデザインも微妙に変わっている。……けれどそれ以外の部分はほとんど、輪上さんそのものだった。
クローン輪上さん、中学生の姿。天国と現世の狭間からコピペで招いた、俺の救世主。
「おはようございます」
「おはよう〜」
俺が浅い会釈をすると、向こうは手を上げてそれに答える。そんな自然な流れだったから、当然倉庫バイト時代の関係性を引き継ぐものだと思ったのだけれど。
「輪上さん、俺が行った時の天国の受付にいた人のこと、知ってます?」
「えっ、敬語!? 同級生だよ……?」
「えっ。いや、なんか染み付いちゃってて」
「えぇ〜」
微妙な間が、長い長い僅か数秒の時を流れた。
しかしまぁ、そこはさすが輪上さんだ。名前の話題で一瞬気まずくなったあの時のように、すぐに流れを切り返す。
「で、受付の人? 知ってるよ」
「あの人、歌手のあの人に似てません? あのボーカルの、あれ」
「どれ」
「なんかこう……。春になりゃ絶対やるぞライザップ♪ みたいな曲の」
「あぁ〜! よく言われるって本人も言ってる」
「あ、やっぱり」
うろ覚えどころではない歌詞でもメロディーで伝わったその曲とバンドは、俺の生前に流行っていたもの。俺の中学時代にはなかったものだ。
話しながら歩き、坂を上りきって、次は押しボタン式の信号を待つ。奇しくも通学路にある信号はこの一つだけで、坂道の分だけ険しい道のりになるとはいえ、単純な距離的にも、バイトの通勤経路とよく似ている。
信号待ちの間、輪上さんは鼻歌を歌っていた。さっき話題に上がったバンドの、俺が生きているうちに聴いた最も新しい曲だ。サビの歌い出しの「つらいことばっかじゃないってこと」というフレーズを俺も覚えている。……そのすぐあとに続く歌詞を思えば、その曲選は輪上さんに似合いすぎている。
信号が青になった。天国では俺も輪上さんも(というかたぶん輪上さんは元々)不死身だから、仮に信号無視の車が突っ込んできても平気なのだけれど、それでもなんとなく左右を確認してから歩き出す。
そこから学校まで続く歩道の細さが懐かしい。はっきりした段差にガードレールまで付いていて安全性には事欠かないのだが微妙に細く、自転車同士でのすれ違いが困難だった思い出がよみがえる。このあたりの歩道は、どこへ行けどもそんな感じだ。
ちなみに中学校へ女子と一緒に登校したことは、生前に一度もない。
「ところで、今日の時間割に美術があったんですけど。内容知ってますか?」
知ろうと思えば自力で即座に知ることもできるのが天国という場所の性質だけれど、俺はあえて輪上さんに聞く。苦手に対して天国の力を使用することは厭わないつもりだけれど、俺はべつに会話を苦手とはしていないから。
ただ、美術は死ぬほど苦手だ。小学校の図工と中学の美術には、体育と同様に、俺の欠席日数を増加させる効果があった。
「今日はね、将来の自分像……文字通りの物理的な像ね。を、紙粘土で作るよ」
「わ〜。初っ端からいいところ突いてくるなぁ」
「百合園くん、生前はどんなのを作ったんだっけ」
「プログラマーになった自分にしました。家に帰ったら毎日パソコンで遊んでたので」
「プログラミングには興味があった?」
「まさかぁ」
「だよね〜」
お互いが答えをあらかじめ示し合わせているような、予定調和の質問と回答。思えば倉庫バイトをしている時は、俺だけがその調和の中にいなかった。輪上さんは知っていることを知らないフリして話し、俺はそれに気づいていなかった。
試してみると、予定調和の会話も案外楽しい。目の前の同級生としての輪上さんはもちろん、オリジナルの輪上さんが、あの休憩室の中でも同じように思ってくれていたことを祈る。
ガードレールの外を車が通り過ぎて行った。そういう車の運転手が意外と学校の先生だったりするから油断ならないのだと、些細なきっかけでまた一つ思い出が記憶によみがえる。……いや、それは叱られたエピソードだったから、思い出というよりはトラウマか。
しかし学校での悪い思い出というものは、叱られることや恥をかくことばかりではない。また思うように登校できなかった劣等感ばかりでもない。学校には本当に、数少ない登校日数の中にも楽しかった思い出がある一方で、それと同量かそれ以上の、多種多様な恨みが残っている。
俺はプログラマーになりたいわけじゃなかった。なりたい物なんて何一つなかった。ただただ精神的な理由だと思い込んで、一年の半分を欠席するような不登校気味の問題児に、将来に対する夢などあるはずがなかった。
俺はあの授業で、思ってもいない夢を語らされたのだ。心外なことを強制された恨みは、何年経っても忘れられる物ではない。夢のない人間に夢を語らせる場所が学校という物だから、登校拒否だってしたくもなるのだろうに。
……しかしだからこそ、いいところを突いてくるものだと思ったのだ。克服するには打ってつけの授業だと。
「それで、今日の美術はどうするの?」
心の中を読んだかのようなタイミングで輪上さんが言う。実際、天使のクローンなら心くらい読めるのかもしれない。読んでいてもいなくても、彼女の好ましさに変わりないけれど。
俺はしばし考える。将来の夢は、今だって語れやしない。しかし授業から逃げ出せば克服には至れず、天国に来た最も大きな目的に早々に背いてしまう。……ではどうするべきか?
俺は意外にもはやく、良い解決法を思いついた。中学当時の俺ならそれを解決法とは呼ばなかっただろうけど、ここは天国だ。俺が解決法だと思ったことが、解決法になる。
「ツノでも付けますか」
「ツノ?」
きょとんとこちらを見る輪上さんに、両手の人差し指を頭に当てて角のポーズを見せる。
「自分像にツノを付けるんです。そして作品名と氏名と備考を書く用紙にこう書く。とてつもなくテクノロジーが発達した未来では、このツノを頭につけることで、社会不適合者でも難なく楽しく働くことが出来るようになるのだ〜!」
「…………私もいいこと思いついた」
「なんでしょう」
「その作品名は、シャドウ・ミストレス・百合園にしよう」
「いや、ミストレスの意味「女王」とか「女主人」ですけど」
「じゃあ、シャドウ・ヒャクガッエン・百合園」
「あ、それだ! それにします」
元ネタは、アニメ「まちカドまぞく」にて、突然魔族として目覚め角と尻尾が生えた少女に付けられたネーミング、シャドウ・ミストレス・優子。略してシャミ子から。
生前の世界で、その授業に角の生えた自分の像なんて物を提出していたら、良くて物議、最悪はボツになっていただろう。いやむしろ制作中にやんわりと、しかし有無を言わさない語気で止められて、八方塞がりに逆戻りしながら恥だけかいていたはずだ。
けれど、天国ではそうならない。なぜなら教師もクラスメイトもすべてが、俺にとっての「神様みたいな女の子」だから。その最たる例である輪上さんが背中を押すということは、世界中の他人が背中を押すということを意味している。
……あぁ、想像すると、美術の時間が少し楽しみになってきた。生まれてこの方、初めての感覚だ。
そしてその「美術の時間が楽しみ。トラウマに立ち向かうのが楽しみ」という感覚を受けて、さらに感じたことのない物が心に湧く。
それは言うなれば、それこそ、「将来への希望」だろうか。
今はいろいろ問題を抱えている自分だけれど、この先の未来で、それらの大半はなんとかなる気がする。そんな漠然とした、しかし無根拠ではない希望が胸のうちに湧いてくる。生前は知らなかった感覚だ。そしてそれこそがきっと、俺がずっと欲しくて欲しくてたまらなかった物なのだろう。
まだ登校の最中で、授業は一コマたりとも始まっていないのに。舞い上がった気分の俺は、まさか自分が掲げることになるとは万に一つも思わなかったような、ある一つの目標を心の中で読み上げてみる。
目指せ、皆勤賞。
……隣を歩く輪上さんを見ると、彼女は嬉しそうに良い笑顔を見せてくれた。