無形の剣 作:--
決闘当日の朝。いつものように白い羽織に袖を通し、たすきを巻いて身支度を済ませた訪重郎は隊首室にいた。刀掛台に置いた斬魄刀の前に座っている。様々な感情はあれど、概ね朗らかだった。
「さあ、いきましょうか」
行くと言ったのか、活くと言ったのか、生くと言ったのか。独り言のように、あるいは誰となく話しかけるように呟くと、刀を手に持ち立ち上がった。
決闘場へ向かう。一隊の長でありながら介添人は誰もいない。五番隊の者たちは皆、雛森と共にいる。全員が訪重郎を毛嫌いしているというわけではないが、上級の席官たちが雛森を立てている以上、それに逆らってまで訪重郎の側につく者もいなかった。
と思っていると、隊舎の門の前に誰かが待っていた。花太郎である。約束していたわけでもなかったが、様子を見にきてくれたらしい。
「それ、持つよ。隊長が付き添いの一人も無しじゃ格好がつかないだろ」
「……かたじけない」
訪重郎は気まずそうに頭を掻いて、斬魄刀を花太郎に渡した。
「五番隊との折り合いはまだ悪いみたいだね」
「こればかりはどうにも」
時間が経てば少しは落ち着くかとも思ったが、一向に関係は良くならない。
これでは何のための隊長かわからない。憎まれているからと言って譲歩していては上下関係を築けない。死神としての職務にも大きく影響することだ。訪重郎は部下を厳しく律する必要があった。
全てはそれを避けようとした訪重郎の責任である。決闘を挑まれるのも致しかなたいと訪重郎は思っている。
決闘とは言ってしまえば下剋上だ。まともに機能している部隊であればまず起こり得ない。護廷十三隊の隊長とは実力もなしにお飾りで務まるような役ではなかった。
逆に言えば、まともに機能していないからこそ今の状況に陥っているわけだ。ある意味においては正常な組織としての作用なのかもしれない。
「じゃあ、君は雛森さんに負けて隊長じゃなくなってもいいと思ってるわけ?」
「さあ、それは闘ってみないことにはわからないさ」
花太郎は訪重郎が何を考えているのかわからなかった。実力を疑ってはいないが、この友人は何をしでかすかわからない恐ろしさがある。
決闘場にたどり着いた。刻限にはまだ早いが二百名を優に超える数の死神たちが集まっている。物見のためだ。隊長格の死神同士の戦闘など見る機会はそうそうない。
花太郎から刀を受け取って場内に入る。そこには帯刀し副官章をつけた雛森の姿が既にあった。表情はよくうかがい知れない。というのも、口元を布で隠しているからだ。
これは『禁唱布』と呼ばれる装備で、一部の隠密機動や鬼道衆において使用されている。唇の動きを敵に悟らせず、内臓された術により詠唱を消音することができる。
一般的な死神にはなじみのないものだった。鬼道を使う相手と言えば主に虚であり、わざわざ詠唱を隠す必要がない。対人戦を主眼においた装備である。
決闘において使用が禁止されている類の装備ではなかったが、それだけ彼女が本気で勝負を制しにきている証と言えた。
二人は対峙する。後は立会人がいるのみだ。間もなく始まる闘いを前に周囲の緊張は高まった。
「勝負の前に伝えておきたいことがあります」
最初に口を開いたのは訪重郎だった。腰に差した刀の柄に手をかける。
「某はこの剣を使うつもりはありません」
「……どういうことですか?」
「貴殿を傷つけるつもりはない、ということです」
先日の日番谷との対談から色々と考えた訪重郎だったが、うまい策など思いつかなかった。決闘とは、とどのつまり殺し合い。どうして相手を斬らずに決着をつけられようか。
「勝負の初めから終わりまで、某は貴殿の攻撃を避け続けます。こちらから手出しすることはありません。一撃でも当てることができれば貴殿の勝ち。最後まで避け切れば某の勝ち、ということにしていただきたい」
そこで思い至ったのが、万代五席との試合だ。あの時のように避け続ければ負けたことにはならないだろう。確たる力の差がなければできないことだ。それをもって勝ちと認めてもらう他に案はなかった。
「ふざけたことを。ならば、その刀は何のために持ってきたのですか」
「これは某の腹を切るために持参しました」
訪重郎の提案は正々堂々と決闘を望む者に対してあまりにも無礼だ。もしそれだけの見得を切って負けようものなら彼の名誉はない。
「その時はこの腹一つ掻っ切ってお詫びいたします」
雛森の攻撃を受けた時点で、それがたとえかすり傷だろうと、彼自身が切腹して決着をつけると決めた。回道も使わない。腹を切るとは語るに及ばず、自ら死ぬということである。
「わかりました。二言はありませんね?」
雛森は了承した。彼女にとってこれほど有利な条件はないだろう。馬鹿にされているとしか思えなかったが、それで勝ちを拾えるのなら文句はない。彼女の目的は訪重郎を隊長の座から引きずり下ろすことだ。それができれば何でもよかった。
雛森は立会人となる雀部長次郎に目配せした。雀部はうなずく。神聖な決闘の場で交わされた約束である。仮に訪重郎が駄々をこねて負けを認めなかったとしても彼の失脚は確実だろう。しかし、雀部は一つだけ確認を取った。
「決闘の時間はどうするのですか?」
「雛森殿に決めてもらいましょう」
従来であれば特に制限時間の定めはなかった。どちらか一方が倒されるまで闘うだけだ。しかし、今回はそうもいかない。
「では、十分にします」
雛森の答えに雀部も訪重郎も少し驚いた。長引けば長引くほど雛森にとって有利になるはずである。十分という時間はあまりに短い。
だが、雛森はそう考えていなかった。訪重郎が瞬歩の達人であることは知っている。最初から全力で短期決戦を挑まない限り捉えることはできないだろうと思っていた。この日のために用意した戦術に変更はない。
この新たに設けられた取り決めは、会場の全体に周知された。雛森に配慮しているとも傲岸不遜とも取れる訪重郎の物言いに、観衆のざわめきは一層強くなる。
もし本当に避け切れるのだとしたらこれ以上の『逃げ足』はないだろう。それを期待して訪重郎を応援する者も、順当に雛森を応援する者も様々だった。
間もなく刻限である。両者が位置に着いた。雛森が刀を抜いて構える。訪重郎は自然体だ。雀部が口上を述べ、その場から離れた。静まり返った空気を切り裂くように開始を告げる銅鑼の音が響き渡る。
「弾け『飛梅』」
雛森の斬魄刀が変化する。刀身から枝が生えたようなその形は『七支刀』に近い。これは実戦で使われる武器というよりも儀礼用の宝剣である。
刀として扱うための武器ではない。斬魄刀の力は千差万別。雛森が剣を振るうと球状の炎が刀身から射出された。
鬼道系と呼ばれる斬魄刀の一種であり、その中でも飛梅は焱熱系に分類される。長い詠唱を要せず、刀を振るだけで術を行使でき、距離を取って攻撃しやすいといった強みがある。
「破道の三十一・赤火砲」
そして、刀による攻撃とは別に鬼道を合わせて使うこともできる。飛梅から放った火球の隙を埋めるように追撃した。炎は着弾すると爆発する。見た目以上に広範囲を爆撃できるため、訪重郎は大きく回避せざるを得ない。
かなりの練度の破道である。数も速度も申し分ない。だが、それ以上の怪物たちの術を見て来た訪重郎に避けられないほどの攻撃ではなかった。瞬歩によって難なく対処できる。
それは雛森も予想していた。とにかく最初のうちは手数で攻めていく。その隙に次の攻撃の算段を詰めていく。
雛森は落ち着いていた。決闘を申し込んだ以上、最悪の事態を想定してこの場に臨んでいる。相手を殺さずとも勝つことはできるとはいえ、隊長格同士が争えば自然と命の取り合いになる。甘い考えは捨てなければならない。
しかし、訪重郎が先に追加したルールによって、雛森は少し肩の荷が下りていた。向こうから攻撃されることはない。それがどこまで信用できるかわからないが、明らかな有利を得たことは確かだ。
逆に言えば、ここまで譲歩されて負けようものならその結果に従わざるを得ないだろう。決闘の申し出など謀反に等しく、失敗すれば当然窮地に立つ。藍染と直接関係のある部隊だったがためにこれまで大目に見られてきた訪重郎との関係は徹底的に見直されることになるだろう。
絶対に負けるわけにはいかなかった。気を緩めてはならない。次々と鬼道を使うための霊圧を高めていく。
「破道の七十三・双蓮蒼火墜!」
ついに七十番台の破道が繰り出された。単純な術の難度や詠唱の隙などの問題から術者が前線において単独で使用することは危険とされる領域だ。よほど鬼道に長けた使い手でなければ実戦では使いこなせない。
これほど苛烈な鬼道の乱舞は滅多に見られるものではなかった。訪重郎が瞬歩の達人であるならば、雛森は鬼道の達人。幾度とない爆撃が降り注ぐ。
実際にそれはかなり有効な作戦だった。いかに訪重郎が早く動けたとしても、決闘場が火の海と化せば逃げ場を封じられてしまう。場外にまで逃げるのはさすがに反則だ。雛森の攻撃を全て回避すると言った以上、炎にちらと舐められるわけにもいかなかった。
雛森がこれだけの数の破道を行使し、なおかつその炎を残留させることができるとは訪重郎も思っていなかった。彼だけでなく、いつもそばにいる五番隊の面々ですら驚くほどだ。
普段は物静かで戦闘に向いた性格をしていない雛森だが、その実力は本物である。伊達に副隊長を務めてはいない。
全力の鬼道の行使により、彼女の息はあがっていた。ぱらぱらと単発の術をいくら浴びせたところで訪重郎を追い詰めることはできなかっただろう。酸欠になったかのような頭痛に襲われるが、手を緩めることはなかった。霊圧を絞り出す。
「破道の三十三……蒼火墜!」
熱風が吹き荒れる。雛森は無暗に鬼道を使っているわけではない。いかにすれば訪重郎を追い込めるか、詰将棋のように予測している。訪重郎は足の踏み場さえ見つけ出せない。
地面に限ればの話だが。地表がどれだけ焼かれようと空中に逃れれば済むことである。霊気を足場にして空を駆けあがろうとした。その時、違和感に気づく。
空に何かある。眼には見えない。ゆえに気づくのが遅れた。この闘いが始まって初めて、訪重郎は危機を感じる。
「破道の十二・伏火」
網目状に張り巡らされた霊圧の糸で対象を捕えて焼く術だ。十番台の術であり、これ自体の威力は低い。縛道のように本命の攻撃の補助として使われることの多い術である。
しかし、これこそが雛森の作戦の『本命』だった。地上を派手に爆破していたのは敵の目をそらすための布石に過ぎない。詠唱を隠しながら少しずつ、気づかれないように上空に伏火の糸を張り巡らせていたのだ。
威力は必要ない。攻撃が当たりさえすればいい。極限まで霊圧を落とし、さらにそこへ縛道の二十六番『曲光』を合わせることで不可視の糸を作り上げた。
これに気づくことは至難の業だろう。様々な鬼道と並行してこれだけの術式を編み上げているとは夢にも思わない。空から巨大な網が落ちてくる。
さて、どのようにしてかわしたものか。訪重郎の両足が光った。残光を残して彼の姿が消える。
これまでの訪重郎の瞬歩はまだ“常識的”な速さだった。雛森も及ばずとは言え瞬歩を使える。それがどのような技であるか理解はできる。だからこそ訪重郎の動きを予測して追い詰めるように鬼道を放つことができていた。
しかし、どれだけ策を巡らせようとも理解の外にある速さで動かれれば捉えきれない。かつて朽木白哉の千本桜とさえ渡り合った訪重郎の閃光のごとき瞬歩を見切ることはできなかった。
霊圧の網は何者も捕えることなく地上に落ちた。炎の熱に溶かされていく。そして、その炎も役目を終えたかのように消え去った。雛森が術を解いたのだ。後は焦げた大地が残るばかりだった。
雛森は刀を杖にして辛うじて立っている。急激な霊圧の低下により、もはや闘える状態ではなかった。大量の汗をかき、大きく肩で息をしている。
「ここまでですか」
もうすぐ約束の十分が経とうとしていた。訪重郎は残念そうに雛森を見つめていた。
「そんなことはないはずだ」
訪重郎は今の攻撃に大した意気を感じなかった。伏火による奇襲は“当たれば儲けもの”程度の攻撃だったのではないか。まだその先があるように思えてならない。彼は期待していた。
その通り、ここまでは雛森の計算通りだ。
雛森がゆらりと刀を構える。それは敵に対して剣を向けるというよりも、恭しく天に捧げるような構えだった。
「卍解」
雛森の放つ霊圧が膨れ上がる。それらは収束するように彼女を覆い、千早の形を成した。剣の大きさも一回り上がり、七支刀の枝ぶりは栄え赤く美しく染まっていく。
「
その剣を地面に突き立てると、凄まじい勢いで巨大化する。まるで数千年の樹齢を超える大木のように育ち、柄の先が球状に膨張して実をつけた。その姿は息を飲むほど巨大な“鈴”である。刀身はやがて朽ち果て、編み上がり、鈴緒となる。鈴は上空に浮いたまま地に影を落としていた。
斬魄刀の二段階目の開放、卍解を目にして平静でいられいる死神がいるだろうか。それは死神としての一つの到達点だ。護廷十三隊において隊長以外にその奥義を扱える者は阿散井恋次と斑目一角のみである。
「ありえねぇだろ……これは夢か?」
恋次は驚愕という言葉では足りないほど動転していた。同期である雛森がいつの間に卍解を習得したのか、実物を目にしても信じられずにいた。
並みの隊士からしてみれば、卍解が使えるというだけで隊長に匹敵する実力を備えているようなものだった。雛森がなぜこの決闘を申し出たのか、その真意に皆が気づく。事実、彼女は隊長となるにふさわしい資格を持っていたのだと。
卍解によって増大した霊圧に呼応し斬魄刀は変化する。磨き上げられた光沢を眩く輝かせる鈴は宝玉のようだった。空に浮かぶ巨大な金属の球体は畏怖の感情を想起させる。その姿はもはや刀とかけ離れていた。
訪重郎は天を見上げる。その絶景に感嘆した。隊長の座についていながら彼はまだ卍解に至っていない。それどころか自分の刀の仮の名すら知らぬままだ。雛森の卍解を目にして憧憬を覚えるほどだった。
ここからが決闘の本番と言っても過言ではないだろう。未知の攻撃に備え、訪重郎は雛森の一挙手一投足を凝視する。
「
雛森が印を結ぶ。目には見えないが死神の両手には霊圧を放つ穴が存在し、力に指向性を持たせて発動するために、鬼道の使用に際してこのような動作を用いることもある。
その動きに合わせるように上空の鈴が揺れた。さらさらと澄んだ音を響かせる。それは鈴の内側で何重にも増幅され、大気を震わせるほどの音波となって拡散する。
訪重郎は何が起きても対処できるように身構えていた。しかし、それは無駄なことだ。瞬歩を使うよりも速く、彼の周囲は糸の結界で何重にも包囲されていた。
『伏火』である。先ほど回避したはずの術が、まさに蜘蛛が巣を張り巡らせるかのごとく訪重郎をその内側に捕らえていた。
雛森の卍解『宝鈴神楽梅』の基本能力は、自身が直近に使用した鬼道の複製である。詠唱と同じ効果を持つ鈴の音が術を倍化させる。二倍、三倍と数を増やすことも可能だ。
そして恐るべきはその術の構成速度である。複製する際に元の術の詠唱は必要ない。鈴の音が響けば一瞬で完了する。
つまり、音速で連続して鬼道が発動する。音が聞こえた時点で手遅れだった。
「降伏してください。命まで取るつもりはありません」
雛森が負けを認めるよう訪重郎に促した。まだ伏火は張り巡らされているだけで発動はしていない。訪重郎に攻撃が当たったわけではなかった。しかし、逃げられない状態だ。雛森の意思一つで糸の結界は燃え上がる。
その火で訪重郎が死ぬことはなくとも決闘の約束がある。雛森の攻撃を受ければ訪重郎は腹を切らねばならない。今ここで降伏すればその話はなかったことにしてやるということだ。
いずれにしても訪重郎の失脚は避けられない。雛森は殺すつもりまではなかった。彼女にとって五番隊の隊長はただ一人。自分が隊長になる気もなかったが、訪重郎がその地位にあることだけは許せない。
「なるほど、確かにこれはどうしようもない」
訪重郎は雛森に最初から殺意がないことに気づいていた。元来、闘いに向いた性分ではないのだろう。そんな剣では自分を捉えることはできないと高をくくっていた。
それがこの様である。まさか卍解を使われるとは思わなかったと言ったところで弁明にもなりはしない。一重に自分の未熟さが招いた結果だった。
「……なぜそんな顔をしていられるのですか?」
雛森は理解できなかった。明らかに追い詰められているはずの訪重郎は余裕の態度を崩さない。まさかこの状態から逃げおおせる手立てがあるというのか。あるいは全てを諦めて開き直っているのか。
はて、どんな顔をしているのかと訪重郎は自分の顔を撫ぜた。
「どうやら某の命運はここまでのようです。ならば最後に悪あがきでもしてみましょうか」
今の状況は雛森の慈悲によって生かされているだけに過ぎない。それを打ち破る方法があるとすれば、彼自身の限界を超えたところにあるのだろう。
ならば、今ここで超えればいい。
何か、言葉にできない不安を感じた雛森は逡巡した後に伏火を発動させようとした。その刹那、訪重郎は動く。
今の彼にできることは一つしかない。瞬歩だ。それも従来の技を使ったところで脱しきれない。瞬歩を超えるために彼自身の能力と融合した技の、その先へ進まなければならない。
漫然と考えていたところで成長はない。訪重郎は藍染の言葉を思い出す。己の剣の道に疑問を抱き、百年以上もの間停滞していたことを藍染は努力不足と断じた。確かにその通りだ。訪重郎は自身の剣と向き合う必要があると感じていた。
瞬歩と自身の能力を合わせることには成功したものの、彼自身、これを十全に扱えていると思ってはいなかった。死神の力と生前の人間だった頃の力、その二つを一つの技として同時に使うことは難しい。
曲がりなりにもそれが可能となったのは、彼自身が『分ける力』を持っていたからだろう。混然とさせずに平行して使用できるようになった。その結果、相乗効果を生み出した。何十年にも及ぶ鍛錬の末に無意識に使えるようになった。
今度はそれを意識して使いこなす必要がある。そもそもなぜ分けることができたのか。彼の能力は『刃物』を媒介にしなければ発動できないはずだ。何を能力の基点として発動しているのか。
考えた末、たどり着いた結論が『爪』である。もともと無形流には自身の爪を武器に見立てる技があった。それは剣が手元にない緊急時を想定した技であり、無形流本来の趣旨からは外れた技である。
だが、少なくともそこに理はある。訪重郎は足の爪に意識を集中させた。足の爪はただの飾りではない。歩く時、地面を蹴って推進力を得るために必要な構造だ。支えがあるからこそ歩くことができる。
己の十指を剣に見立てた。矮小などと思わずともよい。地に突き立てよ。搔きて進め。其は未踏を引き裂く尺度なり。
「無形流・歩法『
これまで無意識に使ってきた独自の瞬歩を『
それをここで使う。失敗すれば負けて死ぬ。
いや、果たしてそうだろうか。そう簡単に死ぬことがあるだろうか。どうせこの程度のことで死にはしない。
死にはまだ程遠い。それは手を伸ばせば簡単に届くところにありながら、どれだけ足掻いたところで辿り着けはしないのだ。
訪重郎の姿は雛森の背後にあった。伏火の包囲網から完全に脱している。
「どうやって……!?」
何が起きたのか雛森にはわからない。伏火の網の目に人体が抜け出せる隙はなかった。強引に引きちぎって脱したわけでもない。もしそうならば術を使用している雛森が真っ先に気づいている。
一方、立会人である雀部はそのからくりを辛うじて見通していた。雛森が伏火を発動させる寸前に訪重郎が使った瞬歩は確かに成功している。
しかし、それを瞬歩と呼んでよいものか。訪重郎の霊圧は刹那の間、完全に消滅していた。それと全く同時に別の場所へと移動している。
速いとか遅いという概念では説明できない。すなわち、空間を超えた二点間の転移だった。ある意味でそれは雛森が使った卍解にも迫る常軌を逸した絶技である。
初めて使用した技であることもあって、訪重郎は全身を負傷していた。特に外からの圧力に弱い眼球は着地の衝撃で破裂してしまっている。脳も衝撃で揺さぶられていた。自身の未熟さが嘆かわしいが、何とか伏火はかわせたので良しとしておくことにした。
「くっ……梅花輪唱!」
とにかく雛森は追撃しようとした。仕掛けはわからないが、今度はもっと多くの術で囲えば訪重郎も逃げられないだろうと考えた。だが、その手が止まる。
限界が来たのだ。熟練者であっても卍解の使用は数十分が限度とされる。まだ卍解を習得して間もない雛森ではごく短時間しか維持できない。加えて決闘の序盤から鬼道を多用してきた消耗がたたった。
腕が上がらない。体中から力が抜け、膝をつく。気力を振り絞って堪えているが、今にも意識が飛びそうだった。空に浮かんでいた鈴がゆっくりと高度を下げて地面に落ちる。
「どうぞ、そのままの貴殿でいてください」
雛森は訪重郎を睨みつけた。とりあえず片目を直した訪重郎は血に染まったその目を雛森に向ける。
「良い闘いでした。また、いつか」
決闘の終了を告げる銅鑼を耳にしたのを最後に、雛森の意識は白んでいった。
* * *
雛森は見知った街並みの中を歩いていた。西流魂街第一区、潤林安。彼女が生まれ育った場所である。だが、雛森以外に誰も見当たらない。
これは彼女の夢だ。まるで刃禅で刀の中に入ったかのような夢を毎日にように見る。だが、飛梅の姿はない。最近は刀と対話しようとしても雛森の呼びかけに全く答えなくなっていた。
おそらく現実の彼女は決闘を終えて意識を失ったまま治療を受けているのだろう。それに気づいたところで夢の中ではどうにもならない。
訪重郎から隊長の座を奪うことができなかった。その事実が雛森を苦しめる。あの人がいないということを、嫌が応にも実感させる。
「そんなことないよね……藍染隊長が」
死ぬわけがない。その言葉を雛森は飲み込んだ。自分の胸元を掻きむしるようにまさぐる。突き立てられた冷たい鉄の感触を思い出す。
雛森は生家へと走った。幼いころ、祖母と日番谷と共に過ごした家だ。雛森は確信していた。その場所にきっといる。
「藍染隊長!」
家の中で待っていたのは藍染惣右介だった。昔と変わらない柔らかな笑顔で迎えてくれた。すがるように雛森は抱き着く。
この夢の中には雛森と藍染の二人だけしかいない。そう決められている。
藍染に胸を貫かれて殺されかけた雛森は長い治療を要した。意識を失っていたその状態で彼女はある夢を見た。自分の中に大きな力の塊が入り込んでくるような感覚が確かにあった。
それから雛森はこの不思議な夢を見続けるようになる。彼女が絶望から立ち直れたのは夢の中の藍染のおかげだ。眠れば彼に会える。それだけが心の支えとなっていた。
これは普通ではない。特別なことだ。藍染は死んでいない。助けなくてはならない。雛森はそう感じていた。
その証拠がある。夢の中の藍染はほとんど言葉を発することがなかった。雛森が話しかけても静かに微笑むだけだ。しかし時折、重要な発言をすることがあった。
飛梅の真の名前を教えてくれたのも藍染だった。藍染のおかげで斬魄刀本体の具象化や屈服を要せず雛森は卍解を使えるようになった。
藍染はいつも雛森の進むべき正しい道を示してくれていた。その期待に応えなければならない。そして今度は雛森が藍染を助ける番だ。
「……
藍染が囁く。彼が裏切り者のように扱われていることも、雛森に危害を加えたことも、何かやむにやまれぬ事情があったがゆえに違いない。雛森はその誤解を打ち砕き、最愛の人を取り戻すことを心に決めたのだった。
トゥルルルルル! ガチャ
「はい雛森です」