無形の剣 作:--
「やはりこのデータ、違和感があるネ……」
技術開発局長、涅マユリは机上に拡げた資料を前にして苛立った声をこぼす。それは藍染の検死結果だ。
藍染の遺体は七十四の部位に分解されている。今度こそ幻術が介在する余地もなく死亡したことは確かだ。その点についてはマユリも異論はない。
しかし、一部に不自然な情報があった。死後、肉体に残るはずの『残留思念反応』の数値が低い。これが一般的な死神の死体であれば気にすることもなかったのだが、あの規格外の霊圧を有した藍染惣右介にしては物足りない。
力ある者ほど、死してなおその肉体には生者の名残が強く表れる。つまり、藍染の遺体はマユリが予想したよりも早く生気が抜けていた。これが意味することは何か。マユリは計算を繰り返していくが確たる答えにはたどり着けない。
「情報が足らんヨ。四十六室の愚者どもが余計なことをしなければ調査も捗るのだがネ」
マユリは隊首会にてこのことを報告したのだが、上は大して重要に受け止めていないようだった。より藍染の死が確定づけられた程度としか考えていない。もう全ては終わったのだ。藍染という巨悪は滅びた。
四十六室はそれよりも、この件を蒸し返そうとするマユリが『崩玉』に強い関心を抱いていることを危険視していた。第二の藍染惣右介が現れることを恐れている。この一件に関して技術開発局の介入を阻んでいる節さえあった。
隊長の一角を担うマユリであるが、人格者と呼ぶには程遠い死神だ。実力ゆえに見逃されてきたが、研究のためなら犠牲をいとわない思想はかねてより問題視されていた。マユリが声を荒げるほどに四十六室は警戒を強めるだろう。
現在、崩玉は瀞霊廷の地下深く『無間』と呼ばれる場所に保管されている。何者であろうと手出しすることは不可能だ。当然、それについてマユリが調べることもできない。
崩玉の製作者である浦原喜助は藍染からかけられた濡れ衣を晴らすことができたものの、尸魂界に帰ってくることはなかった。死神と関わらず、現世で生きていくつもりらしい。崩玉に関する詳しい情報も聞けずじまいだ。
果たしてそれはどのような力を有し、どのようなことを可能とするのか。いくら机上の空論を積み重ねたところで計り知ることはできなかった。
* * *
日夜、死神としての業務に従事する護廷十三隊。華々しい表の仕事があれば裏方の仕事もある。例えば、洗濯。死覇装を清潔に保つことも隊としての規律を正すため疎かにはできない。
だが、一隊長ともあろう人物がすすんで洗濯仕事を引き受けることがあるだろうか。それも自分の部下全ての分の汚れた洗濯物を一手に、である。
五番隊隊長、十間坂訪重郎は洗濯場にいた。大量の死覇装を手洗いできれいにしていく。厚ぼったい隊長羽織は少し邪魔だったが、勤務中は脱ぐことができないので、たすきでたくし上げていた。むしろ、このたすきを結んだ姿がデフォルトになりつつあった。
本人は特に気にしている様子もなく終始にこやかな表情だったが、周りにいる者たちは引いていた。明らかに場違いな身分の男が雑用をこなしているのだ。
「な、なにをされているんですか、隊長!?」
「ああ、どうか気になさらず」
しかし、訪重郎にとっては慣れた仕事である。四番隊にいた頃は何十年と、この手の雑用を引き受けてきた。手際よく洗った着物を干していく。隊長になりはしたが結局、やっていることは以前とあまり変わらなかった。
隊の事務は副隊長の雛森桃がやってくれている。訪重郎は既に仕上がった書類に裁可の判子を押していくだけだ。
訪重郎も四番隊の席官として書類仕事も経験してきたが、部署が変われば仕事の要領も違ってくる。それも隊長として任せられる業務となればなおさらだ。マニュアルはあったが、すぐに慣れるものではなかった。
雛森は隊長と副隊長の業務のどちらも一人で処理している。訪重郎は何度も手伝おうとしたが、取り付く島もなかった。昼間は執務室で大量の事務仕事をこなし、夜もろくに休まず剣や鬼道の修行に打ち込んでいると聞く。
もはや藍染が隊長を務めていた頃の雛森ではなかった。このままでは体を壊してしまうだろう。だが、訪重郎が何を言って諭したところで逆効果だ。心の傷はどんな回道でも治せない。時間が解決してくれるまで待つしかなった。
隊舎の掃除や細々とした備品の整理を終え、乾いた洗濯物を取り込んで一着一着丁寧に畳んでいく。こうした雑用は各隊の新入りに任せられているが、比較的風紀が正されている五番隊であってもおざなりにされている部分はあった。
せっかく苦労して霊術院を卒業して一人前の死神となったのに、誰も好き好んで雑用などやりたがらないだろう。訪重郎はそう言った目の届かない部分を埋めるように働いた。決して怠けてはいない。
そんな訪重郎の姿を見て、態度を軟化させた隊士もいる。まだ入隊して日の浅い者たちだ。彼らは藍染の影響をそれほど色濃く受けてはいない。訪重郎が隊長としてふさわしいかどうかは別として、少なくとも悪人ではないと思うようになっていた。
問題は古くから藍染に仕えてきた席官たちだ。訪重郎がどれだけ気持ちを尽くそうと彼らが心を開くことはなかった。いくら新参の隊士たちに取り入ろうと、席官に認められない限り訪重郎への信頼はないも同然だった。
「万代五席、怪我をなされたのですか!?」
「騒ぐな、大したことはない」
その時、隊舎の外から声が聞こえた。現世での緊急任務を終えた隊士が穿界門から帰還したようだ。虚との交戦があったらしい。基本的に現世における虚の処理はその土地の担当者に任せられているが、特殊個体や複数の虚の出現が確認された時は尸魂界から増援が送られることもある。
五番隊五席、
万代は不覚にも負傷したが傷は浅かった。片腕に巻いた包帯に薄っすらと血がにじんでいるが、本人は平然としていた。
「お疲れ様でした。怪我をしたのであれば、某が治療しましょう」
訪重郎が出向くと人垣が割れた。万代は迷惑そうに顔をしかめる。
「お構いなく。隊長の手を煩わせるほどのものではありません」
「しかし、小さな傷でも後で膿むこともありますから……」
「この程度は怪我のうちにも入らないと言っているのですよ。ああ、そう言えば隊長は元四番隊でしたね。前線に立つ戦士の実状に疎いのでしょう」
こうも跳ね除けられては返す言葉もなかった。いつもはここまで露骨にあしらわれることはないのだが、戦地から帰ったばかりで万代も気が立っているようだ。雑用しかしていない訪重郎は何もせず遊んでいただけのように見られている。
「参考までにお尋ねしたいのですが、あなたはこれまでに何体の虚を倒したことがありますか?
『逃げ足』から連想してか、最近は這う這うの体で逃げることとかけて『這重郎』という渾名までつけられた。発音が少ししか違わないためか堂々と本人に向かって言ってくる始末である。
「虚、ですか……恥ずかしながらこれまでに斬ったことはありません……」
訪重郎がそう言うと、万代は大声をあげて笑い始めた。それに追従するように他の隊士たちも笑い声をあげる。
「護廷十三隊の隊長でありながら、虚をただの一度も斬ったことがない!? こんな笑い話がありましょうか!」
隊属履歴だけは長い訪重郎もそのほぼ全てが四番隊に所属していた時期に当たる。実際に四番隊士であれば実戦経験が全くない死神も珍しくはなかった。戦えないからこそ四番隊に入るしかない者たちがほとんどだった。そんな死神が他の隊の隊長になるという前例はない。
「あっ、待ってください! そう言えば、一度だけあります!」
そこで訪重郎は思い出した。それは藍染との決戦の最中のことだ。あの時は藍染にばかり気を取られていたが、途中で大虚を一体斬り倒したことを思い出す。無形流の技で景色ごと両断したのだった。
「
しん、と辺りが静まり返る。万代の笑みは消えていた。さっきまで虚を斬ったこともないと言っていた元四番隊士が、今度は大虚なら斬ったことがあると言い始めたのだ。
「隊長、一つだけ言っておきたいことがあります」
万代は訪重郎の胸ぐらをつかみ上げた。嫌悪感を隠そうともせず睨みつける。
「死神を舐めるな」
虚との戦いは死と隣り合わせだ。任務の最中に命を落とす死神もいる。そして、仲間の死を悲しむ者がいる。多くを失いながらも彼らが剣を手放さず、虚に立ち向かい続ける理由とは、一重に誇りのためである。
それを思えば大虚を斬ったなどという軽薄な虚言を許すことはできなかった。万代が掴んだ襟を突き放すと訪重郎はよろよろと後ずさる。
「四番隊に戻られてはいかがですか? それがあなたにとっても、我々にとっても最善の道かと思います」
ここに訪重郎の居場所はない。これまで通り、四番隊で治療術の腕を活かした方が護廷十三隊のためになるだろう。訪重郎はその弁が間違っているとは思わなかった。彼自身でさえそう思う節はある。
「すみませんが、それはできません。ここで頑張ると決めたので」
訪重郎は困ったように笑った。そもそもの話、一度就任した隊長職を嫌だからという理由で辞退することは規則上できない。
仮にできるとしても辞める気はなかった。花太郎と約束したからだ。これまでの“何もしないこと”を続ける焼き増しの日常に戻ることはできない。五番隊の隊長として新しく生きることを決めたのだ。
「“頑張る”ですか……安い言葉だ。少しでも役に立つ気があるというのなら、今から私の修行に付き合ってください」
そう言うと、万代は有無を言わさず修練場の方へと向かい始めた。訪重郎に修行の立ち合い相手になれという。任務から帰ったばかりで軽いとはいえ怪我までしている身を案じて、仲間の隊士たちが心配する声をかけるが、万代の気が変わる様子はなかった。
誰かの剣の修行に立ち合うことなど、訪重郎にとっては初めての経験だ。これまでは見向きもされず無視されるばかりだった。ある意味では進展と言えるかもしれない。最初は断ろうかと思ったが、やるだけやってみることにした。
その前に怪我の治療だけはしておきたかったが、万代は頑として聞き入れなかった。訪重郎のことを敵としか見ていない。距離が縮まることは一切なく立ち合う流れになる。それを見守るように多数の隊士たちが集まっていた。
訪重郎は木刀を持ち、修練場の真ん中に立つ。緊張していた。なにしろ父以外の他人と剣の手合わせなどろくにしたことがない。自分が人に物を教えられるほど剣の道を究めたと己惚れるつもりもなかった。うまくやれるだろうかと不安になる。
下級隊士が万代の方へと駆け寄って木刀を手渡そうとしたが、彼をそれを断った。
「木刀では味気ない。“これ”でやりましょう」
万代は腰に差した刀の柄に手を添えた。戦時でもない限り廷内での帯刀は基本的に禁止されているが、万代は任務帰りということもあって今この時、斬魄刀を所持していた。
真剣による立ち合いの申し出だ。これには訪重郎のみならず見物に来た隊士たちもざわめきを隠せなかった。
「規則がありますので、それはあまりにも……」
「生温い。もし虚が目の前にいたとして、規則が何の役に立つというのです?」
万代はここで待つので訪重郎に自分の斬魄刀を持ってこいと指示した。真剣試合など明らかな隊規違反だ。さすがに許容できない。
「怖気づきましたか? 嘘をついたのですか? 五番隊のためにできることをするのではなかったのですか?」
他の隊士たちもこれはやりすぎだと思ったが、口に出して止めに入る者はいなかった。五席という地位はそれだけ重い。運悪く、万代以上の席次を持つ隊士は訪重郎だけだった。そして地位とは高ければ高いほどに責任を伴うものだ。
「……わかりました。そちらの真剣の使用については、今回限り目をつむりましょう」
「まるで自分は刀を使わないとでも言いたげに聞こえますが」
「はい。某まで規則を破るわけにはいきませんので」
つまり、訪重郎は木刀で闘うことになる。万代は表情を変えなかったが、密かに奥歯を噛みしめていた。要するに、斬魄刀を使う死神を相手とするに木刀でも十分だと言われたに等しい。堪えがたい侮辱だった。
「なるほど、さすが隊長ともなるお方は言うことが違う。私ごときが相手ならばさもありなん。胸を借りさせてもらいますよ」
万代は抜刀した。合わせるように訪重郎は木刀を下段に構える。始めの合図はない。互いが既に臨戦の間合いを図っていた。
例えばそれは朝露に濡れ、水気を吸った木々の葉のように。じりじりと沈み込み、葉先から滴る水に合わせて跳ね上がる。静から動へと移り変わる、その一瞬を両名が読み取ろうとしていた。
どうやら剣の心得が全くないわけではないらしい、と万代は推察する。訪重郎の纏う気配は普段と違った。命のやり取りに身を置く剣士のそれだ。ろくに剣も握ったことのない腑抜けではなかったかと、忌々しく思いながらも警戒心を高めた。
万代は訪重郎を侮っているわけではなかった。彼は貴族の出であり、その伝手を使って事前に訪重郎の経歴を調べていた。いかにしてこの男が隊長の座にまで上り詰めたのか。それが気にならない者はいないだろう。
訪重郎が入隊した記録は百年以上前にも及ぶ。見た目にそぐわず、それなりの古株だ。しかし、手柄と呼べるほどの戦績はなかった。百年以上も四番隊に在籍し、治療班として後方支援の任務についてきただけの男である。
それが唐突に藍染惣右介を殺し、代わりに五番隊隊長の地位に就いた。あまりに異常だ。裏があるとしか思えない。
徹底的に調べ上げた過程でわかったこともある。その疑念を確かめるべく、万代は斬り込んだ。
地を踏み抜くと同時に剣が閃く。手加減などない真剣による突き。当たれば重傷は免れない一撃は虚空を貫いた。訪重郎は変わらぬ構えのまま、その立つ場所だけをずらしていた。目を疑うほどに鮮やかな瞬歩である。
『逃げ足の訪重郎』と揶揄されているが、その技術は本物だ。霊術院を卒業後、二番隊からの招致があったほどである。ただ単に好成績を残しただけで入隊できる部署ではなかった。二番隊は他の隊と比べて異質な体制がある。
諜報や暗殺を担う『隠密機動』と呼ばれる組織と関係している。護廷十三隊とは別の組織であるが歴史的に二番隊と深く関わり、瀞霊廷の暗部を司ってきた部隊である。
結果的に訪重郎はその道を選ばず四番隊に入ったわけだが、果たしてその後も隠密機動と何の関りもなかったのか。万代は疑っていた。
今も密かに通じているのではないか。万代は隠密機動を信用していなかった。死神としての誇りもなく、汚い殺しに手を染める連中である。藍染惣右介の謀反という罪をでっち上げ、罠にはめたのではないか。
万代は最初から訪重郎が正面から藍染と戦闘して勝利したとは思っていない。藍染の強さを考えればそんなことはあり得ないのだ。卑怯な騙し討ちによって殺したに違いないと思っている。いかにも隠密機動のやりそうなことだ。
「どうしました? 逃げているばかりでは勝てませんよ?」
万代は攻め手を緩めなかった。次々に斬りかかる。しかし、そのどれもが空を斬るだけだった。次第に苛立ちが募る。訪重郎はその猛攻を難なくかわしていた。
試合を眺めている隊士たちは唖然としていた。一度や二度の回避であればそこまで驚くこともなかっただろう。しかし、万代の攻撃のことごとくが外れている。瞬歩の連続使用がどれだけ困難か、彼らは経験上理解しているのだ。
正直なところ、訪重郎がここまで動けると思っていた者はいなかった。隊長の座は権謀術数によって実力不相応に奪い取ったとか、あるいはたまたま運よく棚ぼたで出世できただけとか、その程度にしか考えていなかった。
訪重郎は息一つ乱れていない。足元からは緑色の光も出ていない。彼にとってこれは何ら特別なものではない“ただの”瞬歩だ。日が沈むまででも回避し続けられるだろう。
しかし、得物が問題だった。さすがに木刀で斬魄刀と打ち合うのは分が悪い。どれだけ贔屓目に見ようと木刀は木刀だ。“刃物”ではない。彼の能力の適用範囲外である。攻めあぐねていることは事実だった。
「くそっ! くそっ!」
息を切らしているのは万代の方だった。こんなはずではなかった。訪重郎の正体をつかむために挑んだ闘いだ。十一番隊ほどではないが精強な部隊と名高い五番隊の五席として確かな腕を持つ自負があった。その自分の剣が全く通用しない。
万代が訪重郎の経歴を調べる上で不審な点がもう一つあった。それは彼の斬魄刀に関する情報である。貴族の力をもってすればその記録を閲覧することも可能なはずだった。だが、そこに予想外の邪魔が入る。
綱彌代家の権限によって記録は閲覧不可となっていた。尸魂界における四大貴族の一角だ。その名を出されては万代も調査を続けることはできなかった。
考えてみれば十間坂訪重郎というたかが一介の死神風情がどれだけ策を巡らせたとて藍染隊長を追い落とすことなどそもそもが不可能である。だが、その背後に四大貴族の後ろ盾があったとすればどうか。
万代の知り得ぬ水面下で巨悪が蠢いているような気がした。しかし、彼には何もできなかった。尊敬する隊長の無念を晴らすこともままならない。
「貴様ごときにぃっ! 屈してなるものかぁっ!」
もうやめた方が良い。これでは修行にならないと訪重郎は思った。もし万代が冷静に闘うことができていれば勝負になったかもしれない。だが、怒りに我を忘れた彼の剣を見切ることなど造作もなかった。
訪重郎は万代の背後を取ると、静かに剣先を突きつけた。当たってはいない。だが、勝敗は明確についていた。
「某を憎むのは構いません。しかし、剣に対しては真摯であってください。そんな使い方をしては、貴殿の剣が悲しみます」
何も言い返すことはできなかった。ただ、万代の心中にはどろどろと黒い感情が渦巻いていた。剣を持つ手が戦慄く。
「手合わせに誘っていただき、ありがとうございました。某でよければまたいつでも相手を――」
訪重郎が何か言っているが、万代には聞こえていなかった。血圧の上昇による耳鳴りと心臓の拍動が響くだけだ。今を忘れ、昔の記憶ばかりが掘り起こされる。
五番隊に入ったばかりの頃の万代の態度はお世辞にも良いとは言えなかった。貴族であることを鼻にかけ、横柄に振舞っていた。そんな万代に対して藍染が何かをたしなめるようなことはなかった。
『信じていたからさ。君なら言わなくてもわかってくれるはずだと』
言葉で諭したところで万代は反発するだけだっただろう。藍染は見本を示した。
人を従える本当の資質とは徳であること、仲間を思う気持ちの大切さ、死神としての誇りとは何か。全て藍染に教わった。彼は直接、語ったわけではない。ただ藍染の生き様から万代はかけがえのない学びを得た。
なぜ彼が死ななければならなかったのだろう。彼を殺した相手に従わなければならないのだろう。
「今は休んでください。それでは、これで」
何も言わなくなった万代を見て疲れているのかと思った訪重郎はそっとしておくことにした。踵を返したその背中に向けて、万代は刀を向ける。
「
もはや罪に問われようと構わなかった。真っ当な手段では裁くことのできない悪を滅するため、万代の刀は姿を変えた。
その形は『
完全に隙を突いた。背後から瞬時に伸び迫る戟の刺突をどうしてかわすことができるだろうか。一瞬のうちに訪重郎の体は貫かれているはずである。
「おや」
訪重郎は何とも懐かしい気配を感じて振り返っていた。
その刹那、顔の横から一寸ほどの距離を鉄の穂が通り過ぎる。回避はしたが、斬魄刀に込められた霊圧の余波で眼鏡のレンズが片方砕けていた。
万代の手が止まる。訪重郎の顔を見たからだ。
「いいい」
訪重郎は無意識に手を振り払っていた。木刀すら持っていない。暖簾をくぐるように軽く指し込まれた手によって、万代の斬魄刀は真っ二つに切り分けられていた。
「においだ」
息を吸い込む。まるで夕暮れ時に家のかまどから漂ってくる、腹の空くような良い匂いにも似ている。
すなわち
「何をしているんですか……?」
時間が止まったかのように静寂に包まれた修練場に軽やかな声が響く。雛森桃だった。この騒ぎを鎮めるため隊士の一人が執務室へと呼びに行っていたのだ。
到着した雛森が見たものは笑みを浮かべる訪重郎と、その横で膝をつく万代だった。破壊された万代の斬魄刀が転がっている。刀の形状から変化した始解の状態である。雛森の顔から血の気が引いた。
「斬魄刀を開放したのですか?」
瀞霊廷内における帯刀は原則として禁じられている。まして死神同士の試合を理由に開放するなど言語道断。厳罰は避けられない。
「副隊長……私はこの男の正体を確かめるためにっ!」
訪重郎はまだ笑っていた。必死にこらえようとしているのだが、どうにも収まらないのだ。取り繕えずに顔が歪んでしまっていた。
「見てください、こいつはまともじゃない! 今の攻撃もおかしかった! その手に何を隠している!」
万代は斬魄刀を破壊される直前、訪重郎の手にキラリと輝く何かが見えた。暗器の類を隠し持っていたのだ。それも始解された斬魄刀を切り裂くほど強力な武器を。
訪重郎は手を開いて見せた。そこにあったのは何の変哲もないガラスの破片だった。割れた眼鏡のレンズである。先ほどはそれを人差し指と中指で挟んで振るったところ、万代の斬魄刀はあえなく壊れてしまったのだった。
四方八方を見物人に囲まれた状態で行われた試合である。多くの隊士がその非常識な現象を目の当たりにしていた。
「ち、違うのです……こんなはずでは……」
「いかなる事情があろうともこの場で刀を開放していい理由にはなりません。立ちなさい、万代五席」
雛森には万代の気持ちが痛いほどわかっていた。しかし、副隊長として何の咎めもなく見過ごすことはできない。万代はこれ以上、雛森に逆らう気はなかった。うなだれた様子で立ち上がる。
「いいのです、雛森殿。ひひっ、某が斬魄刀の使用を許可しました。大事には至っていませんし、この程度であれば不問に、くくく……ひひひひひ……」
笑うにしてももっと自然な笑い方があるだろう。訪重郎自身、これではいけないとわかっている。そのせいで冷や汗をかきながら口を引きつらせていた。雛森はそれをぞっとした様子で見ていた。
雛森は万代を引き連れ、何も言わずにその場を去った。集まっていた他の隊士たちも逃げるように散っていった。一人残された訪重郎は、またしくじってしまったなと頭を抱えるのだった。
続きました。