パラドックス博士:財団の文書館員。実は蛇の手のメンバー。後に財団にスパイであることがばれ、鴨の姿にされる……かもしれない。
ざわざわと生徒達の声が行き交うキャンパス内を歩きながら、アニーは酷く落ち着かない気分で拳を握り締めた。転入生だと言い訳したとしても明らかに不審なほど体を強張らせているが、どういうわけか周囲の人間がアニーに目を向ける様子はない。
「アニー、リラックスして。今回は周りから注目されないように僕が認識阻害を掛けているけど、毎度こういうケアがあるわけじゃない。君は非戦闘員として今後仲間をサポートしていく立場になるんだから、人混みで不審がられない振る舞いを身につける必要がある」
「そ、そうね……その、ちょっと慣れなくて……」
「まあ、いきなりだったからね。今回はお試しみたいなものだし、今後本格的に仕事をしていくなら黒の女王派閥の誰かが訓練をつけてくれるとは思うけど……」
慣れない場所に緊張しているアニーとは打って変わり、緑青は落ち着いた様子でスマホを眺めていた。最近は便利なもので、一々事務室までパンフレットを取りに行かずとも、大学のサイトなどに学内マップが載っている。
「例の子は人文学部の学生だったみたいだけど、旧実験棟と人文学部の校舎はかなり離れているみたいだね……まあ、君の能力があれば距離は大した問題じゃない。どちらにせよ、閉鎖されている旧実験棟に入るには非次元を通る予定だったし……まずは先に人文学部の校舎へ行こうか」
「隠蔽の確認? どういう風に確認するの?」
「単純に彼女の知人に話しかけて、覚えているかどうか確かめるだけでいいよ。書面上の確認は、実行した日の内に魔術師達がすでに確認しているから」
「人相手には再確認の必要があるってことかしら?」
「そうだね。人の記憶はふとした拍子に蘇ることがあるから、万全を期すなら再確認するに越したことはないよ。財団の記憶処理剤とかはかなり精度が高いんだけど、魔術による記憶操作はどうしても術者の練度とかにも影響されるし……」
「……そうなの? 財団に記憶処理剤を何度も飲まされたけど、割とぶり返してくることがあったわよ?」
「……どのぐらい飲んだの?」
「はっきりとは覚えてないけど、少なくとも3桁ぐらいは」
「よく体を壊さなかったね……」
財団の記憶処理剤が優秀なのは間違いない。だが、さすがにそこまで乱用していれば体も耐性がつき、効き目も弱くなってくるだろう。
「……ともかく、記憶操作は対象にとって身近な人間ほど効きづらくなる。記憶が抜けた時の齟齬が大きくなるからね。保護者からの聞き取り結果を受け取っているけど、どうやら彼女が学内で最も多くの時間を過ごしたのは同じゼミの生徒だったようだ」
「……友達はあまりいなかったの?」
「そういうナイーブなことはおいそれと口にしない方がいいよ……とはいえ、確かに友達は少なかったみたいだけどね。親も心配してたみたいだよ。家にいても魔術の話しかしないし、学校で上手く暮らせているのかって……実際、学校で隠れて魔術の練習をしていたのを考えると、上手く暮らせてたわけじゃないのかもね」
魔術師という社会から隔絶された存在だろうと、親子関係において悩む話題は一般人とあまり変わりはないのだろう。蛇の手に籍を置く魔女が、娘の行く末について頭を悩ませる様が目に浮かぶかのようだ。
「幸い、今日はゼミがある日らしい。皆真面目で、開始時間前には揃っているようだからそこへ乗り込んで確認しよう」
「の、乗り込んで? 大丈夫なの?」
「任せて。とりあえず今回は僕がやるから、君は扉のところから見ていてね。教授がいないタイミングを狙った方が自然に乗り込めるから、もし教授が近づいてきたら一応教えて」
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アニーが半信半疑で見守る中、緑青は何の躊躇いもなく講義室の中へ入っていった。室内にはすでに所属している全ゼミ生五人が集まっているが、誰も新たに現れた緑青に注意を向ける様子はない。これも緑青が仕掛けている認識阻害とやらの力なのだろうか。
「ねえ、ちょっといい?」
「うん?」
緑青が当たり前のように六つ目の席に腰掛け、隣の子に話しかけて初めて彼の存在に気付いたらしい。だが、その反応も驚きや困惑はなく、普段からいる同級生に声をかけられたかのような自然な態度だった。
「君達の学年でこのゼミに所属しているのは五人だけなの?」
「そうだよ」
「そうなの? てっきりここに、█████っていう子が所属していると思っていたんだけど」
想像より遥かに直球で突っ込んだ発言に、アニーは見守っているだけの立場ながらひやひやしてしまった。が、それでも話しかけられた学生はきょとんと不思議そうにするばかりだ。
「そんな子いたかな……ねえ、皆。█████っていう子知ってる?」
「誰?」
「私は知らないけど……うちの学部の子?」
「俺も知らないな」
「教養の授業で見たことないし、本当に同じ学年?」
皆が口々に知らない子だと言い合うのを眺めている内に、アニーはぼんやりと薄ら寒いものを覚えた。世間を騒がせずに活動するためには致し方ないことなのだろうが、蛇の手にとって人を一人この世から消すのは至極簡単なことなのだ。
いや、蛇の手に限った話でもない。アニーが財団に収容された後、おそらく彼女の痕跡もこんな風にして消されてしまったのだろう。改めてそのことを意識した時、アニーは今立っている地面が酷く不安定で覚束ないものに思えてならなかった。誰かが簡単に事実を塗り替えて、しかも周囲がそれに気付けないのなら──
「何かを信じるのが無意味に思えてしまった?」
「っ!?」
唐突に割り込んできた第三者の声に、アニーは危うく叫び声を上げそうになった。それを寸でのところで堪え、慌てて後ろに立っている人物へ向き直る。
そこにいたのは白衣を着た青年だった。大学内に白衣の人間がいるのはそこまでおかしくないはずだが、ここが医学部や薬学部ではなく、人文学部のキャンパスであることを考えると些か不釣り合いなようにも思える。
いずれにせよ、忍び込んでいるアニーにとって大学の人間と話し込むのはあまり良いことだとは言えない。緑青も教授が近づいたら知らせるように言っていたし、室内にいる彼に合図を送るべきだろうか。
「ああ、待って。驚かせてしまったのは謝るけど、私は怪しい人間ではないんだよ。これを見てご覧」
青年が差し出したのは、蛇の手の紋章が刻まれた懐中時計だ。
「ど、どういうこと……?」
「いやね、魔術師達が出した依頼が急にどこかへ消えたかと思ったら、新入りの君に任されたと聞いて……頼もしい助っ人がついているとも聞いたんだが、心配になってつい見に来てしまったんだ。ほら、情報の隠蔽はこれまで普通に暮らしてきた人にとって、あまり心地よい状況ではないだろうから」
「あ……」
まさに今の内心を見透かされたような発言に、アニーは動揺して何と言えばいいのか分からなくなってしまった。
「私は話し相手になることぐらいしかできないけれど、同じ陣営同士気兼ねなく相談してほしい」
「あなたも黒の女王の下にいる人だったの?」
「そうだよ……あ、ごめんね、まだ名乗っていなかったな。私は──」
「パラドックス博士、こんなところで何をなさっているんですか?」
不意に教室のドアが開いたかと思えば、愛想笑いを浮かべた緑青がするりと外へ出てきた。それに対し青年──パラドックスは「ああ、緑青くんか」と返しているため、二人はきちんと面識があるらしい。
だが、面識があるだけで親しいわけでもないらしい。両者の間に漂う空気は、どことなく触れ難い居心地の悪さを纏っていた。
「何か緊急のご連絡でも?」
「まさか。今日は至って平和な一日で、君を煩わせる報せなど舞い込んでこないよ。ただ、入って初日の後輩が上手くやれているか気になっただけさ」
「……そうですか」
緑青は愛想笑いを崩さないまま、この食えない博士に対し釈然としない思いを抱えていた。今の話は一見新人を気遣う優しい先達といった印象を与えるが、大学を訪れる際の詳細なスケジュールについて知らせていないことを考えると不信感は拭えない。
知らせていないはずのことを知っているとなれば、一番あり得るのはこちらの動向を見張っていたということだ。もしそれが事実だとすれば、緑青からしてみれば気分のいい話ではない。確かに、今回の件は黒の女王派閥からすれば突然横槍を入れられたのだから、あまり面白くない状況かもしれないが──それは二人を見張り、あまつさえわざとらしく接触を図っていい理由にはならない。
間違いなく、追及すれば分があるのは緑青だろう。だが、緑青は渋々口を噤んだ。彼一人だったならともかく、今はアニーが傍にいる。アニーの傍でパラドックスの不審な行動を咎めるのは気が引けた。
どうあれ、アニーは蛇の手に残ることを選び、母親の後を追う形で黒の女王の傘下に入ると決めたのだ。であれば、パラドックスに対し妙な不信感を芽生えさせるのは得策ではないだろう。黒の女王派閥は色々と過激なところはあるにせよ、派閥内では上手くやっているのだから。
「でも、二人が打ち解けてるみたいで安心したよ。この後もまだ何かやることがあるんだろう? さすがに仕事に割り込むわけにはいかないからここでお別れになるけど、何か困ったことがあればすぐに連絡しておくれよ」
終始善人然とした振る舞いを崩さず、パラドックスは軽やかな足取りで去っていった。それから一拍遅れて、二人もゼミ生が集まった教室前から離れて歩き出す。
「ねえ、さっきの人……博士って呼んでいたけど、蛇の手には学者も所属しているの?」
「まあ、確かに学者ではあるんだろうけど……博士と呼んでいるのは、彼がよくそう呼ばれているからだよ。パラドックス博士は財団に潜入しているんだ」
「えっ!?」
「異能者を保護して回るなら、財団の動向を把握するのは必須事項だからね。どの派閥も財団内に独自の伝手を持っていて、黒の女王が持つ伝手の一つがパラドックス博士なんだよ」
「そうだったのね……」
「バレたら交代になるし、いつまでパラドックス博士が潜入要員のままかは分からないけどね」
放浪者の図書館という強力なバックアップのお陰で蛇の手の情報量は財団を超えているが、財団もただ手を拱いているばかりではない。時には蛇の手の裏を掻い潜り、潜入要員を逆に寝返らせたり、秘密裏に処理して帰らぬ人にしてしまうこともある。当たり前だが、潜入というのは非常に危険な仕事だ。
「……ねえ、それならパラドックス博士に頼めば、財団の人間がどうなったのか確かめることもできるということ?」
「誰でも好きに調べられるわけじゃないだろうけど、ある程度は可能なはずだよ。何か調べたいことでも?」
「……いいえ、何でもないの。それで、次は地下に行くのよね?」
「……うん。一階の購買部前に大きな鏡があるから、そこから虚空に入ろう」
※パラドックス博士はグラス博士の著者(Pair Of Ducks氏)が最初期の頃、ごく短期間だけ使っていた人事キャラ。当時はSCPwikiができたばかりでルールもあまり明文化されておらず、著者達のロールプレイ遊びの最中に「パラドックス博士は蛇の手の一員だったらしい」という指摘が他著者があったことがパラドックス博士=蛇の手メンバー説の元ネタ。
※小ネタ。Pair Of Ducks氏は当初ParadoxでIDを取るつもりだったが希望のIDを取れず、結果としてパラドックスに読みの近いペアダックスで取ったらしい。
タイトル: グラス博士の人事ファイル
原語版タイトル: Dr Glass' Personnel File
訳者: Ikr_4185
原語版作者: Pair Of Ducks
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/dr-glass-personnel-file
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/dr-glass-personnel-file
ライセンス: CC BY-SA 3.0