現実改変者:神格存在に匹敵するほど強力な者を除けば、基本的には狡猾に立ち回ることの方が重要。馬鹿をやると速攻で財団やGOCの機動部隊が飛んでくるため、生き残っている現実改変者はその分用心深いところがある。
どこまでも続く暗闇の中、わずかな水音だけが響いている。父を助けに踏み込んだ時はあんなにも荒れていたのに、その時のことが嘘だったかのように足元の水面は凪いでいた。
「ここはポケット非次元と呼ばれる場所で、現実性が極端に低い空間だ。普通の世界は現実性が必ず1以上あるけど、この中は0.1すら下回る。だから、ここには歩くべき地面すら存在しない」
「なら、どうして私達はここを歩けているのかしら?」
「形あるものは必ず1以上の現実性があるからだよ。基底世界における現実改変は本来高い現実性を持つ存在……僕らのような現実改変者しか行えないけど、ここでは理論上どんな人間であっても現実改変ができる。つまり、考えた通りの物事を実現できる。だから、たとえ地面がなくても僕らが歩こうと思えるだけで歩けるんだ。勿論、現実改変者とは勝手が違うだろうけど」
現実改変者は世間から疎まれる存在ではあるが、実際のところ誰であっても現実改変が使えるとなれば誘惑に揺れるものだろう。現実改変は自身の現実性が及ぶ範囲なら、文字通り何でもできる。人を意のままに操ることも、空を飛ぶことも──死者を蘇らせることもできるかもしれない。
そんな現実改変能力が、ここにいるだけで誰でも使える力になるのだ。さぞ楽し気に聞こえるかもしれないが、ポケット非次元はただそれだけではない恐ろしい性質もある。
「ただ、普通の人間はここでは長く存在できないから、あまり立ち入らない方がいいけどね……短時間なら大丈夫だから、自由に行き来する手段があるなら問題ないんだけど」
「どういうこと?」
「現実性は高い方から低い方へ流れるものだから、現実性を自分に留める能力がない人間はここにいると徐々に溶けていくんだよ」
「え?」
「言葉通りの意味さ。体の表面は血肉として解け、緩んだ輪郭から眼球や内臓が零れ落ちていく……実際、過去にはそういう壮絶な死に方をした人が──いや、死んではいないか。現実がなければ生死に区別はないのだから、普通なら生きていられないような肉塊の状態になっても死にはしないから」
死とは、生命が終わったことに対する区切りだ。そういう概念だ。しかし、ポケット非次元では全てが曖昧なままであるため、どんな概念だろうと成立しない。それが本来生き物にとって絶対的な存在である死であってもだ。
「なら、あなたや私は……?」
「……ふむ。勿論、僕は問題ないよ。現実改変者は現実性を維持する性質があるから。でなければ、周囲より高い現実性を持つ現実改変者はすぐ力を失ってしまう。さすがにここで寝起きするぐらいずっと居ろと言われたら話は別だけど、普通の人に比べればポケット非次元を行き来するリスクは少ない」
「……私は?」
「そこなんだよね。今回ここに入る上でようやく君が能力を使うところを実際に見せてもらったけど、君は間違いなく現実改変者じゃない。なのに、ポケット非次元にいても何の影響も受けていないように見える……まあ、まだ短時間だからかもしれないけどね。それに、君の場合は自由に穴を開けられるわけだから、仮に影響が出たら致命的な事態になる前に基底世界へ戻れば済む話だ」
「自由に穴を開けられるわけじゃないんだけど……」
確かに、アニーはこの奇妙な空間を何度も出入りした。パトカーから逃げている時と、家まで押しかけてきた財団の機動部隊を振り切る時。一度目は入ったのも偶発的なものだったが、二度目は入ること自体は意図的に行えたのだ。
しかし、二回とも出る時は気付けば出ていたという感覚に近い。何らかの条件で出られることは分かるが、それが何なのかはよく分からない。
「少なくとも君はこれまで二回も、ポケット非次元を逃走のために役立てたんだろう? なら、君がまだ自覚していないだけで、君の異能が出入りどちらにも通ずるものなのは疑いようがない。そして、僕が推察するに……」
緑青は一旦言葉を切ると、懐からプリントされた写真を取り出した。そこにはガラス張りの壁の向こう側に、たくさんのソファーが並ぶ光景が映っている。
「異能者にせよ現実改変者にせよ、コントロールの精度が高まるのは気持ちが落ち着いている瞬間だ。だから、最初に受ける訓練は能力の応用法ではなくて、どんな状況でも気を落ち着けられるようにすることから始まる……思い出してご覧、君がこれまでこの場所を通して別の座標へ移動した時、外へ出られたのはいつだって何かが一段落した後だったはずだよ」
確かにその通りだ。一度目はパトカーが突然現れた列車に轢かれ、もう自分を追ってこれないと実感した後に外へ出た。二度目は財団の機動部隊から逃げ出し、少なくとも彼らはここへ入ってくる手段を持っていないのだと実感した後に外へ出た。いずれも「もう安全だ」と感じた時に出られたのだ。
「この写真に映っているのは、これから向かう実験棟内部の休憩スペースだ。君が逃走中という極限の状況下でもスムーズに能力を使えたのを考えると、すでに意識するだけである程度思った通りの場所に出れると考えている」
「意識……」
「常識を忘れ、空想に身を委ねるんだ。自分の部屋のドアを開いた時、その先が廊下じゃなきゃいけないなんて決まりはどこにもない。ドアの向こう側はダイニングかもしれないし、シャワールームかもしれない……もしくは、学校の教室かも。登下校に時間を使わなくてよくなれば、毎日できる限り遅くまで寝ていられて便利かもね」
「……ふふ」
確かにその通りだと感じ、思わず笑い声が零れてしまった。どんな国で生まれ育った子供でも、学校に通った経験があれば一度は思うことだろう。朝できる限り目一杯寝ていたいと──こんな異質な能力なのに、そんな日常的な活用法を提案されたのがちぐはぐで面白かった。
そう思って力が抜けた瞬間、不意に足元から浮遊感に襲われる。フラッシュを浴びたように視界が白く眩んだかと思えば、まるでどこからか落とされたように内臓が浮き上がる感覚を抱いた。しかし、それも長くは続かず、唐突に足の裏が固い床につく。
「おっと」
「ここは……?」
勢い余ってつんのめった緑青を咄嗟に支えながら、アニーは戸惑いを含んだ目で辺りを見渡した。写真で見たのと全く同じ場所だ。意識すれば望んだ場所へ行けるとは言われたが、本当にここまで簡単に成功するとは思ってもみなかった。
「ちょっとびっくりしたけど、成功してよかったよ」
「え、ええ……こんなにあっさり成功するとは思わなかったわ」
「さっきも言ったけど、元々君は異能の扱い自体には慣れていたからね。ただ、その習熟が逃走という極限状況下で培われたものだから、今後何が起きても緊張しないようにするのは少し苦労するかもしれないけど……まあ、それは君の仲間が追々教えてくれるはずだよ」
「言われてみれば、いつも今回みたいに落ち着いて使えるとは限らないものね……」
ポケット非次元は滅多に第三者など入ってこない場所だが、物事に絶対はない。加えて、蛇の手は身内贔屓のところがあるとはいえ、人が集まれば人間関係トラブルは大なり小なり必ず起きるものだ。組織に所属する以上、時には個人の感情を抑えて仕事に当たらなければならないこともあるだろう。
「ま、今は不良学生の練習場後片付けを優先するとしよう」
緑青はのんびりとそう言い、アニーを連れて一階の休憩スペース最寄りの階段へ向かった。そこには階段の下の狭い空間に押し込むようにして、何の変哲もない金属製のドアが備え付けられている。
「これが地下に続く扉?」
「昔は倉庫として使われていたんだけど、建物の老朽化が原因で地下は職員ですらほとんど入らなくなってね。だからこそ、魔術の練習場として都合が良かったんだろうけど」
おそらく本来は施錠されているのだろうが、緑青は呆気なくドアを開いて地下へ続く階段へ踏み入った。階段は所々壁の塗装が剥がれており、もう随分と長いこと放置されている様子が窺える。不気味な階段は想像以上に長いものだった。
「ここって本当にただの倉庫……?」
「大学ができてからは倉庫だったよ。大学創設前は近くの鉱山から隣の町を繋ぐベルトコンベアが通っていたらしい。せめて地下通路と校舎を塞ぐ壁でも作るべきじゃないかという意見はあったようだけど、お金もかかるし生徒を立ち入らせなければ問題ないだろうということでそのままになったみたいだね」
「ちょっと不用心ね……」
「まあね。さすがに今回みたいな件は一般人からすると想像できないからいいとして、そうでなくとも好奇心旺盛な学生はいるだろうし……というか、学校側が把握してないだけで、今までにも忍び込んだ学生はいたんじゃないかって気がするけどね」
「それもそうね。そう考えると、今回の件はよく学生にバレずに済んだわね……」
「ああ、その辺はさすがに対策してあるからね。魔術の中には人除けとして、一般人が無意識に近づかなようにできる結界なんかもあるんだよ。財団みたいな知識のある人間も遠ざけるとなるとかなり強力なものが必要になるけど、一般人相手だけを想定するなら修行中の見習い魔術師でも十分な効力のものを用意できるはずだ」
「魔術って本当に色々あるのね……」
話しながらそれなりに長い階段を下り切ると、二人はだだっ広い空間に辿り着いた。どこまでも続くような広い空間は、ここが元々ベルトコンベヤだったと聞けば納得できる。一応、大学が敷地として持っている分だけフェンスで囲ってあるようだが、これもまた簡単に越えられる程度のものだ。
尤も、普通の人間ならわざわざフェンスを乗り越え、あまりにも広くて真っ暗な空間を探索に出ようとはしないだろう。野生の獣がうろついているわけでもなければ、墓地など明らかに不吉な場所というわけでもないが、遥か遠くから流れる地下の冷たい風が首筋に触れていく感覚はあまり良いものとは言い難い。
「……結構歩くの?」
「いや、もうすぐだよ。ほら、あそこからコンクリートがなくなってるだろう?」
緑青が指差した先には、確かにコンクリートが崩落している部分があった。使われなくなってからは整備もされていないようなので、自然に劣化して崩れたのだろうか。
剥き出しになった土の穴を囲む形で、机が配置されている。机の上には小瓶やナイフなどが置かれており、如何にも怪しげな儀式現場というイメージを与えた。
「……ねえ、このナイフ、血が」
「まあ、魔術ってそういうところがあるから」
緑青は不気味な儀式現場も気にすることなく、一瞬で全ての道具を消した。次いで、深い土の穴を見下ろす。アニーは自然と緑青に釣られて穴を覗き込んだが、すぐにそうしたことを後悔した。
「何、これ……」
「ベッドから生まれた人型実体だね。魔術で気絶と処理をしているだろうから、死因から魔術師の関与が疑われることはないだろうけど……残念ながら体に不自然な裂傷なんかがあると財団に勘付かれるから、それらを消さないとね」
死体の山だ。そうとしか言いようがない。あるいはただの死体の山なら、ここまで悍ましく思うこともなかったのだろうか。
件の学生には誰もここには近寄らないという慢心があったためか、土に埋められた死体は所々顔が見えたままになっていた。それらの顔は全て同じだ。量産された人形のように、あちこちにそっくりな顔を持った死体が転がっている──それでいて、その顔に浮かんだ表情は少しずつ違っている。どうやら使う前に気絶させてはいたようだが、それでも何人かは目覚めたのか、あるいは深い眠りの淵でも何かしらの苦痛を感じたのだろう。能面のように何も感じていない顔もあれば、苦悶の表情を浮かべたまま硬直している顔もあった。
「……大丈夫?」
「……ええ、大丈夫よ」
アニーは怯みかけたが、こちらをじっと見つめる緑青の視線に頷き返した。
財団のDクラスほどではないにせよ、蛇の手でもこういった光景は度々見る機会があるはずだ。ここで音を上げてしまえば考えた末に出した答えが台無しになってしまうように思え、アニーは努めて平静を装う。それは緑青にはバレていたかもしれないが、彼は何も言わずに視線を穴へ戻した。
「ま、これで仕事は終わりだからさっさと済ませよう」
「あの……傷を消すだけでいいの? 死体は?」
「現実改変は規模が大きければ大きいほど、現実性の変動が大きくなって財団に気取られるリスクが上がる。ここにある大量の死体を丸ごと消すよりは、傷だけ消した方が僕らの行動がバレない可能性が高くなるんだ。特に何もしていなくても現実性が高い場所はたまにあるから、多少なら気付かれないんだよ」
「そうなの……万能なようでいて、色々気を遣う部分があるのね」
「そうだね。残念ながら、僕らは神様ではないわけだから」