~Die Undinen~ Schwarzesmarken 隻影のベルンハルト EXTRA   作:燈夜4649

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001_プロローグ

~Die Undinen~ Schwarzesmarken 隻影のベルンハルト EXTRA

 

 1972年 ドイツ民主共和国 東ベルリン

 

 その一室は、柔らかな紅茶の香りで溢れていた。

 

「兄さん、お茶が入りました。休憩なさっては?」

 

 麗しき金髪を、三つ編みに流した影が近づく。

 鈴のような声に応える若い男性の声一つ。

 

「ああ、アイリスありがとう。さすがは愛しき妹よ。よくできた妹だよお前は」

「褒めても何も出しませんよ?」

「お前がいるだけで俺の心が落ち着くんだよぅ!」

 

 アイリスディーナの小さな笑み。それを見逃さない兄ユルゲン。

 兄にとって、それは無限とも思える至福の一瞬である。

 

「そう。こうして見目麗しい美妹の姿を近くに見、声を聞けるだけで満足だ」

「次からは冷え切ったお茶をキッチンまで取りに来させますね?」

 

 兄は意味不明な褒め方をする。意味深なことにいつもどおりの!

 だが、その妹は顔色一つ変えない常識人と思われた。

 すると兄は。

 

「いやあ、お前の煎れたお茶はいつ飲んでも美味いなあ! 美妹最っ高!」

 

 白いティーカップには花柄のワンポイント。

 妹の選んだ器である、

 彼はゆったりと椅子の背もたれに背を預け、体育学校で水泳を専門とする彼の妹の入れた暖かいお茶を口に含むのであった。

 

 

 

 

 

 ◇ 五輪強化選手

 

 プールだ。

 しかし、体育学校の付属プールではない。

 地区大会で選抜された五輪強化選手の集う、東ベルリンの大プールだ。

 鼻香る薄い刺激臭。

 塩素臭のする湿度の高い屋内プール。

 一際深い、そのプールは青の塗装を別にしても、青く淡く煌いていた。

 そしてプールサイドには高さ十メートル飛び込み台が。

 それが屋内プールの天窓から指す光が当たり、白く輝く。

 いま、そこに二人の乙女が立っている。

 両名スイムキャップに水着姿のスラリとした姿態。

 笛の音一番、世界が緊張で凍る瞬間である。

 合図と共に、二人が動き出す。

 ステップ一、二、三。

 

 ──そして今!

 

 そう、その彼女らが、今背面跳びを成し遂げようと、エビゾリに。

 

 陽光と同じく天井のライトを照り返す水面は青く澄み切り幻想のよう。

 ライトが照らすその水は、どこまでもキラキラと輝いて。

 それは彼女らの前途をまるで祝福しているような。

 

 ああ。

 そのため息が出るほど美しい姿はまさに水の妖精。

 今、空中にあるそんな乙女らは、きっとウンディーネに愛されているのであろう。

 

 しかし、アイリスディーナの兄ユルゲンは、美妹とその相棒の女学生の演技に違和感を覚え、吐き捨てる。

 アイリスディーナの演技にイマイチ冴えがない。

 

「あの相棒……美妹の相棒……どんなヤツなんだッ! 例え女でも、もしろくでもないヤツだったら許さねぇ!」

 

 アイリスディーナにとって、人には聞かせたくない妄言である。

 でも、その人物はアイリスディーナの実の兄なのであった。

 

 ◇

 

 そうとも。

 水面はどこまでも青く、静か。

 アイリスディーナと、その相棒であるベアトリクスが飛び込み台から飛び込んだ水面。

 シンクロナイズドダイビングと言う名の競技にて。

 その二人の舞はそれはそれは見事で。

 彼女らが水に滑り込んだ後も、水面は平静を保ったままだった。

 素晴らしいフィニッシュと言える。

 そして水面に至るまでの舞こと二回前転一回右捻り。

 二人とも完璧のはずだった。

 審判がいたならば、この二人へ、どの程度の得点を出すだろう。

 いや、見るまでもない。

 それはきっと高得点に違いないのだ。

 だが彼女らのコーチは不服のようである。

 眼が肥えているのだ。五輪に全てを賭ける静かなる鬼。

 その男、名をハインツ・アクスマン中佐。

 彼が軍属なのは、彼が国家保安省、つまりはシュタージに所属する、党と祖国と人民の威信を賭けた選手の指導の任に当たっているためである。

 しかし彼がやっているのは、年頃の小娘二人の相手。

 中佐の肩書きなのに、スポーツの仕事なのだ。

 これはアクスマンが閑職に追い込まれているという事でもあるのだろう。

 つまり、窓際族!

 この職場は彼だけのためにあり、この任は彼だけに与えられている。

 ハインツ・アクスマン。

 もう一度言おう。彼は立派な国家の犬である。

 だから、今さら彼に敵はなし。

 多少のことでは彼は動じない。ああ、彼にあと少しでも他人との協調という認識があったなら!

 おっと、これは彼が信奉して止まない栄えある東ドイツの誇る社会主義の原則に反する想いであった。

 そんな彼が話す言葉に注目してみよう。

 みな、違和感に気づくはずだ。

 彼はもしかして、閑職が正に相応しいアホなのか、と。

 その言動もどこか緩く、自嘲を隠さない言葉を放つ歩く爆弾とも言えよう。

 それほどまでに彼が日々アイリスディーナとベアトリクスに掛ける言葉は、実に危険すぎた。

 政治的過ぎるのだ、彼の冗談は。

 ソ連の誇る政治寓話アネクドートを越えている。

 東ドイツ国民の十人に一人が密告者と言うこの国で、もうこれは命をかけて遊んでいるとしか思えない。

 しかし、常に笑顔を浮かべているアクスマン。

 芝居がかった調子のアクスマン。

 いったい彼が何を考えているのか。

 ただ確かなことは、彼は密告する側でなく、密告を受ける側であるということだ!

 だが、彼は他の同僚、つまり他の杓子定規な国家保安省のやからとは違う。

 彼は密告を受け付けるが、常にその密告を上層部に上げているとは言いがたい。

 彼の歪な正義に適う案件だけ受け付ける。

 そう、例えば水泳競技の選手に黄金の国ジパングの『スク水』を着せてほしい! と言った密告を最優先で処理するように!

 そうなのだ。

 それは今期の五輪、モントリオール五輪の代表の強化対象の選手であり、アスクマンと付き合いの長いアイリスディーナとベアトリクスにもイマイチ掴みきれない部分である。

 で、プールサイドに上がろうとする二人にそのアスクマンのおどけた声が降ってくる。

 そう、いい加減前置きはこの程度にして、物語を進めよう。

 

 その彼、国家の犬シュタージの、アクスマン中佐曰く。

 

「アイリス、ベアトの演技が素晴らしかったのを自覚できているかね? 君の目で見てからどうかね?」

 

 アスクマンが二人に声をかけるのは珍しくない。

 だが、今回の話題は珍しい。

 選手が自ら欠点に気づくことを好むアクスマンがアイリスディーナの演技に口を挟むとは。

 

「え? あ、はい、コーチ」

「ふむ、アイリス。君は解っていた、そういう認識で良いかね?」

「はい、巧く合わせる事ができませんでした。精進します」

「それは当然のことだ。何せ君らの演技は我が国の希望足りえるのだから。シンクロナイズドダイビング。二人のシンクロが全てを決める。二人仲良く同時に、まるで同じであるかのように!」

「はい!」

 

 今年17才となる天才の一人、アイリスディーナは元気よく。

 ベアトリクスの視線の先はアイリスディーナ。無言、そして無表情。

 そしな彼女らにアクスマンは両手を広げてこう言うのだ。

 

「二人のドイツ人。二つの国家。シンクロナイズドダイビングは二人の競技。どうだ? 思い当たる事があるだろう」

 

 アクスマンは二人の顔を交互に見つめ。

 

「そうとも、この競技。この分断国家に相応しくないかね? 我が国が西の傀儡と手を結び、真の統一を成し遂げる! 正にそのを、その実現を象徴している競技とも言える」

 

 アスクマンの危険すぎる発言。

 アイリスディーナの顔は青くなるも、流石のベアトリクスは平然としている。

 

「西と結ぶ? コーチ、アスクマン。あなた、相当に教育学校に縁を結びたいようね? 父に言えば、明日にでも紹介状を持ってこれるのだけど」

 ベアトリクスの鉄面皮は動かない。

 

「それには及ばないよベアト。私の忠誠は国家と党と共にある。なにせ私は社会主義の最終的な勝利を信じているからね」

「先ほどの妄言、本気で言っていらっしゃるのかと思ったわ」

「まさかまさか。我がドイツ民主共和国の期待の新星である君ら二人に発破をかけただけだよベアト。無論君らの勝利が我が祖国主導の統一への輝かしき一歩足りえるのだから!」

 

 ベアトリクスの表情が崩れる。

 そして目じりが釣りあがり、その一瞬の怒りも消え失せる、なんともいえない呆れ顔。

 

「コーチ。軽々しく人の名前を呼ばないでくれる? 前から思うところはあったのよ?」

「なに!? 親愛の情を込めて愛称で呼んでいると言うのに。不満かね?」

「他にどう聞こえたのかしら?」

 

 ベアトリクスは嘲笑混じりに上から眼線。

 アクスマンは一度、言葉を飲み込む。明らかに、アクスマンは彼女の圧に押されていた。

 もっとも、彼女、ベアトリクスはまだプールの中に。

 彼女の見上げる先はアクスマンのバカ面だ。

 

「残念だが、それはできない。私は君達のコーチだ。その私の使命の一つに代表チームの面々との親交を深める、と言った課題があるのだよ」

「ああそう」

 

 そっけない返事に慣れているのか、アクスマンの表情は変わらない。

 で、畳み掛けるようにベアトリクスは相棒に顔を向け。

 

「でもごめんなさいね、アイリス。私、人と合わせるのが不得意なの」

 

 ベアトリクスが背後のアイリスディーナに声をかけ。

 毒舌を披露した彼女はそのままプールから上がる。

 そして、そんな彼女にアイリスディーナは言うのだ、

 

「大丈夫よベアトリクス。私、五輪の本番までに必ずあなたに追いついてみせる。あなたが幾ら前を走っても、私も必ずその位置へ、いえ、その先へと行ってみせるから」

 

 ベアトリクスの眼が丸くなる。

 これでもかと見開かれる。

 

「そう? そうね、言うわねアイリス。ユルゲンも言っていたわ。あなたは負けず嫌いで執念深いんだって」

「兄さんの目は腐ってるけど、ベアト? 兄さんの私を見る目だけだけは信用しても良いかも?」

「そうね、私の婚約者は重度のシスコンだったわね。あなたと、あなたの兄を信じるわ」

 

 プールサイドでキャップを取る。

 黒い濡れた髪がテラテラと輝く。

 

「で、コーチ、アスクマン。まだ話があるの? 私に競技の質を落せという話は聞かないわよ?」

「ふっ、言うな君もベアト。でも、その心配は要らない。先ほど私はアイリスの決意を聞いた。本当に涙無しには語れない、固い決意だった。それでこそ我が国の栄えある代表だ。我が国の、党と人民への心からの誓いだった。実に素晴らしい!」

 

 アクスマンが感情を込めて右の拳を振り上げるも。

 

「あ、っそ。行きましょうアイリスディーナ。ちょっと休憩してから練習の続きよ」

 

 ベアトリクスは黒髪をかき上げながら吐き捨てる。

 アクスマンの顔を見てもいない。

 

「ええ、ベアトリクスの意見に賛成です。お茶にしましょうか」

 

 続くアイリスディーナの声。こちらも、アクスマンの顔など見ていない。

 取り残されるアクスマン。

 その右腕は上がったままだ。

 彼は苦笑い。

 

「私もご一緒しても良いかね?」

 

 情けなくも彼は上げた右腕をそっと下ろし。

 

「お断りよ、乙女の秘密話まで情報収集するの? シュタージファイルって本当にあるのね。あなたを見ていると都市伝説も真っ青よ。コーチ、アクスマン」

「これは手痛い指摘だよベアト。アイリス、君からもベアトに一言言ってくれないか」

「コーチ、ベアトリクスの言うとおりです。あんまりしつこいと本当に警察呼びますよ? コーチって本当に暇ですね。ああ、こんな小話を知ってらっしゃいますか? この国には失業が無いのに労働者の半分しか働いていない。それでいて半分の人間しか働いていないのにいつもノルマが達成されるんです。コーチはご存知ですよね?」

 

 アイリスディーナも毒舌だった。

 アクスマンの表情が一瞬で翳る。

 

「ああ、冗談だよ。乙女のお茶に一緒するのは諦めよう。誰が邪魔をするものか。君達には党の指導が行き届いているようだしね」

 

 貼り付いた笑いのアクスマン。彼の心境はいかばかりか。

 ただ、只では起きないアクスマンであった。

 彼は零す。

 

「いいペアだ、この上ない。私の見立てに間違いはなかった」

 

 自身を正当化する、その視線は黒髪のベアトリクスと同じようにキャップを取ったアイリスディーナの見事な金髪と、その二つの背中に注がれているのだった。

 練習場のギャラリーに座する「ふざけた野郎だ!」とでも憤怒しているであろうユルゲンの顔にも気づかずに。

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