~Die Undinen~ Schwarzesmarken 隻影のベルンハルト EXTRA 作:燈夜4649
お茶会である。
香りが湯気と共に流れてくる。
白い机と椅子に、金と黒の乙女らがお茶を囲む。
白磁のティーカップ。ワンポイントの花柄がアイリスディーナには美しく思えた。
彼女の趣味にも合うティーセットである。
カップに無言で口を付けるベアトリクス。
「あら、このお茶は?」
「ダージリンにレモンを浮かべてみました」
ベアトリクスは香りを嗅いで。
「贅沢ね」
「ええ、確かに私たちは恵まれてますね」
「あれもこれも、きっと父やコーチのおかげね。面白くないわ」
「え? ベアト?」
ベアトリクスは毒を吐く。
彼女は早く独り立ちしたいらしい。
そう、アイリスディーナともども難しい年頃なのだ。
「なんでもないわアイリス。心身に栄養をつけて、本番までに体を作りましょう」
「そうですね、ベアト」
アイリスディーナもお茶を口に含んだ。
「コーチを誘わなくて正解だったわ」
「なぜです?」
「あなたも賛成したじゃない」
「今思うと、コーチに可愛そうな気がしています」
そうかしら、と言いそうなベアトリクスであったものの。
「では、あなたの兄さんでも呼ぶ?」
「そうですね。でも、そうなったときには私は急な用事を思い出すと思います」
「アイリスディーナ? それ、あのシスコン兄貴に聞かせたら、きっと泣くわよ?」
「大丈夫です。兄のユルゲンは強い人。私に袖にされたぐらいでは泣きません」
「まあ、アイリスがそう言うのなら?」
二人は笑いあう。
そして暫くして、二人は練習を再開するのであった。
◇
──時は少しさかのぼる。
アイリスディーナとベアトリクスの出会い。
それは決して一筋縄ではいかないもので。
語らねばなるまい。二人の始まりの物語を。
輝きに満ちた二人の青春の物語を。
そして、運命に選ばれたものだけが許される、運命の女神の微笑を。
◇
それはある日のことだ。
日暮れはもうすぐ。
西の空が真っ赤に燃えている。
居残り自主練を終えたアイリスディーナは、早歩きをする目標を見つけては、歩調を上げる。
ウェーブのかかった黒髪を揺らし、引き締まった体格のベアトリクスである。
うん、特徴ある黒髪。
そしていつもの『近づかないで。私、毒のある女なのよ』といった雰囲気をまき散らして歩く女子。
間違いない。
その女子にアイリスディーナは迷わず声を掛ける。
そうとも、なけなしの勇気を振り絞るのはこの時だ!
頑張れ乙女! 栄光の未来への第一歩はここから始まる!!
そしてアイリスディーナは声を発した。
「ねえ、ブレーメさん」
と。
「なに? あなた」
ベアトリクスは振り向くも、その声は冷たい。
「もう何日も一緒に練習したじゃないですか。飛び込みの」
笑顔を浮かべたつもりのアイリスディーナ。
ああ、その笑みはどこかぎこちなくて。
仕方がないのだ、ベアトリクスから発せられた声の調子がゆっくりで、しかも低すぎる。
「ああ、あなたがほぼ毎回付き合ってくれている金髪の子ね」
だが意外も意外。
練習中、挨拶どころか視線の一つもよこさなかったベアトリクスはアイリスディーナのことを覚えてくれていたらしい。
ただ、名前は読んでくれなかったが。
でも、アイリスディーナは素直にそのことを喜んで。
「そう! 私はアイリスディーナ! アイリスディーナ・ベルンハルト!」
と声のトーンを高くするも、当のベアトリクスに興味は無いようで。
「で、そのベルンハルトさんが私に何の用?」
氷点下の声が降ってきた。
だが、アイリスディーナはくじけない。
「コーチの話だと、私とベアトリクスさんはペアを組んでシンクロナイズドダイビングの競技をするんですって!」
「はあ? あなたと私がペア?」
「そうです! そうなんですよ?」
ベアトリクスは少し考えて。
「ああ、そんな妄言も聞いたわね、そう言えば」
うん、周知の事実のはずだ。
優秀者の集まるプールサイドにて、面と向かってアイリスディーナとベアトリクスを前に発表したのだから。
だが、ベアトリクスは差も聞いていなかったようなことを言う。
「そう! よろしくね、ベアトリクスさん」
アイリスディーナの頭の中で、何かがプチっと切れて思考が途切れるもの、この程度ではくじけない。
何せ、家にはあの変人の兄を毎日相手しているのだ。
そう。妹は賢くなければ。
特に、兄が情けない場合は。
兄も勉学にスポーツにと、とても素晴らしい際のを持っているのだが、その才能を打ち消して止まない変態的な性癖があるのだ。
で、ベアトリクスは何かというと。
「気安く名前で呼ばないで」
うん、予想の範囲。
ベアトリクスはアイリスディーナを突き放す。
「え? じゃあ、ベアト」
「愛称で呼び合う仲だったかしら? ベルンハルトさん」
「私はアイリス。アイリスディーナ!」
アイリスディーナは即答、ベアトリクスも即答。
だがしかし、構わずアイリスディーナは言葉を重ねる。
「あなたは馬鹿じゃないと思うけど、私とあなたは愛称で呼び合う間柄じゃないわ」
「これから築くのよ! 私たちの良好な関係と友情を!!」
氷点下のベアトリクスに対して、なんとアイリスディーナの熱血な事か!
「あなた、理想家? この国じゃ早死にするわよ? せめてもの忠告」
「ううん? わたし、ベアト──」
「ブレーメ」
ほとんど押し問答どころか繰り返しである。
馬の耳に聖なる祈りをささげ囁くようなもの。
これではアイリスディーナの勇気が、せっかく出したなけなしの勇気が無駄になる──。
アイリスディーナ多立ち止まり、力いっぱい叫んだ。
折れそうになる心を奮い立たせ、おそらく近くにいるであろう、彼女のボディーガードにも聞こえるほどの!
「ううう、私はブレーメさんと仲良くしたいの!」
声の大きさに立ち止まったベアトリクスは目を丸くする。
表情は語る。ここまでしつこい人間は初めてだと。
彼女の前の金髪の子は、必死になって彼女に訴えかけているのだ。
「それはあなたの一方的な思いよね?」
と、言い切るベアトリクスに。
しかし、そのアイリスディーナは。
「シンクロなんだよ? 私、競技で世界一に成るためには、嫌でも……嫌じゃないけど、あなたと仲良く、それも最高に深い仲にならなきゃならないの!」
だが、ベアトリクスはあくまでも冷静だ。
アイリスディーナはこのベアトリクスに心にさざなみの一つでも立てることに成功しているのだろうか。
そのアイリスディーナは思うのだ。たったそれだけのことが、こんなにも伝わらないなんて。
と、そんな感じだ。
「あなたも私の家の事、知ってるでしょ?」
そう。ブレーメ家は国家保安省の息がかかっている。
でもシスコン兄貴のせいで、今だ幼さを残すアイリスディーナに、そんなものが何の障害になるというのか。
「知ってる。だけど!」
「だけど何?」
「私はあなたが何者であろうと、あんな美しい競技を見せるあなたと一緒に夢を勝ち取りたい!」
ベアトリクスは溜息をついて。
「そんなの、あなたの勝手な妄想でしょ? 私はあなたと仲良くする気なんて無いから。それにね、もっと自分の技を磨いてからペアだ、仲間だ、って話をしてちょうだい」
そう、ベアトリクスは歯に衣着せず、アイリスディーナの欠点を指摘する。
「大丈夫。私、負ける気は無いの。私、諦めるのは嫌いで、負けるのも嫌いで、しかもが執念深いの」
アイリスディーナの顔には花が咲く。
この子、ベアトリクスはきちんとアイリスディーナという人物を分析していたのだ!
「あ、っそ。ベルンハルトさん? あなたが練習しようとするのも、一方的に私に話しかけるのも自由。でも、私が隠したのあなたの意見になびくことは無いわ」
が、辛辣に突き放すことに変わりはない。
だが、アイリスディーナは押しに押した。
「いいえ、ベア……ブレーメさん。私は私とあなたが世界一となることは確定した未来よ。だって、私、自信があるもの。私の夢、五輪で金メダル、もうそれは決定しているようなものなの!」
するとまたもベアトリクスの表情が。
硬直どころか口の端が上がり。
それは自然と柔らかな笑みへと続く。
「呆れた。ほんと、あなたって夢想家ね。頑固な夢想家なんて、頭の悪い西の資本主義者にしかいないと思っていたわ」
ベアトリクスは口を隠して笑い出す。
「じゃ、私はアイリスディーナ! アイリスって呼んでね! ブレーメさん」
「ええ、ベルンハルトさん、あなたが追いつこうとしてる間に、私がはるか先に進んでしまってどうしようもない位、先へ先へと進んでいないことを祈るわ」
「もちろん! わたし、負けない!」
アイリスディーナはここぞとばかりに宣言する。
勢い込むアイリスディーナにベアトリクスはクスクスと。
今度は白い歯を見せて。
「ベルンハルトさんって元気ね」
「アイリスディーナ!」
「いえ、ベルンハルトさんと呼ばせてもらうわ」
「いいえ、アイリス!!」
アイリスディーナはそれでもアピールを続けて。
「はあ、私は格下のあなたなんて眼中にないけど? せいぜ後輩や新参者に足をすくわれないことね。これから私の隣にいるんでしょ? 補欠と交代だなんて無様な真似はしないわよね? こうまでして啖呵を切るあなただもの。きっと大丈夫だと思うけど?」
ベアトリクスの目が光る。
さては、アイリスディーナの心がベアトリクスに届いたのか、どうなのか。
「ほら! ベアトリクスさんも私を認めてる!」
「今の話のどこをどう聞けば、そういった解釈になるのか……わけが分からないわ」
と、言いつつ。
「でも、友達候補ぐらいには認めて上げる。あなたの根性に免じて。ああ、そうよ、私の家がどうだろうと、私は私だったのね」
「え? 友達? やったあ! ありがとうございますブレーメさん」
「ええ、よろしく。ベルンハルトさん、私を失望させないでね? あと、退屈なのも嫌だわ」
「アイリス!」
「いいえ、あなたはまだベルンハルトさんよ」
「そんなあ」
「名前で呼び合うように成りたければ、あなたまだまだ頑張ることね?」
「当然よ!」
と言いつつ。
いつの間にかベアトリスの横にアイリスディーナが並ぶ。
そしてお互いに顔を見つめあい。
自然と二人は並んで家路につくのであった。
◇
──と、言う感じで。
ああ、ベアトリクスが心を開いてくれるまで、かなり疲れることがあったのだ。
今となってはアイリスディーナには思うことがある。
あれもこれも、結局兄さんのおかげだったのかもしれない。
五つ離れた兄。
少々……いや、いやいや。
むしろ異常なまでのシスコンの気があるが、アイリスディーナにとって素晴らしい兄には違いない。
そして、ベアトリクスの氷の心を融かし、目を覚まさせた張本人でもある。ベアトリクスにとってもに今の兄、ユルゲンは必要な人間だろう。
うん。ここまでの道のり。
そんな記憶を思い出すほどアイリスディーナがベアトリクスとペアを組んだ最初の頃は、それはそれは酷いものだった。
でも、ベアトリクスが練習時間の延長をコーチのアスクマンに申し出るほど、アイリスディーナの演技はみるみるうちに彼女の背後を脅かすに至るのである。
そう、ベアトリクスがアイリスディーナの変態シスコン兄貴の存在を意識するきっかけとなった、ある日のちょっとした大会の本番にて、二人にかけられた応援の声で。そして何もかもを見通す、その変態兄貴ユルゲンはベアトリクスの怪我──不調を指摘してきたのである。
さすが変態。愛する妹のペアのことも、しっかりと目と耳を開いて、実に細かい部分まで看破するに至っていたのだ。
アイリスの──そう、その日以来、いつの間にかベアトリクスは彼女の事をそう呼んでいた──。
「結局、あの子の宣言どおりになったようね。私、少し甘くなったのかしら。あの子の変態兄貴のこともちょっと見直したわ。あのアスクマンでさえ見抜けなかった足の不調……ま、アクスマンには無理でも、見る人が見れば判るのね。あの変態、ユルゲンと言ったかしら。お父様に報告を上げなくちゃね」
哀れユルゲン! なんと彼はこんなにもつまらない色恋沙汰で、国家保安省シュタージの上級幹部の一人、ブレーメ氏に勘ぐられる存在となってしまったのである!
親が娘を思う気持ち。それは赤い貴族でも普通の市民でも、全く代わらないものなのだ!
ああ、ユルゲンの未来に幸いあれ。
しかし、ベアトリクスはユルゲンを認めたのである。
彼は一番星を掴んだのだ。