~Die Undinen~ Schwarzesmarken 隻影のベルンハルト EXTRA 作:燈夜4649
そう、何だかんだと言っても。
ベアトリクスの見立てに間違いはなかった。
あの変態兄貴の掛け声の日を境に、アイリスディーナの実力は指数関数的に上がっている。
そんなベアトリクスも心身のトレーニングで自分をとことんまで追い詰めて。
『そんなに気に入らないペアなのなら私から一言、五輪委員会の上層部に意見しておいてもいいのだぞ?』
と、彼女の父は言っていた。
だが、そんなつまらないことで力を振るうべきではないのだ。
国家保安省シュタージの力は国家の敵にだけ使う力。神聖なものである。
私利私欲で使うべきではないのだ、本来は。
父にはそんな下衆になって欲しくない。
だから彼女は、こう、父に返したのだ。
『彼女は、アイリスディーナ・ベルンハルトは私に継ぐ我が国の宝です。必ず祖国の英雄として、この私と共に党と祖国と人民のため、黄金に輝く証を持って皆に応えるでしょう』
『そうか』
『ええ、それに彼女は……アイリスは、その兄であるユルゲンと共に私の大事な御友達、いえ、親友ですわ。もしお父様が彼らに手を出すようなら、私は未来の英雄であるアイリスら家族を歴史から消そうとする大逆人として、お父様を密告いたします』
などと、この思春期まただなかの娘、ベアトリクス・ブレーメは言い切るに至ったのである。
もちろん、その発言に一番驚いたのはベアトリクス本人だったのだが。
そう、そうなるまでは。
実に繰り返しと、アイリスディーナのベアトリクスに対するアタックの連続であったのだ。
◇
その数々のアタックとは。
語ろう、その軌跡を。
それはある日の夜半過ぎのこと。
その日もアイリスはベアトリクスに袖にされていた。
ともあれ、今宵は月も出ていない晩である。
気のせいか、 窓の外から猫の鳴き声が聞こえる。
だが、大したことはない。
野良猫だろう。
アイリスディーナは外で震えているであろう、知らぬ猫のことを思いつつ、寝床についた。
ふかふかのベッド。
アイリスディーナはそんな布団に包まれながら、猫のことなどさらりと忘れ、こんな事を思うのだ。
シンクロナイズドダイビング。
コーチらからは、以後、あの黒髪の彼女とペアを組むように言われた。
ベアトリクス・ブレーメ。
誰にでも、どこにでも、壁を作って表情を固めた女の子。
柔らかいのはダイビングの技だけで、心は鋼鉄のように硬そう──いや、硬い。
そして口を開けばその指摘は辛辣で。
堅苦しくないのだろうか?
と、思わなくもない。
でも、とにかくペアである。
しかも、シンクロの。
呼吸も動きもタイミングも何もかも、彼女と合わせる必要があるのだ。
シンクロするには、もっとベアトリクスの呼吸を知る必要がある。
もっともっと親密な友達になって、いや、いつも一緒に。呼吸を合わせるのだもの。
彼女の事を、もっともっと知って。
構わないわよね、だってベアトリクスはコーチ陣が決めたペア相手だもの。
もう、いつもいつも無視されてるけど……ううん、大丈夫。きっと上手くいく!
うん、できれば明日にでもさっそく声を掛けてみよう。
そう、アイリスディーナは思うのだ。
◇
次の日のこと。
飛び込み練習も終わったプールサイド。
たった今、最後の一セットを終わらせたところだ。
「ブレーメさん」
スイムキャップを外して長い黒髪から水を滴らせ、彼女はアイリスディーナを振り向く。
「今のタイミング、どうだったかな?」
「コーチに聞くことね」
と、彼女はずんずんベンチに向かって先に行く。
「ちょ、ブレーメさん!?」
上がり裏返るアイリスディーナの声のトーン。
だが、ベアトリクスが彼女を振り向くことはなかった。
◇
またある日のこと。プールサイドにて。
今日もまたアイリスディーナは勇気を振り絞る。
相手は鉄の女、ベアトリクス・ブレーメ。
アイリスディーナは大きく息を吸い。
そして、勢いに任せてベアトリクスに言葉をぶつける。
「ブレーメさん、お互いに掛け声をかけながら背面跳びをするのはどう?」
「……お断りよ」
「どうして?」
「どうしてってあなた、あなたが私のペアだと言うのなら、あなたが私のタイミングに合わせることね」
「ええ!?」
「できないの?」
「いえ、その程度の返答、予測済みです! 対策もバッチリ!」
と、アイリスディーナは両拳を胸の辺りで握り締め、両手を振り回す。
ベアトリクスはそのアイリスディーナの挙動を見つめていたが、やがて興味を失ったらしく。
「そう」
とだけ告げるベアトリクス。
彼女はいつもの鉄面皮を顔に貼り付けては、またいつものようにベアトリクスはアイリスディーナの傍を去っていく。
あああ、ああ。
アイリスディーナの声かけは今日も空振り。
彼女は次の手を考えようとして、ブクブクと再度プールに潜り、沈み込む。
◇
また別の日のことである。
今日も今日とて、アイリスディーナはベアトリクスに挑む。
「ブレーメさん、今日もよろしく!」
と、朗らかにアイリスディーナは言うものの。
「今日もまたあなたなのね」
と、ベアトリクスから表情もなく返される。
「ぐぬっ!?」
っと、一瞬域の詰まるアイリスディーナがいたのだが、彼女はめげずに言い返す。
「ええ、今日こそあなたに私を認めさせてあげる!」
と気丈に答えるのだった。
しかしまた、諦めないのが彼女の長所。
悪く言えば執念深い。
断られても相手にされなくても、アイリスディーナが落ち込むことは無い。
いや、むしろそれが彼女の闘志を掻き立てる。
そう、アイリスディーナは楽観主義者なのだ!
二人の飛び込みに、観覧席から拍手が起こる。
「よくやった。常にシンクロするように意識したまえ。君らの成績は私の成績だ。私は嬉しいよ、アイリス、ベアト」
コーチのアクスマンである。
「ふん、俺の妹だから凄いのは当然だろ!?」
と、観覧席の別の端から若い男の声。
ユルゲンである。いや、ベルンハルト少尉と呼ぶべきか。彼は国家人民軍の制服を着ていた。
有力選手付きのボディーガード兼、お目付け役として軍から派遣されているようだ。
「ん? 君は?」
「は! 国家人民軍、ユルゲン・ベルンハルト少尉であります!」
「そうか、君は国家人民軍に仕官したのだな。で、なぜ君がここに?」
「アクスマン中佐、あなたと選抜選手たちを守る護衛任務に当たっております! 着任の挨拶が遅れましたこと、謝罪いたします!」
「そうか。ではよろしくな? 私の作品達に傷一つつかないように、しっかりと護衛してくれていてくれたまえ。護衛の優先順位はあの二人が最上で私の護衛はその次で良い」
「は!」
「うん、いい返事だ。ところで君は国家保安省に興味あるかね?」
「いえ! 私は国家人民軍の今の任が気に入っておりますので!」
「そうか、ユルゲン・ベルンハルト少尉だな、覚えておこう」
「は!」
「ではベルンハルト少尉、君は君の妹と、その相方をどう見る?」
「全くもって眼福の至りであります!」
「ふむ、君の目は腐っていないようだな。では、質問を変える。競技を行う二人を見てどう思うかね?」
「は! 正直に申してよろしいのでしょうか?」
「もちろんだとも。このドイツ民主共和国では言論の自由が認められているからね」
「は! では。二人の演技を拝見しましたところ、若干のずれがあるかと。個人個人では素晴らしいのですが、二人が挑むのはシンクロナイズドダイビングです。ほんの一秒そこらでありますが、その節名の時間でさえ、二人が息を合わせシンクロすることは非情に難易度の高いことかと」
「ふむ、ではベルンハルト少尉、君は二人にどのように声をかけると良いと思う?」
「公私に相棒となり、息を合わせ、相手の考えがおたがいに手に取るようにわかるようになること──これは二人の心に聞かねばなりませんが」
「ふむ、他には?」
「そして今まで以上に心と体の美しさを磨くこと──彼女らの美しさには問題ないどころか、これ以上ないと断言できます」
「そうか」
「そして、妹がブレーメ嬢に合わせること、合わせられるように妹が今まで以上に努力を重ねることだと思います」
「ふむ、ありがとう。参考になった、ベルンハルト少尉」
「いえ」
アクスマンは二人に指導するべく、ユルゲンと分かれてプールサイドへ向かう。
アクスマンの緩い笑いは変わらない。
その表情からはイマイチ読み取れないが、彼はアイリスディーナとベアトリクスの演技を撮影した何枚かの写真に視線を落としては、その都度、彼は含み笑いを繰り返すのだった。
◇
などという会話が観覧席で繰り広げられていた頃。
アイリスディーナ、ベアトリクスの二人はと言うと。
今だ数セット、厳しい練習を二人ペアで行っていた。
両者は自分自身を連取で苛め抜き。
アイリスディーナ的には随分と合わせる事ができたと自負できる仕上がりと思えたのだ。
だからアイリスディーナはベアトリクスに声をかける。
今なら! と思って。
ところがである。
「ブレーメさん?」
「何か用?」
だが、冷徹な一言が今日も返される。
でも怯まないアイリスディーナは言うのである。
「今日の私、どうだった?」
「知らない。あなたがどうであろうと、私には関係ないもの」
これである。
アイリスディーナの本願成就は本当に遠く遠く遠く、遠かった。
◇
「ブレーメさん」
アイリスディーナがベアトリクスに呼びかけを行うのは、ほぼ日課と成っている。
「なに」
ぶっきらぼうにベアトリクスの冷たい声。
だが、次のアイリスディーナの一言は。
「調子よくないの?」
その指摘に、ベアトリクスは目を見開く。
「あなた、あの男、あなたのお兄さんに聞いたの?」
「え? 兄がどうしたの?」
ユルゲン。彼からアイリスディーナは何も聞かされてない。
だから、アイリスディーナはここで兄の事を出てくるとは思わなかった。
「え? あの男が喋ったんじゃないんだ」
「足、動きが悪そう」
アイリスディーナは正直に。
「へえ、あなたにもわかるのね」
「ペアですから」
で、即答である。
いつもの合わせの感触とは違っていたから。
「認めてなかったから」
でも、ペアの事を心配しているのだと言う魂の思いは今だ届いてないようで。
「私も努力してるし! コーチ陣も私の伸びをわかってくれてるし! あなたに匹敵すると言ってくれて久しいし!」
「私は認めてなかったけどね?」
アイリスディーナは食らいつくものの、当のベアトリクスの表情は動かない。
でも、『認めてなかった』?と、いつもの会話には無いベアトリクスの言葉に違和感が。
「え? ……認めて……なかった? と、言う事は……」
と、小さく零した一言は。
「ええ、降参よ降参」
ベアトリクスはゆるりと、第三帝国時代の独裁者のした変形敬礼のような仕草を両腕でして見せる。
「え、それじゃ?」
今度はアイリスディーナが驚く番である。
「ええ、あなたを私のペアと認めるわ。せいぜい私に、言え、党と祖国に恥を欠かせないよう、頑張るのね」
模範解答である。
但し、ベアトリクスの口の端には小さく笑みが。
「またまたそんな硬いこと言って!」
アイリスディーナはそんなベアトリクスの杓子定規な言葉を家庭環境から来るものだと看破する。
「社会主義の優位性を西側に見せ付けなきゃいけないの!」
これである。
またしての国家保安省の喜ぶような一言だった。
「本気? まあ、頑張るのは当然だけど」
アイリスディーナの肩に再び力が入る。
「と、父が言っていたわ。私には、父の看板を守る義務もあるもの」
ベアトリクスの愚痴だった。
アイリスディーナは軽く受け流して。
「大変」
とだけ、口にする。
だが、そこからのベアトリクスはいつになく饒舌だ。
「ええ、とっても。簡単に友人を作れないほどには窮屈よ?」
また、泣き言である。
アイリスディーナの知らないベアトリクスの表情と言葉が次々と出てくる。
と、なれば、アイリスディーナの態度は決まっている。
「私があなたの友達になるから!」
と、すかさず叫ぶ。
「ええ、悔しいけど、私の友達第一号はあなたねで決定ね」
その強引さと執拗さに、ついにベアトリクスは折れたのだ。
逆に、アイリスディーナの執念深さが実ったとも言えよう。
「うふふ。ブレーメさん、私の事はアイリスディーナ、アイリスと呼んでね?」
で、アイリスディーナは兄も羨む笑顔で畳み掛けた。
「嫌だ、と言ったら?」
ベアトリクスの表情は緩んでばかり。
「今さら何よ!」
と、突っ込むアイリスディーナ。
「へえ、そんな顔もできるんだ。お人形さんじゃないのね」
「当たり前ですブレーメさん」
お人形さんはお互い様だ。
表情を変えずにお互い接していたことの、いかに多かったことか。
いや、アイリスディーナは無理して笑顔でベアトリクスに接してきた。
ベアトリクスは生まれたときから鉄面皮を被る事を強いられてきた。
お互い、大概である。
「ベアトリクス」
アイリスディーナは口にする。
「え?」
名を呼ばれて固まるベアトリクス。
だが、直ぐに表情が柔らかく崩れて親しみのこもった返答が来る。
「私の事はベアトリクス。ベアトで良いわ」
「え? え? ……え~ぇ!?」
その態度の変貌に、アイリスディーナが今度は驚いて。
「私とあなた、アイリスとは友達よ? わかった?」
そんなアイリスディーナにベアトリクスが念を押す。
「あ、ありがとう! ブレーメ……ベアトリクス! ベアト!!」
アイリスディーナは感極まってベアトリクスに飛びつく。
軽いアイリスディーナの体重を受け止めるベアトリクス。
その顔は、険の取れたその顔は、いまだ幼さの残る童女のようであった。