~Die Undinen~ Schwarzesmarken 隻影のベルンハルト EXTRA   作:燈夜4649

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004_氷が割れた日

 このように。

 そんなアイリスディーナは塩対応のベアトリクスに対して、呼びかけを日々を繰り返していた。

 その熱意が、今日実った。

 何度も何度もアイリスディーナはベアトリクスにアタックし、ついに彼女の硬い表情と態度にヒビを入れて打ち破ったのである。

 快挙である。

 執念の勝利と言えよう。

 アイリスディーナの努力と苦労を全く気にもしていなかったベアトリクス。

 アイリスディーナはこの頃の事を、今でも時々夢に見る。

 もっとも、今では二人の仲は縮まり、溝はほとんど埋まっていると言っても良いだろう。

 たぶん。

 そう。

 二人で買い物に出かけたり。

 二人で軽食に出かけたり。

 二人で穏やかで和やかな時間を過ごしたり。

 そう、二人にとって充実して、かつ楽しい時間。

 彼女らを取り巻く世界は、彼女らを祝福しているようだったのだ。

 

 ただ、アイリスディーナの兄ユルゲンだけは、妹の動向を酷く機にしているようではあった。

 曰く。

 

『あの女の影にアイリスに男が』

『実はとんでもない友達だったらどうしよう』

『もしかして醜悪な趣味に染まりつつあるのでは!?』

 

 などと、アイリスで友人ができたことを喜ぶ以上に、妹を愛するあまり妄想が爆発して一人悶々としているようではあったのだが。

 

 

 ◇

 

 そんなある日のことだ。

 ベアトリクスが神妙な……彼女にしては珍しく、歯切れの悪い言葉をアイリスディーナに投げかける。

 

「アイリス。ユルゲンの好物って何かしら?」

「え? 兄さんの?」

 

 そう、ベアトリクスは事あるごとにアイリスディーナの兄の事を話すのである。

 アイリスディーナにとって、始めは驚きであったが、ベアトリクスが兄の事を語るとき、実に嬉しそうに──いや、感情豊かになるので驚いたのだ。

 そう、ベアトリクスも柔らかい表情ができる、実に可愛らしい、恋を恋だと気づかずに目覚めたばかりの乙女の顔。

 そんな顔に笑み乗せてアイリスディーナに向けるのである。

 

 ──で、ベアトリクス曰く。

 

「ええ。何かの本で異性を掴むには『胃袋から掴め』とあったのよね」

 

 どうやらベアトリクスは料理もできるようだった。

 否、今から料理の修業を始めるのかもしれないが。

 しかし、アイリスディーナの見立てによると、ベアトリクスは簡単なお菓子程度なら作れるようなのだが。

 

「ああ、そんなことですか、ではベアト、ちょっと耳を貸して──」

「アイリス? どうしたの? あなたの兄さんの食事の好みは他人に知られてはいけないぐらい秘密なことなの?」

「ええ、シュタージはもちろん、最近合ってない両親にも秘密なんです」

「え? そうなの? でも私は知っての通り、国家保安省の──きゃぁ!?」

 

 アイリスディーナの笑い声。そして屈託のない笑みである。

 

「うふふ、この前の反撃。あのときのベアト、背後から突然私の後ろ耳に息を吹きかけてくるんですもの」

「もう! アイリス? 一体誰に似たのかしら。だんだん被っていた猫がいなくなっているんだから!」

 

 ベアトリクスがその目を細めれば。

 

「ふふ。いい反応です。してあげました! うふふ。ベアトって、本当に面白い! 何でも知ってるようで、何でもできるように見えて、何でも自分で選んでるように見えて、実は、実のところは──」

 

 アイリスディーナはからからと笑っていて。

 

「ハイそこまで! もう、アイリスは私をおもちゃにして!」

「ふふ、これでおあい子ですね、ベアト?」

「もう!」

 

 お互い、そう言うものの。

 終いには二人で笑いを噛み殺しているのだった。

 

 

 

 

 

 湯気を立てて『死んだお婆ちゃん』が盛り付けられている。

 今夜の晩餐はこれがメインらしい。

 それは、ユルゲンの妹アイリスディーナと、彼が交際しているベアトリクスの二人の手によるものだった。

 

「最高だ! 今日は人生最良の日だ!」

 

 ユルゲンは叫ぶ。

 近所迷惑も考えずに。

 

「美妹万歳! 美少女婚約者も万歳!」

 

 実にうるさく喚き散らす兄貴であった。

 

「ねえユルゲン、正直気持ち悪いんだけど」

「兄さん、もう料理作るのやめますね? ベアト、今からでも遅くは無いわ。外食に行きましょう」

 

 ユルゲンは、その繰り返す自らの行いにより、女子二人から見放されようとしていた。

 

「ま、待ってくれマイエンジェルズ!」

 

 ユルゲンは幸せを逃がさないため、二人に懇願する。

 

「はあ、こんな人が私の婚約者だなんて。やぱり、解消しようかしら。あの日の私の直感は、間違っていたとしか思えないわ。ねえ、ユルゲン。あなたはどう思う?」

「いやいや、ベアトリクスマジ天使!」

 

 ユルゲンの言葉にベアトリクスはさらに眉値を顰める。

 

「兄さん? さきほど忠告したばかりですのに」

「あ、うん、神なんていない!」

 

 ユルゲンは妹の言葉にも反射的に暴言を返すだけ。

 

「そうねユルゲン。これ以上お父様達国家保安省の仕事を増やさないで」

「勘弁しろよぅ!」

 

 ベアトリクスが笑えない冗談を言ってくる。

 

「まあ、シュタージもそんなつまらない案件で引っ張るわけが無いわ。ええ、宗教を信じているなんて、なんて非科学的な。でも、まあ、安心しなさいな」

「お、おう」

 

 うん、笑えなかった。

 この国ではイキナリ人が蒸発するなんて、別に珍しいことでもなんでもないのだ。

 

「そして、私も黙っていてあげようかしら? それとも、この変態は一度痛い目にあわせるべき?」

「まあまあ、ベアト。兄さんも悪意があって言っているのでは無いですし、許してもらえませんか?」

「そうね、他ならぬアイリスの頼みだものね」

「ありがう、ベアト」

 

 妹の懇願で、兄は首の皮一枚残して命が繋がったようである。

 

「お、おおお、俺は? では、俺の飯は?」

「ご飯? まだ勘違いしているの? 少し遊んであげただけじゃない。ねえ、アイリス。今さら私たちの手料理を食べずにおくだなんて、そんなふざけたこと許さないから。それこそ密告する充分になるかもしれないわよ? ユルゲン」

「ええ、私のヤル気もダダ下がりです。美味しいご飯になるか心配です、兄さん」

「いやいや、俺はお前達二人の料理にメチャクチャ期待しているし!? もう、最高に上手い飯が食えると俺の胃が待ったなしだし!」

 

 二人の手料理。

 ユルゲンは期待度をそれはそれは上げまくるのだ。

 

「はあ、ユルゲン?」

「なんだい? 俺の婚約者よ」

 

 彼はベアトリクスの言葉に対し。

 

「あなたの胃袋だけど、神経性胃腸炎にしてあげてもよろしくてよ?」

「それは困る。君や美妹の手料理が食べられない」

 

 馬鹿みたいだが、ユルゲンは正直に答える。

 

「それなら、もっと面白い話題でもしなさいよ」

「うふふ、兄さんはいつも面白いですよベアト」

「それは知ってるわ。この変態、いつもどこかずれた話をしてくるから」

「そうですね、兄さんは観察力は良いんですが、それを人に伝える手段と行為が最低ですもの」

 

 ユルゲンは泣いた。

 男泣きに泣いた。

 

「おいおい、それは無いんじゃないか妹よ!」

「そうね、今のそんなところね」

「ええ、ごめんなさい、兄さんに代わって謝るわ、ベアト」

「おおお、それは酷いんじゃないか妹よ! 俺はこんなにも君らを愛しているのに!!」

 

 涙無しには叫べない。

 いや、叫ぶな兄貴よ。

 

「ごめんなさいベアト。私の謝罪じゃ足りないみたい」

 

 と、妹であるアイリスディーナがベアトリクスに謝罪するのであった。

 

 

 

 ベアトリクスがスイムキャップを外して濡れた黒髪を露にする。

 彼女の足の状態は治りかけていた。

 

「やっぱり。無理があるのよアイリス。あなたと私がペアを組むなんて」

 

 アイリスディーナもスイムキャップに手をかけながらそう言うベアトリクスに、こう応えるのだ。

 

「そんな事はありません! コーチも他のスタッフも、私とベアトのペアを推しています。未だに推し続けてるんです!」

「そうね。でもそれは私の見立てとは関係ないわ」

 

 ベアトリクスはあくまで静かだ。

 コーチらの言い分はわかるが、ほんの一瞬。

 刹那のずれの事が話題となっていて。

 

「もう少し時間とチャンスを下さい! きっと、きっと、今に私、ベアトに私、追いついてみせます!」

「意気込みだけは上等、と」

 

 ジト目のベアトリクス。

 

「そのとおりです! 私は負けませんから!」

 

 ベアトリクスはまた深い溜息をつく。

 

「まあ、仕方ないわね。もう少しあなたに付き合ってあげる。でも、私からあなたに歩み寄ることは無いわ。私を見て、呼吸を読んで、そして技を盗んで。いいわね?」

 

 やれやれ、とでも言いたげなベアトリクスであった。

 でもそれでもアイリスディーナにとっては嬉しいようで。

 

「はい! ありがとう。ベアト」

「お礼は飛込みが上手く合わせられてから。その時にお願いね」

「大丈夫! 私はきっとあなたに追いついて、追い越しますから!」

「大した自信。ああ、近道はあなたのお兄さんに聞くことね」

「兄に……?」

 

アイリスディーナは呟く。

 

「あなたのお兄さんは私の不調を一目で見抜いてみせたのよ」

 

 

 

 ◇

 

 アイリスディーナはその午後遅く。兄のユルゲンに自分の競技をどう思うか、そしてベアトリクスの足の調子が本当に悪かったのか、尋ねてみたが。

 

「変質者以外の何者でもありませんね、兄さん」

 

 聞いた、全部聞いた。

 でも、実の兄でなければ縁を切るところだった。

 

「妹やその相棒の事を詳しく調べるのは兄としての義務だろ?」

 

 またも重なる兄の妄言。

 

「流石に引きます。兄さん、私はそんな兄さんの言葉を信じたくありません」

「お前達の事を一番知っているのは、あのボケたコーチを除けばこの俺だけだ!」

 

 と、言って引かないのである。

 でも、確かな指摘。

 

『お前は執念深いが、どこか前に出る自分を留めている棘がある』というのだ。

 つまり、アイリスディーナがベアトリクスに精神的圧迫を受けている、という事。

 どこか、心の片隅で『この人には勝てない』と思っていること。

 それが、コンマゼロゼロ1秒の世界でシンクロのズレが出る原因だ、と熱弁されたこと。

 でも『本気を出した俺の美妹に適う者などいない!』と強弁されて、流石のアイリスディーナも疲れを覚え。

 やがて自室に戻ったアイリスディーナ。彼女は寝巻きに着替えるとベッドへと倒れこんだのだ。

 

 沈みこむ体に浮遊感を覚えてアイリスディーナは。

 

「遠慮してる? 私が?」

 

 自問する。

 

「でも、大丈夫。私は負けない。兄さんが応援してくれている。何より、ベアトリクスも。ならば、私は前に出るのみ。必ずベアトの呼吸に合わせてみせる! これまで以上にベアトとの二人の溝を埋めて、最高の演技を勝ち取って見せる! 私たちは東ドイツ最強の、いえ、世界最強のペアになるの!」

 

 そう思うと、疲れだろうか、まぶたが重くなってきた。

 だが、その疲れはとても優しい疲れで。

 兄と、そして言葉の上では辛辣なベアトリクスのアドバイス。

 その二つが彼女、アイリスディーナを心地よい眠気と共に幸せな睡眠へと誘ったのだ。

 

 

「ふむ、いい着眼点だアイリス。ベアトの不調ことは私も知っていたよ。しかし今は、君のことだ」

「では、コーチも私が前に進もうとする自分自身にブレーキをかけていると?」

「そのとおりだ。よくぞ気づいたなアイリス」

 

 一瞬『兄が』と言いかけるも、直前で彼女は言葉を飲み込んだ。

 

「アイリス。君は気づいた。ならば、私が『どうしろ』と指示をしなくとも優秀な君のことだ。既に解決法を見出しているのではないかね?」

 

 アクスマンはかすかに笑う。

 実に嫌な笑いである。その仕草は彼の評判をことごとく落としている元凶なのだが。

 

「……私自身の壁を、仮面の下の自分を『かくあれ』ではなく『私はこうなのだ』と見せ付けることです」

「そうだな、君の心には、ベルリンと同じだ。高い壁があるのだよ。そこを越えなければ、西には……おっと失礼、ベアトには追いつけないし、追いつかない。何せ、君はベアトの背中しか見ていないのだからな」

「背中……」

 

 アイリスディーナは自問する。

 

「では、シンクロナイズドダイビングで背中を追いかけていてはどうなる?」

「酷い点数にて評価されます」

 

 アクスマンは教師のように。

 

「その通り。ならば、君はベアトのどこに位置すれば良い?」

「もちろん、常に真横です」

 

 常に相手に考えさせ、返答を聞いて答えるアクスマン。

 

「そうだとも。やはりわかっているじゃないかアイリス。君ならできる。必ずな? だから、もっと自分に自信を持つことだ。そうすれば、君はベアトと共に国民にこれ以上ないほどの誇りを抱かせる、英雄となるだろう」

「英雄、ですか」

 

 英雄。

 それは栄誉である。

 

「そうとも。英雄は良いぞ? 住まいも食事も娯楽も、西に劣らない最上級の日々が待っているだろう。英雄となった君は人民に希望を抱かせる。人民はそんな君のような人生を送りたいと、確かな希望を持って素晴らしき明日を夢見る。英雄と人民はその意味で等価交換をしているのだ」

「何が仰りたいのです?」

 

 イマイチ良くわからない。

 だが、アクスマンの弁舌は止まらず。

 

「全国民が全ての意味において平等であると言う理想。それこそが我々ドイツ民主共和国が目指すもの。そして、その範となるのが英雄だ。党と人民の名の元に、英雄は奉仕する。そして、党や人民は英雄に奉仕する。全ては平等なのだ」

「……コーチの仰る社会主義の理想は、どこか他の方と違いますね」

 

 アイリスディーナの感想は、素直なものであったが相手が相手だけに薄氷を踏むようなもの。

 

「当然だともアイリス。君も知ってのとおり、閑職の身とはいえ、この身は国家保安省の中佐なのだよ? 生半可な実力と覚悟がなければ、この私も党や人民に対して格好がつかないさ」

 

 と、アクスマンはからからと笑い、アイリスディーナに次の練習メニューを伝えるのだった。

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