~Die Undinen~ Schwarzesmarken 隻影のベルンハルト EXTRA 作:燈夜4649
そして時は来た。
五輪本番、モントリオールオリンピックの開幕である。
アイリスディーナやベアトリクスら五輪派遣団は、随行員のコーチや武官、警察官らと共にベルリン・シェーネフェルト国際空港にいた。
窓から見れば、コンコースを白い数機の旅客機が移動している。
「飛行機……あれに乗ればどこへでもいける」
アイリスディーナはふと言葉をこぼす。
しかしその中身は、多くの東ドイツの民衆にとっては禁忌の言葉でもあり。
東側へ旅行ならともかく、西側は未知である。
ベルリンで西の電波は受信できるものの。
そのほとんどは政治色を含んだプロパガンダで。
西も東も代わらないのを外交官の子でもあるアイリスディーナは知っている。
重度のアルコール依存症に父を追い込んだのは国家保安省、シュタージだ。
西へ憧れが過ぎれば、太陽を夜明け前に拝めないのと一緒で心を壊す。
資本主義は麻薬なのだ。際限ない欲望と、購買意欲を煽りに煽るは西側の幻像は父の心を壊したのだ。
「行き先はカナダ、モントリオールだ。他の国には飛ばないよアイリス」
と、アクスマンが意味深に語りかけてくる。
「それはそうですがコーチ」
「政府専用機に決まっているではないか。祖国を代表する君たちは英雄候補なのだよ?」
と、自分の手柄でもないのに胸を張るアクスマン。
「選手団、それにしてもいつにもまして多くないかしら。例年こんなものなのですか?」
「五輪は社会主義の偉大さを皆に知らしめる良い機会だからだ。やっと政治局の者も理解したのだろう。友邦ソ連の選手団も米帝並みに多いぞアイリス?」
と、緊張気味のアイリスディーナと、悠然としたアスクマンが話しているとだ。
影が二人に割り込んでくる。
それはベアトリクス。
いきなり二人の前にベアトリクスが割って出てきたのだ。そう、物理的に。
そしてベアトリクスはアイリスディーナの耳を引っ張るや、アクスマンから引き剥がす。
「コーチ、ちょっとアイリスを借りるわ。敵地に向かう前に、気合を入れておこうと思って」
「そうか、気が回るな。さすがだベアト」
「どういたしまして。それじゃ、アイリス、ちょっと」
「なにかね?」
「コーチはここで待っててください。私が一人でアイリスに言い聞かせますから」
「ふむベアト、私も後学のために聞いておきたいのだが」
「大丈夫です、とにかくコーチはここでお待ちを」
「そうはいても、私にも興味があるのだが」
「もう! 黙って! 解りなさいよ!!」
「ふむ?」
「花を摘みに行くのよ! この鈍感コーチ!!」
と、ベアトリクスに引きずられるようにアイリスディーナは抗議の声と共に消え。
残されたアクスマンはぼやくのだ。
「ベアト、本来なら指導は私の業務だぞ。全く回りくどい言い方をするものだ。おっと、この私も人のことは言えないか」
と、窓際らしからぬ言葉を吐いた。
「トイレは飛行機の中にも装備されているのだがな……」
◇
で、お手洗いに行く途中。
「アイリス、ちょっとお耳を借りていいかしら」
「なに? 改まってなんなの?」
ベアトリクスは必要以上にアイリスディーナに近づき、いや、肌を合わせながら。
そう、小声で。
「……これは秘密なんだけど」
「ええ、なに?」
「実はね? ……西への亡命の話があるのよ──」
「(えッ!?)」
アイリスディーナの両目がこれでもかと開かれる。
目を白黒するアイリスディーナの反応を面白そうに見ていたベアトリクスだが、そのアイリスディーナが安心するように、こう付け加える。
「冗談よ」
と。
アイリスディーナはぞっとする。
彼女は考えを巡らせる。
『西への亡命』。
それは生きるか死ぬかの片道切符、この祖国東ドイツの将来に愛想をつかし、祖国を裏切り未知の自由へと逃げさることなのだから。
アイリスディーナはわかっているのだ。
彼女は外国での生活の経験がある。
彼女は知っている。外国での生活が、必ずしも祖国東ドイツよりも幸せではないことを。
かといって、集団亡命の話があるとして、それに乗っかって彼女アイリスディーナも亡命をするかと問われれば。
武官のユルゲンもいる。そして赤い遺族のベアトリクスもいる。
極めつけは、国家保安省のアクスマンが目を光らせているのだ。
いや、アイリスディーナには亡命する意思など微塵もなかったが、騒ぎに巻き込まれては敵わない。
下手すると、この五輪派遣選手団全員が集団責任などと決めつけられて収容所行きである。
皆を説得するのはおそらく無理。
ならば、どうすれば亡命騒ぎに巻き込まれずに済むのか。
わからない。
わからない。
ただ一つ言えることは、アイリスディーナ自身の競技成績にて素晴らしい結果を残すこと。
つまりシンクロナイズドダイビングで金メダルを勝ち取り、祖国東ドイツの本物の英雄となる事だけなのだ。
実績を作ってしまえば、あとは党と祖国がアイリスディーナ自身と兄とベアトリクスを守るだろう。
そう、そうなのだと、アイリスディーナはこの場の自分を納得させる。
全く、五輪競技本番よりも緊張するアイリスディーナだった。
西への亡命など、冗談ではない。
◇
搭乗前に選手団は整列し、党幹部から激励の言葉を受けていた。
そう、ついにカナダはモントリオールへの出発である。
もっとも、その党幹部というのが国家保安省のアクスマン中佐ではあるのだが。
「よろしいかな選手諸君。君達に約束していただきたい事がある」
アクスマンは整列した五輪選手団の前を往復しつつ。
「解っているとは思うが、西側の選手との個人的な接触は控えてもらいたい」
静まり返る選手団。
「理由を述べよう。西側の住人は、腐りきった体制である資本主義に毒されている。大量消費、際限ない欲望を発露した権化。それが西側の住民だ。私は、君達がそんな彼らと接触することによる精神汚染による堕落を何よりも心配しているのだ」
で、また選手団の列の端をお折り返す。
「西側は一見、豊かで幸福に満ち溢れ、自由に何でもできる、と思っているやからがいる。ゲッペルスも真っ青な巧妙極まるプロパガンダにより、そう西側が楽園だと信じている者がいる。はっきり言おう。これは真っ赤な嘘だ。ごく一部の華やかな者が目立つ影で、建物の密集した都会の裏路地で、ボロを着つつ残飯を漁る浮浪者や、または、信号停止中に車に群がり小銭を喜捨してくれとせがむ乞食の子供達。そんな人々は資本主義の生み出した矛盾点の一つに過ぎない。西側の闇は、我ら東側より酷いのだ」
アクスマンは一度言葉を切って。
「そう。もう気づいただろう。諸君、努々忘れるな? 我らの信奉する社会主義こそ、弱者を救い、人民が能力に応じて皆平等な立場で暮らす事ができる最上のシステムなのだ。社会主義こそ貧富の差を最小にし、妬み、僻み、恨み、辛みなど、人間の悪感情を最低レベルに抑える。そう、必要以上の欲望を制御するシステムこそ、社会主義の本質なのだよ」
選手団は微動だにしない。
ただ、よく見るものがいたとすれば、数名の眼が泳いだり、手が震えたり、食いしばった口の端を曲げる者がいることに気づいただろう。
おそらく、そういった連中が亡命を企んでいる者たち……アイリスディーナは思うのだ。
「大切なことだからもう一度言おう。西側、すなわち唾棄すべき資本主義諸国は楽園ではない。いいかね、隣の庭のさくらんぼは甘いのだ。君達が──こんな事を考える愚か者はいないと私は信じているが──亡命したとしても、西側の一市民としてではなく、二級市民として馬車馬のようにズタボロになるまで奴隷労働を強いられた挙句、その出身地による選民意識のために酷い差別を受けることになると断言する。ここまで聞いて、西にあこがれを持つ者などおるまいと私は信ずる。まあ、いらぬ心配だと思うが」
アクスマンは笑う。それも突然に。
「まあ、五輪選手団の出発式の激励としては相応しくなかっただろうが、君達は祖国を代表する精鋭だ。他国、特に西側に対する偏見を正し、君達の士気を高める事を目的としてこうして話をさせてもらった。君たちは祖国の英雄候補だ。そして、勝ち上がれば正真正銘の英雄になるだろう。保障する。君達の実力は本物だ。敵を粉砕し、必ず栄光を掴み取れ! 終わりよければ全て良しだ! では、期待している」
アクスマンの口の端が上がる。
そして彼は叫んだ。
「フハハ、私からは以上だ! 頑張りたまえ、祖国の明日を担う者たちよ!」
◇
離陸時のGが全身にかかり、このまま飛行機が分解するのではないかと恐れたが、やがて機体の振動も収まり、それが杞憂であった事を搭乗員や乗客は知る。
政府専用機。ソ連製の機種である。
「どうぞアイリス、私の席と変わってあげる。ユルゲンから聞いてるわ? 空の旅、あなたは窓の外を見るのが好きだって」
「あ、ありがとうベアト。そうなの。私、空の上が好きなの」
「って、私の作戦なんだけどね」
「え?」
「聞いて欲しい話があるの。アクスマンには内緒で」
「え? なに?」
「こら、キョロキョロしない」
「え? ごめん」
「先ほどの話なのだけど。盗聴されてるけど、それも含めてあなたには話しておこうと思って」
「先ほどの……」
「引越しの話よ」
「引越し……あ、ああ」
アイリスディーナはそれが亡命を指している事に気づく。
彼女は少々顔色を青くいして。
「興味あるのね」
「……う、うん。ベアト。でも私は外国がどんなところか知っているから」
「そうだったわね。外国に住む経験があったあなたならわかっているわよね、東側の真実が。まあ、この引越しの話に乗るなら、成るだけ早く相談してちょうだいな」
外国。
亡命。
アイリスディーナの脳裏で繰り返される。
そして西ドイツからの電波で届く豊かさの象徴たる諸々の溢れかえる物資。
だが、今のアイリスディーナはそれを頭を振って考えないように勤めた。
そう。
今、アイリスディーナに必要なのは、亡命話のような雑念ではなく、五輪での金メダルの獲得なのである。
だから彼女は。
「……ええ」
とだけ、気だるげに答えていた。
成るようになる。いや、成るようにしか成らないのだ。
これは競技と一緒。
ただ、競技は事前に練習できて。
亡命の練習はできない。ただそれだけなのだ。
◇
自らの競技の順番を待つアイリスディーナとベアトリクス。
他国の選手の競技を見ては、一喜一憂。
見学モードが、嫌でも彼女ら自身の本番への緊張へと繋がってゆく。
「やっぱり凄いわね。世界レベルは」
「ええ、でも、私たちも負けないから。努力なくして成功なし。練習は上達への道」
「そうね、あのいけ好かないアクスマンの元で、私たちは厳しい指導の元練習を繰り返した」
「うん」
二人は呪文を唱えるように、お互い声を出しながら、自らの精神を研ぎ澄まさせてゆく。
心を競技用に切り替えるのだ。
「そしてアイリス、あなたは定められたメニュー以上に、体を壊さない程度に追加のプログラムをこなしていた」
「うん」
「逆に私のほうが、意固地になって足を痛めるなんていう、笑い話のようなことがあったけどね!」
「うふふ、そうだったわねベアト」
「ええ! そんなこんなで、アイリスにはほぼ並ばれてしまったわ」
そしてリラックスできる言葉を反芻し。
「公私に付き合いようになって、家族同然で、家庭は幸せの源と言うように、私たちはお互いの呼吸を探り合った」
「ええ、私の事も何から何まですっかりアイリスに知られてしまったわ」
「ええ、ベアトについて知らない事の方が少ないくらい」
「そうね。アイリス、あなたは私と共に英雄になるのよ」
「英雄かあ。ピンと来ないけど」
そう、彼女らの目標。
それを必ず達成すると、冗談交じりに心と体をほぐす。
「平凡な武官の兄に、民衆の希望足りえる英雄の妹。決して暮らしは楽ではない普通の東ドイツ市民。で、相棒の私がたまたま父を国家保安省に持つだけ」
「うん、国家保安省と聞くと、つい身構えがちだけど私はいい加減慣れたかな」
「そう、それは良かったわ」
「ええ」
彼女らは笑いあう。
「じゃ、アイリス。本番でもいつもどおりの私達を……いえ、いつも以上の私たちを競技予選からやって行くわよ? 西側に、いえ、世界中に地球上に東ドイツあり、とやつらの脳裏に刻ませるの」
「ええ! もちろんよベアト!! 頑張ろうね?」
「当然!」
「ふふふ」
そう、こうして彼女らはお互いの心を共鳴させる。
そして予選で彼女らは、完璧なシンクロを見せるのだった。