皆は知らない――。
モニターの明かりのみが光源の薄暗い部屋の中で少年、与幸吉一人、薬液を満たした浴槽に半身を浸していた。
じくじくと終わることのない痛みが全身の毛穴から発せられているが、すでに痛みに慣れた切った幸吉はその身を捩ることない。
天与呪縛。日本全土を術式範囲とする規格外の才能と引き換えに少年は全身の痛みという苦行を生まれながらに背負っていた。それだけでも酷いと誰もが同情するだろうが、幸吉にはさらに右手の肘から先がない、両足は膝下からともに欠損し、腰から下の感覚は欠如している。さらにダメ押しとばかりに全身の皮膚は脆弱で月明りにすら爛れてしまう。二十四時間の点滴、薬液による肌の保護が無ければとっくに寿命が擦り切れていただろう。
そんな中、何の因果か呪術師により霊が見えることを見出され、現在の部屋を与えられていた。
幸吉の両親は多額の入院費を稼ぐために見舞いに来る時間も削って働いており、徐々に疲弊していく両親を見てられずに幸吉は自分の意志で呪術高専京都高に保護されたのだ。
保護されて十年近く、自ら設計した
「両面宿儺の指を食った奴が死んだみたいだ。……あぁ間違いない」
自分しかいない部屋で幸吉は突然しゃべりだす。まるで目の前に相手がいるかのように相槌を打ちながら幸吉は話を続けていた。
「総監部は大喜びだ。五条悟がいない隙を突けたとほくそ笑んでいたよ」
幸吉の言葉はマイクを通して姿なき相手へと届けられていた。
傀儡操術と呼ばれる幸吉の身に刻まれている術式の力だ。幸吉はこの術式を用いてロボットを意のままに操っていた。古代では人形、
金属製のロボットであれば防御、攻撃に優れるし、カメラを内蔵すれば遠隔地でも自身の手足の様に扱える。関節の増設、重火器、隠し武器。人ではありえない戦術も無数に存在する。
そして鳥や虫、小型のロボットであれば、優れた諜報道具にもなる。
「あぁ、交流戦は予定通り行うそうだ。人間とは言えない宿儺の器が死んだ程度で延期など有り得ないだとさ。当日の警備の配置は……」
幸吉は頭に入れた情報を思い出しながら機密情報を淀みなく相手へと伝えていく。
皆は知らない―――。
事情が有るとはいえ、内通者として機密情報を売り渡す幸吉は糾弾されて然るべき存在なのだろう。たとえそれば、身動きが取れない身で交渉という名の脅迫を受けた身だとしたもだ。
命惜しさだけでなく、五体満足な体にしてくれるという自らの利を受け入れた時点で彼もまた、大なり小なり共犯者なのだ。
皆は知らない―――。
「……ふぅ、まったく救えない。だけど……」
モニターごしではなく、自身の体で、瞳で皆と外で会いたい。私欲というには、あまりにも平凡な願い。
他の人にはちっぽけで、そして幸吉にはあまりも大きな願い。それを叶えるために幸吉は人類の害悪たる呪霊達と手を組んだのだ。
「人の負の感情ごときで人類の天敵か、烏滸がましいな」
本来なら手を組むことすら憚れる呪霊、幸吉の体では抵抗らしい抵抗すら出来ずに殺されただろう。だが、そんな事に恐怖を幸吉は感じなかった。体を癒してくれるということで協力を受け入れたが、死の恐怖で幸吉は呪霊達に屈したわけではなかった。
人が自然を恐れることで生まれた特級呪霊。確かにそれは古より天災に晒されていたヒトには何よりも恐ろしい事象なのだろう。
だが、人ならざる呪霊とはいえ、それは人の恐怖、想像から生まれた人の営みの産物に過ぎない。
人の想像外、人知という言葉さえ驕っていると声高に叫べる森の、大地の、海の……そして宇宙にも恐怖は有る。いや、そもそも恐怖そのものが人の物差しの一つでしかない。
すっと、幸吉は包帯に覆われた左手を宙に伸ばす。すると音もなく一冊の本がその手へと吸い込まれるように収まった。
「皆は知らない―――。人ならざる神々の恐怖と、本当の邪悪を」
震える声をなんとか押し殺し幸吉はそう呟いた。それは夜闇に怯える幼子の様なか細いものだが、確かにその心には弱いながらも立ち向かわんとする芯の熱さがそこには有った。
かつて、こことは歴史を異にする世界、いや邪神によって封ぜされた世界によって行われた超絶決戦。神々の戦いの末に正義の白き神が勝利し、この世界は解放された。しかし、解放されたとはいえ、この世界にはいまだに邪神達が存在していた。
確かに一つの悪は滅ぼされた。だがそれでも悪は数多存在し、人々を貶めようと深い淀みの底から画策していた。善神達そして邪悪を憎む魔術師達が各々戦ってはいたが、それでも悍ましき悪達は闇夜に紛れて人々の隣で蠢動していた。
そして、再起を図る悪神の企みも。
チクタク、チクタク。
幼少期から幸吉の頭に響く、謎の音、傀儡操術を用いて幸吉は不自由な体で機械を弄っていた。数多の機械を集め、脳内にいつの間に描かれた設計図を基に巨大な機械を作ろうと幸吉は自然に考えていた。
チクタク、チクタク。
作らねば、だが急がなくていい。保護された高専で教育と治療を受けながら時には一週間の時間を空けて幸吉は作業用のロボット達を作り、作業の効率を上げていく。その気になれば数十体のロボットを自在に操ることが出来る。子供の身だが、偵察用のロボットで高専の任務を手伝えば高額な報酬が約束されていた。作業の効率は更に上がっていく。
チクタク、チクタク。
目的も分からず作っている機械。気付けば脳内の音はより一層、大きくなった。
チクタク、チクタク。
脳内の音と、完成間近の機神の音が分からなくなる。
チクタク、チクタク。
チクタク、チクタク。
やがて、それは脳内を飛び出した。
「チクタク、チクタク」
「そこまでだぜ」
自分しかいないはずの空間で響く気安いようで荘厳な不思議な声。
「よう坊主、夏休みの宿題にそんな粗大ゴミを作ってちゃ立派な大人になれねぇぞ」
「まったくもって、物騒極まりない。それに子供の手でも借りるのか、落ちぶれたな邪神め」
幸吉が目を向けた先には眩い神威を纏う二人の男女の姿があった。
男は若く、その体は鍛え抜かれた鋼の筋肉に覆われ、溢れんほどの神々しさを辺りへと惜しまず振りまいていた。だがそれ以上に目を見張るのは、神気に満ちた気配すらも忘れさせるほどの強い光が宿る澄んだ瞳。悪を打たんと怒りに燃え、しかし、憎しみを抱かぬ不思議な瞳はあらゆる宝石よりも光り輝いていた。その様子はまるで人のようでも神のようでもある。だが完成されたその姿は無条件の畏怖を幸吉に感じさせた。
女は少女といって言い幼さだが、それが触れがたい無垢さとなっていた。しかし無邪気な外見とは裏腹に悠久の時を生きてきたかのような老齢さも合わせる不思議な気配に満ちていた。アメジストを感じさせる美しい髪とシルクのような滑らかさと瞬いているかのような輝きを放つその肌はある種の美しさの極致だった。そしてこちらも先の男に勝るとも劣らない神気を振りまいていた。
青年の名は最も新しき旧き神、人の善の極性、白き神、大十字九郎。
少女の名は最も高位の魔導書の一つ、
「やれやれ、どんな鼻をしているんだい?わざわざ君たちに計画を潰された世界を選んで、しかもこんな極東の国で細々と内職をしている零細企業ばりの僕をまたいじめるのかい?」
完成寸前の機械が口を開く。しかしその音はまるで女性の肉声のような艶やかさを滲ませていた。
「なぁにが、零細企業だよ。とっくの昔に破産した社長が児童労働させているだけだろうが」
「くく、君の隣のパートナーを見ても、同じことを言えるのかな?九郎君」
「な、なんだと!?言わせておけば邪神風情が!」
「アル、言わせておけ。時間稼ぎだ」
「……分かっておる」
男が大型の拳銃を異形の機械をへと向ける。それは検めてみると人型の上半身に用途不明の機器が四方八方へと伸ばされている。明らかに金属、プラスチックなどの科学製品だが、何故か生き物のようにも見える異様な機械だった。パーツ、パーツを見る部分には良いが、全体像を見ると人間の恐怖心や忌避感を想起させる。そんな異形の機械。
それは、チクタクマン。悪神ナイアルラトホテプの化身とも言われる悍ましき機械人形。かつて九郎達に滅ぼされた化身の代わりにとナイアルラトホテプが新たな体を作らせていたのだ。
「抵抗はしないのか?」
「この体じゃねぇ。抵抗も無駄さ。バレない様にことを運んだ分、この体自体の戦闘力はほぼ皆無なんだよね。もうちょっとで完成したのにさ。ちぇ、まぁいいか。その分、君の顔を早く見れたと思うことにするよ。また会おうねマスターオブネクロノミコン」
そういうと人の頭部を模した部分から三つの目から炎を噴き出す顔が現れる。その顔面をマスターオブネクロノミコンと呼ばれた九郎が撃ち抜いた。
「……ふふふ、久しぶりの逢瀬だからか随分と早いね。求められるのは嫌いじゃないよ」
「うるせぇ、さっさと消えなクソババア」
「怖い怖い、それじゃあ。またね」
もはや何処から喋っているかも分らぬほどに壊れた機械はその言葉を最後にガラガラと崩れ落ち、廃品へとなり果てた。
「……あ、あ……あ」
両者のやり取りが終わると、幸吉は胡乱な瞳に、呼吸に合わせて小さな声にもならない音を漏らし、浴槽に体を預け、放心している。
「坊主、もう大丈夫だぞ。……これはひどいな」
「我が見よう。ふむ……これは」
「どうだ。治せるか?」
「皮膚はほとんどが爛れている、両足と右腕に関しては生来のもののようだな。爛れた皮膚についても生まれつき脆弱だったようだ」
薬液に使ったままの幸吉の様子に九郎は眉をしかめる。数多の惨劇を潜り抜けてきた九郎だが耐性はついても慣れることはない。闇が齎す惨劇の数は多く、それぞれの地獄があった。それはいつ見ても九郎の心を苛むがそれを怒りの刃とし、邪神討伐の糧に変えてきたのだ。
「古来より奇形のものは神の化身とされてきた。この坊主が生まれる前に体を捧げさせて自身の信徒としていたのだろう。坊主の意志関係なくな。年に見合わぬ力もそれ故なのだろう」
幸吉が生来より背負う天与呪縛。それは何に対する縛りなのか、生れ落ちる前に自身を縛ることなぞ、出来はしない。ある意味、それはこの世界に上位者がいることの証左なのだ。
「惨いな。本人に意思に関係無く力を与えて手駒にしようってのか、クソが!」
邪神の都合で生れ落ち、幾億の繰り返しの時空の中で摩耗していった哀れな仇敵の青年の姿が九郎の脳内に浮かび上がる。
「そんな顔をするな。体こそ脆弱だが、魔力の器としては一級品。魔力の使い方を覚えれば多少はマシになるやもな」
「本当か!」
「あぁ、とはいえその為には何年かこの世界に滞在することになる。その間、奴らを野放しにすることになるぞ。むしろ、それこそが邪神どもの策略かもしれぬ」
「……あー。確かに、そうかもしれねぇな、でもなアル」
「「後味わりぃだろ」……っと、なんだよ分かってんじゃねぇか」
声が重なると二人はまるで無邪気な子供の様な笑顔を向け合った。
それが、幸吉と何処か人間離れしているようで誰よりも人間らしい二柱の神々と邂逅だった。
時は巡り廻り再び現代へ。
「俺がこんなことをしているなんて知ったら、二人は怒るかな」
言うことを聞けないのならば死んでもらう。そんな事を言われて拒める人間はどれだけ居るのだろう。ましてや幸吉の体はまともに動くことすら出来ない。九郎とアル・アジフによって魔術の手解きを受けたとはいえ、それを行使する肉体はあまりにも脆弱だ。
居場所が割れてなければ、対抗策も有るがおいそれと動かせない生身を抑えられてはそれも叶わない。
「だけど、チャンスでも有る。五体満足な体が手に入る。皆と……会える」
人類に厄を齎す呪霊と手を組む。それは真っ当な呪術師としては唾棄すべき外道の道。されど彼が望むのは普通の少年が当たり前に持つ小さな、小さな願い。だが、幸吉にとっては諦めていた願いだった。並行世界を渡り歩く神とはいえ、それは邪神を狩る戦神。魂まで刻まれた欠損を癒すには相性があまりに悪かった。精々できたのは全身の痛みの緩和と治癒力の向上程度であった。
そんな幸吉の前に現れた魂を自在に操る術式を持つ特級呪霊真人。規格外、理不尽ともいえるその能力は一級術師でも数度、並みの術師ならば一度触れただけで殺すことが出来る。己の肉体すらも自由に組み替え、魂自体に攻撃する術を持たぬものであれば、攻撃すらも無意味な防御力。攻防ともに隙が無い術式、一見極めて戦闘重視の術式に見えるが、触れた魂を自由自在に操れるというこの術式は回復にも用いることが可能であり、魂自体に欠損を持つ幸吉を癒す現状で唯一の方法であった。
「……高専関係者は殺すなと縛りを結んだんだがな。……くそ」
情報を渡す代わりに高専関係者の命を奪わないこと、そして自分を五体満足にすることを縛りとして結んだ。これで皆の無事は担保されたはずだったが、幸吉が会ったことのない人までは縛りとしては入っておらず、忌庫を警備していた二人が殺されてしまった。
(真人は俺の体を治す為に必ずここに来るはずだ。縛りで俺を治さなければならないが、情報を知る俺を必ず殺そうとするだろう)
特級呪霊として真人は必ず来るだろう。準一級術師である自分ならと侮って一人で来てくれれば御の字だが、複数の特級呪霊と夏油傑が来てしまえば準一級程度では敵わないだろう。
(だが、俺には
幸吉は徐に脇のテーブルに乗せた分厚い本に手を乗せた。驚くほどに手になじむその本の名は死霊秘法、またのはネクロノミコン。幸吉を邪神から救った二柱の神の片割れ、アル・アジフと同じ魔導書である。ただしアル・アジフが原書であるのに対して、こちらは機械語訳版であり、所謂写本である。
「アルさんみたいに精霊化は出来ないけど、大事な俺の相棒だ」
写本と言えど最高の魔術師によって執筆された最上位の魔導書であり、本来は精霊を宿しているが、かつての激闘の中でその力を失ってしまっていた。
その死した魔導書を九朗が加筆することで精霊化も出来るほどの力が込められたはずだが、未だにその兆候はなかった。
「メカ丸は作れるだけ作った。それに切り札も有る。勝てる目もあるはずだ」
真人が幸吉の体を治すのは確定に近い、縛りを結んでいる為、反故にした場合は重いペナルティが真人もしくはその仲間たちに課せられるだろう。真人のみだったなら生れ落ちて間もない為に縛りの重要性を知らずに体を治さずに殺しにかかるかもしれないが、夏油がそれを許さないだろう。
準一級とはいえ、その戦闘はロボットを介して遠隔戦闘のみ、ゲーム感覚とまでは言わないが絶対の安全圏からの戦いであり、命のやりとりとはお世辞にも言えないだろう。
つまり命を懸けた戦いというのは幸吉にとって初だった。
「九郎さんも初戦は酷かったと言ってたけど……く、ははは」
武者震い、はたまた恐怖か包帯に覆われた体が小刻みに震える。
「ん、俺を励ましてくれるのか?」
ふわりとネクロノミコン機械語翻訳版が仄かな光を発しながら浮かび上がる。精霊化は果たせずとも僅かな意思が幸吉とともに外敵に立ち向かわんとしている。それを目にして幸吉は心を魂を震わせた。かつて自分を救い、そして今もなお並行世界を駆け抜け、多くの世界を人を救い続ける憧れの人は自分よりももっと怖かったはずだ。だがそれでもなお、立ち上がり戦っている。
「ありがとよ、覚悟は決まった……遅かったな」
薄暗い部屋が人工的な光が差し込んだ。逆光の中には二人の男性が幸吉に向って歩いて来るのが見て取れる。
「忘れられたかと思ったぞ」
「そんなヘマはしないさ」
「相変わらず、カビ臭くてやんなるね」
幸吉と言葉を交わすのは人が人を恐怖することで生まれた堕ちた呪霊、特級呪霊真人。そしてもう一人、額に一文字の傷と縫い跡が目立つ人仇す特級呪詛師夏油傑。
縛りを結んだ幸吉の体を真人の無為転変で治すために訪れたのだ。
どうせ殺すのだと、面倒なことをせずに殺そうと真人は提案するが、夏油はそれを強く止める。
「殺すのは直した後だよ真人」
契約の内容は夏油達に協力して情報を提供する。その対価として体を治すことであり、命を助けることではない。治すまでは縛りは有効であるため、必ず幸吉の体を真人は治す必要がある。
「呪霊と議論する気はない、さっさと治せ下衆」
陳腐な言い訳とも言えない御託を真人は垂れ流す。言い争いが加速し、真人は閃いたとばかりに目を開いた。
「勢いあまって芋虫にしちゃいそう」
ニヤリと意地が悪そうに真人は笑う。皮膚を治し、手足は芋虫のようにしても今の幸吉の体よりは自由が利くだろう。それを治したということにすれば良いと真人は考えたのだ。
「真人」
冷たい声で夏油が真人を制止する。
そこには僅かながらの圧が滲みだしており、おふざけは許さないと強い意志が込められていた。
他者間の縛りは破った際のペナルティが不確定であり、それが真人と幸吉だけでなく。夏油達を含む他の呪霊達にも適応される可能性があるという。五条悟という最強を封じるという失敗が許されない策を夏油達がこれから遂行するに当たって、それは無視できない事象であった。
「感謝してよね。下衆以下」
無為転変。
せめてとばかりに悪態を吐きながら真人は幸吉の体を無為転変を用いて治す。
むず痒いような開放感が幸吉の全身を包んでいく。全身の倦怠感が引き潮のように引いていき、それでいて今度は全身に活力が満ち潮のように満ちていく。
ざばりと薬液から
そこには五体満足の与幸吉の姿があった。
デモンベインを久しぶりにプレイしてたら思いついたのでござる。
死滅回遊以降が思いついたら続くかも……。