Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
ペラペラネイティブになりてェですわ~!
羽丘女子学園に勤務している
今年になってやってきたその男は、年齢はおそらく20代中頃~30の間ほど、本来なら目立つタイプではないが女子だらけの学園では若い異性というだけで物珍しい。
そんな彼だが、入学早々からとある女子生徒と秘密の関係を持っているのではないか、という噂が流れていた。
──噂の相手は豊川祥子、あまり目立つことのない高等部からの編入生であり学業優秀な特待生、実はいいところのお嬢様ではないか、と言われる程気品あふれる女子生徒だった。
「え……っと?」
「つまり、社会の烏森先生と祥子ちゃんが付き合ってるかもってこと!」
「さ、祥ちゃんが……せんせい、と」
「気にならない!?」
六月に入る前、そんな噂を聞きつけた千早愛音は祥子とは知り合いでもある高松燈にそんな話を振っていく。
燈は頭の中で、かつての「CRYCHIC」として過ごした彼女との時間を思い浮かべ、そして前のライブで悲しませた顔を思い浮かべて、自分の知る豊川祥子という人物像と一致しないように感じてフリーズしてしまう。
「……大丈夫?」
「つき、あう……って、恋人、ってこと?」
「いや、それがホントかもわかんないんだけどさ。二人で話してる姿を見たって子がいるらしいんだよね」
愛音の言う「二人で話している姿を見た子」というのがそもそも誰なのか、彼女すら又聞きの又聞きだったため曖昧なニュアンスになる。もしここに他のバンドメンバー、椎名立希がいれば「ありえないでしょ」と一刀両断にするだろうということ、現在連絡がつかなくなっている長崎そよならば「ちょっと考えられないかな?」と優しくも否定的な立場を取るだろう。それほどまでに、豊川祥子という人物を知れば編入してたった一ヶ月、二ヶ月で高校教師とそういう関係になることは想像もつかない状況だった。
「これ、マジだったら結構ヤバいよ、だって先生が未成年に手を出してるってことだもん。フツーに犯罪だよ?」
「祥ちゃんが……犯罪」
「あ、えっと祥子ちゃんがじゃなくて、先生が」
犯罪、という単語に燈は祥子を心配してしまう。月ノ森にいたハズの彼女が羽丘にいることも驚くことだったが、ごく短い期間でそういった噂になるということで、彼女が何かしら困った状況になっているのではないのか、燈にはそう思えてならなかった。
──だが現状、祥子に話しかけることはできない。噂が事実であってもそうでなくても、それを本人に訊ねるというのは怒りを買いかねない。でも困っているなら助けたい、そんな葛藤を頭の中で繰り広げる燈を愛音はフォローする。
「祥子ちゃんならきっと大丈夫だよ」
──バンドメンバーは見つかりまして?
天文部の部室へ向かおうとする愛音の後ろ姿に、そう優しく声を掛けてくれた時のことを思い出しながら、過去の話を知った上で愛音はそう声を掛けた。
もし何かあったとしても、それは
「それにさ、烏森先生ってあんな感じじゃん? 生徒に、しかも祥子ちゃんに手出せるような人には思えないよ」
相当な天然パーマらしい髪型は自由にあちこちへと跳ねてボサボサで無精ひげと身なりは整っていないし、スーツは安物の上既にヨレヨレになってきている。スラリとはしているものの猫背で、声も小さくおどおどしている印象がある。そんな先生が女子高生と付き合えるかという疑問に、自分だったら絶対にない、と愛音は断言できた。実際に噂をしていた女子生徒も、幾ら何でも烏森先生はない、と結論づけていた。
「烏森先生、少しよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「最近、貴方の噂を耳にしますわ……それも、わたくしを巻き込んだ形で」
ちょうどそのころ、吹奏楽部が練習に来るまでの僅かな時間、音楽室でピアノを弾き終わった豊川祥子は出入口にいた男性教師に棘を含んだ言葉でそう声を掛けた。
だが腕を組みなおした烏森匡導は、普段とは全く違った様子でおどけたような笑みを浮かべていた。
「いやぁ、さっすが女子高、ちょっとしたことでも尾鰭がついちまいますね、お嬢」
「その呼び方は別の誤解を招くといつも言っているじゃない、烏森」
「まぁでもジッサイ、俺とお嬢はただならぬ関係でしょ、火のないところに煙は立たないって言うし」
「……貴方のそういう軽薄なところ、嫌いですわ」
肩を組もうと近づいてきた彼の手を払いのけ、祥子は低い声で、威嚇するように眉根を寄せながら言い放つが、彼はそんな彼女の言葉が愛の告白かのように嬉しそうな笑顔でますます近寄っていく。
距離を取ろうとしても近づいてきて、最後には祥子が壁際に立たされてしまう。
「そんな軽薄な男の毒牙に掛かったお嬢の負けでしょ?」
「わたくしは、貴方と勝負したつもりなんて……って、だから、噂になって」
「祥子」
「……っ、発情するならせめて、学校の外で」
逃げ場がなくなっても抵抗し続けていた彼女だったが、たった一言、茶化すような「お嬢」から呼び捨てにされただけで、身動きが取れなくなったように上から迫ってくる彼から目を逸らせぬまま塞がれる唇の感触に目を閉じた。
抗議の言葉は全て口づけで封じられ、やがて祥子は踵をあげていく。
「そ、そろそろ……吹奏楽部が来ますわ」
「そりゃ大変、俺はもう行くよ」
「……あ、匡導」
「ん?」
「少し、話したいことがあるから……後で」
「わかった、じゃあ後で」
「ええ……待っていますわ」
少女のような顔をする祥子を置いて、彼は手を振って音楽室から出ていく。
それからピアノの前に座り、けれど弾くことはなく無意識に手で唇をなぞりつつ、彼女は溜息を吐き片付けを始めた。
「……本当に、狡い男ですわ」
──豊川祥子が彼と、高校教師と唇を重ねるような関係になったのはごく最近のことだった。同時に、自分の中で烏森匡導という男が占める割合が大きくなっていくのを感じ取っていた。彼に身体を預けている時間、ピアノに指を滑らせながら隣で眠そうな顔をする彼をチラリと見る瞬間、助手席のドアを開ける瞬間、たった数日でその全てが祥子を肯定してくれる全てであるような気さえした。
「待っています、か」
祥子の言葉を反芻しつつ、彼は最近の変化が良いものではないことを察していた。
自分の中で豊川祥子という女性に惹かれている部分があったことは否定しない。気品に溢れ、しっかりとした自己を確立しているようでその内側に柔らかいものを見せるその瞬間を彼は愛していた。
それが、壊れてしまった原因を彼女のその衝動的で破滅的な願望を叶えるだけの自分には決して取り除けないことを理解しつつ。
「待ったか?」
「いえ、時間ぴったりですわ」
「そりゃよかった」
仕事を終わらせた彼は祥子の最寄り駅で待ち合わせをしていた。祥子は助手席に乗り込み前髪を触る。
運転に集中しつつも無言の時間が目的地まで続くか、とも考えていた彼だったが何度目かの赤信号で短く息を吐き出してから祥子の手に自分の左手を重ねた。
「で? 言いたいことってなに」
「……バンドを組むことに致しましたの」
「いいんじゃない、お嬢のやりたいようにやってみれば」
「適当なことをおっしゃるのね」
「メンバーのアテは?」
「初華にはもう返事をいただきましたわ……後のメンバーもアタリはつけています」
「そんなら豊川会長にも報告しときます」
「ええ、頼みますわ」
打算と信頼、そんな二つの感情が籠った祥子の言葉に彼は頷いた。
バンド、以前彼女が組んでいた「CRYCHIC」とは違う、
その横顔に、彼との繋がりを求めたか弱い少女の姿はどこにもなかった。
「お嬢が売れたら、俺もスパっと辞めますかね」
「そうしたら、今後の生活はどうするおつもり?」
「いざとなれば、会長なり事務所のお偉いさんに泣きついてでも下働きするよ」
「教師はもういいんですの?」
「生徒に手ェ出したなんて知れたら、何処も雇っちゃくれませんって」
「……ごめんなさい」
おどけたような口調でそう言われ、彼が教師を目指して教育大学を出たことを知っており、かつ一線を越えるように要求した自分に責任があることを知った祥子は顔を俯かせて謝罪することしかできなかった。
「わたくしに出来ることがあるなら、言って」
「じゃあお先真っ暗な現状を、忘れさせてほしいかな」
「……そういうところですわよ」
「こんな状態だけど、お嬢……祥子のこと想ってるのは本当だからさ」
「匡導が想っているのはわたくしの身体だけですわ」
「その通り」
今の関係が始まった、つい数日前の祥子の言葉を使った誘い文句に拗ねたように口を尖らせる。
この関係が未成年であること、教師と生徒であること以上に不健全であることは祥子も彼も理解していた。その上で祥子の傷を一時でも忘れさせるため、彼は祥子が求めるような関係を演出していく。
姫と従者のようでありつつ、身体だけの関係、そして罪悪感を生まないために彼から誘いをかける。
「祥子は高一とは思えないほど美人で完成されてるからね、つい張り切っちゃうよ」
「張り切る必要なんてありませんわ……じっくり、手折ってくださいませ」
彼の家で四度目の朝を迎え、祥子はダブルサイズのベッドの隣で眠る彼──実年齢よりも幾許か幼く見える顔を眺めて、微笑む。彼女元来の優しい表情、今となっては誰にも見せてはいけない自分の弱みを、裸の時くらいは認めようと祥子は思うようになっていた。
「よくわからない男ですわ……でも、ありがとう……大好き」
聞かれることはないと、知られることはないと解って祥子はそう彼に想いを告げる。少女のような恋慕、けれど許されてはいけない恋であるが故に、溢れて零れそうな愛の言葉を眠る騎士に垂らしていく。
──思えば昔から、彼はそういう役回りを演じ続けてくれている、そう祥子は幼き日々を振り返っていた。
「祥子ちゃん、睦ちゃん、俺と遊んでいただけませんか?」
「ええ! 睦もいらっしゃい」
「あ……」
豊川邸で、もしくは若葉邸で、彼は幼い宝石を守護する任を大人に命ぜられていた。或いは、そう嘘を吐いただけで自主的に遊び相手を買って出ていたのかもしれない。
当時中学生だった彼は、祥子や睦のおままごとを全力でこなしつつ、いつも知らない外の世界のことを教えてくれた。
「……思えばあの頃から、決して本心は見せない方でしたわ」
「昔の話?」
「──っ! お、起きて……?」
「祥子が頬を突くから」
「つい」
「昔は昔だよ」
起き上がり、祥子にとって宝物のような色鮮やかな思い出を彼は乾いた声で、たった一言だけそう告げた。
──変わったこと、それは大人になった彼はあの頃のようなあどけなさは寝顔以外にはなくなってしまったことだと祥子は感じていた。それは年齢を重ねたからなのか、中学生から今に至るまでに変わらなければならない何かがあったのかは想像もできなかったが。
「お嬢、本日の予定は?」
「ひとまず事務所に行って、ドラムのアテを探すことにしますわ」
「睦には?」
「……あの子に、バンドという舞台は酷ですわ」
「でも声は掛けるんでしょ?」
「義理として、一応は」
義理として、そんな言葉に匡導は彼女のために新しく買い始めた紅茶を用意しながら、それを肯定していく。
二人にとっても幼い時からの知り合いである若葉睦は、
「俺の個人的意見を述べても?」
「どうぞ」
「それだとドル売りしてる初華もまずくないです? それこそパスパレみたいなのなら許されてもRoseliaみたいなのだと……イメージ的に」
「その予定……なるほど、そこまで頭が回っていませんでしたわ」
「大丈夫かそれで」
「心配は無用ですわ」
人気アイドルユニット「sumimi」の三角初華をボーカルとして勧誘したものの、アイドルである彼女には「アイドルの初華」としてのイメージが定着しているし、世間はクールっぽくありながらも明るいアイドルのイメージで通っている。
それ以外にも睦は親の七光り、祥子は出資グループ会長の孫娘、どう考えても世間のイメージは音楽性を話題にしなくなってしまうと彼は進言した。
だが祥子の返事に言葉が過ぎたかと彼は肩を竦めた。
「そうだよな、そのくらい解って──」
「今の三人でも音楽性で話題になる方法を考えればいいだけですわ」
「解ってなかったんかい」
「烏森も、何か案があれば聞いてあげますわ」
「浅学な俺にはなんとも」
「使えませんわね」
「お嬢があまりにも衝動的で行き当たりばったりなんでしょう?」
あまりにも無意味な言い争いをしつつも祥子を事務所まで送り届けた彼はどんなに挫折しようと、悲しみや喪失を経験しようと背中を丸めることのない後ろ姿を見送ってから事務所の喫煙所でタバコに火を点けた。
彼は護衛であり、監視の目であり、拠り所であり、教師である。だが彼の祥子に対する感情は複雑さとは正反対に一つの言葉で表現することができる。
──その感情を灰皿に押し付けて消すことができれば、どんなに楽なのだろう。彼は親から譲り受けたライターを胸ポケットにしまいながらスマホで彼女の動向を飼い主に報告していくのだった。
──オリ主の名前は
基本的に八咫烏をイメージして名前を考えましたので、そのつもりでよろしくお願い致します。
第二話は39分に投稿致しますわ