Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
睦の人間性もそろそろ限界ですわ~!
匡導の心配、そして彼の祖父が予測していた懸念の通りに全国ツアー前の生放送、そこで事件は起こった。
明らかに「Ave Mujica」ではなくモーティスでもなく、若葉睦──更に言えば森みなみを意識した質問を前に焦った睦が放った一言が世間を騒がせていた。
「解散騒ぎか……実際のところ、どうなんだね」
「はい、解散はないとは思いますが」
「そうか……ではなぜ、彼女がそんなことを?」
新聞を手に、豊川定治が事実確認のために訊ねる。祥子によれば、武道館ライブの翌日にあったスケジュール会議の際、仮面を外したことで取材やオファーといった仕事が増加したことに対して長くは続かないと言ったのをそのまま、最悪のタイミングで反芻してしまったのだろうと分析していた。
「睦さんは、幼少期から取材に対してある種のトラウマめいたものを抱えていますからね」
「気心が知れているからと身内贔屓をするから、そうなる」
「……そうですね」
人形という世界観がきちんとファンにも浸透していればこの状況は生まれなかっただろう。彼女は人見知りで無口なモーティスとして、常にギターと共にあり、姉であるオブリビオニスに従順、その設定が守れていればと思うが、そんな仮定の話をしたところで無為な時間が過ぎるだけだった。
「世間で話題になってはいるが、影ではお嬢様のままごとと蔑む声も生まれ始めている」
「会長には申し訳ありませんが、否定はできませんよ」
「……そうか」
「デビュー前から規模がすごいですからね、やっかむ声に加えて今の騒ぎ、そしてご令孫が直々にステージに立っていることで仕方のない声でしょう」
フロントに人気アイドルの三角初華を起用していること、多くのバンドを掛け持ちしている八幡海鈴を正式メンバーとして採用していること、それに対して演奏者としては無名の若葉睦と祐天寺にゃむの起用というちぐはぐさ、仕掛け人である祥子がスポンサー企業の創業者一族であること、否定的な意見が出る要素は幾らでもある。悪意を以ってすれば、それらを歪めて発信することだってあるだろう。
「……ところで」
「はい」
「その祥子が最近、アレの家に戻っていないようだが」
「……何処でそれを」
「お前の父だ」
──内心であの色ボケクソ親父はどうしてこう余計なことばっかり言うんだ、と毒突く。父孝臣は祥子が事務所を出入りするようになったせいで見かけるようで、集中したいからと夜遅くまで、或いは泊まり込みで作業をすることも増えていた。そうでない時に何処にいるのか、というのは未だ知られていないことを祈りつつ、匡導は武道館ライブの前にあったことを説明した。
「戻ってくればいいものの」
「ご令孫にも、プライドというものがあるのでしょう」
「頑固でじゃじゃ馬だ……全く」
完全に孫を溺愛する祖父の顔になってしまい、匡導は不器用なところはアンタに似たんだと思う、という言葉をなんとか呑み込んで退出した。
どうやら現在祥子が寝泊りしている場所が自分の部屋であるというところまで露見しているわけではなさそうなことに安堵しつつ、ここ半年は祥子本人よりも潜ることの多くなってしまった門を振り返って溜息を吐いた。
「もしもし、睦?」
「……匡さん」
「ご飯食べたか?」
沈黙から食べてないのだと察知した匡導はタバコを吸うのをやめて車を彼女の家方面へと走らせる。
祥子はまた、遅くまで事務所で作業をしている。もし集中している時に自分が居ても邪魔だろうと最近では少し距離を置き気味であった。心配はしているものの、今はそれよりも睦のケアを優先すべきだと判断していた。
「いつも睦さんを気に掛けてくれてありがとうございます」
「いえ、これも仕事みたいなもんです、山田さんと同じですよ」
教師が本業だが、同時に豊川会長の走狗であり、彼にとっては祥子の影であることに充実感を覚えていた。彼女が「Ave Mujica」のために力を尽くすのならば、自分はそんな彼女の手が回らないところをなるべく担当しようと勝手に決めていた。
「じゃあ最近、全体練習があったらココ使ってるんだ」
「うん」
「嫌だよな」
「……私のじゃないから」
「でも、睦の落ち着く場所でしょ?」
「寝れない時は、ここにいる」
リビングではなくスタジオでご飯を食べて、ゆっくりと話をする。睦は自分が放った言葉のせいで祥子が苦しみ、またみんなを怒らせたのだと自分を責め続けていた。自分がしゃべると祥子のためにならない、それは「CRYCHIC」の時から変わらないのだと。
「私が、壊した……バンド、楽しくなくて」
「楽しくない?」
「みんな、すごいのに……私だけ、下手、だから」
「下手なんだ」
「歌わせられない」
「ギターが歌うって感覚、俺にはわかんないな」
決して肯定も否定もしない。ただただ反芻されるだけの会話、だけど睦はその壁打ちのような反芻される匡導の静かな声に微睡んでいく。
だからこそ、心の奥底では彼を繋ぎ止めておきたい、このままずっと傍に居てと欲張りたい気持ちが溢れて甘えるように凭れ掛かってしまう。
──そんなことをしても、彼は祥子の許に戻ってしまうことなど、知っていながら。
「匡……ぎゅ、ってして」
「睦?」
「ちょっとだけでいい、私も……祥みたいに」
「俺と祥子は、そんな甘い関係じゃない、睦が思ってるような、優しい関係じゃない」
「でも……愛し合ってる、祥が、匡にしがみついて……すき、すきって」
睦の脳裏に焼き付いている記憶、大丈夫と気丈に振舞っていた彼女が子どものように泣きじゃくりながら、だけど女として喘いでいた記憶、それは同時に初恋であり兄のように慕っていた男性が幼馴染であり大切な人と惹かれ合っていたことを目の前に見せつけられるものであった。
「……いつの話?」
「お葬式」
「──気づいてたのか」
「あ……ご、ごめん……でも、見ちゃって」
「いや、それは俺と祥子が悪い」
声色の変化で即座に、自分が
だが匡導の変化は純粋な驚愕であり、またあのような誰かが入ってきかねない場所で行為をした方が悪いため、彼から頭を下げる。
流石に春からの関係、特に梅雨前から始まった関係には気付かれているかもしれないとは思っていたものの、まさか最初から知っていたとは思ってもいなかった。
「ベッド行くか? 寝るまでなら」
「うん」
「睦だって立派な女性になったんだから、俺と幾ら年が離れてるとはいえ、素直に頷いてほしくはなかったかな」
「祥みたいに、される?」
「お前わざと言ってんのか」
「素が出てる」
「……揶揄うとロクな目に遭わないからな」
すっかり大人の身体付きになってしまった睦をなるべく煩悩を消して抱きしめ、寝かしつけてからそっと退出する。
いつもならば、言い方は悪いもののそんな欲求の発散先は居るのだが、忙しくてそんな暇もない日々が続いているのも原因だと言い訳をしながら。
「さきちゃん!?」
「……初華」
その頃、祥子は事務所の一室で作業をしていた。今日も事務所に寝泊まりするつもりだったものの、匡導から根を詰めすぎるなと釘を刺されたため迎えが来るまでの予定で新曲を作っていた。
だが初華はそんな事情を知らないため、夜遅い時間にまだ事務所にいることを心配そうにしていた。
「どうして、まだここに」
「Ave Mujicaは今度のツアーが勝負ですわ、解散疑惑を払拭して信用を取り戻さなければ」
「だからって、もしかして事務所で寝泊りするつもり? ツアーまでずっと?」
「いえ……」
時折は寝泊りしていたものの、ずっとではないため首を横に振るが、だからと言って事情を説明するわけにはいかない。そんな曖昧な態度に初華は彼女がずっとここで寝泊りしているのではないか、家が遠くて帰る時間も惜しいのかという疑惑のまま、だが彼女の体調を純粋に心配していた。
「ここ近いし、家の人が心配しないなら……私の家じゃダメ?」
「……家の人は、きっと心配はしませんわ」
「さきちゃん」
父はもはや自分を追い出した側、居候をしている家主である彼も最近は、睦の様子ばかりが気がかりらしく、以前よりも干渉してくることも世話を焼こうとすることも減っていた。
──今日もどうせ、と思ったところで自分が浅ましくも睦に嫉妬していることに気付いて左腕を抑えた。
「……やっぱり私の家に来て? 遠慮なんかいらないから、ね?」
そのまま初華の押しに負けた祥子は彼女の家に泊まることになった。少女のようにはしゃぐ彼女はまるで小さい頃、一緒に虫取りをしたり天体観測をしていた頃と変わりがないようで、思わず笑みが零れてしまう。
「ええ、初華の家に泊まりますわ」
「解った、もうちょい早く連絡してくれると嬉しかったけど」
「ですから、貴方も好きにお過ごしになさって」
「うん……うん?」
電話口から聞こえてくる祥子の声には冷たく突き放すような、棘があるような気がして首を傾げた。とはいえ、泊まると連絡を受けた以上何もできることはないと電話を切った。
祥子は自分が何に苛立っているのかもはっきりと判別しないまま、通話終了の文字、たった数分しかない通話時間を睨み付ける。
「さきちゃん? 本当にロフトでよかった?」
「ええ、泊めていただけるだけでありがたいですわ」
「……家の人と、喧嘩でもしてるの?」
「いえ、そういうわけでは」
初華に話せる筈もなく、首を横に振るしかない。理屈では解っている。きっと彼は「Ave Mujica」のためになると思って睦のケアをしてくれているのだと。
けれど、そんな理屈ではなく感情として豊川祥子の傍に居るという約束を蔑ろにされているような──もっと俗物的に言えば恋人を放っておいて浮気をされているような不愉快さが彼女の胸に蟠っていた。
以前にもまして自分から求めることが、匡導から求められることに小さな幸福を感じることが多くなっていたからこそ、自然と匡導は自分から離れていくことはない。傍にいてくれると信じていたが故の、不快感だった。
「ずっと、ここに居ていいから」
「……ありがとう、初華」
コーヒーを手渡され、その中に居る酷い顔をした自分を見て自嘲する。
いつも自分がコーヒーを飲むときに、ついでと言って紅茶を淹れてくれる。疲れている、集中したい時にははちみつやミルクで甘めにしてくれる。きっと自分が飲まない時にも、気を利かせて淹れてくれる。そんな存在に甘えすぎていたのかもしれないと。
「……睦ちゃんの家に行った時に、居た人は……さきちゃんの、恋人?」
「匡導は恋人ではありませんわ……そんなこと、許されていい筈がありませんもの」
恋人ではないが、許されるならそうありたい。祥子はもう認めるしかなかった。小さな頃は憧れだった、年上の男の子、仄かな恋慕だったであろうその気持ちは母を喪った悲しみを契機として急速に膨れ上がった。許されない恋だとは理解している。祖父は間違いなく反対するだろうし干渉してくる、そんな万が一を許さないように通っている学園の教師にした気さえする。
「きっかけはお母様のお葬式ですわ、初華はお母様には会ったことがありましたわよね?」
「……うん」
「病気で亡くなりましたの、その時に……匡導は、彼はずっと寄り添ってくれましたわ」
悲しみを忘れようと、必死で押し殺そうとしていた祥子を決して許さず最後には根負けのような形で彼に縋りついてしまった、恥じらうべき記憶。
電話の相手が家の人などではなく匡導であることが初華にも伝わっているだろうと判断して、けれど決して肯定することなく彼との思い出を語っていった。
「忘れたくて、一緒に居る……だからさきちゃんが
──初華のその言葉に祥子は肯定も否定もしなかった。だが彼女がオブリビオニスである理由は、その忘却したいものとは母の悲しみでも、詐欺によって落ちぶれてしまった父への僅かな憎悪でもなく「CRYCHIC」という壊れてしまった暖かい日々であり、彼女たちを巻き込んでバンドとして成功することが全て、もう二度と戻らない日々を忘れるためのものであることなど言える筈もなかった。
「……ツアー、悪いことにならねェといいけどな」
睦のイエローシグナル、また祥子も徐々に余裕を失っていっている現状、今の「Ave Mujica」の営業面での屋台骨である睦と、総指揮としての立場を持っているバンドそのものの屋台骨である祥子が同時に精神的な危うさを持っているという状態を客観的に見てしまえば、睦が生放送で思わず発した言葉も、あながち的外れではないと思えてならない、と匡導は蒸し暑い夏の夜空に煙をくゆらせていく。
──かくしてそんな予感は、現実のものとなる。仮面を外したことを発端に始まった罅は、急速に広がり、全てを脆くしていく。
一章はアニメの三話までを対象とするつもりですわ。