Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
評価14件になりましたわ~! 一章はまだ序の口ですが、これから悪化していく人間関係で一緒に乾杯致しましょう!ご賞味くださいまし!
──烏森匡導の温もりに触れ、眠りに堕ちていた睦は、だがストレスの元凶が取り除かれたわけではなく、眠りが浅くなった彼女は夢を見ていた。
豊川邸の一室、ピアノやビリヤード台のある部屋は月明かりだけがそこを照らしていた。祥子にとっては母から貰った人形、そして母が褒めてくれたピアノを披露していた場、彼女にとって母との思い出が沢山詰まった部屋、故人を荼毘に付したその夜に悲しむ祥子の傍に居てやってほしいと清告は睦と匡導に申し出たのだった。
「睦ならまだしも……俺ですか?」
「祥子はキミと会えないことを寂しがっていた、今日だけはあの頃のように過ごしてほしい」
「……解りました」
睦には匡導が渋っていた理由が解らなかった。中等部に上がる少し前まで本当に当たり前のように一緒に居たのに、むしろ最近はどうして会う機会がなかったのかと疑問に感じていた程だった。
だが、その理由はすぐに解ってしまった。
「お前ももう子どもじゃねェだろ、その意味わかってんのかよ」
「子どもではないなら、子どもではないのなら……わたくしと貴方は対等ですわ」
「そんなことしても、瑞穂さんは還ってこねェよ、忘れることなんて、もっとできねェ」
「匡導、お願い……今日だけでいいから、我儘なわたくしを赦して」
「……祥子」
言い争う二人の姿、止めた方がいいだろうかと迷っているとその言葉は止み、代わりに幼馴染だった、ずっと三人で過ごしていられると無邪気に考えていた、その二人がまるでドラマのワンシーンのように唇を重ねている音、そして姿が睦の目に飛び込んできた。
「匡」
「なんだよ」
「……なんで、キスするの?」
「うーん、お互いが好きだから」
「好きだと、キスしたいの?」
「好きじゃなくても、キスしたくなる時はあるかもしれねェな……うーん、なんて説明すりゃいいんだこれ?」
匡導と二人で母の出演しているドラマを見ていた時にふと訊いてみた質問、その答えが数年の時を越えて睦の前に現れたような気がした。
──よかった、これで祥がまた大丈夫になるなら、よかったねって言ってあげられる。そんな内心とは裏腹に睦は胸が苦しくなるような感覚に膝を着いた。
「ひどいよね、二人とも裏切り者だ」
「……違う、祥は壊れそうだから、匡はそれを癒してあげてるだけ」
「でも、
ピアノ椅子に匡導が座り、その膝の上で祥子はしがみついて身体を上下に動かしている、その瞬間で灰色になって時が止まっていた。
そんな二人を指して、
「祥子ちゃんだけズルいよね、いつも匡導くんを困らせてたのは祥子ちゃんで、睦ちゃんは匡導くんに嫌われたくなくて、言うこと聞いてたいい子なのに」
「ズルいだなんて、そんな……」
「そうだよね、睦ちゃんも、あのまま祥子ちゃんみたいに誘うつもりだったもんね」
「……それは」
目の前で眠りに堕ちるまでのやり取りが人形によって再現されていく。一つだけ違うのは睦の人形が少しだけ眠らずに彼に口づけをしていく。匡導の人形は戸惑うものの力づくで抵抗することはない。あくまで弱々しく、睦を傷つけてしまわないように抵抗するだけ。
「いいよ、匡がしたいこと……しよ」
「──睦」
やがて腕枕をしてくれていた彼は睦に覆いかぶさるように、逃げられないように手首を抑えていく。
睦はそんな人形のやり取りに首を振って否定する。そんなことにはならなかった、匡導はきっともうこの部屋にはいないということも睦は理解していた。
「匡は……そんなこと、しない」
されたとしても嫌ではない。それは事実だが、睦が知っている、信じている彼は幾ら祥子と一時の感情の昂ぶりで行為に及んでいたとしても、それを長く継続させていることの責任から目を逸らすようなことはしない。祥子にそうしたのだから、睦もなんて倫理観を捨て去ることはしない。
「……あ」
気付けば、スマホのアラーム音が部屋に響いていた。自分がセットしたわけではない、おそらく匡導が去り際に設定してくれたのだろう、止めながらそんな小さな気遣いに、嬉しいという気持ち、けれどやはり夜の間に祥子の許へ帰ったのだという悲しみをわずかに感じていた。
いっそ、夢から覚めなければ、自分の好きな夢だけ見ていられれば。匡導とずっと一緒に過ごす夢、一緒に暮らす夢を見て過ごしていたいとさえ思う。だがもう彼女の意識は現実に還ってきてしまった。眠気はあっても、睦はもう彼の温もりを感じなければ眠れなくなってしまっているのだから。
「……匡」
縋るように名前を呼んでも、返事はない。昔、彼から誕生日プレゼントとしてもらった鶏のぬいぐるみを抱き寄せた。
そのまま支度をしている最中も離すことなく、玄関のドアが内と外を別けるその時まで目に見える場所に置いておいた。変な夢を見たせいで身体の疲れはまるで取れてはいなかったけれど、それでもきっと彼が褒めてくれるだろうと信じて。
「睦が来てない?」
「ええ、マネージャーに確認したところ、どうやら前の現場が押してしまったようで」
「……解った。俺が迎えに行けばいいんだな」
「よろしくお願いしますわ」
「畏まりました」
ツアー初日、東京公演の寸前で、既に入場待ちの客が「G-WEVE」の前で列を作っている状態だった。そんなタイミング、丁度会場に向かおうとしていた匡導は祥子からの連絡を受けて進路を睦の方へと切り替える。最近は本当にタクシー代わりだな、と電話を切ってから悪態を付き、それが正しい祥子との関係であることを思い出して溜息を吐いた。
「若葉さん、間に合いそうですか」
「……間に合わせますわ」
「そうですか、信頼しているんですね」
幸いなのは完成したばかりの台本、
「……信頼など、していませんわ」
「では」
「役割すら真っ当できないのなら、それまで……幾らお祖父様の走狗といえど、受け入れるのにも限界がありますので」
「なるほど、道具がその使い道すらなければ、意味はありませんからね」
「……そういうことですわ」
そんなに睦が心配ならばもっと傍にいればいい。元々、あんな男を懐に忍ばせておかなければならないようなことはない。
海鈴相手にそれらしい言葉で彼を評価しようと胸に痞えた蟠りが消えることはなかったが無理やりそれを水と共に飲みほしていく。詭弁では最早、自分を騙すことさえできない程に彼を手放せなくなっていることなど今の祥子に認められる筈もなかった。
「睦、乗って」
「……匡さん」
「少しばかりスピード違反するからな……シートベルトはしっかりな」
「うん」
マネージャーである袋小路は後から合流することになり、匡導は愛車のアクセルをいつもより深く踏み込んでいく。少しでも時間は惜しいが、それで事故を起こしては元も子もないため、言葉通り少しだけ、ただ渋滞していない道を選んでいく。
「……大丈夫か?」
「……うん」
運転に集中しているためそれほど顔色を窺うことはできなかったが、明らかに睦の体調が万全とは思えない状態だということは解っていた。
だからと言って、祥子にそれを報告しても意味はないだろう。睦本人も決して休もうとはしない。
「正直なこと言うぞ」
「……なに」
「祥子やムジカのためにそこまでお前が頑張ること、ねェと思うんだよな」
「どうして」
「仮面を取ったらその瞬間、誰も睦のことは見えてねェだろ、訊かれることは親のことばっか、そのくせ、誉め言葉すら森みなみに似て、ってクソみてェな枕詞が付く。それをフォローしてくれるハズのメンバーすら、今きっと自分のことしか考えてねェよ」
とは言っても、自分のことしか考えないのは俺も同じだ、と内心では自嘲するが。睦を迎えに行って、こうして送り届けるのも祥子のことをフォローするのも「Ave Mujica」に関わることすら、結局自分の意思ではなく豊川定治という飼い主に尻尾を振るため、逆らわないという意思を示すためのものだ。
「いい」
「……いいって」
「私は、祥の味方でいる」
だからこそ、皆が自分のことで手一杯なのだからこそ、自分だけでも祥子の味方でいなければならない。匡導が出来ない時間があるというのなら、その間を埋めるのは自分であるべきだと。
──それが自分の役割であるのだと。
「なァ睦?」
「……ん」
「嫌なことがあるなら、嫌でもいいんだからな」
「……嫌でも」
「そうだ、頼れる人に任せてもいいんだよ、祥子も睦も、俺からみたら頑張りすぎてるからな」
その言葉に睦は少しだけ瞳を大きくした。
今まで誰もそんなことは言ってくれなかった、睦の周囲に居る大人は彼女のことを理解しようとはしない。どこかで一線を引いている。
だけど、匡導は他の大人とは何処かが決定的に違う。自分のことを「芸能人の娘」でも「自慢のお人形」でもない、その奥にある筈の何かを見ている気がしていた。
「……うん」
「と言っても、今の祥子はちょっと余裕ないから」
「うん」
自分が大切に思う祥子や、自分のことを大切に思ってくれる彼の言うことならと睦は素直に頷いた。
だが「Ave Mujica」としてステージに立ち続ける以上、睦は他者から芸能人の娘という期待に晒され続けることになる。それを匡導がなんとかする術など持ち合わせているはずもなく、気休めでしかなかった。
「じゃ、ステージは見れないけど……頑張れ睦」
──匡の期待に応えたい。
そんな思いが胸に広がるのと同時に、睦は再び現実を突きつけられる。
──期待に応えるためには、祥を守ってムジカを続けなくちゃいけない。それは自分が傷つき続けることとほぼ同義だった。
──匡の傍に居たい。居てほしい。だけど今の匡は祥のもの。どちらかだけを選ぶなら匡は祥を選ぶ。
──好きって伝えるのが怖い。祥との関係を切れないと断られるから、それで傷つくのは
「──ねぇ、アタシの完璧な顔を返して!」
嫌な気持ちと匡導への想い、祥子への想い、そして自分の感情が綯い交ぜになった思考の坩堝に陥った睦がハッと気付くと、そこは既にステージの上だった。
ステージでは寸劇が始まっており、アモーリスが空に向かって壊れた仮面を求めていた。
「アモーリス」
「こんなの本当のアタシじゃない!」
「アモーリス、あなたが望んだことですわ」
仮面を失った人形が、その現実を、それでも満たされる想いを慟哭する。
それは仮面さえ無くなれば愛されると思いあがった人形への重たい罰のようでもあった。
睦は動揺する。もしかするとまた夢を見ているのか、そんな気分にさせられるが、これは紛れもない現実だった。
「……残念ですが月は誰も癒しはしません。それどころかどこまでも追い詰める。一度壊れてしまったらこの顔で生きていくしかありません」
祥子の創り上げた世界、台本はどこまでも悲劇的で、故に睦を追い詰めていく。たとえ意図していなかったとしても、本当に人形だった彼女にとっては意識が内側と外側の境界が曖昧になってしまう程に、現実的だった。
──彼女が棄ててきたものが、必要ないと思っていた全てが、牙を剥いてくる現実、ステージの上ではどこにも逃げ場はなかった。
「もう──逃げられない」
セリフと睦の心境が
それでも祥子のため、そして匡導との約束を守ろうと震える手でなんとか、ギターを演奏する。だが彼女の精神はとっくに限界を越えてしまっていた。
「──あ」
一度壊れてしまったら、この顔で生きていくしかない。
──ノイズのように暴れるギターの音、それによってまるで糸が切れたように
微動だにしない、それどころか生きているかすらも一瞬考えてしまうような、完璧な無だった。
仮面を失った人形の安息は遠く、何処までも彼女を追い詰めていく。
全国ツアーの始まり、それは同時に破滅へのカウントダウンでもあった。
アニメ八話視聴時点だとこの台本が恐ろしいほど睦に刺さっていることに気付いて震えておりますわ。
そして眠れたら眠れたで悪夢を見てしまう睦、ああ可哀想ですわね。