Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
死は常に傍におりますわ~!
丁度2月も終わりですので一章最後のお話ですわ!
ツアー仙台でのライブ中、結局睦のパフォーマンスを行うことはなかったが、それによってバンドの方針という根幹部分に亀裂が走る結果となっていた。
──祐天寺にゃむは消費者が求めるならそれに応じるべき、ニーズを提供できないバンドという形態にわざわざしがみつく必要もないと主張する。
──豊川祥子はあくまで「Ave Mujica」はバンドでありバンドは音楽で消費者に応えるもの。その大前提を崩すわけにはいかないとする。
二人の意見はどちらにも一応の妥当性があり、そして間違いがある。だが二人はお互いの意見を受け入れる程、余裕がない状態と言えた。
そんな二人の正当性なき言い争いはバンド全員を巻き込み、そして睦にとってはあの雨の日を思い起こさせる。
「さきちゃん、放っといていいの?」
東京駅に着き、力なく歩く睦をチラリと見ながら、初華が祥子に訊ねる。散々、何度も議論に上がる睦のパフォーマンス問題、同じことを何度言ってもまた同じ問いかけをしてくるにゃむに対し、そしてその間ずっと黙ったままの睦に対して祥子は遂に苛立ちを隠せないでいた。
──祥子にとって「Ave Mujica」はバンドでなければならない。それは「CRYCHIC」を忘れるため、置いて行かれた彼女なりの一つの答えなのだから。
確かににゃむや海鈴、初華にしてみれば祥子の事情は関係ない。勝手に祥子の事情に巻き込んでいるのだから「バンドでなくてもいい」というにゃむの発言に愕然とはしたものの、そういった後ろめたさから反論することはできなかった。
「わたくし、迎えがきておりますので」
「う、うん……」
労いを兼ねて、いいと言ったにもかかわらず東京駅まで迎えに来てくれると烏森匡導から連絡を受けて駅ロータリーまでの道を進もうとする祥子の後ろを、トボトボと睦がついていく。海鈴が止めようとしても声が届いている様子はなかった。
「お待たせいたしましたわ、烏森」
「いいですけど……後ろ」
「……どこまで付いてくる気ですの?」
車の前までやってきてしまったところで祥子が反転して睦に向き直る。
当然、乗り換えがあるはずの睦の家はこちらではない。先ほどの苛立ちを顕わにした祥子に対して、睦はまるで生気を感じられない足取りであり、事情がうまく飲みこめていない匡導が怪訝そうな顔をする。
「どうして嫌だと言わないんですの? パフォーマンスよりもギターを弾きたいのでしょう? それなのに……」
祥子の苛立ちの原因、睦の本心は彼女が語った通りだ。自分にとってはギターを歌わせたい、下手だけれどギターが好きで、ギターが弾きたいという気持ちを持っている。
だからこそ、にゃむの言葉に反論しない彼女に苛立っていた。彼女の本心が理解できるが故に、祥子はそれを主張しない睦が理解できなかった。
「……私がしゃべると、だめになるから」
そして睦が黙っていたのは仙台駅での言い争いでかつてのトラウマを再発したからだった。
──かつて「CRYCHIC」を壊したのは自分、若葉睦の余計な一言が原因、ならばこそ今回もまた自分が「ギターを弾きたい」と主張したらまた、バンドを壊してしまうかもしれない。そう思うと口が重たく、貝のように鎖されてしまった。
「──甘えないで!」
「……っ!」
「そんなこと言っている場合? このままではムジカがムジカでなくなってしまいますのよ!」
「さき……」
「昔はもっとしゃべってた、笑っていたのに! 全部わたくしに言わせて……どうして? どうして味方になってくれないの!」
計画が、砂の城が第三者の幼稚な思いつきで瓦解していくような焦燥と苛立ち、修復しようにもできない苛立ち、それに加えて世界観を修正していくための台本や演出を考えること、新曲づくり、そして家のこと、全てが積み重なったことで遂に爆弾が炸裂してしまった。
まるで幼子のように怒りに任せた言葉を振るっていく。それは、後ろで見ているだけの彼には止めようがないものだった。
「……ムジカしか、わたくしには、この世界しかないのに……」
チラリと睦は、まるで助けを求めるかのように後ろに立つ匡導に目線を向けるが、彼は何も言うことはない。祥子を止めることも、だからと言って共に睦を咎めることもない。ただじっと彼女の背中を見守るだけ。
──その瞳に、若葉睦は欠片も映ってはいない。
「睦」
「……匡、さん」
「
「あ……」
「じゃあ行きましょうか、お嬢」
「……ええ」
車が去り、ぽつぽつと雨が降り始める。
項垂れ、物言わずに固まる睦に容赦なく、雨粒は滴っていく。引き留めることも、彼の言葉に頷くことも拒否することもできなかった。
──自分は匡導に何も求められていない。ただ事務的に、義務的に答えを訊くつもりすらない質問をぶつけられただけだった。
「烏森」
「はい?」
「……睦に助け船を、出しませんでしたわね」
「必要でしたか?」
「雨が、降るとは思っていなかったから」
窓の外を見ながらそうつぶやく。夏の雨とはいえ、打たれれば身体も冷えるだろう。
純粋に睦のことを気遣っての言葉を、先ほどまで怒りに任せて言葉をぶつけた自分が放つことに少しの気分の悪さを感じつつ、だがそれを理解しているだろう彼が何も言わなかったことに対しての疑問として投げていく。
「睦だって一人で電車くらい乗れますよ、幾らなんでも」
「そう……ですわね」
「少し寝た方がいいですよ、だいぶ顔色が悪いですから」
「そうさせてもらいますわ」
穏やかな言葉、柑橘系の優しい香りとゆったりとしたテンポのピアノとサックスの音色、雨に打たれる夜のビル群の景色が、精神的に疲労の蓄積していた彼女の眠気を誘っていく。
新幹線ではささくれ立つ感情のせいか目を閉じても寝付けなかったのに、彼の運転する車の助手席では簡単に睡魔がやってくることに、いっそ理不尽だと悪態を吐く暇もなく祥子は優しい眠りに誘われていった。
「疲れるのはいいけど、やつれられるのは困るんだよなァ」
世間的には成功していると言ってもいい部類に入っている「Ave Mujica」だが、それに反して祥子も睦も、憔悴している。
話題になってテレビや雑誌などの仕事で忙しくしているからという肉体的疲労ではなく、精神的な摩耗によるものであり、じわじわとバンドそのものを蝕んでいくものだった。
「生放送があるんだっけ」
「ええ」
「で、睦のパフォーマンス問題は?」
「説得はしてみますわ……納得はしていただけないでしょうけれど」
バンド間の空気は最悪に近い上、仕事のオファーは初華と睦に、演出や台本作成、先方とのやりとり等の裏方は祥子に偏っているという現状はどう考えても長く続くようなものではない、奇しくも睦が呟いてしまった通り「Ave Mujica」の空気には常に「解散」という二文字が付き纏う危うい状態だと言える。
「それでもムジカは、わたくしの世界であって、バンドですわ」
「祥子、少し寝た方がいいんじゃないか?」
「大丈夫、もう少し大丈夫ですから……」
「……祥子」
何かに操られたように、憑りつかれたように自分の世界を護ろうと背中を丸める彼女に、彼が目を細めたくなるほどの眩さはなかった。
──再会した時から、彼女の母の葬儀に悲しんでいた頃のまま、豊川祥子は今も暗い闇の底に沈んでいる。だからこそ、微かな輝き、命なき人形の夜会、月光の導きに縋ることで立ち止まらずにいられるのかもしれない。
だがそれは本当の意味で祥子を救いはしない。解っていても匡導はそんな祥子に出来ることなど、何一つ思い浮かばなかった。
「生放送、終わったら迎えに行くから」
「……ええ、行ってきます」
「気を付けて」
精神的に追い詰められていく祥子にとって、唯一の味方であり世界の理解者だと思っていた睦は何も言わず、住むところを提供してくれた匡導もまた、所詮は祖父の走狗であり絶対的な味方としての信頼はなくなっていた。
失敗すれば必ず、彼は豊川邸へ戻れという祖父の指令を伝えてくる。それが役割であり、傍に居て支えてもらっても、身体を許すことはあっても、その大前提は崩れない。祥子の飼い犬を自称しても、結局は最初の命令を実行しているだけの存在なのだと。
「……心配するフリなんて、なさらないで」
だからこそ、彼に頼りたくなる、縋りたくなる自分を祥子は戒める。最初は、教師の仕事をしながら自分の監視という役割を祖父に押し付けられた被害者であるという認識、そしてその中でも昔のように見守ってくれる暖かさがあると信じていた。それほどまでに音楽室での密会の時間は心地よかった。
──春日影を目の当たりにして半ば自棄になった時も、祖父の走狗では絶対にしないであろう行為で繋ぎ止めてきた。味方だと信じたくなったし、不安になった時は誘いを掛けることもしてきた。唇を重ねていく時間、彼のベッドで腕の中に招かれ言葉を交わす時間、全てが心地よかった。
「わたくしにはもう……」
或いは、だから「Ave Mujica」を守ろうとしたのかもしれない。
あのままアルバイトで生活し続けていくのは困難でしかなかった。だからと言って豊川邸に戻れば彼もお役御免となって、下手をすれば羽丘から居なくなるかもしれない。家と学校を往復するだけの無機質な時間を過ごすのは耐えられない、そう思うからこそ自分の力で、世界で認められることを求めたのかもしれない、と祥子はふと振り返ってしまった。
「いい加減になさって、生放送ですのよ?」
「今変更しなきゃ間に合わないから言ってんじゃん! ちゃんとディレクターさんの言う通りにしなよ」
「演奏するという話で通ったはずですわ」
「渋々じゃん!」
だがもう、その世界も壊れつつある。仮面は剥がされ、バンドであることを否定された。
匡導も所詮は祖父の言いなりでしかなく、滅びへと向かっていくこのバンドが終わるのを待っているだけ。もういいだろう、その一言のために傍にいるだけの人形でしかない。
──続けるだけの意味も失われつつある中で、ただ「CRYCHIC」への妄執だけが、彼女をバンドへと固執させていた。
「今更蒸し返さないで」
「まだ決まってないじゃん、納得できないってば!」
「貴女は納得する必要ありません」
「はぁ!?」
罅割れていく。祥子が創り上げた「Ave Mujica」という一つの世界が、バラバラになっていく。
その言い争いで最も苦しむのは、傷つくのは祥子でもなく、にゃむでもなく、睦だということには誰も気づかないまま。
一度ならず二度までも、自分の何気ない一言が、引き金になる。雨音がずっと、一年前のあの日からずっと止まない。
「辛かったね、苦しかったね」
そんな雨空に、傘が舞い踊っていく。様々な色をした傘が彼女の悲しみを受け止めてくれる。
──目の前には自分の姿を模した人形が、ギターと同じ色をした自分の傘を差しだしてくれていた。
「私だけは、睦ちゃんの味方」
いつだって、
曇天に濡れた空が晴れ渡っていく。色とりどりの傘たちが空に溶けていく。手を伸ばせば、彼女を求めれば、自分は楽になれる。嫌なことから逃げられる。
「──睦」
「あ……」
脳裏に彼の声がした。伸ばしたその手が一瞬だけ止まる。
優しい顔、いつの間にか兄のようだと思っていた彼、ごく自然とずっと傍に居てくれるものだと信じて疑わなかった人物。
──だがその彼も、最後には祥子を選んだ。雨の降りしきるあの夜、彼は傘をくれなかったのだから。
「……モーティス!」
救いを求めて彼女の名前を呼ぶ。自分はギターだけを弾いていたかった、演技なんてしたくはない。けれど今、求められているのは
──その声に呼応するように
「──目が覚める度に生き返る」
生放送の「Ave Mujica」の出番、妙な胸騒ぎがしていた匡導もまた、普段はサブスクリプションで映画を視聴するくらいでしか使わないテレビモニターに地上波の電波を受信していた。
そこで目にしたのは、もう遠い昔の記憶、かつて祥子と二人で遊んでいる時、そして森みなみから語られていた若葉睦そのものだった。
「目覚めないのは永遠の死」
突如の事態に視聴者も、スタッフにも一瞬動揺が走り、そして次の瞬間には
だが、それは同時に「Ave Mujica」という世界が別のものへと変質してしまったことを示していた。
「
ギターを見下ろし、そっとそれをステージに置いていく。モーティスには
自分は、眠ってしまった彼女に、より深く夢の世界へ、永遠に覚めないよう優しく子守唄を歌う。そのための存在なのだと。
「……やっぱ、アレの相手なんて無理な話でしたよ、みなみさん。或いは、祥子でも……いや誰にも、アレに首輪を付けられる人なんて、最初からいなかったんだよ」
祥子は勿論、初華や海鈴にも動揺が見られる。完全なアドリブ、匡導とは付き合いの長い祥子の反応から、演奏するつもりで準備をしていたら突如として睦が語り始めた、ということを察知して溜息を吐いた。
嘗て森みなみは、空っぽな匡導を
──なんてことはない。睦は捨てていなかった。祥子や匡導が
「だからもう大丈夫──おやすみなさい、良い夢を」
かくして死が目覚め、ギターを愛し「CRYCHIC」を愛し、祥子や彼との日々を愛した若葉睦は暗く深い眠りについた。
自分の役割はここまでだと、後はモーティスに全てを任せて安らかな眠りへと。
宣言通り、これにて一章終幕ですわ。
ここから怒涛の展開が待っておりますのは、既にご存知の通り、ここに人間関係を更に悪化させるスパイスが加わった結果は推して知るべし、ですわ。