Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
豊川祥子の朝は早い。今のような夏の時期は目覚めた時間、陽も既にオレンジから白色に変わろうという頃だが、冬はどうなっているだろうか、とスマホのアラームを止めてからふと考えてしまう。
そんな微睡みから覚醒までのほんのわずかな時間、立ち上がり床に散らばっていた下着を拾い、足を通していると後ろで同居人が大きな伸びをして上体を起こした。
「ん……はよ、祥子」
「ええ、おはよう匡導……なんですの?」
「いや、絶景だなと」
「ほぼ毎日見ているのに、貴方も飽きませんわね」
「飽きてたら、ほぼ毎日下着を集めるところから朝は始まらないだろうね」
「……それもそうですわね」
そんなやり取りをしつつ我ながら少し前では考えることもなかった、決して他言のできない退廃的な朝だ、と祥子は溜息を吐いた。
烏森匡導の住むマンションに、居候をして少し経つ。その前から数えて三ヶ月程になる部屋での朝はもう慣れたものだった。
朝の支度を終えて、制服を着た祥子が彼から宛がわれた部屋から出てくると、朝食が並べられていく。
「ん……随分、紅茶の淹れ方が板についてきましたわね」
「祥子が拘るから」
「匡導は油断すると適当になりすぎますわ、ただでさえコーヒーは苦手なのに、あのような雑味が増えてはコーヒーそのものの良さが台無しですもの」
「別に祥子が飲むわけじゃないだろ、コーヒーは」
「時々飲まされますわ……苦いんですのよ?」
「そりゃあ申し訳ない、気をつけるよ」
ベーコンエッグとカットキャベツとトマト、ロールパンを一つ、匡導からすると本当に足りるのか心配になる量だが、彼女にとっては残っている時間で急ぐことなく優雅に、かつ腹を満たすのに最適な量であった。
「こうなることを想定していたわけではありませんが、羽丘を選んでよかったですわ」
「なにが?」
「お昼は学食で済ませられますもの」
「デカいよな、羽丘の食堂」
「ええ、メニューも豊富ですわ」
祥子と同じ一年生である匡導が先輩教師から雑談として聞いたところによると、なんでも前任の生徒会長が学食のメニューを増やすことに尽力していたらしい。生徒の自主性に任せた学校運営を掲げる羽丘らしいエピソードだと彼は感じていたし、授業をしていても学校の雰囲気はそういった校風に相応しい自由を感じさせるものだった。
「だからってコレは見られたら大変だけど」
「そうですわね、だからわたくしは歩いて行くと言っていますのに」
「俺が祥子と一緒に居たい、って理由じゃダメ?」
「心にもないことを仰るんですのね」
「ダメか」
実際の理由としては何かトラブルが起こったとして、同伴出勤が生徒や教師に露見した、くらいならば豊川グループ会長という後ろ盾があるため祥子に悪影響は出ないものの家までの道すがら、何かしらのトラブルに見舞われた場合、最悪の可能性として同棲していることが会長に露見することが考えられるためであった。
「では──また後で」
「うん」
こうして朝早く、まだ生徒もいない時間に登校した祥子の過ごし方はカバンを教室に置いて音楽室でピアノを弾くか、吹奏楽部の朝練がある時は教室で読書という二つに大別される。とはいえ最近は「Ave Mujicaのオブリビオニス」であることが発覚してしまったため、ピアノは漏れた音から人が集まると判断して専ら、静かに過ごすことのできる読書をするようにしていた。
他の生徒が教室にやってきてもただひたすら、活字を目で追いかけ、ページを捲り続ける。バンドのことを話しかけるものはおらず、初期の完全無視が功を奏しているのだと感じた。
「貴方の授業、つまらないと言われません?」
「藪から棒に、なんですか?」
「いえ、ふと思っただけですわ」
「……お嬢はいつも退屈そうな顔してるでしょう」
「楽しそうな顔をして授業は受けませんわ」
「確かに」
そして放課後になり、音楽室を使った密会を行う。本来ならこのようなリスクを負う行為は避けたいところだが、だからといってすぐに帰れば噂になる。勿論、行き道と同じ問題が帰り道にもあるとなれば彼の車に乗って帰るのが最も安全と言える。
今日は事務所に寄る用事もなく、束の間の平穏、祥子はピアノには手を触れずに休んでいた分の授業内容を彼に問いかけつつ会話を続けていく。
「ノートを誰かに借りられれば早いんですけどね」
「わたくしが誰とも関りたくないことくらい理解していますわよね?」
「そうですね、お嬢はぼっちですからね」
「匡導?」
「はい、すみません」
圧を感じ素直に謝罪しておくことで難を逃れる。だがこれも軽口、気の置けないやり取りでありじゃれあいのようなものであることは彼女が敢えて名前で呼んだことが証明していた。
──そうして、再びペンを止めた祥子は同じ話題を彼に振った。
「匡導の授業は眠くなりそうですわ」
「実際、うつらうつらしてたり、寝てる生徒もいるね」
「杓子定規で面白味がない、あれでは機械に代用させてもいいくらいではなくて?」
「自分でも、もう少しまともに先生ができるもんだと思ってたけど」
「根拠のない自信でしたわね」
「本当に」
祥子の言葉に苦笑いで返すしかない。大学では真面目そのもので、成績もそれなりに優秀なものだった。だからこそ教師としてやっていけるという自信もある程度はあったのだが、現実は教科担当をこなすことですら、率直につまらないと言われる始末、大学卒業前にはあった筈の教師としてのやる気すらも、何処かに置いてきてしまった。
「やる気の問題でしたら、お祖父様のせいもありますわね」
「無理やりココに就職させられたから、ってこと?」
「ええ、貴方にもそういう心くらいはありますわよ」
「ありますかねェ」
それは反骨心のようなものだろうか、と分析して自分の中にそんなものがあったのかと祥子の言葉に懐疑的な反応する。
物心ついた時から、彼の人生は彼の意思では決められないものだった。彼の両親は最低最悪の大恋愛の果てに業界で干されそうなところをなんとか、豊川定治が便宜を図ることで押しとどまった。勿論、母はともかく父は事務所の社長からは監視対象のような扱いを受けている。
そんなバカな両親の間に産まれてしまった匡導は、その名前ですら祖父が名付けたものだった。母と祖父以外は、彼が誕生したことを祝福することはなかった。
「何をやっても、結局はお祖父様の声一つで変わってしまう、そんな人生に嫌気が差した……わたくしにはそう見えますわ」
「俺の方がよっぽど、会長の……祥子の祖父さんに干渉されてるな」
「おかしなことに、そうですわね」
別に豊川グループに就職しているわけでもないのに、定治を「会長」と呼んで表面上は敬うことが自然になっている現状、定期的に連絡をし、時には直接会って報告に行く今の生活は、連絡を絶っている祥子とは完全に立場が逆だと溜息を吐いた。実のところ祥子を見張っている報酬を貰っている立場であるため、よほどでなければ文句は言わないのだが。
「やる気がないとお祖父様に判断されない程度に、頑張りなさい」
「そうするよ」
「さて、そろそろ帰る時間ですわね」
「それじゃあ、近くで待ち合わせようか」
匡導が先に立ち上がり、祥子が溜息を吐きながらその背中を見送った。それから少しして荷物を纏めて音楽室を後にする。
ひっそりと停めてあった車の助手席に乗り込んだ。人気がない朝ならばまだしも、夕方に職員用の駐車場に向かうのはあまりに人目につくだろうということで、今の方法にしていた。
「本当にこの待ち合わせで噂にならないんですの?」
「なっても、俺とは繋がらないでしょ、俺の車の車種まで把握してる生徒なんていないんだし」
「貴方の車は、少し悪目立ちしますわ」
「まァ、人とは違うって自覚はある」
その無責任な回答に祥子は窓枠に肘を掛けて頬杖を突いた。
以前、睦が羽丘の校門の前までやってきた時に「高級車が若葉の娘を連れて行った」と一時期噂になっていたことを思い出したからだった。実際に彼の車は大学進学祝いとして祖父からプレゼントされたそれは新車で三千万近くするもの、月ノ森ならばいざ知らず、羽丘では悪目立ちするのは当たり前だった。
「乗り換えないんですの?」
「祖父さんには就職祝いに新しいのにするかって訊かれたんだけどね、思ったより気に入ってさ」
「同系統の最新モデル、出ていましたわ」
「詳しいね」
「……別に、ただ見たことがあるだけですわ」
そうでなくとも、新しい車は自分の金でという意識が何処かにあった。言うならば虚栄ではなく自分の収入、身の丈に合った車を購入したい、そんな気持ちだった。
実際は思っていたよりも乗り心地が気に入ってしまい、手放せないという愛着も手伝っていたが。
「……どうやら、わたくしが忙しくしている間もちゃんと自炊しているようですわね」
「そりゃ、祥子が煩いからね」
「当然ですわ、いつも宅配や外食、果ては袋麺で生活するよりは作った方が身体にもお財布にも優しいんですのよ?」
「めんどくさいよ、料理する手間や洗い物の手間を金で省いてるんだけど」
「そういう考えが節約とは真逆ですわ!」
家に戻り、しばらくはお互いにデスクワークをしていたものの夕食の時間はなるべく二人で摂る、それは祥子が決めていたルールだった。家主を差し置いてルールなんて、と最初は思ったものの、彼の食生活を鑑みての措置であり、言ってしまえばお互いにとって代償行為に近いものでもあった。
「オムライスって自炊の定番扱いだけど、難しいよな」
「やろうとしないだけ、ですわ」
「俺はパスタとか生姜焼きでいいよ、簡単だし」
「面倒くさがりは感心致しませんわね」
なまじ裕福な家庭に生まれてしまった二人、故に誰かと二人で狭いキッチンに立つなんて経験も今まですることはなかった。祥子は母との記憶にほんの少しある程度、匡導に至っては全くと言っていいほどなかった。
だからこそ、言い合いをする時間すらも祥子には幸せだと感じてしまう。
──自分の現状全てから目を背けて、忘れたくなってしまう程に。
「お酒を飲むならお風呂の後にしてくださる? 」
「なんで」
「健康によくないからですわ、酔って足取りが覚束なければ足を滑らせて転倒する危険がありますし、そうでなくてもヒートショックの原因に成り得ますのよ?」
「……解った」
祥子は彼の飲酒に対しては特に厳しくする。その理由を知っているため、匡導も素直に従っていた。
彼を気遣っている、健康を心配しているわけではなく、その奥に居る「誰か」を心配しているのだということは明らかだった。
「酒はまた、祥子の居ない間にするよ」
「……先程言ったことは守ってくださるというなら」
「解ったって」
そんな悶着がありつつも祥子、匡導という順番でそれほど長風呂はせずに入浴を済ませて祥子はキーボードの鍵盤を叩いていく。
もはやこんな練習は求められていないのかもしれない。睦の一件以来、全体練習は全くできておらず、完全に「Ave Mujica」の雰囲気も変わってしまった。
そうだとしても、バンドとしての役割が終わっても、祥子は鍵盤を叩き続ける。最後まで、舞台の幕が下りるまで。
「匡導」
「祥子、もう練習はいいのか?」
「ええ」
リビングで仕事をしていた匡導に、祥子が後ろから抱き着いていく。直感的にキスを求められているのだと察した匡導が彼女の顔がある右を向いて三回、口づけをすると祥子は少し離れていく。
椅子から立ち上がり、振り返った彼は彼女が既に下着姿であることに気付いた。
「……なんですの?」
「いや……絶景だなと思って」
「貴方も飽きませんわね、本当に」
妖艶ともいえる、女の微笑みに、虫が花に誘われるように、或いはカブト虫が樹液に誘われるように、月夜に照らされる彼女を掻き分け、甘い蜜を啜り、味わっていく。
飽きるどころか、回数を重ねていく毎に深みが増しているような感覚が、馴染んでいく感覚が二人だけの世界を創り出していくのを手伝っていた。
「ふと、考える時がありますわ」
「なに?」
「このまま、二人だけの世界に逃げることが出来たら……本当に全て忘れることができたら、幸せなのかもしれない、と」
「珍しいことを言うね」
明かりの消えたベッドで、彼の腕の中から顔を出した祥子が呟いた。その弱々しい言葉が、今の「Ave Mujica」の息苦しさを表しているようで、彼は誤魔化すことも茶化すことはしなかった。もしこのまま、二人で逃げ出せたら、幸せになれるだろうか──考えるまでもなく匡導は首を横に振った。
「俺たちは、運命からは逃げられない。祥子が豊川祥子である限り、俺が烏森匡導である限り……たとえ、記憶がなくなっても」
「そう、ですわね」
この時間も、一時の逃避でしかない。
一人では押しつぶされてしまいそうな現実を、二人で寄り添うことで少しでもマシにしていくという恐ろしい程に後ろ向きで、諦観の籠った関係、それが今の二人だった。
「そんな無責任が許されるなら、俺は祥子と二人で旅でもしてみたいな」
「……旅?」
「二人で、色んな景色を見るんだよ、写真なんて残さずに……でも、記憶に残るような」
「匡導のクセに、ロマンチストみたいなことを言いますのね」
「似合わないロマンティシズムで、祥子が笑ってくれるかもしれないからさ」
「……ふふ、もう笑っていますわ」
二人が結ばれることは決してない。この関係もいつかは一時の過ちとして、過去の瑕疵という形で語られることになる。
──ならばこそ、運命が二人を分かつまで。せめて夢の中でならば、幸せで温かい夢を見ても許されるのだから。
豊川会長が駆け落ち色ボケバカを両親に持つドラ息子を祥子の婿になどする筈ありませんもの、この二人が結婚してどうの、という考えはするだけ無駄ですわ。
だからと言って駆け落ちしてはまさしくカエルの子はカエル、カラスの子はカラスということで、既に詰んでおりますわ。ワンチャン睦の婿の方がありえますわ。