Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
タクシーを使い、観光客も多く賑わう天神屋台にまで足を延ばしていた匡導はラーメンを啜っていた。勢いでラーメンだけでなく牛タンの塩焼きなども味わい、思わずアルコール飲料が欲しいと暢気なことを考えながら誘惑に抗っていると、祥子から電話が掛かってきて素早くスマホを操作する。
「烏森です」
「匡導、今すぐ戻ってきて」
仕事の関係かと思って返事をしたが、祥子の声は普段よりも苛立ちと困惑を含んでおり、なにより「烏森」と呼んでいないためアルコールの誘惑を振り切って立ち上がり、大通りへと出てタクシーを呼び止めた。
「何かあった?」
「睦が……ギターを弾けないと」
「だって弾いたことないもん」
祥子の言葉に続いてモーティスの声がスマホ越しに聞こえたことで凡その事情を察知した。
──ギターを弾けない、弾いたことがない。どういう訳かまでは理解できないが睦の習得していたギターの演奏技術はモーティスには引き継がれていないらしいのだろうということは判断できた。
「事情は把握した、すぐ戻る」
「ええ、先に話していますわ」
「了解」
自分一人で話すのではなく匡導を呼んでいる時点で彼女の精神状態もかなり危ういところだと感じていた。少なくとも睦からモーティスへの変化を受け止められる程安定してはいない。
そして間違いないことに、モーティスは祥子のことをよく思っていない。嫌っていると言ってもいいだろうことは、彼女本人に憎悪を向けられた匡導自身がよく解っていることだった。
「──睦ちゃんは死んじゃったよ」
その頃、モーティスは祥子に対してあっけらかんと、まるでなんてことないかのように、自分がそれまでの若葉睦ではないことを打ち明けていた。
だが死という言葉は余りにも祥子にとっては足元から全てを崩すようなインパクトのある、思わずこの場から逃げ出してしまいたい程に恐ろしい言葉だった。
「祥子」
「あ……匡導」
頭が真っ白になってしまった祥子の肩に横からやってきた彼がそっと手を置く。そうでもしなければ祥子は立っていられない程に動揺していた。
彼の存在を背中に感じることで、漸くモーティスの笑顔をもう一度だけ直視することが出来た。
「あ、間違えちゃった! 死んじゃったみたいに寝てるんだよ」
「ふ、ふざけないで!」
絞り出すように、精一杯の虚勢で相対する。
だが匡導は知っている。一度向けられているのだから、モーティスという存在がどういうものなのかを、彼女の根底にある「睦ちゃんを守る」という存在意義を果たすため、どういった攻撃性を持っているのかを。
「──私は真面目」
「寝てるってなんなんですの!? どういうことか説明なさい!」
モーティスにとってみれば、ふざけているのは祥子と匡導の方なのだから、分かり合うことは不可能と言えた。
今ままでギターを弾いていた彼女は意識の奥底で深い眠りに誘われたまま、だというのにその原因となった祥子が語気を強めることも、匡導がそんな彼女の側に立つことも、どちらも嫌悪していた。
「私の名はモーティス」
「え……」
「匡導くんにはもう、自己紹介したよね」
「ああ……
「別、人格……?」
意味が解らないと祥子は首を横に振る。目の前にいるのは睦であって睦ではない存在、もう一人の睦と言うべき存在、唐突にそんなことを言われても今の彼女には到底受け入れられないものだった。
だが腑に落ちる点もある。今までの睦とは明らかに違うと長く付き合ってきたからこそ断言できた。
「ずっと昔から睦ちゃんとお話したり、お人形で遊んだりして楽しく暮らしていました」
「ずっと、昔?」
「ギターを弾くようになった睦ちゃんは、これが苦しみの始まりとも知らずに、祥子ちゃんのバンドに入ったのでした」
あたかも壇上で物語のナレーションを朗読するかのように、明朗に、だが静かで淡々とした言葉で「睦ちゃん」の過去を語っていく。
ずっと昔、祥子は思い当たることがあった。普段はかなり物静かなのに、お人形遊びをする時、おままごとをする時に確かに前の睦とは違う顔を覗かせることがあったこと。
「ある日、苦しくて、匡導くんが傍にいないと眠ることもできなくなった睦ちゃんは、助けを求めて祥子ちゃんの後を必死についていきました。ところが、いつも自分のことばかりの祥子ちゃんは、睦ちゃんを酷く罵ったのです」
「……あ」
思い出されるのは仙台からの帰路、東京駅での一幕、睦が眠ることになった最後のきっかけがやはりそうなのか、と匡導は彼女の後ろでただ黙ってその言葉に眉間の皺を寄せた。
その際に彼が睦ではなく祥子を優先したこと、それも睦にとっては捨てられたと感じるものだったことも原因なのだから。
「こうして、深く深く傷ついた睦ちゃんは、ふかーい、ふかーい眠りについてしまうのでした──だから私は二人とも嫌い」
遠雷が鳴る。朗読を終えた彼女の瞳には間違いなく、煮えたぎるような嫌悪の感情が宿っていた。
睦をほぼ無理やり「Ave Mujica」という復讐に巻き込んで、眠ってしまうまで追い詰めて、それでも味方であろうとした彼女を傷つけた祥子も、そんな二人の関係をずっと俯瞰していたのに決して口を出すことなく、中途半端に助けて希望を持たせて突き放した匡導も、同じように傷ついてしまえばいいと思う程に。
「安心して! 睦ちゃんと睦ちゃんの大好きなバンドは守るから──でも」
靴音を鳴らし、雨音と同時にモーティスが祥子たちに近づいていく。彼女にはモーティスの嫌悪と怒りが、もはや笑顔であってもそうでなくても全身で感じてしまい、普段の張りつめたものが完全に崩壊していた。
距離を詰められ、祥子は隣にいる彼のスーツを握りしめ、半ば後ろに隠れてしまう程にモーティスに対して恐怖していた。
「こんな祥子ちゃんじゃ、睦ちゃん二度と戻ってこないかもね!」
「モーティス、祥子は」
祥子の顔を覗き込むようにしていたモーティスは、匡導が何かを言う暇もなく二人に背を向けて迷いのない足取りで戻っていく。
彼女の頭の中には「今の睦は睦ではない」ということへの困惑と「前の睦は死んでしまったのかもしれない」という恐怖が頭を支配していた。
「……匡導は、知って、いたんですの?」
「少し前に……けど、ギターのことまでは」
「あれは……睦では、ありませんのね」
「そうだけど、あれも睦の一人なんだ──って言っても、今は伝わんねェよな」
緊張と恐怖が和らいだことで、膝が震え出し祥子は誰に見られているのかもわからないというのに、彼に身体を寄せて縋りついた。その姿はもう、他者の人生を預かり大きなことを成そうとした、虚勢すらも消えてしまっていた。
一年前の、母が亡くなった時と同じように彼の腕の中に納まりきってしまう程に、縮こまってしまっていた。
「……あ、さ、さきちゃん……と、烏森さん」
「ありがとう三角さん……ほら祥子、傘を」
再び祥子が動き出したのは、初華が持ってきた傘を匡導が差し、その背中に手を添えたところだった。
その前の姿を見ていた初華は、胸の裡に蟠る感情を振り払えずにいた。幼馴染で、外では徹底して「お嬢」と「烏森」で通してきた二人の嘘を信じていた。それどまりなのだと信じていた。けれど現実として彼は彼女を呼び捨てにしていたのだ。
「あっ雨……明日には止むらしいよ」
「はい、ホテルのだから味は我慢して」
「ありがとう」
ホテルの部屋に備え付けられていた紅茶を淹れ、祥子がそれを一口飲み、少しだけ安堵したような息を吐いたことで、付き添っていた初華もまたほっと息を吐き出した。
更にもう一口、カップを持ってから少しだけ手が震えていたものの、彼女はまっすぐに匡導の顔を見た。
「匡導」
「ん?」
「八幡さんと……祐天寺さんを、呼んでくださる?」
「アイツのこと、話すのか?」
「……話しませんと」
「睦ちゃんと、何話したの?」
「……それも含めて、だよな。解った、三角さん、二人の部屋番号を」
「あ、それならスマホで呼べば」
「そうだった、三角さんお願いします」
憔悴しきっているものの、モーティスを除いた四人で話し合わなければならないことがあるという彼女の意見に匡導も賛成だった。
連絡を待っていたのか、海鈴とにゃむからの返事はすぐあり、バンドと直接関係のない彼は部屋の外で待つことにした。
「あ、匡導くん」
「モーティス」
「今祥子ちゃんの部屋で会議してるんだよね?」
「なんで」
「だって書いてあるもん」
祥子の部屋の外で、全館禁煙であるため缶コーヒーを買って口慰みにしていると、モーティスがやってくる。
どうして此処に来たのかと不思議に思っているとスマホを見せてきて、初華が個別に連絡したのではなくグループチャットで呼んだことに気付いて匡導は苦い顔をする。
「行くなよ」
「なんで?」
「祥子はお前が怖いんだってさ」
「どうして? ムジカは続けるのに」
「敵意があるからな」
「守ってもらえるのに……睦ちゃんと違って」
「俺に言ってんのか」
表向きには穏やかな雰囲気で会話をしていく。その中でモーティスによる祥子と睦を比べるような物言いに心底うんざりした顔をする。
そもそも、匡導にとって祥子と睦の扱いは同格ではない、それを何度言っても理解しないモーティスに対して苛立ちすら覚えていた。
「通して、私もムジカだよ?」
「今話してるのはそのお前のことだからな」
「だから通してよ」
扉の前で目の前に迫られ、彼はもう一度首を横に振ろうとして、少しだけ考える。
ここで押し問答をしていても仕方ない。祥子も、他の三人に睦の現状を共有することで、混乱していた頭の中も整理できる。彼女自身のプライドも働いて幾分か落ち着いているだろう。ならばその落ち着いた祥子と直接話し合わせるのも解決策かもしれないと考えた。
「……まァ、俺もここで門番するのにも飽きてきたしな。コーヒーでも買いに行ってくるよ」
そう言って彼は祥子の部屋の前から去っていく。彼女たちの話し合いは「Ave Mujica」の今後に関わる、若葉睦もまたそのメンバーの一人なのだから立ち会う権利はあるのだろう。
──それが、モーティスにとって、そして祥子にとって望まない結末だったとしても。
「悪ィな祥子、俺の我儘だ……後で幾らでも叱責は受けるさ」
彼は一足早く、人形達の仮面舞踏会、その舞台袖から去っていく。缶コーヒーを片手に、結末が悲劇であることを予感しながらそれでも彼は自分のために、彼女たちの手で幕を引かせるという選択をした。
「少し、よろしくて?」
「どうぞ」
匡導が部屋に戻ってから数分後、備え付けの電気ケトルでお湯を沸かし、自宅から持ち込んだ、彼女が気に入っていた茶葉を使って紅茶を淹れていたところで部屋をノックされ扉を開けた。
そこには予想通りの人物、祥子が居てなにか躊躇う素振りもなく彼の部屋へと足を踏み入れた。
「やっぱり、この茶葉の方が美味しいですわね」
「そりゃァ、そうでしょう」
「……ムジカは、もう終わり、夢から醒める時が来ましたわ」
「はい、お疲れ様でした」
カップを置き、そう告げられた匡導は深く頭を下げる。先程の数分でどうやら「解散」という一つの結論に落ち着いたことは、モーティスが部屋に入った時点で予測できていたことだが、それでも彼女の口からそれを聞かされるというのは彼にとっても一つの区切りを付けたような気持ちになった。
「貴方はどうするおつもり? きっといずれ、わたくしの監視という任も解かれるでしょう」
「さァ、それから先は俺には解らない」
「では、質問の仕方を変えますわ──匡導はどうしたいと考えてるんですの?」
「俺個人としては──」
言葉は、どうしたいかなんて無かった筈だった。けれど彼は彼女のまっすぐな質問に選ばなければならないくらい言葉が、選択が溢れてくることに自分でも驚いていた。
脳裏に浮かぶのは彼女の監視という名目で近づいた中で積み重なった、様々な表情、そして交わした言葉だった。
「祥子と一緒に過ごしていた、あの時の居心地の良さを手放すのが惜しいかな」
「……居心地は、良かったんですのね」
「楽しかったよ、短い間だったけど」
「わたくしも、同じかもしれませんわ」
そう言って紅茶を飲み干した祥子は、ソファの隣に座っていた彼の手に自分の手を重ね、別れの寂寥を、唇を重ねることで表現していく。腕を首に回し、引き込み、自分を押し倒させても唇を放すことは許さない。
二人きりの世界で、くぐもった悩ましい声、唾液の橋が架かる程に激しく。
「──雨が止むまで、傍に居て」
「解った」
結局、朝まで雨が止むことはなく、彼女は自室へ戻ることはなかった。
だがシャワーを浴びて部屋から去っていく祥子の表情は雨が上がったとは、到底言えそうにはない、と匡導は感じていたのだった。
匡導はあくまで
祥子>それ以外
というスタンスを崩すことがないのでモーティスに嫌われても全く動じませんわ。