Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
とはいえ時系列的にはこちらの方が前になるのですけれど
──二月中旬、無事、卒業に必要な単位、論文、実習等の教育課程を修了しており公立高校の教員になることが決まり、卒業を待つだけとなっていた匡導は突如として、おおよそ五年振りに豊川邸へと足を運んでいた。
「来たか、おお……随分と大きくなったように感じられるな、匡導くん」
「お久しぶりです、豊川会長の方はお変わりないようで」
「ハハ、そう見えるならよかったが、随分と老け込んでしまったよ」
そう笑う豊川定治──豊川祥子の祖父は言葉通り、たった数年で少しくたびれた印象を彼は抱いていた。原因は問うまでもなく、愛娘との死別とそんな愛娘が遺していった最愛の孫、祥子が義息子を追って飛び出していったことであり、なんと言えばよいのかと頭を巡らせていた。
すると、定治は改まって匡導に向き直った。
「祥子のことだが」
「……父を追って、出ていったとか」
「今は赤羽の安アパートで二人暮らしをしている」
「それは……」
「
──烏森匡導と豊川、もっと言うなら「豊川グループ」との関りは親の代に遡る。彼の両親が若葉睦の母親である森みなみと同じ「Win-Wing-production」の関係者であり、父はそこのアイドル部門のプロデュースを担っており、母は現在アイドル業を引退はしてはいるものの現役の所属タレント。事務所と豊川が繋がっており、また父はそのまた父、つまり匡導の祖父がグループ企業の役員でありそのコネで事務所に入社したという繋がりだった。
だが駆け落ち同然の両親から生まれた匡導からすれば半ば親戚づきあい同然であるため顔見知りだが、就職も決まったこのタイミングで呼び出される理由については心あたりがない。対面するまではわざわざ直接寿いでくれるのかと暢気に構えていた匡導も、そういった類ではないという匂いを感じ取っていた。
「……いい加減本題に入ろう、祥子が羽丘女子学園に進学することが決まった」
「月ノ森は退学されていた……ということですね」
「ああ、羽丘には学費免除の特待生制度がある」
「成程、それならば公立高校より出費を抑えられますね……それで」
「無茶なお願いではあると承知しているが……キミにはその羽丘で教鞭を取ってほしい」
信じられない言葉に思わず素で「ハァ?」と返しそうになったのを寸でのところで止めた匡導はその言葉が持つ意味を導き出し、もう一度「ハァ?」と声と態度に出そうになるのを抑えた。
「──つまり、お……私にお嬢さんの監視をしろと?」
「その認識で構わない。アレは娘に似て中々どうしてじゃじゃ馬でな」
「……そうですね」
今度は抑えきれずに同意してしまい、視線を向けられたことで大きく息を吸う。箱入りとは到底思えない奔放さがあった幼い時分の祥子を思い出せば当然の反応であるが、あくまで他人に肯定される謂れはない。
だが定治は特に咎めることもなく、不承不承と言った風体で言葉を続ける。
「キミは祥子に気に入られていただろう」
「む、昔の話です、お嬢さんが中学に入る頃には話すこともなくなりました」
「──やってくれるな?」
「……畏まりました」
アイドルとそのプロデューサーのスキャンダル、祖父の最後の慈悲として手を回してそれらを守ってくれた豊川グループの会長からの言葉とあればそれは彼にとっても無視できるものではない。いわば王と侍従のような関係なのだから。なればこそ王女の
「……執事にでも頼めよ、いるだろ」
故に悪態は絶対に聞かれないと確信できる場所、喫煙所で紫煙と共に吐き出す。
だがもう、おそらく自分は羽丘にねじ込まれていることだろう。具体的な方法は考えても仕方ない、流れのままにやってやると匡導は半ば自暴自棄のような状態で羽丘女子学園に勤めることが決まった。
若い男ならば女子生徒は注目することは解り切っている。ならばと匡導は元々パーマ気味だった髪型をよりボサボサに、手つかずのような状態にし、無精ひげを生やすことで女子からの興味の対象外になるようにした。身なりもみすぼらしく見えるようスーツは何度も着て古くなったものを選び、靴も内履きにも、身の回りのものには全て気を遣った「変装」をしてみせた。
「説明してくださるのよね……匡導?」
「久しぶり、祥子……俺のこと覚えてたんだな」
「貴方、ご自分の名前が珍しい部類だという自覚がありませんの?」
だがB組で自己紹介をしたその日に問い詰められ、あっさりと白状するに至ってしまった。元々は隠密で、とは言われていない。むしろ祥子に近づいて近況報告をされる仲になることを期待されていたのだが、祥子がその意図に気付かないほど愚かではないことを、匡導は理解していた。
「お祖父様の差し金ですわね」
「そりゃそうなるわな」
鋭い目つきを向けられ、定治に睨まれた時のことを思い出しながら彼は早々に洗いざらい打ち明けた。
だが祥子は怒ることはなく、やや同情の目を匡導に向けていた。
「つっぱねないのか」
「むしろ、わたくしがしっかり自活できている姿をお祖父様に見せるチャンスですわ」
「……俺は伝書鳩なのね」
「お祖父様の走狗なのは事実ではなくって?」
「その通りです、お嬢」
「お嬢はやめてくださる?」
妙な協力関係のような、板挟みに近い状態になったなと匡導は溜息を吐く。だが祥子から中学時代は新聞配達で、現在はコールセンターの仕事でなんとかやり繰りしていること、若葉睦とは連絡を取ってはいるものの現在通っている学校、そして家などの居場所を誰にも伝えるなと言い含めてあること、匡導は祥子の知らない情報を詳しく知ることが出来た。
「親父さん……そんな状態なのか」
「ええ……今この時も、いつ警察署から連絡が来るか解らない状態……嫌になりますわ」
彼が特に衝撃を受けたのは記憶では真面目で優しそう、暖かい人だと思っていた祥子の父、清告の現在の姿だった。
その誠実さと愚直さからグループ会長の娘の心を射止めた男が、その誠実さと愚直さ故に多大な損失を会社に与え、そして酒に溺れ常に布団で横になっているという事実に彼は言葉に尽くせない苦味のようなものを口の中に感じていた。
「お祖父様も、他の役員の方も誰もがお父様をもうダメだと見捨てましたわ……お母様を亡くして、それでもわたくしや豊川のために誠実さを貫いた父を……わたくしが見捨てるわけにはいきませんわ」
「それで、豊川を飛び出した……すごいな、祥子は」
──いつかはまた、その誠実さと愚直さで立ち直って元の父に戻ってくれる。そうして母を喪った悲しみも乗り越えてくれる。そう信じている。だからこそ祥子は中学生ながら必死に生きる術を模索し、独りで頑張ってきたという事実を知った匡導は箱入りお嬢様の監視というよりは、見守る方に傾いていった。
「自分じゃどうしようもなくなったら、俺を頼ってくださいよお嬢」
「……信用できませんわ」
「会長の走狗じゃなくて、お嬢の飼い犬になら喜んでなりますんで!」
「貴方みたいな駄犬は必要ありませんわ」
「ひどっ! なんでそんなひどいこと言える?」
「ウチに犬を飼う余裕はありませんわ!」
「そりゃそうか……じゃあテキトーに構いに来ますんで」
それから誰もいない時間帯の音楽室が、彼と彼女の密会場所になっていった。匡導からは学校のあれこれ、生徒の関係や授業態度の愚痴を含めたくだらない雑談が、祥子からはピアノの音色が空白を埋めていく。
匡導にとってはピアノの音色が穏やかな春風と優しい眠気を、祥子にとってはその絶えることのない話題が涙を隠す雨粒と孤独を紛らわせてくれる濡羽の傘となった。
そんな穏やかな日々が壊れるサインとなったのは、奇しくも共通の知人ともいえる彼女が現れた時だった。
「どうしましたの? 電話なんて」
「もう帰る頃だろうと思いまして……今は外出るのはちょっとオススメしません」
「どういうことですの?」
入学から数週間が経過した四月末の放課後のこと、スマホが震え祥子はやや慌てたように画面を見た。その画面に「烏森」という短く無機質な二文字を確認し、一度鼻から息を吸って軽く吐いてから耳に当てた。
匡導の話によると校門に月ノ森の制服を着た女子生徒が立っているということ、そしてその人物が若葉隆文と森みなみの娘であること、それらを別の女子生徒から聞きつけたということだった。
「……睦が?」
「まァ十中八九、お嬢絡みでしょうね。そっちは俺が対応するんで……お嬢は?」
「近くに羽沢珈琲店、というお店があります……話がありそうなら其方で待ち合わせ致しますわ」
「了解、じゃあ少しばかり校内で待っててください」
それだけ伝えて電話を切った匡導は途中だった仕事を切り上げ、荷物を纏める。上司にはとても申し訳ないと思いつつ、これもまた業務だと心の中で誰に通じるでもない言い訳をしてから車に乗り込んだ。髪型をやや整え、趣味ではない金光沢のブランド腕時計を身に付け、伊達メガネからサングラスに着けかえる。
ほんの少しだけ遠回りをして、少し型の古い、黒色のスポーツカーを睦の真後ろに止めた。
「睦、乗って」
「え……あ、
「いいから、祥子に会いに来たんだろ?」
「……うん」
これで万が一にも「あの若葉睦を羽丘教師が車で拉致した」なんて噂が立ったら幾ら豊川グループ会長の力でも庇いきれるのだろうか、と無益なことを考えつつなるべく全力で匡導は羽丘から遠ざかっていった。
「見た、今の?」
「若葉の娘、連れてったの誰だろう?」
「あの感じだと羽丘の人?」
「じゃあ先生ってこと?」
「ヤバー」
一方で校門前の様子を窺っていた祥子は、噂話の間をなるべく目立たないように通り抜けていく。自分はきっと噂の対象にはならなくとも、下手をすれば匡導まで辿り着いてしまう女子生徒も出るのではないかという心配が胸の裡に広がっていた。
強引すぎる、これならば自分が距離を空けて付き従わせた方がよかったのではないか、そうモヤモヤと纏まらない思考を道に散りばめながら祥子は帰り道ではなく羽沢珈琲店へと向かった。
「匡さん、羽丘……?」
「ええ、羽丘の教師ですわ」
「……知らなかった」
「会っていませんでしたの?」
「うん……お葬式、以来」
「……っ」
既に匡導はおらず、店の前で待っていた睦を連れて店内の端を陣取る。
何の用かを問いただす前に、睦から訊ねられたことで珍しいと思いつつも肯定する。それが仕組まれたことだ、ということはわざわざ口にはせず肯定だけをした。
誰の、とは言うまでもないことだったがそれを無遠慮に言ってしまうのが若葉睦だと知っていて、だが祥子は平静を取り繕うことが出来なかった。
「睦は、匡導に懐いていましたわね」
「……みなみちゃんが、あの子はお兄ちゃんみたいなものだからって」
「そう……そんなこともありましたわね」
もっと言えば父の隆文は妻と彼の父の距離感からそれを少し嫌がっていたのだが、祥子がそれを知る理由は森みなみから聞かされていたことであり睦には知る由のないことだった。
そもそもそれは親同士の諍い、人間関係でありそれを子どもに持ち込むのは当事者である匡導自身も嫌がっていることで、故に「匡兄」とまで呼ばせようとしたものを現在の呼び方にしたのは他でもない彼だった。
「──それで、どうして勝手に来たんですの?」
「……返事、なかったから」
──そよが、心配している。睦から告げられたその言葉に祥子は眉を寄せた。
自分が壊してしまったバンド「CRYCHIC」の残滓、どうしても消しきれない過去の痛みと出来事。入学式に同じ高校に通っていることが解ってしまった高松燈と共に、断ち切ることのできないほつれた運命の赤い糸。
「……匡導」
「送ってくよ」
「ええ……」
助手席のドアを開け、少しタバコの匂いが残る車内に窓を開ける。
腕時計を外し、サングラスを取った彼は彼女を送る短い時間、いつも自分が聞くようなメタルバンドではなく、ピアノソロが中心のクラシックに切り替えた。
月明かりは弧を描く。まるで彼女を嗤うかのように。だが、祥子の視る景色にはその月光は映っていなかった。
「……睦と、他に三人」
「ん?」
「去年、バンドを組んでいましたわ……CRYCHICというバンドを」
「へェ……祥子はキーボード、睦は確かギター持ってたよな」
祥子が静かに頷きながらポツリ、ポツリと暖かな日々を回想していく。
もう戻らない冷たい雨に煙ってしまった日々、でも確かにそこには運命なんていう稚拙な言葉でしか表現できない繋がりがあったのだと。
ハンドルを握り、前をまっすぐ見ていた匡導はそんな彼女の音色を静かに聴いていた。
豊川、若葉、烏森の三つのおうちの関係
執筆者のわたくし自身もややこしくなったので一応あとがきで整理させていただきますわ。
匡導祖父:「豊川グループ」の役員、豊川定治の忠実なる僕
匡導父:芸能事務所「WWP」にコネ入社、アイドル部門のプロデューサー、森みなみとも関係があった?
匡導母:芸能事務所の所属タレントで元アイドル。現役中にスキャンダルを起こしている。十代で匡導を産んでいる。
祥子祖父(定治):ボス。祖父バカ気味
祥子父(清告):-168億円、酒浸りクズ親父、赤羽警察署常連
祥子母(瑞穂):故人
睦父(隆文):たあくん、大御所芸人、烏森家が嫌い
睦母(森みなみ):みなみちゃん、演技派女優、烏森家と仲良し