Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
烏森匡導はいちはやく混乱状態から脱出し、目の前にいる彼女の情報を整理する。
──長崎そよ、睦と同じ月ノ森女子学園の一年A組で吹奏楽部に所属しており、また学校外ではかつては「CRYCHIC」の、そして現在は「MyGO!!!!!」のベース担当をしている。
性格は極めて柔和で穏やか、他人に頼られることが多く頼まれごとをするとついつい引き受けてしまいがちな、お姉さんのような役割を担っている。
「……あの睦ちゃんは、どういうことですか?」
「睦は、キミたちの良く知る若葉睦はアイツの言う通り、深い眠りについています……目覚めさせ方は、どうやらモーティスにも解らないようですけど」
睦、モーティスの様子を見た際に、バレエシューズを電話に見立てて誰かと話している様子、その後に言われた「睦ちゃんを助けて」という言葉を受けて、そよは混乱しつつもしっかりと彼への説明を求めていた。
「モーティス」
「あァ、すいません。
「……多重人格、ってことでしょうか?」
「もっと詳しい話は、当人であるモーティスから聞いてください、貴女にならきっと打ち明けてくれると思います」
豊川祥子や、若葉睦から聞かされていたそよのプロファイル、だが目の前の彼女はまるで性格が当て嵌まっていない、と感じていた。柔和で穏やか、そう聞いていたのにも関わらず、彼女の眼は間違いなく敵意を含んでいた。
だが、それでも彼女は睦を心配してこの家まで足を運んでくれた。事前情報通りとはいかなくとも目的が一致していると判断して匡導はそよと向き合っていた。
「でも私は……確かにクラスメイトだし、おんなじCRYCHICでしたけど……そこまで仲良くは」
「睦は、そうは思っていませんでした……俺は、そう聞いています」
「え……」
睦が忙しくなり始めており、送り迎えをしていた頃、助手席に座っていた彼女が一度だけかつてのバンドのことを彼に話したことがあった。
話した、と言っても断片的で、睦にとって彼女たちがどういう人物であるのか、そういうものの欠片に過ぎないものだったが。
「私、その……モーティスちゃん? と、話してみます」
「お願いします」
モーティスが敵意を向ける相手は「Ave Mujica」を通して「睦ちゃん」を傷つけた豊川祥子と烏森匡導の二人、逆に言うならばかつての「CRYCHIC」は彼女を受け入れていたのだからモーティス自身にとっても好意的だと予想していた。
「泊まっていいとみなみさんから言われていますが、ご迷惑ではありませんか?」
「そんな、むしろ此方からお願いしたいくらいです」
「……では、ご厚意に甘えさせていただきます」
家政婦なりに彼女のことを心配しているのだろう、普段の母親代わりをしているのだから母性を抱いていてもなんらおかしくはない。
それがほんの少し羨ましいと感じてしまうことに、匡導は苦笑いをする。もう23という年齢になろうと言うのに、母性から来る愛情に嫉妬するなどとは幼稚だと、とっくに諦めた筈だと。
「……長崎さんも、おそらく泊まることになるでしょうね」
上階を見つめながら、匡導はそう呟いた。モーティスはそよが抱いた様子では誰かに助けを求めている、理解者を求めているフシがあったという。
ならば、優しく思いやりがあるそよはモーティスにとっては願ってもない人材だった。
「長崎さん、モーティスは?」
「眠ってしまって……あの子のこと、少し聞きました」
「そうですか」
「……貴方が、祥ちゃんや睦ちゃんとどういう関係なのかも」
「……そうですか」
睨まれ、軽蔑した視線を向けられる。その覚悟はしていたものの、いざ目の前にすると後悔してしまう自分が嫌になりそうになってしまう。
現実として、祥子とは身体の関係があった。一時期は一つ屋根の下で生活をしていた。恋人同士でない秘密の関係、それを咎められるのは当然だった。
「乗りますか?」
「は?」
「……着替えなどの荷物、取りに戻られるというなら足くらいにはなりますよ」
「どうして」
「モーティスの件、現状では長崎さんだけが頼りですから、手厚くするのは当然じゃないですか」
「……そういう言い方、なんですね」
「仲良くしていただけるのなら、それに越したことはないんですけどね」
匡導のその言葉は、初めから諦めているものの言葉だとそよも直感的に思っていた。自分は思ってもないものに巻き込まれた被害者、だが知ってしまった以上は無視することは出来ない。それは長崎そよというアイデンティティに関わるものだから。
そして彼は打算的とはいえ若葉睦を学校に通わせるための方法を探していた。利害が一致しているのなら仲良くする必要こそなくとも、利用できるものはするべきだと。
「じゃあ、お願いします」
「どうぞ」
逡巡したものの、結局は助手席に座り家の住所を彼に伝えていく。ナビに打ち込んでいき、車を発進させる彼の横顔を、そよはチラリと覗き見た。
モーティスが言うには、幼馴染でお兄ちゃんのような存在だった、けれど睦は兄ではなく漠然と森みなみと若葉隆文、つまり両親のような関係を夢見ていたのだと。
だが同時に祥子も年上の彼に憧れを抱くようになった。それは身体が大人になるにつれ、萎むどころか寧ろ増していくようなものだった。
「どうして、羽丘に?」
「お嬢──豊川祥子様の監視を祖父の豊川会長に仰せつかったからです」
「監視って」
「色々とあるんですよ、豊川という家は……これ以上は、俺の口からは話せないことなんて山ほど」
「じゃあ、どうして……その、身体の関係を?」
「それは……感傷です」
その答えにそよは眉根を寄せる。身体の関係、即ちセックスというのは愛を育むものだと彼女は考えている。当然、世の中にはそうでない男女も居るという現実を知ってはいるものの、父と母も、十六年前には愛し合い、営んで自分という子宝に恵まれたのだと信じていたいという気持ちが強かった。
だが隣に座り車を走らせる彼は愛でなく感傷だと言い切った。同情、憐憫、どちらがそう思われているのかは彼の表情を見ればすぐに理解出来た。
「……最低」
「はい、俺は最低ですよ……お嬢を幸せにする覚悟なんてないのに、彼女を抱いた」
教師が教え子に手を出すこと、成人が未成年に手を出すこと、そしてそんな未成年を保護者の許可なく家に泊めること、それらは全て罰せられるべき所業である。そんな特大のスキャンダルを背負わせてしまった以上、匡導では祥子を幸せにするという可能性は万に一つもない、そう理解していた。
理解しているつもりだったのに、それでも祥子を求めたことが感傷ではないことには気づいていながら言葉にはしない。誰かに話してどうにかなるものではないという諦観から、そよに対して都合のいい、耳障りのいい言葉は決して吐かなかった。そよも彼がまるで罰せられたがっていると感じていた。
「覚悟……か」
その後は無言でそよの家まで車を走らせ、荷物を取りに行っている間に匡導が自分の言葉を反芻する。豊川の娘を幸せにする覚悟、それは言葉で言い表せる程簡単なことではないことは、断片的に伝え聞いている豊川清告や、豊川定治の様子から推察することが出来る。だが、少なくとも生前の豊川瑞穂はいつも優しく笑っていた。
「お待たせしました」
「はい、では行きましょうか」
子どもの頃の思い出を少し懐かしんでいるとそよが戻ってきたため、頭を切り替える。あの優しい日々も、無邪気に笑う睦や祥子と共に過ごした日々も、全ては過ぎ去ったもの。
もう既に色褪せてしまい、断片的にしか思い出せない幸せの記憶なのだと。
──だがその欠片の中に、ふと知っている名前が出てきたような気がしたものの、隣に座るそよが声を掛けたため、掻き消えてしまった。
「睦ちゃんを起こすって、具体的にどうしたら」
「モーティスの言葉を全面的に信じるなら、ムジカの件で深く傷つき、眠っていると言っていました」
「つまり?」
「目覚めるためには、何かしらの特別なきっかけが必要、なのかもしれませんね」
「……それは」
それが、自分にはないことをそよは自覚していた。自分も睦を罵ったこともある、突き放して酷い態度を取ったこともあるからこそ、睦を起こすという役に適さない、とそよは自分の爪を触る。
睦のこと、表面上のことは知っていても内面の奥底までは知らない。そもそも彼女が芸能人の娘であること、そう見られることを苦痛に思っていることすら十全に理解していなかった程なのだから。
「俺はもう行きます。流石に仕事は休めないので」
「は、はい」
そして時は過ぎ、翌朝のこと、結局日が昇るまで話に付き合わされ、学校へ行くことも出来ないと悟ったそよは休むことを決意した。
モーティスはどうやら彼女を頼ることを決めたようで、そよにべったりとくっついたまま離れようとはしなかった。
「早く行って! 匡導くんが居るなんて聞いてない!」
「じゃあ、仕事が終わったらすぐ戻ってきます」
「もう二度と来ないで!」
「モーティスちゃん……」
困惑気味のそよと、歯を見せて威嚇するモーティスに見送られ、匡導は羽丘と出勤していった。結局、自分は居るだけという現実からは目を背けつつ、車を走らせた。
祥子に報告しようとも思ったが、長崎そよという人物と関わってしまったことを報告するのは躊躇われた。彼女はあまり彼が「
「あの後はどうなりましたか?」
「穏便にお帰りいただきました……特に何事もありませんでしたわ」
「そうですか」
祥子の様子からも、話さない方がいいという結論に達し、彼はそのまま音楽室を去っていく。燈や愛音とどんな話をしたのかは解らなくとも、彼女の態度が露骨に拒絶を表していることから、一人にした方が賢明だと判断した。
──祥子が心の奥底では彼の温もりを求めていることになど、気づくこともなく。彼の一歩退いた態度は彼女に確かな痛みという罰を与え続けていた。
「祥子ちゃん、ひどいんだよ? 睦ちゃんはバンドを壊したくなかったのに祥子ちゃんがいっつも壊しちゃう」
「祥ちゃんが?」
その日の夜、そよは未だ睦の部屋に居た。まるで小さな子どものような言動をするモーティスを放ってはおけなかったのか散らかした玩具やぬいぐるみを片付けながら、彼女の言葉に耳を傾ける。内容は主に祥子がどれだけ睦に対して酷いことをしてきたのかということ、それを知っているのに助けるどころか祥子の味方をした匡導のこと、そればかりだった。
「自分のことばっかでみんなの雰囲気悪くするの、睦ちゃんのことも追い詰めて、匡導くんも全然助けてくれないから私が代わってあげたんだよ? そしたら、
傍らに睦が大切にしていたギターを置きながら赤いペンで「いじわるな青い魔女」という絵本の表紙を×と〇でめちゃくちゃに塗りつぶしていきながら、モーティスは話を続ける。
想っていた匡導に裏切られたこと、何度話しても祥子のことばかりを特別扱いすること、そよは彼女から「Ave Mujica」結成以降の匡導と祥子のことを全て聞いていた。
「だから、睦ちゃん起こしてギターを弾いてもらいたいの! そしたら、バンド元に戻るでしょ?」
モーティスの主観ながら「Ave Mujica」というバンドの歪さを垣間見たそよは彼女の間違いに気付き始めていた。だが、彼女を下手に刺激することは却って事態を悪化させてしまうが故に、黙って作業を進めていると、モーティスは突如何かに気付いたように顔を上げた。
「……電話」
「え?」
「電話しなきゃ!」
バレエシューズをそよから奪い取り、耳に当てながら「もしもし?」と「お医者さん」に電話を掛けるモーティス、その様子はおままごとでありながら真に迫っており、また初日に見た景色を彷彿とさせた。
──彼女は、今孤独の中で、それでも睦を起こそうとしている。その目的が歪なものだったとしても、彼女にとって「睦ちゃん」を守ることが存在意義であり、守るための場所がない今はアイデンティティの、モーティスという一人の人格の喪失を意味していた。
自分にはもう何もできないことを薄々理解していたそよは、スマホの振動でその画面を見つめる。そこには愛音からのメッセージが表示されていた。今のそよにとっての大切な居場所、逡巡したものの手元にあったバレエシューズの片方が視界に入ったことでその決意を固める。
「お医者さんですよね、もしもし、もしもし?」
「──はい、どうかしましたか?」
「はっ、お医者さんですか? 」
同じようにバレエシューズを耳に当てて応えると、モーティスも反応してくれる。この処置が適切だとは思わない。だが今の歪な若葉睦をどうにかするにはこの方法しか思いつかない、そよは半ば博打を打つ気持ちでモーティスを誘導しようとしていた。
「あの、私……本当は、バンドもギターも、睦ちゃんから奪っちゃいたいんです、だって、苦しそうで……でも、それじゃあ睦ちゃんが悲しむから」
「……じゃあ、みんなとギターを弾いてみるのはどうですか?」
「えっ?」
「色んな刺激があった方が睦ちゃんにとってもいいと思うから──人に会ったり、演奏を聴いたり、私も一緒に行くから、ね?」
その会話を扉の前で立ち聞きしていた匡導が、長い長い溜息を吐いた。
──彼女が求める先は、尻すぼみの行き止まりであることを匡導は知っていた。祥子はもう二度と「Ave Mujica」をやることはない。例え睦が元に戻ったとしても、彼女もまた祥子のために「Ave Mujica」という居場所を求めることはない。モーティスの理論は破綻していて、破滅している。そして彼の心の中に巣食う悪魔がこれは好機だと囁いた。
モーティスの存在意義は「睦ちゃん」を助けること、必要なくなれば必然、消えていく人格だと。
そよは出会い方さえ違えばきっと匡導とかいう沼にハマっていくタイプだと個人的に思っていますわ。具体的に言えば「CRYCHIC」時点から匡導が祥子に関わっていたら、そうなる未来もあったやもしれませんわね、匡導は目移り致しませんが。