Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
ここからは少し加速すると思いますわ、たぶん、きっと
匡導への宣言通り睦の家へ祥子を連れていくべく、そよは翌朝早くから羽丘女子学園の校門前で待ち構えていた。愛音と匡導が証言した通り、毎日黒いリムジン車に送迎されているため、待ち伏せするのは比較的安易であり、運転手にドアを開けてもらい降りてきた彼女に精一杯怒りを抑えて、けれど上がる眉は下げられないまま声を掛けた。
「祥ちゃん、愛音ちゃんから聞いた。睦ちゃんのこと知らないなんて、本当に言ったの?」
「……貴女には関係ありませんわ」
だが、そよはもう既に関わってしまっている。関係ないという一言では済まされない程に、睦と、モーティスのことを知ってしまった。腕を掴んで学校とは反対方向へと引き摺っていこうとする。
「睦ちゃんに会って!」
「やめて!」
「睦ちゃんち、行くよ」
「は……? 」
強引に、強い力で彼女たちは羽丘から離れていく。どれだけやめてと言ってもそよは離してはくれない。どうしてここまで強硬なのかまるで理解できず、祥子は戸惑いと恐怖のままそよの手を振り払おうとすることしか出来なかった。
「やめてと言っているでしょう!」
「逃げる気!?」
「離して!」
段々と揉み合いに発展していく。二人の様子を登校中の羽丘の生徒は足を止めて、振り返っていた。
──そしてそれは、既に仕事をしていた彼もまた。止めるわけでもなく、ただ見守ることしか出来ずにいた。
揉み合いは激しさを増し、遂にそよが祥子を押し倒す形で終わりを迎える。
「……睦ちゃん、会いたがってた」
「……っ!」
「祥ちゃんだって知ってるんでしょ? 睦ちゃんがどうなってるか」
「……会えるものなら、とっくに」
それは嘘だった。匡導が門前払いを食らっていることを知っていた祥子は、ならば自分が会いに行っても無駄だと自己正当化を図って、彼女の家には近づかないようにしていた。自分は森みなみとの繋がりもない、今の睦は自分を敵視しているのだからと理由ばかり並べて、そよの言う通り逃げていただけだった。
そよを突きとばし、上体を起こした祥子の表情は、俯いていたがはっきりと「恐怖」で塗られていたことをそよは見逃さなかった。
「わたくしが会ったらまた……睦が」
モーティスへの恐怖、彼女が語った睦の苦しみ、痛みを自分が生み出していたこと、裏切っていたのは他でもない自分だったということ。そんな感情から会えないというよりは会いたくないという自己保身を感じ取ったそよは、隠し事ばかりの彼女に言葉を向けた。
「祥ちゃんのアパート、行ったよ」
「は……っ!」
「祥ちゃんの身に起きたこと、今はもう解ってる……だからって全部なかったことにしないで」
それが決定打となり、祥子はそれ以上抵抗することなくそよに手を引かれ、羽丘の最寄り駅から睦の家へと向かっていくことになった。
途中でそれを目撃した愛音もまた、燈を連れてその後ろを歩いていくことになった。
「……まさ、烏森、先生が?」
「あの人のことも、知ってるよ。最近ずっと……一緒に暮らしてたから」
「えぇ、どういうこと?」
「睦ちゃんの家に暫く居たでしょ? あの人も一緒だったの」
電車の中で、そよがこれまでどうしていたのかを知った祥子は静かではあるが驚愕の声を上げた。
匡導がそよと一緒に睦に寄り添っていた、という事実に学校からの帰りが早い理由はそれかと疑問が解けたと同時に、遂に睦以外で彼との関係を知るものが増えてしまったのだということに眉を寄せた。
教師と生徒、成人と未成年、それ以上に赦されることではない関係も秘密でなくなれば断罪されるべき所業なのだから。
「それでそよりん、もういいって言ってたの?」
「うん……でも、私は誰にも言わないから、愛音ちゃんも」
「も、勿論! ね、ともりん!」
「え……? う、うん……?」
核心を突く言葉は避けていたため燈には詳細に二人がどんな関係だったのか、ということまでは伝わらなかったが、そよはあまり誰かに言いふらすことはしないと約束した。祥子を陥れることが目的でもなければ、醜聞を広めたいわけでもない。ただ、友達を助けたいという気持ちだけなのだから。
「──帰って! なんで連れてきたの? 祥子ちゃん悪い子なんだよ!」
「お願い、少しだけでいいの……祥ちゃんも」
「“本当に人間の血、流れてる? ”」
だが、結局モーティスには強く否定されてしまう。更には思わず身体が強張ってしまうような強い言葉まで投げかけられて、祥子だけでなくそよも、付いてきた愛音や燈も緊張した面持ちでモーティスに視線を向けた。
「“どうして……! 今まで放っておいてノコノコと……”」
「え……?」
「“帰って! 顔も見たくない……帰って! ”」
「モーティスちゃん」
「“あなたも裏切り者よ、あなたも、あなたも……帰ってよ! ”」
豹変したかのような口調、演技がかった動きと、普段のモーティスが使わないような言葉たちに傍に居続けたそよも困惑してしまう。ただ一人愛音だけが、その言葉、仕草、テンポなどに既視感を覚えていた。
「……あのさ、さっきの“人でなし”ってやつ、ドラマのセリフ?」
「ドラマ?」
「愛の埠頭、森みなみの」
会話にならなくなってしまったため、睦の家を後にしていた最中に愛音が確信に触れる。若葉睦の母である森みなみ、その彼女が作中でしていた動きを完全にトレースしたものだと愛音は気づいていた。
そしてそよは、愛音の言葉で核心に至った。時々感じていたモーティスへの既視感、最悪なことに時折自分が祥子や睦に行った言動を真似されているような気味の悪さ、その正体こそモーティスの癖なのだと。
「じゃあ、あれも」
「……何、考えてるんだろう」
モーティス自身の言葉が見えてこない、そんな燈の疑問に全員が足を止める。だが、祥子には彼女の言動に心当たりがあった。奇しくも、性質は全く別だが身近に彼女の言動を表現するのに適切な人物がいたからだった。もっと言うならば「Ave Mujica」という世界を創った彼女だからこその気づきでもあった。
「人形、ですわ……」
「え?」
「空っぽで、演じるだけの……わたくしが、睦を人形にしたから、睦はもう……」
従順なモーティス、死を恐れる勿れ、それが「Ave Mujica」における若葉睦に与えられた役であり、彼女はそれを守っているだけ。例えバンドが無くなろうと永遠に。
そしてもう一人、そんな糸にからめとられた憐れな人形が居る。自由意思を禁じ、只命令のままに動く男、彼もまた自分のせいでああなったのだという後悔が押し寄せてくる。
「人間になりたいって……こういうこと、ですのね」
今の自分では睦は二度と戻ってこないとモーティスに告げられたこと、もうどれだけ近づいてもぬくもりを返してはくれず、離れていく彼のこと、追いかけようにもどうやって追いかければいいのか、そもそも追いかけることが正解なのかすらも解らず、祥子は自分が迷子になってしまっていることを自覚した。
「あの子の言う通り、わたくしは人でなしですわ……」
自分も、豊川という家に生まれた人形、只の同類でしかない。血によって縛られ、自由意思は与えられない。この生活も仮初でしかなく、想い人と添い遂げることすら敵わず、いずれは豊川のためにその身を捧げることが運命づけられた憐れな人形、人でなしなのだと。
だから人間になりたかった、誰かの手をその温かさで離さないでいられるような、人間に。
「睦……違う、モーティスか」
「匡導くんも出てって」
「……は?」
「祥子ちゃんが来たの、匡導くんがそよちゃんに何か言ったせいで! この人でなし!」
「──解った、長崎そよも居なくなって潮時だと思ってたから、丁度いい」
こうして、再びモーティスは一人になる。その心の底で睦が必死に匡導と話がしたいと叫んでいたが、モーティスはそれを無視する。彼を傷つけるような言葉を放ったこと、祥子を傷つけるような言葉を放ったこと、それは当たり前だが彼女の望んだことではなかった。
「はい、お嬢様?」
「……貴方、今何処に居るんですの?」
「今は……睦の家から追い出されたところですよ、車乗り込んだところです」
「そう……駅前まで、来てくださる?」
「畏まりました」
祥子からの電話で駅前、という曖昧で候補が幾つか挙がる言葉であっても彼は即座に、迷うことなく返事をする。そよが祥子と一緒に睦の家に行ったということは、彼女の口から匡導がこの数日、何をしていたのかを知ったのだろう。それを問いただすための呼び出しだろうと判断する。
「お待たせしました」
「降りなくて結構、一人で乗れますわ」
「……そうですか」
予想通り豊川邸近くの駅で待っていた彼女を乗せるため降りようとしたが制止される。それは彼女が主従の関係を求めていないことの意思表示であり、祥子自身もそれを言葉でなく態度で示す意味で助手席に乗り込んでみせた。
「どちらまで?」
「決まっているでしょう?」
「はい?」
「訊き返すなんて、貴方らしくもありませんわ、ねぇ
「……お嬢様」
勿論、匡導も祥子の言いたいことは把握していた。彼女は
だからこそ、彼は認めるわけにはいかない。関係は「Ave Mujica」が終わった時点で、解消した筈、それを蒸し返してもあまりにも不都合だと首を横に振る。だが、祥子の意思は固く、変わらない。
「お願い、何も必ず身体を重ねろと言っているわけではありませんわ、ただ、貴方の温もりが欲しい……そうでないと、わたくしは“人でなし”のままですわ」
「……長崎そよ、いやモーティスに何か言われたんですか?」
手を重ねてくる祥子を、だからと言って拒絶することは出来なかった。
気丈に振舞っているものの、祥子の手は震えている。一度目は流されるままに、二度目は自分の意思を持って彼女の悲しみを和らげるため、それが彼女の望んだことなのだと信じて抱いた。
だからこそ、三度目はないと決心していた。
「匡導」
「俺は、俺だって……きっと貴女と同じ“人でなし”です。大人の言うことを肯定する、それだけの人生なんて、本当は人生などとは呼ばないのでしょう」
匡導は苦しそうな表情で心情を吐露していく。自分が凡そ人間だなんて思ったことは彼だあって一度もなかった。大人の思うがまま、操られ使われていく。それが自分の生き方、死に方なのだとすら感じていた。
静寂の人形、それが烏森匡導のこれまでの生き方だった。
「ですが、そんな人でなしの俺でも、愛おしいと思う人が出来てしまいました。間違いだと振り払おうとしても、大きく膨らんでいく……傍に居れば居る程、甘い夢に生きていきたいと願ってしまうんです」
最初は同情から来るものだった。幼く、まだ自分の運命すら理解していない無邪気な祥子と関わる中で、最初に感じた気持ちは憐れみだった。まるで人間として生きていけるかのように笑顔を振りまき、天真爛漫な祥子は未来に何が起こるのかなどまるで知らない、豊川の家に生まれたということが恵まれているわけではないことなど、知りもしない少女に同情していた。
──だが、祥子は悲壮な運命に抗おうと前を向き続けてきた。今も、ただ一人の女性として、自分の意思で車の助手席に座っている。そんな輝きに匡導は焦がれてしまった。
「傍に居たかったんです。でも俺は、お嬢を裏切りました……モーティスがムジカを壊すのを見過ごしたんですから」
「貴方はわたくしを裏切ってなどいませんわ……勿論、睦も」
「……お嬢」
「ムジカを自分の手で成功させる、そればかりに固執してわたくしは睦のことを見ていなかった、もっと早く、匡導に頼るべきだった」
「そんなこと」
意地になってしまった、と祥子は少し前の自分を振り返る。あくまで自分だけの手で成功させたいという想いから、他の四人の言葉に一切耳を傾けなかった。匡導のことも、所詮は部外者だとしていた。だからこそ、全てが手の中から失われた。これは運命などではなく、自業自得なのだと。
「匡導が、わたくしなしでは人間に成れないというなら、わたくしも同じですわ」
「……お嬢」
「離さないで、もう一度だけ、わたくしの傍に居て」
指の間に、彼女の指が滑り込んでくる。身長差にしては思いのほか大きく、けれど白くて細い、陶磁器のような繊細さを感じさせる指が匡導の手をしっかりと握り、その握力から彼女が自棄を起こしたわけでもなく、ただ向き合う覚悟を決めた中に、彼との関係をハッキリさせるという目的を伝えるには充分すぎるものとなっていた。
「祥子」
彼の答えなど必要なく、名前を呼んだ──ただそれだけで祥子は少女のように微笑んでみせた。一時は離れた二人が再び主従でもなく、教師と生徒でもない無二の関係に戻ることが出来た。ただそれだけで祥子には力が湧き上がっていくような気分さえしていた。
後は、睦と話すだけ。話したいと訴えていた彼女にたった一言、あの時のことを謝るだけだと祥子は決意を新たにするのだった。
アニメ祥子は燈ノートで決意を固めておりましたが、此方では匡導エネルギーで動いていますわ。