Mare Inbrium   作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ

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しばらく祥子がフェードアウトしていたので忘れかけそうでしたが、この物語のテーマは共依存ですわ~!


二章ⅩⅢ:理解

 モーティスに拒絶された日の夜、祥子は随分久しぶりのようで、しかしまるでずっとそうしていたように、髪が浸からないように束ねながら湯船に肩まで沈め、ほっと一息吐いた。

 生家であるはずの豊川邸でも何処か落ち着かない日々を過ごしてきた彼女にとって、心休まると形容してもいい時間だった。

 

「明日からも毎日、睦の家まで通いますわ」

「送るよ」

「いえ、これはわたくしが自分の足で通ってこそ意味があると信じていますわ」

「……解った、けど時間になったら迎えに行く、それだけは譲れないから」

「ええ、流石にまた匡導の家(ココ)に寝泊りするわけにはいかないことくらい、解っていましてよ」

「そうだな」

 

 シャワーで髪の毛の泡を流し始めた音が浴室を満たし、一旦会話がストップする。祥子は頭を洗い、流す彼のその姿を見つめ、微笑んだ。

 これからきっと、モーティスに心無いことを沢山言われるだろう。人でなし、とも言われるだろう。だけど祥子の胸には確かな決意が灯っていた。どんなに罵られようとも、壊してしまったものを元に戻すと。

 

「──なァ、祥子」

「なんですの?」

「ん……いや、なんでもねェ、気にしないで」

「気になる言い方ですわね」

「上手く言語化できなかっただけだ、さっきの乱れかたみたいな」

「意味が解りませんわ」

 

 眉根を寄せた祥子に、匡導は曖昧な顔で笑った。

 豊川祥子が望むものは「Ave Mujica」によって壊れてしまった若葉睦の修復、言い方はかなり悪くなってしまうが、修復と形容するのが解りやすいと彼は考えた。

 それはつまり今、睦の身体を占拠している人格、モーティスが表層に出てくる前の状態に戻したいということであり、極端な話、モーティスという人格の消滅──つまりは死ぬことを受け入れさせるということだった。

 

「あの子はね、息をするように演じ分けるのよ……そういう意味じゃ、匡くんも同類だけど」

「俺は流石に息をするようにとは……求められる子どもに成る、という意味じゃ近いのかもしれませんが、流石に自我はハッキリしてますからね」

「あの子は三歳の頃からそれが出来てしまったのよ、物心つく前から無自覚に」

「もしそうなら……役者としてのキャリアが違いすぎて比べられるのは申し訳ないです。俺がみなみさんに演技勝負しようとするようなもんですよ」

 

 睦が中学に上がる直前、大学生の匡導は森みなみから彼女の真実を明かされ、笑って流しつつもその恐ろしさを痛感していた。ギターを手に入れて以来すっかり大人しくなったものの、母である森みなみはそれすらも求められた役に収まっただけだと認識していた。ギターの為に極限まで感情表現を希薄にした人格、それを可能にしていたのは幼馴染の存在あってこそ。それが今まで他者と関わってきた「若葉睦」の正体なのだから。

 ──喩えそうだとしても、祥子の認識する睦がギターを弾いていた彼女ならば、モーティスが消えようとも()()()()()()()()と割り切っていた。

 

「今日は結局泊まるのか」

「嫌でしたのなら、今すぐ歩いて帰りますわ」

「この時間に歩いて帰すわけないでしょう……会長に知られたら、本当にヤバいってことは自覚してるんだよね?」

「勿論、でも今や匡導はわたくしの従者ですもの、貴方の罪は同衾したことくらいしかありませんわ」

「それがデカいんだけど」

 

 ゆっくりと風呂に入っている時点で確定しているようなものだったが、匡導は一応訊ねてみるもあっさりと返されて、苦笑いを浮かべるしかなかった。

 一度目や、二度目以降とは違う、お互いの気持ちを確かめ合うような時間を過ごしてはいたものの、それでも恋人という関係には踏み切らないことは祥子も匡導も決めていたことだった。

 

「貴方は、わたくしの幸せを考えて……わたくしから離れることを選びましたわ」

「うん」

「わたくしも、このまま匡導と過ごして幸せになれるとは言いません、寧ろ──沢山の困難が待つことになりますわ」

「そうだね、だから」

「ええだからこそ、幸せになれるかなんて……もう関係ありませんわ」

 

 つい長風呂をしてしまい、火照った身体を冷ますためにテラスで星を見上げていた祥子がしたある意味では悲愴な決意とすら言えるだろう宣言は、けれど見上げた星空が祝福しているかのように、彼女の瞳に映し出されていた。

 

未来(さき)のことなんて、解りっこありませんもの……もしかしたら将来、豊川や烏森なんて関係なく、わたくしと匡導が一緒になって幸せでいられる可能性だって、あってもいい筈ですわ」

「あったら、いいな……そんな可能性が」

 

 ある、とは断言できない。彼女の言う通り未来がどうなるかなど解る筈がないのだから。

 だがまるで月光のような優しい口調で、優しい瞳で、豊川祥子は烏森匡導と肩を並べ、そしてその肩をぴったりとくっつけて笑った。

 

「──愛していますわ、匡導」

「ふ、不意打ちだなァ……俺も、愛してるよ、祥子」

「ふふ……今一度誓いますわ……運命がわたくしたちを別つまで、傍にいさせて」

「勿論、俺の方こそ」

 

 その翌朝から、祥子はじっと睦の家で、彼女が家に上げてくれるのを待つことにした。モーティスが会いたがらないということくらいは解っていた。だからこそ、彼女がいいと言うまで、睦に会わせてもらえるまで、ひたすらに待ち続ける。それが彼女なりの罪の向き合い方だと信じていた。

 雨の日も、休日だろうと平日だろうとひたすらに朝から晩まで。

 

「祥子ちゃん、学校来てないみたいですけど、あれからどうかしたんですか?」

()()なら、睦の家に通い詰めてるよ……どうやらあんまりいい雰囲気ではないみたいだけどな」

 

 昼休みの時間、訪ねてきた愛音にそう苦笑いした瞬間に匡導のスマホが鳴り、睦から連絡が来ていた。内容としてはモーティスであろう文体で、祥子がまた朝から家の前に居るから何とかして欲しいというもので、それをなんの躊躇いもなく見せた。

 

「……なんか雰囲気変わった?」

「もう知られてるっぽいし隠す意味もねェだろ、お前も長崎そよから聞いたんだろ?」

「まぁ……そうですけど、てかフルネーム」

「長崎さん、の方にも多分連絡いってんだろうなァ……あの子はモーティスがかなりべったりだったから」

 

 羽丘では徹底してうだつの上がらない猫背で声も小さい、ダサくて若い男ではあるためそれでも多少話題には上がる程度の存在だった筈が、随分と雰囲気が素に近いことに愛音が怪訝な顔をする。彼にとってみれば特に面倒な猫を被る必要もないと判断しての行動だったが、素の状態というのは家族と睦や祥子の前以外ではしたことがなかったことを思い出して、頬杖をついて少し長く息を吐いた。

 

「先生は、どうするつもり?」

「どうするって、睦?」

「うん」

「俺がジタバタしても、悪化するだけだからな」

 

 彼が首を振る理由は幾つかあったが、祥子が既に粘っているのを無為にしたくないということ、彼女と同じようにするのは教師として絶対にしてはいけないということ、そして睦が求めているのは想い人としての匡導であって、祥子と特別な関係を築いている匡導ではない、という事実があるため彼は動かないという選択をしていた。ここでもし、しっかりと睦を求めると彼女は「匡導が自分を求めている」という都合のいい部分だけ切り取る恐れがあるのだから。そこまで踏み込んで話す義理も、仲でもないため口に出したのは悪化するかもしれないということだけだったが。

 

「──ってことがあったんだけど」

「あの人はそういう人だし、先生が簡単に休むわけにいかないのは本当でしょ?」

「……行った方がよくない?」

「祥ちゃんが行ってるみたいだし」

 

 放課後のバンド練習では愛音が睦と祥子を心配する様子を見せるものの、そよは祥子が居る以上自分の出る幕ではないのではないか、と考えていた。きっと匡導も同じことを考えているということまで察したうえで建前として適切なものを抽出して愛音を納得させる。

 

「……睦ちゃんのわからず屋、何回言えば解ってくれるの? 意地悪してるわけじゃないんだよ?」

 

 一方でモーティスは段々と追い詰められていた。一度肉体の主導権を握ったことで身体を自由に出来ているのはモーティスであったが、少し前までは人形の姿をしていた元の人格は既に「若葉睦」の姿を象っていた。彼女の人格が段々と現実に浸食していくような感覚に、そうなれば消滅するかもしれないという死の恐怖に、モーティスは必死で抵抗していた。

 

「祥に会わせて」

「会ったら睦ちゃんが悲しむの、傷つくの、守ってあげてるんだよ?」

「……祥、ずっと立ってる」

「好きで立ってるんでしょ?」

「モーティス、お願い……」

「もう、しゃべらないでよ……“嫌なことしか言わない”んだから、黙ってて」

「でも……」

「やめてよ」

 

 真っ暗な部屋に独りきり、もう味方をしてくれていたそよはおらず、また部屋は投げ捨てたり乱暴に扱ったりしてボロボロのぬいぐるみが散乱していた。その一つ、彼から貰ったぬいぐるみは他よりも更に凄惨な見た目となって、至るところから綿が飛び出していた。

 

「祥に……匡に、会いたい」

「やめてやめてやめて、やめて──ッ!」

 

 手が誰かに触られるような感覚、鏡の中に居るもう一人の自分がその中に自分を引き込み、成り代わろうとしてくる恐怖のあまり、モーティスは錯乱し、化粧台の鏡に分厚い本を投げつけ割ってしまった。

 だが肉体の主導権を奪われ、睦は玄関を開け、祥子の元へと会いに行った。

 

「はぁ、はぁ……祥!」

「睦……!」

 

 自分の呼び方から、睦が戻ってきたのだと確信し、その名前を呼ぶ。やっと会えたことへの嬉しさ、そして荒い息を吐く彼女を心配して手を伸ばした。

 ──しかし、その手が繋がれることはなく、再び主導権を得たモーティスによって乱雑に弾かれてしまった。

 

「触らないで!」

「え……睦?」

「違う! 私は──!」

「睦……よかった、やっと、やっと……!」

 

 抱きしめられ、モーティスはその慈愛に触れて戸惑いの声を上げる。

 彼女は睦を傷つける「悪い子」であって、また会ったとしても彼女を傷つけ、悲しませるに違いない、そうしないために自分がいるのだというアイデンティティを持っているモーティスにとって彼女の優しさは予想だにしないことだった。

 

「元に戻せるなら、なんでもしますわ……わたくし、必ず貴女を……」

 

 しかし、祥子の言葉で目を見開いた。モーティスは薄々ながら気づいていることだった、彼女は決して「モーティス」という存在を認めてはいない。それは、名前を呼びながら祥子のことしか見えていない彼と同じ。

 必ず貴女(むつみ)を元に戻す。その宣言はモーティスにとっては必ず貴女(モーティス)を殺すということと同義なのだから。

 どうして、死ななければならないのか、どうしてモーティスという存在は許されないのか。それは自分が「睦ちゃん」とは決定的に意思が乖離しているからということにも気づき始めていた。

 

「悪い子は、私なの?」

 

 モーティスにとって、睦を傷つけ悲しませる存在が「悪い子」ならば、今の自分はどうなっているのか、彼女自身にも解らなくなり始めていた。

 そよに連絡を送るのは、彼女なりに助けを求めているようなものだった。彼女を睦とは違う別の人物だと認めてくれた、長崎そよならばと。

 

「それで、俺に電話してきたのはどういう了見なんでしょうか?」

「別に……ただ、貴方が私の立場だったらどうするのか、と思って」

「気になるなら行けばいいと思うけど、明日学校休みだしな」

「明日はライブあるし……祥ちゃんが居る以上、私が行くのは、なんか違うかなって」

 

 そんな長崎そよは胸の裡で蟠っている気持ちを晴らすため、敢えて連絡先を知っている関係者の中で最も他人である匡導に吐き出していた。

 彼の方は内心では知らねェよ、なんて毒づいてみるものの、きっと自分がそよの立場でも似たような言い訳をして、目を逸らしたくなる気持ちがあるため、自分の考えを伝えていく。

 

「祥子は、一人でなんでも出来る程器用なヤツじゃねェって俺は思ってる」

「……ノロケ?」

「違ェよ、一人で頑張らなくちゃいけねェ時が多すぎて、なまじ出来るから気づかれないけど、今のアイツは家の前で待つので精いっぱいなんだよ、それ以上は罪悪感やモーティスに拒否されたこともあって近づけない」

 

 そよはそんな言葉に黙って耳を傾けて、匡導が言葉にしていない部分を自己解釈で補完していく。祥子と睦の関係修復に必要なものは、お互いの歩み寄りだけでは足りない。どちらにとっても大切な人物である誰かの橋渡しと後押しがあって初めて成立するもの、そしてそれは彼では出来ないことだった。

 

「……長崎」

「苗字で呼ばれるの、そんなに好きじゃないんだけど」

「長崎そよ?」

「喧嘩売ってる?」

「……どういう風の吹き回しかと思って」

「少しだけど、同居した仲だし」

「言い方……まァいいや、そよ」

「はい」

「俺からこんなお願いするのが筋違いだってのは解ってる。けど、ちょっとでいいから祥子と睦の様子を見て来てほしい」

「……解った」

 

 たった数日、しかも殆どお互いに肚を隠して数度話しただけの関係で、最後に漸く肚を見せた時には酷い別れ方をしたというのに、そよの声には優しさや温かみといったものが滲んでいるように感じられた。口調は乱暴で、声のトーンも低くて、冷たい言葉遣いなのにも関わらずそんなことを思うのがあまりに可笑しくて、匡導は電話が切れた瞬間に思わず笑ってしまった。

 

「……不思議なもんだな」

 

 彼は知らないことだったが、そよもまた、親の行動に自分の評価が付いて回ることを畏れて生きてきたという過去を持っていた。離婚によって「捨てられた」というレッテルを、レッテルというにはあまりにも無邪気な感想に傷つき、故に他者から必要とされたいと求められる自分を演じ続けた長崎そよと、駆け落ちという出自から「不義理の象徴」として疎まれていたが故に大人が求める人物像を演じ続けていた烏森匡導はそんな過去を打ち明ける必要もなく、歩調が合ってしまうのだった。

 

 




ifそよが沼に堕ちるきっかけは最後の文章につまっていますわ。
ただ彼女がヒロインとしての適性を得るのはやはり「if」ですので、あくまでここは祥子一強、次点で睦ですわ。
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