Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
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ライブの日、そよが
──椎名立希にとって、豊川祥子という存在は他者を照らす太陽のようで、絶対的に手が届かない憧れと形容していいものだった。作曲の腕は「MyGO!!!!!」の作曲として決して少なくない数を手掛けているものの未だ追いつけているとは思っておらず、個人に合わせた柔軟な編曲、そしてどんな時も輝きを失わないその笑顔に、一時は崇拝に近い念さえ感じていた。
「睦の家、教えて、釘刺してくる」
「釘!? やめなよ」
「いいから」
けれど、そんな祥子が泣いていたという愛音の言葉に彼女は驚いた。そういう弱みを決して見せない、強い存在だとずっと考えていた。
──もしかしたら「CRYCHIC」で燈やそよのことをちゃんと見ることが出来なかったように、祥子のことも自分の中で勝手にキャラクターを造り上げてしまっていたのではないか、実は彼女も些細なことで悩む、只の人間だったのではないか、彼女の中で膨らんだ不安は、祥子の元へと足を向かわせていたのだった。
「立希ちゃんだって、結局心配なんじゃない」
「なんで来てるわけ? リハの前も練習あるって解ってる?」
「別に、ちょっと差し入れ」
「……え?」
そんな立希の素直になれない気持ちを汲んで、そよは笑いかける。
彼女の「差し入れ」の内容は有名なチョコレート店の紙袋に入った、不揃いで不格好なきゅうりが五本、それは若葉睦が月ノ森で大切に育てていたきゅうりたちの、最後に残ったものだった。
「睦ちゃんと会えた?」
「……束の間ですけれど」
「そう」
束の間とはいえ睦と会うことが出来た。その言葉を聞いて、やはり自分も、そして匡導も余計なお世話を焼いていただけなのかもと思ったそよは宣言通り立ち去ろうとするが、その足を家政婦が止める。
「あの、やっぱり中でお待ちになりませんか?」
「いえ、こちらで──」
「おじゃまします!」
祥子が断ろうとするのを遮り、立希が前のめりに向かっていく。そんな「CRYCHIC」時代では何処かで一歩引いていた彼女の姿に驚いている祥子の手を、そよが優しく取った。
そよはほんの少し、こうなることを予見していたのかと昨日頼って
「ちゃんと話せてないんでしょ?」
ただ、やはり祥子は家の前で睦を待つことで精いっぱい、誰かの橋渡し、或いは後押しがなければ本当の意味で二人が話すことは出来ないというのは、彼の語った通りだと内心でため息を吐いた。それが解っているなら「お願いします」の一言くらい言えばいいのに、と。
それが出来ないからこそ、誰かに頼むことを知らないからこそ、此処まで二人の関係も拗れてしまっていると思えば、仕方のないことだとも思っていたが。
一瞬だけ連絡を送ろうとも考えたが、首を横に振ってスマホを暗転させる。とはいえ匡導は滅多にない完全な休日であるため、未だ惰眠を貪っているのだったが。
「愛音から連絡来てる、返事しといて」
「自分でしたら?」
「ほんっと、そういうとこ」
練習時間前になっても一切音沙汰もない立希とそよに確認の連絡を送った愛音だったが、立希は、最近自分が言う立場だったこともあり返事を送れずにいた。だがここまで来た以上、睦と会うまで帰るわけにもいかないため、溜息を吐きながら彼女の部屋の前に残っていた。
「二人って、会うのあの時以来?」
気まずそうにしている立希と祥子を見て、そして質問に無言であることから事実であることを知ったそよは、以前は毎日のように顔を合わせていたことが、実は普通のことではなかったのだと感じた。
「学校もバラバラだし、会う機会ないか……祥ちゃんと燈ちゃんは同じ学校だっけ? 立希ちゃんもそのまま羽丘に行ってたら一緒だったのに」
「別にいいでしょ」
「なんで花女行ったの?」
中学はそよと祥子は同じ月ノ森、立希は羽丘に居た。それが高校はそよがそのまま月ノ森に、祥子は月ノ森を辞め、そして羽丘に、立希は羽丘にはいかず花咲川へ、それぞれが別の学校へと進学していた。特にそよは立希が花咲川へと進学したことを不思議に思っていた。彼女がバンドに興味を持ったルーツには「Afterglow」という羽丘に通う二学年上の先輩による影響が大きい。そのまま羽丘に進学していればそんな憧れの先輩たちと関わる機会もあったのにも関わらず、花咲川という選択をするには何か理由がある、そよはそう思っていた。
「……真希さんの妹、って言われるから」
「え?」
また少しの沈黙、積極的に会話をしようとしない祥子と立希の二人の間を取り持ち、潤滑に進めようとも話すことは無さそうだと諦めかけていたところで、ポツリと立希が答えた。
──椎名真希、立希の姉にして羽丘のOGでもある。吹奏楽部でトランペットを担当しそのカリスマで部を引っ張り、吹奏楽コンクールで優秀な成績を収めた有名人、卒業後は地域のオーケストラで活動しており、学校の違うオーケストラ部に所属しているそよですら知っている人物だった。
「お姉さん、有名だもんね」
「はぁ……」
そんな有名人の妹、という目は立希には苛立ちとコンプレックス以外の何者も生み出さなかった。椎名立希という名前すらみんな忘れてしまったのか、或いは知る必要すらもないかのように「真希の妹」と形容されることが立希には我慢できなかった。思えば「CRYCHIC」として活動する前、最後のメンバーとして立希を紹介した時やそよから姉の名前には苛立ちを見せていたことに祥子は気づいた。
──だからこそ「人間になりたい」という燈の
「あ……また愛音から」
「練習の時間、過ぎちゃったから」
「ここまで来たらほっとけないでしょ……解散したけど、メンバーだったし」
「えっ?」
祥子にとって椎名立希という人物は、少なくとも「CRYCHIC」としてメンバーと踏み込んで関わろうとしているとは思えなかった。それは後にそよもそうだったし、自分もそうだったことを思い知らされたものの、彼女の目には燈が居ればそれでいいとすら思える言動が多く見られていた。そよには少し前に指摘されたことでもあり、立希本人としても否定出来る材料は何処にもなかった。
だが、だからこそ、八幡海鈴が睦とモーティスのことに関して、そして「Ave Mujica」の解散に対して非常にドライな態度を取っていることに苛立ってしまった。かつては自分が通り、そして後悔している道を通る海鈴に、厳しい口調を取ってしまう程には。
「睦がどう思ってるかはわからないけど……バンド、楽しくなかったみたいだし」
「……口にした言葉が、全て真実とは限りませんわ」
「ん?」
「特に睦は、己の失言をずっと責めていましたもの」
それは「CRYCHIC」解散の時、祥子が口から出した言葉も含まれていた。立希に向けた言葉、燈に向けた言葉、そして睦の言葉、あの日壊れてしまった全ての言葉が真実から出たものではなかった。真実があるとするなら、辞める原因は祥子一人の問題であること、そして睦がバンドを楽しくないと言った本当の意味だけだった。
「じゃあ、なんであんなこと」
「楽しくなかったのは、睦自身が演奏に納得できていなかったからですわ」
「……嘘」
「睦は、CRYCHICを大切に想っていました」
彼女の言葉に、驚くそよと立希と同時に、ドアの前で会話を聴いていたモーティスは目を閉じて溜息を吐いた。
祥子は睦を傷つけるだけの存在、悲しませるだけの存在、そう思って拒絶し続けていたモーティスだったが、睦が「CRYCHIC」というバンドをどれだけ大切にしていたのか、そしてそのバンドのメンバーを大切に想っていたのかを知っている。そのメンバーの中には祥子も居る、なんてことは言われずとも理解していた。
「……睦?」
「モーティスちゃん」
「──睦ちゃんに、会わせてあげる」
だからこそ、モーティスは睦と祥子を引き合わせることを決めた。元「Ave Mujica」のオブリビオニスとして活動した豊川祥子ではなく、かつて「CRYCHIC」として共に演奏をした豊川祥子にならば話をする権利はあると。
部屋に招かれ、ベッドの上に座った彼女が次に目を空けると、そこにはよく見知った若葉睦が居た。
「……睦」
「祥……ごめんなさい、祥、傷ついてない?」
漸く会うことが、そして話すことが出来た睦に対して、そして起きてすぐ自分のことを心配してくれる睦に、祥子は安堵の表情をする。
その仕草、表情、呼び方も含めて、紛れもなく自分のよく知っている若葉睦だと。
「睦は何も、全て……全てわたくしが、貴女に頼り切りだったから、わたくしこそ、ごめんなさい……」
「……ううん」
元々「Ave Mujica」に入ろうと決めたのは、祥子を助けるため、仮面を取られてもその誓いに揺るぎはなかった。それに、彼女は匡導からの期待もあった、頑張れという応援に応えたかった。だから、傷ついても辞めようとはしなかった。モーティスに任せてでも「Ave Mujica」を続けようとした。
「そよ、立希……ごめんなさい、バンド、壊して……ギター下手で、ずっと謝りたかった」
「いいよ、もう! っていうか私も、ごめん!」
言いたいこと、本当に言いたかったことを、話し合うことが出来て、そよも息を吐き出す。もう終わってしまったバンドだけれど、一年も遠回りをして、やっと言葉を尽くすことが出来た、と感じていた。
だが「CRYCHIC」解散は、睦一人のせいじゃない。祥子にも、立希にも、そよにも、少しずつ悪いところがあって、運命共同体という言葉に甘えてしまった自分たちが原因なのだから。
「燈にも、謝りたい」
「……睦ちゃんが謝ることないんじゃない?」
「え?」
決して睦のせいではない、という意味を込めた言葉、だがそれを遮ったのは立希のスマホのバイブ音、バイト先の可能性があるため画面を見ることなく出た彼女は、直後に鳴り響く、部屋に居た全員に聞こえる音量の、楽奈が掻き鳴らすギターの音の被害に遭う。
「もうすぐリハ始まるんだけど~! ライブちゃんとやるんじゃなかったの~!? 」
愛音のカウンターと、楽奈のギターを受けて睦も現状を理解する。彼女たちは自分たちのリハーサルまでの時間を使って、態々来てくれたのだと。
祥子はリハーサルまでの時間が押していることを知り、すかさずスマホで電話を掛ける。
「もしもし、烏森?」
「はい」
「大至急、睦の家まで来てくださる?」
「近くで待機してます、五分お待ちください」
「……迎えがすぐ来ますわ」
ワンコールで出た匡導に簡潔な説明をして、あっという間に電話を終えた祥子は二人にそう伝える。運転手ってそんな便利に使えるのか、と立希は不思議そうな顔をし、そよは少し目を閉じて溜息を吐いた。睦は匡導が来てくれるという希望に少しだけそわそわとしていた。
「四人乗れまして?」
「後ろ詰めればなんとか」
「迎えなのにこの車?」
「お嬢の指示だから車出してるんであって、そよの為じゃないんだけど」
「……そよ?」
流れで全員「RiNG」に行くことになっている意味が解らず、しかもやってきた男性と自分以外の三人が知り合いらしいことに困惑し続けている立希の手を引いてそよが一番奥に、睦がそんな立希の背中を押して一番手前に座り、助手席には既に祥子が座っていた。
「匡、そよといつの間に仲良くなったの?」
「久しぶりに会話して最初に言うことがそれか……」
「わたくしも是非知りたいですわね」
「お嬢には説明しましたよね?」
「別に仲良くなった覚えはないし」
「そもそも誰?」
「匡は先生──」
「ややこしくなるから、睦ちゃんはちょっと黙ってよっか」
睦が蒸し返したせいで余計に騒がしくなり始めてきたものの、祥子が元来の明るさを多少取り戻していることに匡導は安堵していた。
そよから事前にライブであることを伝えられていたため、喧噪で誰も行先を言うことはなかったが迷うことなく「RiNG」へと向かうことが出来た。
──ライブのために、燈に謝るために、再び「CRYCHIC」の五人が同じ場所に集おうとしていた。
「……おや、誰かと思えば烏森さん」
「八幡さん、お久しぶりです」
「はい、お久しぶりです……どうして
「色々ありましてMyGO!!!!! の送迎をお嬢に頼まれたんです」
「……つまり、豊川さんも?」
スタジオで「CRYCHIC」が集まっている間、入口近くで待っているとそこに八幡海鈴が話しかけてくる。彼としてもかつての「Ave Mujica」メンバーに会うのは解散以来、初めてのことで少し警戒したが、彼女はメンバーの中で掛け持ちのサポートをしていることを思い出して肩から力を抜いた。
「リハーサルがあるんでしたね、よろしければご一緒しませんか?」
「俺も、ですか?」
「はい」
だが彼女からの思いもしない誘いに、真意を量りかねていた匡導は眉を上げた。
匡導は彼なりにメンバーの素行調査に近いことをしていた。それは豊川定治が指示していたことだったが、その中で経歴とは別で彼個人が感情論で思ったメモを書き連ねていた。
──祐天寺にゃむは、野心家だが芯がない。三角初華は恐ろしい程に行動が理解できない、これは後に祥子の為にという行動原理だったことが解った。そして八幡海鈴は、ベースの腕は確かだが何か裏を感じる時がある、と。
「流石に男一人で楽器も持たずにウロウロするのは躊躇われたんですよ、有難い提案です」
言動の裏が読めないことで乗るかどうかは躊躇われたが、逆に八幡海鈴という個人を知るためには最適な機会なのではないか、と匡導は思い直し彼女の後ろを付いて歩き、リハーサルを行っているライブハウスへと足を進めていくのだった。
──祥子を「Ave Mujica」から護れ。それが豊川定治から命じられた最後の言葉なのだから。
言えませんわ、後半で匡導出さないと完全に原作通りになりそうだったから急遽挟んだなんて絶対に言えませんわ……
海鈴には会う予定でしたわ、そこはご安心を