Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
若葉睦がやってきてからしばらくは、穏やかな時間が流れた。監視という建前で塗り固められた憩いの時間、少なくとも匡導はそう思い始めていた。
ピアノの音色をBGMにトリックも展開も犯人も全てを知っている推理小説を読み進めていく。
「そういえば」
「なんですの?」
「いっつも教室でボッチだよな、祥子」
「……喧嘩売っていますわね?」
「事実をそのまま口に出させていただいたまでですよ」
だが事実として祥子は他者と積極的に関わろうとはしないため、教室ではいつも独りで過ごしている。だからこそ昼休みや放課後の隙間時間にこうして新任教師と二人きりというシチュエーションが成立しているとも言えた。
「わたくしの存在が万一にも他の方に知られるわけにはいきませんわ」
「ボロアパート住まいの没落令嬢だもんなァ」
「張っ倒しますわよ」
「誰にも言いませんって」
「貴方の言い方が癇に障る、という意味ですのよ?」
「知ってる」
「……ご自分の立場をお判りになった方がよろしいのではなくて?」
ピアノの手を止めてスマホを構える。豊川定治の命令でねじ込まれた立場とはいえ仮にも高校教師、それが女子生徒と密会をしていること、そしてそもそも豊川祥子に対して煽るような口を利いていること、その両方が匡導にとってはこの場限りの秘密にしたいことだった。
──とはいえ、祥子も安易にそんなことはしないと理解しての言動だろうことも、彼女にとっては腹を立てる要因でもあった。
「今日はバイト?」
「ええ」
「じゃあ睦にアポ取ってこようかな」
「……どういう目的ですの?」
「大分心配してる風だったし、祥子の学校の様子でもと思って」
「そう、お好きになさって」
「そうさせてもらいます」
祥子は一瞬躊躇ったものの、彼ならば睦を安心させるための話をしてくれるだろうと、短く息を吐いた。アルバイトで生計を立てていて厳しいことや、父が警察署の世話になるのを繰り返していることなど言う筈がないと。
そしてそれが、烏森匡導への
「食えない男ですわね」
「どうした?」
「なんでもありませんわ──そろそろ職員室へ戻っては如何です烏森先生?」
「もうそんな時間か……じゃ、また放課後に、豊川さん」
呼び方をわざわざ変える、それだけで今どういう距離感にいるのかを聴覚で理解させる、という匡導の手法を仕返していく。教師と生徒としての表向きの関係、主人と従者としての裏の関係、そしてそれら全てを取り払ったただの幼馴染としての関係、三つの距離感は常に気を張る祥子自身を安心させるための材料でもあった。
「……そういうところ、嫌いでしたわ」
物分かりのいい子ども、という評価をされてきた。それは当時奔放だった自分には大人に認められているという嫉妬を含んだ、けれど眩しいものであり、今振り返れば彼が奔放な子どもではいられなかったという仄暗いものであると祥子は感じていた。
お笑い芸人と女優の娘、というネームバリューも流石に月ノ森生の中に入れば多少は埋もれるらしく、若葉睦は誰かから噂になることもなく待ち合わせ場所である目白駅前にやってきた。格式高いお嬢様が通りすがる中で車外に出て紫煙を吐き出す程の勇気が出ずに眠気防止のために常備しているキシリトールガムを幾つか纏めて噛んでいると、ノックする音に反応した匡導は、そのままサイドガラスを下していく。
「……匡さん」
「お疲れ睦、部活は?」
「……水は、あげてきた」
「悪いね、急に」
一応の謝意を示した匡導に睦は首を横に振り、助手席のドアを開け乗り込む。
彼女の口数がそれほど多いわけではないことは、長年の付き合いで理解している。それが過去に失言をしたことによるトラウマのようなものであることも、気づいていないわけではなかった。
「祥は……?」
「仕事中、だから俺が此処に居るわけだけど」
「そう」
ナビを設定し、車を走らせながら、最後に会話をした時のことを回想する。
睦と匡導は仲の良い幼馴染だった。兄妹のようであり、彼女にとって匡導は若葉睦という個人を見てくれる特別な存在、父と母のモノではない睦自身に与えられたモノ、
「……匡兄、って、みなみちゃんは、匡導はお兄ちゃんみたいなものだから……って」
「俺は、睦の兄ちゃんじゃない」
「どうして」
それが明確な亀裂だったのだろう。それから祥子と睦の三人で顔を合わせることはあっても、睦と対面して話すことは殆どなくなった。元から口数の多い方ではない睦は、あっという間に彼の声を聞く機会を喪っていった。
「匡、さん……」
「睦……祥子の側にいてやってくれ」
「……うん」
豊川瑞穂の葬式でも、会話したのはたったそれだけ、だが睦は知っていた。
──祥子と匡導が二人きりで何を話していたのか。そして知った、豊川祥子にとって烏森匡導がどういう存在で、睦自身にとって彼がどういう存在でいてほしかったのかを。
「匡導……っ」
「……祥子」
祥子が彼の肩に顔を埋めて愛した母を亡くした悲しみに嗚咽を漏らす。それを彼は見たことがないほどに優しい顔をしてその頭に手を置く。
気丈に振舞っていた幼馴染の弱々しい姿が、それを受け止める彼の姿が、睦の心の中にあった何かに罅を入れた。
──あーあ、祥子ちゃんは狡いなぁ。
そう声を聞いた気がして、睦は振り返る。すると目の前の景色は葬式会場ではなく、舞台に変わっていた。
「狡い……?」
「だってさ、匡導くんは睦ちゃんのお兄ちゃんで、私たちのお兄ちゃんなんだよ? それなのにさ、祥子ちゃんが取ってっちゃうんだもん」
糸に吊るされた匡導の姿をした人形が睦の姿の人形の手をすり抜け、祥子の人形に覆いかぶさる。
匡導は追いすがろうとする睦には見向きもせず、悲しむ祥子のためにお姫様のようなベッドを用意し、そこに彼女と寝かせていく。
「やだ」
「いっつもそうだったよね、祥子ちゃんは睦ちゃんから匡導くんを取っていっちゃう」
幼い頃の記憶、三人で遊んでいた頃、もっと大人に見えていた中学生の匡導が睦の家に遊びにやってくる。睦が一生懸命に練習したギターを披露しているとやがて祥子がやってきて、ピアノを弾き始める。
バレエの発表会を観に来てほしいとお願いをすると絶対に来てくれた、けれどその横にはいつも祥子がいた。
「違う、祥に……そんなつもりは、それに……匡は、私のお兄ちゃんじゃない」
「うん、そうだよねだって……睦ちゃんは──」
「──睦、睦?」
大きくなる自分そっくりの人形、だがそこで揺られる感覚にハッとすると目の前には祥子が、紛れもなく人形ではない本物の祥子が心配そうな顔で肩を揺すっていた。隣には同じように心配そうな顔をする彼の姿もあり、そこで初めて、自分がいつの間にか没入してしまっていたのだと気づいた。
──後に「
「匡さんは……」
「ん?」
睦もまた最後に会話した時の記憶を呼び起こしながら、カーステレオからの音楽で消え入りそうな声で、なんとか自分の言いたいことを伝えようとする。
例えその言葉で、彼の機嫌を損ねたとしても。
「祥を、追いかけた……?」
「語弊があるかもしれない、間違ってはないけど」
「……好き?」
「言い訳させて、俺は会長の狗やらされてんの」
まさか睦から出ると思わなかった問いかけに苦い顔をしつつも冷静に誤解であることを説明していく。祥子のことを心配した定治が丁度いいからとねじ込んだことを丁寧に、それは恋愛感情を必死に否定しようと言い訳をしているようにも捉えられかねないほど言葉を重ねていた。
「……ごめんなさい」
「謝られるほどのことじゃないんだけどなァ」
思っていたよりも言葉数多く否定されたことで、睦は自分が咎められていると感じ俯いた。
睦にとって、かつての匡導は親よりも身近な年上だった。家政婦よりもフランクで温かみがあり、一緒に居る時は決して両親の話をしない。祥子とはまた違った、けれど睦にとって大切なヒトであり、ずっと一緒に居てくれるものだと無邪気に信じていた。
だがその無邪気さは裏切られてしまった。祥子とも離れ離れになり、言葉にも棘を感じるようになり、彼とは上手く伝えたいことも伝えられずに俯くだけ。
「なァ、睦?」
「……ん」
「睦から見て、CRYCHICってどんなバンドだった?」
「……CRYCHIC?」
「そう、言いたくないことならそれでいいけど」
信号が黄色から赤に変わり、丁度音楽も次のトラックへと変わる。
匡導は祥子に会いに来たという睦の話を彼女から聞き出していた。その中で祥子が睦以外には言えずにいる父の不祥事がバンド解散の直接的な理由になっていることから、そんな一方的で自分勝手な脱退をしたにも関わらずメンバーの一人が祥子を探しているという言葉が気になっていた。
「……運命共同体」
「運命? 運命、ときたか」
「でも……私のせいで、なくなった」
「いや、祥子が続けられなくなったんじゃ」
睦はそれ以上、何も言わなかった。運命共同体であったはずの、優しくてカッコよくて大好きだったバンドメンバー、それなのに自分が下手だったから、自分だけが音楽を楽しいと思える程ギターを歌わせることができないでいるから、無くなった。
そんな睦の内心に眠っている言葉を彼は汲み取ることはできなかった。できるはずもなかった。
──これは、これ以上俺が首突っ込んだらややこしいことになるんじゃないか? と睦の様子から匡導は何も言えずに信号を見つめるだけだった。
「……解った、ごめんな睦」
「どうして?」
「辛いこと思い出させたみたいだから」
「……違う」
「俺は当事者でもなんでもないから、今から無責任なことしか言えない──でも、睦のせいじゃないし、誰もそんなこと思ってないんじゃないか?」
「……そんな、こと……ない」
「祥子から聞いた限りはそんなことなかったけど」
「そよは……そよは、私のせいだ……って」
感情が揺さぶられたように、語調が強くなっていく。そよ、というのがきっと月ノ森にいるメンバーの一人なのだろうと判断し、匡導はその人物がどうしてそこまで睦を責め、祥子を探しているのかを知りたがっていた。
豊川の走狗として、ではなく祥子の安らぎのために。
「……後、私と、祥だけ」
「何が?」
「バンド……立希と、燈は、見つけた……」
「そよ、って子がそう言ったの?」
頷いた彼女によれば、どうやら最初に羽丘にやってきてから目まぐるしく状況は変化しているようだと理解した。
穏やかでなんでもない時間を祥子と過ごしている間に、偶然かそれこそ運命の悪戯か、元CRYCHICの三人は再びバンドを組むことになった。そのボーカルがA組に居るということを知った時点で、穏やかには終わらないと思っていた匡導だったがその実、五月前にやってきた転校生が全ての始まりだということには気づけなかった。
「私は……どうしたら」
「俺個人としては、祥子の味方でいてやってほしい」
「……祥の」
「祥子にとってもきっとCRYCHICってのは大事な、暖かくて幸せな空間だったんだろうなァ……俺に話してくれてる時にもそんな感じが伝わってきたよ」
祥子ははじめ、CRYCHICを諦めるつもりはなかった。新聞配達のアルバイトをしてでも、月ノ森を辞めてでも、それだけは手放すつもりはなかった。
──けれど、その頑張りを認めてくれる人は誰もいなかった。子ども独りの意思では、どうにもならないことばかりだった。
「あの子の幸せな時間はもう、壊れたまんまだ。元には戻らないよ」
「……壊れた」
「これでもし再結成しても、同じことが起こる」
「……でも、匡なら」
「無理だよ、俺が増えたところで支えてやれるのは祥子だけだ」
そもそも祥子の父、清告を再び社会に送り出すという役割を任されたとして若輩の、数ヶ月前まで暢気に大学の喫煙所で昼過ぎにぼーっとしていたような男に出来ることなどある筈もない。
詐欺被害に遭った彼の心を救い、彼が再び立ち直るほどの仕事と成功を与え、再び豊川として立ち上がる契機を与える。そんなことは神にだって不可能だと匡導は断じた。
「壊れた器は糊付けしても、ちょっとした力が加わっただけでまた割れる。第一拾い集めて元に戻して、直して、次に割れる時はコッチが傷つきかねない。そんなの御免だ」
「……なんで、そんな……こと」
「──ごめん、言い過ぎだよな。でも、俺にどうにかできる問題じゃないんだ、それは……変えられない」
比喩的ではあったもののほぼ直接的に「どうしてあんな男の面倒を見なくちゃいけないんだ」という言葉を発したことを睦に咎められ、匡導は素直に謝罪する。
ついでに睦を自分が送ったことを秘密にしてほしいと頼むと、睦にとっても見慣れた景色が広がり始めてきた。
「……駅前でいいか?」
「いい」
「ごめんな、付き合わせて」
「……いい」
怒らせてしまったかも、普段にもまして口数が減った睦の背中を見送りながら彼は溜息を吐きながら胸ポケットからタバコを取り出し咥え、だが火を点けずにライターの蓋をカチカチと弄る。
──睦の内心が高精度で判断できるのは祥子だけ、若葉の家から遠ざかっていた自分には出来ないし、ましてや彼女の両親にも不可能だ。
だからこそ、今日話をするなら三人ですべきだったと後悔していたが、それが全て手遅れであったことを知るのは更に後になってのことだった。
睦のお人形遊びで誤魔化していますが、中学生に手を出した大学生が登場しましたわね