Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
本編時空との変更点は「匡導が瑞穂の死で祥子とそのまま身体の関係を持ち続けている」という一点のみですわ~!
──歳が離れた二人の出逢いは、なんてことのない春の日のことだった。段々と温かくなっていく四月のこと、長崎そよは彼と初めて言葉を交わした。
月ノ森の最寄り駅で誰かを待っているような、二十代前半に思える青年、サングラスを掛け、年齢に似つかわしくない黒い高級車に左手を置きながらタバコを吸う男に。
「月ノ森のヒト? 豊川祥子って子知ってる?」
「え……あ、貴方は?」
「俺は烏森匡導……豊川祥子の、オサナナジミ、でいいのかな? ちょっと用事があってさ」
「……祥ちゃんに?」
眉間に皺を寄せるそよにその男、匡導は自分が日よけのサングラスを掛けっぱなしだったことに気付き慌てて外し、シャツの襟に引っかけて無理やり笑顔を作ってから、また慌てて右手に持っていたタバコを車内に置いていた携帯灰皿で消して、今度こそ両手に何も持っていない、決して怪しい人物ではないということをアピールしてみせた。
「匡」
「匡……って、匡導?」
「祥子、よかった」
「こんなところで何をして……そよに何かしたんですの?」
「してねェよ、ちょっと怪しまれただけで」
「匡、黙って立ってたら不審者」
「……そう見える?」
祥子に詰め寄られてタジタジになったと思ったら睦に無表情で頷かれ肩を落とした匡導を見て、そよは漸く、その男が不審者ではなく本当に祥子と幼馴染であると認識を改めた。豊川グループの娘と幼馴染ということから、彼も睦と同じで親が有名人で繋がりがあるのだろうということも車や身なりから判別することが出来た。
「祥、お迎え?」
「頼んだ覚えなどありませんが、第一今日は練習の日ですわ」
「練習? なんの?」
「バンドですわ、少し前に電話でお話した通りですわ」
「メンバー集まったんだ」
ええ、という祥子の相槌と同時に睦も頷く。そんな二人の後ろにいたそよの、その背中に背負われているベースを見て、彼女もメンバーの一人なのだろうと察した匡導は彼女の前にやってきて頭を下げた。
「怖がらせたみたいで、ごめんなさい」
「い、いえ……」
「祥子と睦と、仲良くしてあげてほしい」
「……はい」
「それで、どうしてわざわざココまで? というか大学はどうしたんですの?」
「実習の準備で忙しいって言ってたのに」
「波状攻撃は止めろって、清告さんに頼まれごとがあったんだよ」
「それで、お父様も随分匡導を上手く使うようになりましたわね」
そんな三人の様子を見て、そよはほんの少しだけ、羨ましいと思っていた。小学校時代の友人とはもうずっと会えていない、幼馴染と言えるような人もいない環境に身を置いているそよにとって、年が離れていようと、性別が違っていても軽口を言い合えるという関係が羨ましいものだった。
「お察しの通り、彼女もバンドメンバーですわ」
「な、長崎そよです」
「長崎さん、よろしく」
彼はそれからも「CRYCHIC」が練習をするスタジオの近くで見かけることが多くなった。出会ってすぐは睦が言っていた通り、中学と高校の教員免許を取得するために合計四週間の実習で顔を見かけなくなったが、取れる単位は取っているからという理由で、暇を持て余していたところで祥子の祖父から様子を見て欲しいと頼まれた、と言っていた。
「じゃあ、高校の先生に?」
「そう、公立希望だから長崎さんたちのことを教えることはないと思うけど」
「もし月ノ森に来たら、きっと噂になりそう」
「噂に?」
「だって、若い男の先生なんて……すごく珍しいし」
「月ノ森は狙っても無理……まァ、ルートがないってわけでもなさそうだけど」
「え……?」
特にそよとは祥子と同じ月ノ森だったため、話す機会が増えていき、用事があって迎えに来た際、駅で会うと二人で祥子を待ちながら会話をすることも増えていた。立ち話で噂になるのもよくないと車の助手席に座ってドライブをしながらの時間は、彼女にとって特別な時間だと感じさせるには充分なものとなっていた。
「も、もし烏森さんが月ノ森の先生になっちゃったら、こんなに仲良くしちゃってるから、困っちゃうな~なんて」
「俺も困りそう」
「え?」
「祥子の前で教師やるの、大変だなァと思ってさ」
「あ……」
だが、胸の高鳴りを感じれば感じる程、彼と祥子の関係が只の幼馴染ではないことを知っていくことに苦しんでいた。睦とは明らかに何かが違う、二人だけの関係、しかも男女の関係──恋愛と言うには少し大人で、だが恋人というには何処かぎこちない関係であることをそよは直感的に理解してしまっていた。
「その」
「ん?」
「長崎さんって呼ばれるの、ちょっと苦手で」
「苦手……?」
「……苗字、変わったから」
「そういう感じね、じゃあそよでいいかな? 馴れなれしくない?」
「う、ううん! 大丈夫……」
彼ならば、と少しではあるが過去の話もした。その結果として睦や祥子と同じように呼んでもらえることに嬉しいと感じる気持ちが、そよの胸に芽吹いてしまった。
仲良くなればなるほど、仲良くなっていると思う程、自分と祥子を比較してしまうと解っていても、止めることは出来なかった。
「やっぱりいた、匡さん」
「……そよ、今日は吹奏楽部?」
「うん、匡さんはどうしてここに?」
「前に教えられて、寄ってみたら雰囲気いいし」
「おいしいよね」
「そよは紅茶が、だろ? 俺はコーヒー派だってば」
「そ、そうだったね」
そんな淡い日々、窓辺の席にノートパソコンを広げてはいるが文庫本を片手に、おそらく卒論の息抜きなのだろう姿を見かけてそよは半ば無理やり部活の友達と別れて喫茶店へと入っていく。そこは以前、そよが教えた店であり、通っているような言葉だけで甘い痺れが彼女の胸を支配していた。
「何読んでるの?」
「ホラティウスの詩集」
「詩集、どうして?」
「祥子にオススメされて、暇つぶしにはなる」
「……そうなんだ、祥ちゃんってそういうの読むんだね」
だが彼女の熱されてしまう心はすぐに冷や水を浴びせられたようになってしまう。何処に居ても、誰と居ても、彼の瞳の中には豊川祥子がいる。
そよは知らない、母の死に悲しむ祥子との衝動的な交わりをきっかけにして、この二人が誰にも言えない秘密の関係を持っていることを。知っているのはその場にいた睦だけだということも。
「私も読んでみようかな~、なんて」
「正直、祥子の読書の趣味は変だから、真似しても続かない気がする」
「そうかな?」
「そよと話してる方が楽しいかな、だからもう読んでないし」
「……あ」
笑ってみせる匡導は、まるで太陽のように輝いて見えた。自分を、周囲からズレていると感じる長崎そよという人物の標になってくれているような優しい輝き、祥子と同じ春の輝きが彼女にとっては手を伸ばしたい程に愛おしかった。
「匡さんって、紅茶は、苦手?」
「いや、けど自分で頼む時はコーヒーにするってだけ、この苦味がタバコと相性がいいってのもあるんだろうけど」
「……タバコって、おいしいの?」
「オススメはしない、興味があっても後五年、我慢した方がいい」
彼のことを理解できるのなら、タバコも吸ってみたい、コーヒーだってブラックで飲んでみたい。彼と、匡導とおんなじものが欲しい。そよは名前と好きなものしか知らない彼──否、名前と好きなものしか知らないからこそ、烏森匡導という男性のことを考える時間がどんどんと増えていった。
──やがてコーヒーも紅茶も空になり、匡導は再びノートパソコンのキーボードを叩き始める。そよはその不均一なキーボードの音を聴くのも、幸せに感じていた。
「大学生って忙しい? 卒論とか実習とか、すごくバタバタしてるけど」
「忙しいっちゃ忙しい、けど見ての通り殆ど大学に行ってない通り暇と言えば暇かも」
「一ヶ月も実習してたのに?」
「講義がないから一ヶ月実習しても問題ないんだな、これが」
「ふふ、なんか想像できないな、自分が大学生になったり、車運転したり、タバコとかお酒を嗜んだりする姿」
その言葉に匡導は顔を上げる。来年には高校教師になる予定の彼と、その教える対象である高校生になる彼女、祥子相手では身体の関係まであるため余計にそう思えるが、自分が如何に普段から年下の異性ばかりと関わっているのかと苦笑いが出てしまった。車が運転できるようになるまでも後三年、中学生の彼女からはまだまだ遠い未来の話だった。
「中学生、だもんな。そよと一緒に居ると忘れそうになる」
「え~、それって私が老けてるってこと?」
「大人っぽいって褒めてるって発想を最初にしてほしい」
「……そっか」
大人っぽい、それはつまり、大人ではないということ。
たった三文字増えただけで、まるで匡導と永遠に解り合えないかのような感覚に陥ってしまい、そよは顔を俯かせた。同時に、同じ年であるはずの祥子と自分を嫌でも比べてしまう。大人っぽいというのなら、祥子よりも自分の方が匡導の隣に居ても違和感がないのではないかと。
──だが、そんな嫉妬も我儘も、デートに誘うことすら彼女には難しいことだった。今はただ、この時間を噛み締めることで精いっぱい、幼馴染の同級生という立場から進めようにも、相手が七歳も年上の男性という事実に足が竦んでしまっていた。
「ひと段落付いたし帰るけど、よければ送っていくよ」
「じゃあ……お言葉に甘えちゃおうかな」
「遠慮なく甘えて、こんな時間まで付き合わせたんだし」
祥子と匡導の関係が健全ではないと感じるのと同様、それが自分であっても大前提としての印象は変わらない。それは言い換えれば周囲から
「じゃあ今日もお母さんいないんだ」
「うん」
「……寂しいな、それは」
「……うん」
「俺には祖母さんもいたし、叔父さんとその恋人、今は奥さんになった人もいた。そう考えると恵まれてたんだなァ」
両親が殆ど家に帰ってこなかったという過去を経験している匡導は、そよの孤独を本当の意味で解らないと独白する。祖父母は駆け落ち同然の末に出来た孫すら暖かく迎えてくれ、父の弟は子どもに罪はないと気に掛けてくれた。そんな叔父の恋人も優しく暖かな人だった。そして大人の意図があったとはいえ、睦の母、森みなみにも愛情らしいものは感じていた、祥子の両親も暖かく接してくれた。
「あの……匡さんがよければ、ご飯とか……一緒にどう、かな? お母さん、いないし」
「……嬉しい誘いだけどごめん、今日は用事があって豊川家に行かなくちゃいけないんだ」
「う、ううん……私の方こそ、急にお誘いして、ごめんなさい」
指をすり抜けていく。豊川家に行かなくちゃいけないのが嘘だったとしても本当だったとしても、匡導の言葉は
けれど、その日の孤独は、一人で食べる食事は涙で味が解らなくなってしまう程にそよの胸を締め付けるものだった。
「長崎って聞いて……まさかとは思ったけど、本当にそよだったのか」
「……匡、さん」
──それから一年の時が過ぎた。それでも諦めきれなかった恋は祥子の脱退と共に疎遠になってしまい「CRYCHIC」を復活させるという夢も潰え、完全に道は別たれてしまった。
だが、一度繋がってしまった縁は二人を巡り合わせてしまう。それが運命の悪戯だというのなら、そよはその運命という残酷さをやっと理解出来た気がしていた。
「睦ちゃん、どうしてるのかなって」
「行けば、解るよ」
「……そう、解った」
──喩え、結末が変わらないとしても。祥子と匡導こそが運命共同体、切っても切り離せないものだったとしても。長崎そよという一人の女性が祥子と同じように想い、烏森匡導という人間に恋慕の情を寄せていた事実は、睦の変調というきっかけで歯車が嚙み合ってしまう。
「……そよ」
「離れないで……キス、して」
「俺は、祥子と」
「いいから、貴方が誰を好きでもいいから……今は、匡さんが欲しい」
雪崩るように、リップ音をどちらの家でもないのに響かせていくこと、際どいネグリジェをわざわざ用意して、誘ってしまう自分はもう、只の良い子じゃいられないのだということを理解していた。
例え、悪い子になったとしても、どれだけ周囲に疎まれ、認められなかったとしても、もう後悔はしたくない。
──いつの間にか「CRYCHIC」の崩壊で一番後悔していたことが彼に会えなかったことになっていた長崎そよには、自分の感情を押しとどめる術をもう持ってはいなかった。
これを本編そよが夢で見たとすると吐瀉物案件ですわね。悍ましい以外の何者でもないでしょう。