Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
烏森匡導と共に地獄の門を潜ると約束をした祥子はその晩、かつては自室として使っていた匡導の家にある部屋のキーボードに向かいスタンドにスマホを置いた。そこには初華の想いが綴られた歌があり、鍵盤に指を滑らせていく。かつて燈の歌から「人間になりたいうた」を作曲したように。
「まだ寝ない?」
「ええ、基本的な骨組みだけでも、完成させますわ」
「……解った、前にも言ったとは思うけど、眠気が来たらすぐ寝といた方が効率いいから」
愛されていた間には考えることなどなかった祥子も、一人で集中していくと脳裏にかつてのメンバーたちの言葉が思い起こされる。
海鈴の覚悟、モーティスの言葉、にゃむの檄、初華の表情、そして自分が吐いた言葉、吐いた嘘の数々、目を閉じれば鮮明に思い出されてしまう。
「これが……これこそが、貴女の言葉、わたくしの罪ですのね──初華」
かつて一緒に遊んだ幼い日の彼女とは似ても似つかない、暗く重たい感情、鬱屈した想いを目の当たりにした祥子は、自分があの明るかった、純粋にアイドルを目指していた三角初華を変えてしまったのかと眉根を寄せた。
「違うよ、祥子……そうじゃないんだ」
その呟きに対して紅茶を用意して扉の前に立って聞いてしまった匡導は、そっと聞こえないように返事をする。その歌は
──説明してしまおうと思えば簡単だった。だがそれを知るのは今ではないという予感があった。少なくとも「三角初華」の為に曲を作る祥子には伝えてはいけないものなのだと。
「おはよう匡導」
「おはよう、ってもうそろそろ夕方だけど」
「急ぎますわよ、車を出してくださる?」
「承知しました、どちらまで?」
「──睦の家ですわ」
翌日、メロディーを作り終えた祥子は全ての責任を果たすために匡導の車、その後部座席に乗り込んだ。
道中でこの行動は既に執事や家のものを経由して豊川会長の耳にも入っているだろうこと、幾ら祥子の従者になったからと言っても完全にこの行動は目に余るだろうということ、それらを総合して、匡導は自分の明日がないかもしれないことを感じ取っていた。
「あらぁ、二人ともいらっしゃい」
「おじゃましますわ、みなみさん」
「……おじゃまします」
睦の家にはオフなのか森みなみが二人を出迎える。一瞬だけ祥子と匡導の目線が合い、アイコンタクトで役割を決めていく。元々、匡導が睦、モーティスの部屋に入る意味はないため、必然とも言うべき役割だったが。
「お嬢は、睦の部屋へ?」
「ええ」
「なら、少し匡くんを借りていくわね?」
「お構いなく」
匡導をその場に置いて、祥子は睦の部屋へと向かっていく。
彼女の部屋にはベッドで寝転んだモーティスと、それを気遣うようにと立希から厳命されている八幡海鈴が居た。
「みなさんを呼んでくださる?」
「え?」
「Ave Mujicaのメンバーですわ」
祥子がやってきたことで不思議そうな顔をしていた海鈴に対して端的にそう告げる。
海鈴はその言葉に喜色を浮かべ、早速メッセージを送り、その間に祥子は彼女たちに背を向けてベッドに潜っているモーティスに声を掛ける。
「──
「……Ave Mujicaやってくれるの?」
「貴女には
「え……祥子ちゃん、私、わたしギターは……」
「ただ一度のズレも許しません、できますわね、
それは決定事項であり脅迫めいていた。モーティスが「Ave Mujica」をこなすための必須条件、それが若葉睦に最後まで成り切ること、それを祥子は提示してきた。当然、断れる筈もない。断ってしまえば、自分は死ぬことになるのだから。
「結局、こうなったわね」
「みなみさんは解っていたんですか、ムジカがこうなると?」
「そんなわけないじゃない、貴方のことよ」
「……ええ、俺はもう、彼女に人生を預けました」
教師でありたいという夢、森みなみはそんな夢はいつか潰えることを予想していた。それは彼が豊川定治の命令で羽丘の教師になったと知った日からずっと、感じていた予感でもあった。教師としての夢の実現を選ぶよりも「Ave Mujica」の裏方として、そして祥子の従者としての生き方を匡導が選んだことで彼女の予感は現実のものとなっていた。
「なら最期まで演じ続けなさい、貴方にはその義務がある」
「……はい」
「ふふ、それはきっと……私もそう」
微笑んで去っていく彼女を見送る。そして祐天寺にゃむにとっての敵であり続ける、それが自分の役割だとでも言いたいかのような背中に、匡導は少なくともまだまだ敵いそうにはないな、と肩を竦めた。
にゃむが最後の一人で、地下のスタジオに五人の人形たちと、一人の従者が揃った。
「集まってもらったのは他でもありません──Ave Mujicaを、復活致します」
祥子の宣言に初華が歓喜の声を漏らす。自分を選んでもらえたという幸福で彼女は満たされていく。
その隣で口を真一文字に結んだにゃむ、祥子の隣で沈んだ表情をしているモーティス、そして祥子の後ろで眉を顰めている匡導のことなどは視界には入っていなかった。
「あなたがたの人生、確と受け取りました、今後
「はい……!」
「はい」
「は~い」
にゃむはその場に居る匡導のこと、そして俯くモーティスを見て少し不思議そうな顔をしたものの、発破を掛けたものの責任として再び祥子に人生を預けていく。
もう「Ave Mujica」は祥子が夢見た世界ではなくなった。それでも、月が昇らなければ息すらできなくなってしまった哀れな人形たちを救うため、祥子は人生を捧げていくことになる。
──ならばと改めて、匡導はそっと誓った。運命が別つその時まで、彼女から離れることはしないと。
「匡導、来週にもライブをしたいので八幡さんとスケジュール調整を」
「承知いたしました、よろしく八幡」
「よろしくお願いします」
数多のバンドを掛け持ちしてきた八幡海鈴のスケジュール調整能力を参考にしつつ「RiNG」への連絡等は彼女に一任する。
彼に出来ることなどはたかが知れているのかもしれない。それでも、祥子の代理としての仕事を全うする。
「では、音響面はそんなところで」
「シャンデリア、頑張ってみたけどちょっと難しくて」
「……烏森さんどうしますか? 豊川さんに確認を」
「いや、これだけできれば充分かと、お嬢様には俺から報告しておきます」
後ろ盾もない、それどころか事実上アマチュアでの再出発、復活を待ち望まれていたとはいえ以前のようなセットは望むことは出来ない。もっと言うならば「RiNG」の狭いステージでは「Ave Mujica」の世界観を再現することは不可能でもあった。
──本来ならば、祥子は妥協などしない。だからこそ音響面やステージの意匠、交渉を全て一人で行ってきた。例え匡導だったとしても傍に控えさせることはあったとしても任せることは以前ならば絶対にあり得ないことだった。
「信頼、されているんですね」
「信頼? まァ、信頼というんだろうな」
「羨ましいです」
「長い付き合いってだけだよ、後は」
「後は?」
「──男と女だから、な」
その発言に流石の海鈴も足を一瞬止めた。繋がりであり、お互いに全てを曝け出しているとも言えるコミュニケーション、原始的欲求を絡めた関係はこの数日で更に二人の間で燃え上がっていた。これまで抑えつけていたブレーキが完全に壊れたことにより、祥子と匡導の境界が曖昧になっているような感覚さえあった。
「ありがとうAve Mujicaを選んでくれて、受け止めてくれて……私、本当に幸せ」
「言いましたでしょう? 人生を預かると」
「うん、嬉しかった、
祥子は初華の言葉に、人生を預かるという重みを感じていた。そして人生を預けるということにも覚悟が要ることを。だが初華の言葉にそれは感じられなかった。
──
だが、それは祥子も最早同類であった。彼女の裡にはもう、たった一人しか残されていなかった。
「貴方も、結局巻き込んでしまいましたわね」
「いいよ、本当は最初から……初めて祥子を抱いた日から、こうするべきだったんだ」
「あの時の匡導は、男として最低なことを言いましたわ」
「……本当に、でももう言わないよ」
祥子を抱いたことを過ち、間違いだと言った最初の出来事を訂正する。終わりにするつもりだったのに、こうして赤い糸で括りつけられているかのように、祥子を抱きしめているのだから。
──この出逢いが、関係が運命だというのならば最期まで演じ抜く。例えスポットライトが当たらぬ舞台袖だったとしても。匡導はそう、心に決めていた。
「祥子」
「はい──っ!」
「……愛してるよ」
「ええ……わたくしも」
二人きりの更衣室で最初は振り向きざまに唇を奪い、二度目
「では、行ってまいりますわ」
「うん」
「もう一言、何かありませんの?」
「……行ってらっしゃい、祥子」
その余韻まで堪能し扉を潜った瞬間にはもう、彼女から笑顔も艶も消えていた。そこに在るのは人形「
「これで良い、訳ねェんだよな……解ってる、解ってるけど」
さながら、今の「Ave Mujica」は三角初華の歌が「Imprisoned」と名付けられた通りの、檻の中、逃げることのできない小さな世界に閉じ込められてしまった。そしてそれを自ら肯定することこそが覚悟であり、責任であり義務である、自らの刑罰であると
──変質させてしまった。
そこで永劫に閉じ込められることが、祥子の罪を洗う場なのだとしても匡導には檻を壊すだけの力も、連れ出すだけの力もなかった。
「最低だな」
正に祥子は坂を上っているかのようなライブだったと匡導は感じていた。地獄へ共に行くだなんて詭弁でしかなく、結局は苦難の道を上がり、舞台に立たされて処刑される。罪の意識と共に十字架を背負わされる姿は美しくも残酷な姿だった。
劇的な、それでいて待ち望んだ復活を祝す万雷の喝采を浴びた「Ave Mujica」のメンバーはそれぞれの帰路に着いていく。
普段ならば睦は祥子と共に匡導の車に乗り込む筈だったが彼女はそれに対して首を横に振った。
「……お前」
「匡?」
「いや……なんでもねェ」
「若葉さんは私が送っていきます」
「あァ……祥子は?」
「今日はおひとりで、初華」
「──うん!」
「フラれたね~、アタシが乗ってあげよっか?」
「いや、いい」
睦と海鈴、初華と祥子という組み合わせで別々の帰路を進む。あの歌詞を書いた初華に対して思うところがあったのだろうと判断した匡導は、同時に彼女が自分の車には乗らないだろうということも理解していた。理由は単純で、匡導には
「──海鈴ちゃん、睦ちゃんのこと送っていったね! にゃむちゃんもちょっと変わったっていうか」
「……ええ」
祥子は事務所が、つまりは豊川グループが反対していた「Ave Mujica」の復活を半ば強行したことで、再び豊川邸に戻るのを躊躇っていた。今度は匡導をも巻き込んでいるのだから下手をすれば烏森家そのものが危うくなる所業だと冷静になって考えていた。そんな状態なのに更に彼の家に転がりこめばどんな苦難を彼に強いるのだろうか、自分の人生などもはやどうでもいいとすら思っていた祥子も、彼や彼の家族の人生まで簡単に捨てられるような冷血さは持ち合わせていなかった。
「家、帰りにくいならさ……私の家、来ない?」
「……え?」
「ロフト、そのままにしてるんだ、狭いならもっと広い家に引っ越してもいいし、私──っ?」
そんな風に匡導の車に乗ろうとしなかった祥子の様子を敏感に悟った初華の提案、それを遮ったのは祥子ではなく、突如隣に止められたリムジン車だった。
その車は祥子も、初華も見覚えのあるもので、二人の考えを肯定するようにリアウィンドウが下がり、豊川定治が顔を見せた。
「……どこにでも現れますのね、お祖父様」
祥子は彼が自分を連れ戻そうとしているのだと判断していた。こんなことならば寧ろ匡導を頼るべきだったかと後悔していた。
だが彼女の考えとは違い彼の顔は孫の祥子ではなく、三角初華に向いていた。
「──
「……え?」
知らない人物の名前、それを向けられた初華もまたその名前が自分の名前であることを肯定するかのような仕草に、祥子の思考が停止する。
──彼女は、今まで「sumimi」として活動し、そして「Ave Mujica」のフロントとして活動してきた三角初華が
悲しいお知らせですが、四章で終わりですわ。アニメ11話と13話が匡導と祥子の物語に関係ないため四章はアニメ12話の内容のみとなりますので、オリジナル展開もりもりになる上、それでも二章や三章に比べて話数が減りますわ。こんな引きでアレですが、そんなに山場はありませんわ。
明日は幕間を投稿致しますわ、話の内容はアニメ11話の内容のうち、匡導が知った部分を開示するお話になりますわ。都合上ほぼお父様との会話になるため、幕間という形にさせて頂きますわ。