Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
今回で序章も終わりますので、どうが最後までよろしくお願い致しますわ!
──豊川祥子は夢を見る。そよがいて、立希がいて、睦がいて、そして燈がいる。初めてのライブが終わった後、スタジオでの一幕、雨に濡れた自分が全てを終えた場面だった。そこで彼女は今が過去の悪夢を見ていることを突如として理解できてしまった。
「……みっともないですわ、いつまでも」
あの頃のように泣きじゃくることなく、だが胸が痛む感覚に顔を顰めながら雨に打たれながら交差点を歩きだす。振り返りたい、全て打ち明けてしまいたい。だが夢だと言ってそんなことをすれば自分が惨めになるだけだと前に進んでいた。だが交差点を渡り終わったところで目の前にやってきた男が真っ黒な傘を差してきたことで、唇を血が滲むのではないかという程に嚙み締めた。
「なんか食いに行くか?」
「どうして」
「どうしてって、何が」
「……どうして居るんですの、貴方が」
この時点では居る筈のない男、匡導を見上げる。問いかけると同時に、祥子は理解していた。自分は、彼に救われたがっている。土砂降りの日には、いつでも傘を差してくれるのだと。
──母が亡くなった時の優しさに心の何処かでいつも縋っているのだと。
「わたくしが壊してしまったのに、悲しいから匡導に優しくされたいだなんて都合のいい夢ですわ」
「そうだけどさ、まァ自分くらい、自分に優しくてもいいと思うけど?」
匡導の言葉と共に黒い傘の内側が満天の星が煌く空に変わり、そしてあの日のように優しく抱き留められた瞬間に、遠くで音が鳴る。
その音が、自分自身のスマホから出る起床アラームだと気づいた瞬間、祥子の意識は現実世界に戻ってきていた。
「──優しくできるほど、わたくしはわたくしのことを好いていませんわ」
夢で伝えきれなかった言葉を、誰に聞かせるでもなく吐き捨てた。
祥子にとって、彼と過ごす時間はそれだけ無意識で救われたいと思ってしまう程に安らげるものになり始めていた。
学校へ行けば、羽丘に迎えば彼が、匡導が居て、くだらない話をしてくれて、或いは読み古した小説を静かに読んでいる。
あの夢で傍にいてくれたように、目を背けたい程の悲しみをその温かさで微睡みの中に忘れさせてくれる安らぎの人だった。
「おはよう、豊川さん」
「おはようございます……」
「な、なに?」
「なんでもありませんわ、烏森先生」
願うならばこの安寧の中で傷が過去のものとなり消えてくれればいい。忘れてしまえるほど小さなものになればいい。
そんな浅ましい感情を抱いてしまったが故か、それは打ち砕かれることになる。
原因の一つは、少し前のことに遡る。匡導が睦と話をしに行った日、祥子は長崎そよに待ち伏せをされていた。撒いたものの、すぐ後に睦から、そして匡導からその真意を知らされることになった。
「そうですの、あの三人が……」
「らしい、祥子のこと高松燈ってやつが言ったのか?」
「いえ……おそらく、愛音さんですわ」
「あのん? あァ、A組に転入してきた千早愛音か」
「ちゃんと名前、憶えているんですの?」
「教師なんでね」
「そうでしたわ、全然それらしいところを見る機会ございませんから、忘れかけていましたわ」
「ここだけの話、お嬢のクラスでも教えてるんスよォ」
教室ではお互い、しゃべらないし目立たない生徒とうだつが上がらないダサい風体の教師ということもあり音楽室で話している時の印象ばかりになっていると笑いあう。
少し話が逸れたことで少しの沈黙の間、祥子はそよの目的、行動原理を知って思考を巡らせる。
──少なくとも、CRYCHICの復活はあり得ない。父の精神状況が変わっていないどころか悪化の一途を辿っているため、祥子が懸念していた以上のことが起きても不思議ではない。そうでなくても練習時間がマトモに取れるかも怪しいところなのだから。
「どうするんです?」
「ひとまず……そよを納得させる必要がありますわ」
その手段として、新たに結成されたバンドのライブを観にいくことを決めた。
無視し続けるだけではそよはずっと付き纏ってくる。言い方は悪いがそうとしか考えられないのだから、いい加減にハッキリさせた方がいいと、向き合う時が来たのだと祥子は覚悟を決めていた。
「大丈夫か祥子……お前は、運命共同体とまで言ったバンドを終わらせられるのか?」
「もう既に、CRYCHICはわたくしが壊してしまいましたわ……それなら、終わらせる責任があるのもわたくし、元より覚悟の上ですわ」
「解った……俺は近くで待機してるから」
「……何か、ご飯でも奢ってくださる?」
ふと、祥子は夢の中の彼から言われたことを返してみる。自分の中に居る、豊川祥子から見た烏森匡導は気を遣う時にそういった、全く察していませんと言った風に話しかけてくることがあることを知っていた。
「そうだな、お許しが出たら睦と三人で食事かな」
「……外食なんて、久方振りですわ」
「睦んちって手もあるけど、親居ると気まずいからな」
「そうですわね、特に貴方が来るとなると、面倒事に発展しかねませんわ」
睦の親が居ると気まずい、というのは父ならば良く思われていないため居心地が悪い、母ならばその真逆で、気に入られすぎていて居心地が悪くなるからだった。
殆どないが両親揃っていたとしたらもはや子どもの手には負えない問題だ、と祥子も匙を投げていた。
祥子も、匡導も、おそらく睦でさえこの時はこの生温い日々が続くのだということを無邪気にも信じていた。
だが、ライブの日を境に穏やかだった二人の関係は一変してしまうことになる。
「んー、睦も居るから、レストラン……いや、三人だしなァ」
ライブ当日、陽が沈み切る空を眺めながら匡導がタバコを片手にスマホで食事を摂る場所を探していると、フラフラとした足取りで祥子が向かってくる。
その様子に驚き、まだ吸い始めだった左手のタバコの火を携帯灰皿で消して駆け寄った。
「祥子?」
「……匡導」
「どうした、何か……とりあえず車ん中」
少し周囲を見渡すものの睦はおらず、ライブで何があったのだろうか、匡導は想像もできないもののただ事じゃないと祥子を助手席に乗せようとすると、そのまま彼女は彼の肩に頭をぶつけるようにして体重を預けた。
「わたくしを、抱いて……あの日のように」
あの日のように、という単語で彼は思わず肩を掴んで引きはがす。
「お願い……もういっそ、全部、忘れさせて……」
「……それで、祥子の悲しみが終わるのなら、忘却が救いなら……俺は」
ご飯の予定をキャンセルした彼は睦を送って、祥子はその日、家に帰ることはなかった。母を喪った日のように、ただひたすらに祥子は彼を求め、泣き、深夜になってから幼子のように彼の腕の中で眠りに就いた。
「熱が引かず、はい……申し訳ございません……ありがとうございます、失礼致します」
「仮病だなんて、悪い子だな」
「それを言うなら……通話中に身体を触ってくる貴方の方が悪い、男ですわ」
「祥子のハダカ見てたら、またちょっとムラムラしてきてな」
「……昨晩あれだけしたのに、まだ足りませんの?」
「足りない」
バイトを嘘の病欠でやり過ごした彼女は飽きることのない快楽に溺れていく。彼といる時間は、彼に抱かれている間は、彼の名前を呼んでいる間は、痛み止めを処方されたように悲しみを紛らわせることができた。
同時に、彼の家でお礼にと料理を振舞ったり、酷使した身体を休めている間彼に抱きしめられたりしている際、交わしていた言葉が祥子の傷を目立たないように隠してくれる。
「わたくしは……忘れることなんてできませんわ」
「そりゃそうだ、忘れる生き物だって言われても、そう簡単だったら思い詰める人間なんていなくなる」
「そうですわね……ねぇ、匡導?」
「なんだよ」
「今度は……今度こそ、わたくしの側から離れないでくださる?」
「祥子がそれを望むなら」
匡導は祥子のために、それが彼女を根本から救うことではないと知っていても、まるで恋人のような時間を過ごすことが一時でも安らぎであるならと彼女を求める。
その根底には、明るく笑うかつての祥子を守っていたかったという想い、罪悪感から逃げ出し肝心な時に支えることができなかったという後悔から来ているものだった。
「──祥子の側にいる。ずっと、これから何があっても」
一糸まとわぬ、乱れたベッドの上で誓いを立てるように口づけを交わす。ゆっくり離れて、ほぼ同時に目を空けたことで、思わず祥子は笑いが堪えられなくなってしまう。
自分は独りで生きられるという実感が欲しかったのではなくて、手を差し伸べてくれる、愛してくれる絶対の味方が必要だった。それが根本的解決策などでなくても、ただ傍に居てくれる味方を欲していた。
「……もしもし、祥ちゃん?」
「お久しぶりですわね、初華」
「どうしたの、突然電話なんて──」
「──直接会って、話をさせてほしいの……都合の良い時間を教えていただけませんこと?」
愛欲を啜り、嚥下し、吐き出されたその翌日に祥子は睦とも、先ほどまで車を走らせてくれた彼とも違う幼馴染に電話を掛ける。
通話の向こうにいるのは現在売れてるアイドルユニット「sumimi」の三角初華だった。
悲しむのも、後悔するのも、全ては匡導との時間の中に置いていってしまえばいい。頼るのは精神的な部分のみ、生きるための力は自ら切り開いていく覚悟を祥子は決めた。
「今日は、初華に折り入って話がありますの──わたくしとバンドを組んでくださらない?」
「えっ、バンド?」
「ええ、それもプロとしてやっていく」
後日、三角初華にバンド結成を打診する。
彼女が空想した
そして、この結成を進めるということは即ちCRYCHICとの完全な決別を意味していた。
だがもう夢に縋ることはしない。彼女たちとはもう交わらぬ路なのだから。
「いいんじゃない、お嬢のやりたいようにやってみれば」
「適当なことをおっしゃるのね」
バンドを組むことにした話をあっさりと肯定され嘆息はするが、逆を返せばそう言ってくれるという信頼から出た言葉だった。
そして彼は現状、祥子から豊川の家へコンタクトを取れる打算的な手段の一つでもある。窓口として彼を利用しようとしていた。
狙うのは世界観を構築するための初期投資、そして最短でメジャーデビューと万が一にも話題性がなくならないため、そして初華がボーカルを努めるのに相応しい盤石の布陣、それらを祥子一人で集めるのは容易ではない。
「そんなら豊川会長にも報告しときます」
「ええ、頼みますわ」
匡導は豊川会長の走狗であると同時に、元アイドルで現タレントの母とプロデューサーの父を持つ。そのコネを使わない手は考えられなかった。所属アイドルである初華をメンバーに引き入れる以上、自分自身も事務所に所属する。その時に彼の出自は
「ごめんなさい、貴方は両親をあまり好いていないのに」
「いいよ、言葉通り立っているものは親でも使えってやつです」
「必ず、報酬はいずれ用意しておきますわ」
「俺は、お嬢とイイ思いが出来てるんで、そっちでもいいけど」
「仕事と報酬は釣り合って然るべき、安く買いたたくのも、安請け合いも、わたくしは許しませんわ」
経営者のような目で、不敵に笑みを浮かべた祥子に対し匡導は強い光を見たような気がしていた。
様々なことが重なって翳ってはいるものの彼女は気高く、美しくもありながら苛烈でカリスマのある王の気質を備えている。自然と相手が傅いてしまうような、圧倒的な輝きを有しているのだから。
「いずれ名が付くわたくしの世界、それを……音楽というジャンルで表現してみせますわ」
壊れ、嘆き人間に成れなかった、人形による舞踏会。
独りでは踊らず、その輝きは傷ついた人形達を揺り起こしていく。
匡導は人知れず祈っていた。彼女の道のりの先が燃え盛る炎の中だったとしても、せめて最期は安らかであるようにと。
「祥子」
「きゃ、ここは音楽室だと何度も……どうかしましたの?」
「ここが音楽室だからこそ、俺と二人の時は……弱い
「匡導の手は、不思議ですわ」
「あったかい?」
「暖かくて、いつでも春の陽気のように……穏やかで優しい手、この手がある限り、わたくしは大丈夫ですわ」
祥子を抱きしめ頬に触れると、優しい笑みをした彼女はその手で持ち主なき苛烈な人形から一人の少女に戻っていく。
仮初の関係だったとしても、今はただ、求めるままに。愛されるがままに。
こうして彼と彼女は歪な関係を結ぶに至った。教師と生徒であり、従者と主であり、男と女となった。
烏森匡導はクリーム系のパスタとカマンベールチーズが好きですわ。逆にカラスミと明太子が苦手ですわ。
趣味は最近はもっぱら読書、推理小説が好きで、他にも知育パズルを解くのが暇つぶしですの。
特技は人の顔と名前を覚えることと相対音感を持っていることですわ。記憶力が優れていると言い換えてもよいのかもしれませんわね。
次回は木曜日「Ave Mujica」の七話後にお会い致しましょう。