Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
曇天の空、冷たい雨が降り続く日に、豊川祥子はいつも乗り馴れたものとは違う車の後部座席に乗せられて空港へとやってきていた。旅客機が飛び交う中、彼女が案内されたのはプライベートジェット──これから生まれ育った国を離れていく、祥子のために用意された翼だった。
「このままスイス、というわけですのね……着の身着のまま行かせるおつもり?」
「旦那様のお言いつけです、御用命があれば、後ほど」
完全に祖父の命令で縛られているであろう、羽丘での送迎をしていた運転手を一瞥し短く息を吐いた。
海鈴、睦、にゃむ、初華、そして匡導、全員の人生を預かると決意した矢先だというのにあっけなく終わってしまうことについて申し訳なさと遣る瀬無さを感じていた。
「……烏森匡導は」
「あの方は、同行を許されておりません」
──まるで走馬燈のように苦難の道が再生される。母の死、父の失脚とそれに伴った「CRYCHIC」の崩壊、自分がステージにいない「春日影」に走った道、結局宙ぶらりんのまま終わることになってしまった「Ave Mujica」というバンドで起こった数々の困難、様々な問題を祥子は立ち向かい続けてきた。
だが最後の最後に立ちはだかったのは、豊川家そのもの、という大きな闇であり只の学生でしかない祥子にはどうすることもできない程、大きな壁だった。
「──もう初音には会うな、学校も行く必要はない」
「……え? でもそれじゃあ」
「匡導にもだ、これ以上お前たちの関係を見過ごすわけにはいかん」
「あ……っ!」
「スイスだ、手続きが終わるまで家から出るな」
空港の数日前、祖父の車に乗せられた祥子は突如としてそう告げられた。ハツネ、という聞き覚えのない名前で三角初華を呼び、そして名指しで会ってはいけないと言われた困惑、そして匡導との関係を断ち切られた困惑、突如スイス行きが決定した困惑のまま祥子は一人になってしまった。
「……匡導も、初華も……どうして出てくれないんですの?」
どれだけ連絡を取ろうとしても、二人には届かない。メッセージを送ろうと通話を試みようと結果は同じだった。
特に匡導から連絡が返ってこないというのは現在が異常事態だということを表していた。
「三角さん──どこに行くつもり?」
「あ……烏森、さん」
「生家はもう無いんだろう?」
同時刻、荷物を纏めて部屋から出た初華の前に烏森匡導が現れる。その一言だけで彼がプロデューサーの息子ということは知っていたため、自分の出生の真実を知っていると判断して仮面を外した。
「別荘の、管理人になることにしたから」
「そうか……祥子には?」
「もう、会えないよ」
「ムジカも放り出して」
「……Ave Mujicaがなくても、さきちゃんには貴方が居るから」
「残念だな、お前のせいで俺まで接近禁止命令出されてるんだよ」
それを聞いた初華ははっとした顔をしてから気まずそうに俯き、そして彼の横をすり抜けていく。
振り返りつつ、お前のせいで、と嘘を吐いたことで匡導は苦い顔をしていた。初華が何か悪いことをしたわけではないことは理解している。これはそもそも、豊川家という闇が生み出した結果、彼にも初華にも、勿論祥子にさえ何か出来るわけでもなかった。
「俺がやるべきこと、なんて……一つしかねェよな、約束したんだから」
──そのまま匡導は一度祥子からの連絡を完全に断ち切り、そのまま一週間が経過した。
自室で軟禁を余儀なくされている祥子だったが、待ち望んだスマホの震えが二人のどちらかであるかもしれないという希望に耳を傾ける。
「──豊川さん、今日の練習すっぽかすなんてどうしたんです!」
「え?」
だが、電話口で声を震わせていたのはどちらでもなく、八幡海鈴だった。なんの事情も聞かされていない海鈴、にゃむ、睦の三人は約束通り睦の家のスタジオに集まっていたが、軟禁状態の祥子、生まれ育った地に去っていってしまった初華は当たり前だが連絡一つすることなく練習には来ていない状態だった。
「Ave Mujicaの練習ですよ、連絡もなしにこういうの、止めて欲しいんですよ! トラウマなんですよ!」
海鈴はかつてバンドメンバー全員からボイコットをされたことがある。その時のトラウマからその声は普段の抑揚のない彼女とは思えないほど狼狽していた。また、何か信頼が足りなかったのか、仕切りすぎたのか、そう思わずにはいられなかった。
「烏森さんに確認しても知らないの一点張りで、三角さんに至っては連絡もとれない、学校にも来ない! お宅に伺ったらポストに
一週間、つまりはライブの時からずっと家に帰っていないという事実に祥子は目を見開いた。匡導と連絡が取れているため、どうやら羽丘の教師は続けているらしいことにはほっと息を吐いたものの、初華が行方不明という事実は祥子にとっても衝撃だった。
「……わたくし、事情があって練習にも学校にも行けませんわ、ですので……匡導に言伝を頼まれてくださいませんか?」
祖父の命令、それは彼女にとっても絶対のものであるかのように感じていた。今まで、その言葉に逆らったのは父の後を追って家から飛び出したその一度きり、それだけ祥子にとって豊川グループ会長、豊川定治という存在は肉親である以上の、絶対的強者としての完璧で冷徹な姿ばかりを見てきた。
そして時は過ぎ、彼女はプライベートジェットの前でこれまでのことを思い返していた。
「……乗れませんわ」
その言葉に疑問を抱き、だが強風に傘が煽られ執事の手を離れた瞬間に彼女は反対方向へと走り出した。既に、滑走路でもあるため危険だと制止されても、走れるような靴ではなく水たまりに滑り、転んでも、それでも立ち上がり祥子は
「お待たせ致しましたわ」
「本当に、逃げてきちゃったのか……祥子」
「ええ……けれど、貴方は何処までも傍にいてくれると、約束しましたわ」
「あァ、じゃあ……目的地は」
「勿論──初華の元へ」
「畏まりました」
いつものように助手席に乗り込んだ祥子の言葉に頷いて、匡導は車を走らせていく。
一週間、たった一週間だが祥子には永遠の後に思える程に思える助手席の座り心地に、安堵の息を漏らして、彼の横顔を見る。
「居て、よかったですわ」
「約束したから……地獄までお供するってな」
「ふふ、格好良かったですわよ」
「……このまま小豆島まで行きます、かなり時間は掛かるでしょうが」
「小豆島……やはり初華はそこに帰ったんですのね」
「はい、彼女と豊川の関係は、本人の口から……ということでいい?」
「ええ」
匡導と祥子はこの一週間、連絡を取り合うことが出来ずにいた。それが彼女の祖父である定治の厳命だったが、彼の誤算は匡導がこれまで過ごしていた中で多少なりとも三角初華を除いた他の「Ave Mujica」には胸襟を開いていたことだった。
「三角さんが実家に帰ってる、ですって?」
「正確に言うと、初華の実家はもう無くなってるんだけどな、東京で暮らしているらしいし」
「え、じゃあウイコの家族って思ったより近くに居るんじゃん」
「けど、家族と確執があるからな」
「祥の別荘」
「あァ、そこだ」
匡導が「Ave Mujica」として受け入れられたが故に、メンバーの助力を得て祥子の状況を知ることが出来た。そして自宅で軟禁状態にある祥子を、初華の元まで届けるには外に出る瞬間──即ちスイス行きの飛行機に乗る直前でなければならなかった。
「中々、危ない橋でした──っ痛」
「脚、怪我してるのか」
「途中で滑ってしまって……」
「ダッシュボードの中に応急処置用の色々置いてあるから」
「……用意がいいですわね」
そのまま新幹線に乗り換え、匡導と祥子はひたすらに西へ向かっていくことになる。痛々しい応急処置を彼に手伝ってもらって、着の身着のままの長旅はまるで駆け落ちのようだと口にしそうになり、寸でのところで留まった。
「こんな形で旅行気分を味わうとはね」
「そうですわね」
いつか言った、二人で旅行に、という口約束を持ち出され祥子は少しだけ微笑み、彼の肩に頭を預けた。
豊川の呪縛がこんなことで簡単にどうにかなるとは思っていない。このままでは匡導の身の安全が保障できなくなってしまう。祥子はそんな現実的な焦燥を忘れて目を閉じた。
──今は、また会えたことを喜びたい。またこうして触れ合えることを。
「時々さ、思うんだよな」
「え?」
「このまま、誰も知らないところへ祥子を連れていけたら、祥子はもう運命に振り回されなくて済むのかなって」
「……匡導」
「解ってはいるんだよ、俺の両親を見てれば、そんなわけねェってことくらいは」
そんな風に結ばれて、一時の幸せを得たところで待っているのは残されたものの苦悩、そしてまた自分のような悲しい運命を背負った誰かが生まれてしまうという諦観、だから彼らは常々誓っていた。
──運命が二人を別つまで、必ず運命は二人を引き裂くことを知っているから。
「喧噪も、喝采も……称賛も俺には必要ない、人も建物も、運命さえ全部が水の底にある」
「──静寂の海」
「……このまま雨が降り続いて全部、水の底にならねェかな、なんてさ」
「それでは、息が詰まってしまいますわ」
匡導が心の奥底で抱いていた憎悪や絶望、大人に抱き続けてきた、人間に対する負の感情はいつしかそういった破滅願望へと名を変えていた。
静寂が怖い、恐ろしいからこそ、それを求める。恐ろしいものに成りたいと。
「そんなもの、貴方には相応しくありませんわ」
「じゃァ、俺に相応しいもんってなんだよ」
「貴方は匡導、水の底に棲み、誰かを引きずり込む恐怖のバケモノよりも……黒い翼で空を舞い誰かを匡し、導くモノ、の方が似合っていますわ」
祥子の否定に、匡導は苦笑いをする。自分のイメージというか、随分と名前に拠ったイメージではあったけれど、彼女に認められるとそれも胸が暖かくなった。
やがて、目を閉じた祥子が寝息を立て始めると、匡導もまた瞳を閉じる。途端に、思考が加速していく感覚がしていく。
──これは、逃避に近い状態だ。このまま初華を連れ帰り「Ave Mujica」を再び集めたとしても次は、豊川家そのものが初華をネタにして祥子を潰しに来る。そうなればまた「CRYCHIC」の焼き直し、それよりももっと酷いことになる恐れすらあるのだから。
「けど、これからのことなんて考えてられねェよな……祥子」
今の彼女に必要なのは初華の、友達がどうして何も言わずに消えてしまったのか、どんな嘘を吐き続けてきたのか、秘密を隠してきたのかということを本人の口から訊きだすこと。
もしかすると本当のことを知った祥子は初華に失望するかもしれない、或いは諦めがつくのかもしれない。どんな結果になろうと、
「ここから先は、どうするんですの?」
「レンタカーを借りるよ、歩いて向かうのはちょっと厳しいからね」
「結局、頼りきりになってしまいますわね……わたくし、手持ちが雀の涙ですもの」
「お気になさらず」
新幹線を下り、高松駅に向かう電車に乗り換えた後で少し歩いて港で島へ行くフェリーに乗り込んだ。
相当な交通費が掛かっていることで微笑みを浮かべた匡導に対して祥子は眉尻を下げる。しっかり準備をしてきた彼に対して言葉通りの着の身着のまま、手持ちの金ではきっと新幹線などでは向かうことはできなかった。従者と主人、愛し合う男女、そう口では言いつつも結局、肝心なところで彼は大人なのだと思い知るばかりだった。
「……随分、手馴れておりますわね」
「そりゃァ、何度か来たことがある場所なんでね」
「此方に?」
「三角のこと、調べてたんですよ……俺としては不審な点が幾つかあって」
「……気づきませんでしたわ」
祥子が外へと出るともう既に島が見えてきていた。幼少期、夏休みに連れて行ってもらった記憶が甦る。初華と虫取りをしたこと、色々な話をしたこと、アイドルになって東京に行くと底抜けに明るい笑みを浮かべた少女との思い出、東京で再会してからの彼女のことと、祖父が口にした「初音」という名前の真実、全ての答えがこの島にあるのだと信じて祥子は山の上にある別荘を見上げた。
「なに? 匡導が?」
「捜索の結果、烏森様の車が新横浜駅で発見されたようでして、そこから先の行方は……」
「……そうか」
豊川定治はそれを聞いて、彼らが別荘へ向かっていることを察した。初音に会って、ことの真相を訊こうと言うのだろうと。匡導が付いているのは、自分で話すのではなく初音本人から直接訊くことが必要だと考えているだろうということも。
衝動的で意味のない、孫娘への嘆息、そして何処か律儀で理屈っぽく、融通が利かないばかりか時折子どもっぽく振舞うその従者への落胆、定治の一言にはそれが含まれていた。
アニメ祥子の描写だとおそらく高速バスですので待ち時間なくても12時間近くかかりますが、新幹線→マリンライナーですと5時間以内で小豆島ですわ、新幹線クソ早ェですわ~!