Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
匡導との逃避行の末、遂に幼少期以来の小豆島へと降り立った祥子が、少し伸びをする。未だ雨降る曇天の空ではあったがスマホで調べた天気予報によると明日は午後から晴れるということでほっとしていた。
「今日は遅くなったし、ここで一泊しようか」
「そうですわね、日を改めますわ……というか」
「はい?」
「もう予約しておりますわよね? 新幹線に乗っている時に」
「そりゃァ、飛び込みよりはマシでしょうからね」
港付近には幾つかの宿泊施設があり、匡導と祥子はそこで夜を明かすことになった。苦痛な旅路ではなかったものの、それでも座っている時間が長かったこともあり、部屋に入った祥子はもう一度だけ腕を上げて背筋を伸ばしていく。
「足、見せて」
「……ええ」
「歩き方に違和感があったけど、応急処置じゃこんなものか」
「匡導がいなかったら、今頃足はもっとボロボロですわ」
ベッドに腰掛け、走った上に転んでしまったせいで出来た靴擦れや擦りむきを匡導に見せる。スカートであるためしゃがんだ彼の視線を気にして僅かに裾を引っ張り、膝に手を置きつつ僅かに頬を染めた。
「コインランドリーもあるし、ドロドロの服はなんとかなりそうだね」
「何から何まで……匡導には感謝しかありませんわ」
「いいって、ほらシャワー浴びておいで」
裸体を晒したことがあるどころの騒ぎではない関係ではあるが、それはそれとして彼に下着を含めた全ての衣服をコインランドリーに運ばれるというのには抵抗があったものの、雨の滑走路を走ったせいで大判のタオルだけではどうにもならない程に衣服は濡れていたし、汚れていたこともあり任せることにした。
彼は近くにコンビニもあるから、ついでに俺が色々買ってくる、と言って部屋を出ていってしまったことで、簡単に身体を洗った祥子は一人で取り残されていた。
「おかえりなさい……匡導」
「ただいま、ってなんか怒ってる?」
「ええ、
「あ、あァ……ごめん、勝手に漁った」
「見れば解りますわ」
祥子の怒りの原因は彼が用意してくれた部屋着についてだった。彼の家に幾つかの下着類等、アパートでは使わないものを置いていったのは事実だったが匡導が持ってきた袋の中から下着と彼が普段部屋で着ているプルオーバーのパーカーを身に着けさせられていた。
「マシなのを選んだつもりなんだけど」
「そういう問題では……はぁ」
「さ、祥子?」
「……わたくしは、これからどうすれば」
だが羞恥心から来る怒りも、ベッドに寝転がり冷静になってしまうと、祖父に逆らってしまったこと、こんな無茶をして一体何が変わるのかという気持ちが身体的な疲労と同時に襲ってくる。
こんなことをして、初華が戻ってくる保証もない。今の行動全てが自分の我儘で、匡導も初華も「Ave Mujica」も、祖父ですら振り回しているだけの子どもだと俯瞰してしまう。
「勢いに任せて、こんなところに来て……自分一人では何もできていないというのに」
「そうだね、祥子一人でここまで来られたかどうか、怪しい、というか十中八九無理だよ」
「……ええ」
ここから先もレンタカーで移動する予定、という時点で金銭が足りていても詰んでいる。あまりに無謀で、無策すぎる祥子を匡導がサポートすることで漸く、汚れた服の洗濯と足の手当ということが出来る程には、無茶な作戦なのだから。
「そうだとしても、わたくしは初華に……初華から直接訊かなければいけないことが沢山ありますわ」
「……うん」
「その後で、わたくしが納得したのなら……スイスでも何処へでも、行ってやりますわ」
匡導はそんな祥子の言葉に少しだけ微笑み、隣のベッドに寝転んだ。考えることが多く、纏まらないうちに眠気が来るものの、それが余計に彼の思考から迷いを消していた。
──もう、自分の肚は決まっている。今更吐いた唾を飲み込んでまで守りたいものなど、何処にもないのだから。
「……おやすみ、祥子」
「ええ、おやすみ……匡導」
家から遠い地、ホテルの慣れないベッドでの一泊、そんな非日常感を祥子は楽しむ余裕はなかった。出来るならば、もっと何にも追われていない、何も目的もなくただ二人で手を繋いで、見たいものや食べたいものに目を輝かせるような非日常を楽しみたかった、という後悔だけが積もっていくだけだった。
──そして翌朝、祥子は彼がコインランドリーで洗ってくれた衣服に身を包み、紅茶を飲んでいた。此処まで来て、祖父から連絡がない以上はもう追手が来ることもない、という結論に至ったことで、焦る必要がないと判断していた。
「体制も立て直せたし、出発しようか」
頷き、カップを置いて立ち上がる。チェックアウトを済ませ、レンタカーを借り、乗り馴れない車に少し苦戦しながらも匡導は祥子の記憶とナビを頼りに道を進んでいく。
この小さな島は、だが瀬戸内海では二番目に大きな島、当然人口もそれなりに居り発展はしている。だがその人口も港付近に密集しているため山の方へ向かうにつれ、段々と大きな民家ばかりになっていく。
「俺はずっと都会暮らしだから思うことかもしれないけど、人って何処にでも住んでるんだな」
「……わたくしたちは、恵まれてるから思うだけですわ」
「そうだよな」
言外に住みにくそうだという感想を隠した匡導の言葉に、祥子は首を横に振った。初華のことを想っての否定に、匡導は息を吐いて運転に集中していく。彼女の頭の中では常に初華のことが巡っている。疑問だらけで、思考を幾ら巡らせても解消なんて出来ないと解っている。
──彼女がどんな気持ちで此処で暮らしていたのか、どんな気持ちで上京したのか、どんな気持ちで「Ave Mujica」の誘いを受けたのか。解っていても、考えることを止めることはできなかった。
「着きましたわね」
「あァ」
「ここに初華が……」
車で走り続けて漸く、祥子にとっては懐かしい、幼い頃のままの景色に辿り着いた。車を停めに行った匡導に先んじて門を通った彼女がコテージを見つめる。幼い頃に見つめたものよりずっと小さく感じるその小屋と、そして初華と出逢った時のことを考えているとそんな彼女を呼ぶ声がした。
「さき、ちゃん?」
「初華! よかった……初華!?」
振り返ると初華が庭に咲いたバラの手入れをしていた。漸く会えたことに安堵した祥子だったが会ってはいけないと父、定治に言いつけられていた彼女は思わずといった様子で駆け出していく。
「……初音、さん?」
「……どうして?」
──だが、その足も本当の名前を呼ばれてしまえば止まるしかない。知られたくなかった過去を、もう彼女には知られてしまっているのかもしれないという恐怖が足を止めた。
事情は、もう定治かそれとも何かしらで連絡を取った匡導から聞いているのではないか、そう逡巡した。
「匡導から、貴女は此処の管理人になったと聞きましたわ」
「やっぱり、会えたんだね」
「ええ……此処にも連れてきてもらいましたわ」
「……さきちゃん、もう帰った方がいいよ、私と会わない方が──」
「──帰りませんわ……帰りません」
祥子の決意、蕾のバラのような気高さと未熟さを併せ持った強い立ち振る舞い、初華にもう一度会ったことで祥子の身体はしっかりと、彼女へと向いていた。
此処まで来た以上、簡単に引き下がることなど出来はしないのだから。
「どうしてお返事下さらなかったの? お祖父様の言いつけ?」
「……ううん」
コテージに上がった祥子はソファに座り、ゆっくりと、優しい声音で訊ねる。今から自分が訊ねること全てが、きっと「三角初華」にとって地雷となりえることを察知し、慎重に、だが例えそれを踏んだとしてもまっすぐに。
「初音さんは……お祖父様とどういう関係ですの?」
「……烏森さんから、訊いてないの?」
「貴女から直接お訊きしたくて……此処まで来ましたわ」
知っている筈なのに、来ている筈なのにどういう訳か一向に姿を見せない彼から何も知らされていない、それそのものが祥子の固い意志だと知った初華は諦めたように素直に、正直に答えていく。自分と祥子の関係が血縁上は叔母姪だということ、即ち自分が豊川定治の実子だということ。
「──お祖父様の、娘?」
「うん、お母さんが此処の管理人をしてた、私が生まれて辞めたからさきちゃんは会ったことはないよね?」
「隠し子、ということ……?」
「戸籍上は他人だから、豊川の相続順は侵されないよ」
「そんな話、してませんわ」
身内の不祥事という事実に驚愕すると同時に、納得すら出来た。匡導が祥子から遠ざけられたのも、その事実を自分に明かしてしまうリスクがあるというのが原因の一端かもしれないというところまで思い至った。
「貴女は、初音さん……ですのよね? 初華というのは、所謂、偽名?」
万が一、豊川初音という名前で出回ればそれはスキャンダル以外の何者でもない。それを隠すため三角初華と名乗ることで豊川とは無関係という体裁を整えていたのかという疑問を投げかける。幼い頃、彼女は確かに「三角初華」と名乗ったのだから少なくとも小さな頃からずっとそうだったのか、本当の名前を捨てさせられたのかと。
──だが初音にとってその質問は、祥子には絶対に知られたくなかった秘密に触れる内容でもあった。
「私の……妹の、名前……」
「──っ!?」
「私より活発で、虫取りが好きで、アイドルに成りたかったのが本物の、初華」
俯き、躊躇いながらの真実に祥子は目を見開いた。幼い頃の記憶の中にいた初華は、初音ではなく妹の三角初華であり、今此処に居る人物ではないという真実には驚くばかりだった。
それこそが違和感の正体だった。記憶の中よりも随分と大人しく控えめになったのは成長し女性らしくなったからだと、そう思っていた。少なくとも豊川祥子は淑女としての振舞を身に着けつつも幼少期はお転婆で、それこそ初華と虫取りに興じるような天真爛漫な性格をしていたのだから。
「さきちゃんに会いたくて、初華のフリをしたんだ……ずっと嘘ついてて、ごめん……ごめんなさい……!」
だがそれこそが初音の罪だった。妹へのコンプレックスを拗らせて、妹に成れば祥子に堂々と会えるかもしれない、もう自分には豊川祥子しか家族としての繋がりがないのだという認知の歪みが引き起こした悲哀と悲劇、それが祥子の知っている三角初華を作りだした。
「これからも、このまま管理人をなさるの?」
「うん、住み込みでさせてもらえることになったから……学校も転校すると思う」
「それでいいんですの?」
「え……?」
「sumimiは? Ave Mujicaは?」
例え、初音がそれでいいとしても、それで全部が丸く収まるというわけではない。彼女はもう三角初華といて沢山の人間に関わっている。純田まなも「Ave Mujica」も、これまで関わったのは妹ではなく、初音なのだから。
だがそんな問いかけに、初音は目を伏せた。最初から長く続くとは思っていなかったという諦観を込めて。
「いつか、終わりが来るって解ってた……アイドルも、バンドも、見逃してもらえてただけ──明日終わるかも、今日かもって毎日怖かった、いっそなにもかも捨てて楽になりたいって思ったことも、あったけど……だめだった」
「──わたくしが、声を掛けてしまったから」
「違う! 嬉しかった……
自分は常に祥子にとって代替品でしかなかった。それは妹の初華であり「CRYCHIC」であり高松燈であり、烏森匡導の時もあった。いつも祥子が初音を求める時は誰かの代わりだった。その事実に祥子も気づいていたからこそ、二の句が継げずにいた。
「……嬉しかったんだ、さきちゃんに必要とされて、私が全部忘れさせてあげたかった」
それでも初音にとって祥子はたった一人、自分に好意を持って接してくれる血縁、家族だった。代替品だったとしても、偽物だったとしても、そうやって祥子に頼られて、好かれて嬉しいという気持ちは初音のものだったのだから。
「出来るわけないのに……嘘だらけの私が、敵う筈ないのに」
「うい……あっ」
思い出、というだけでも妹の初華、そして幼馴染の睦には勝てず、祥子が本当に求めていた心の叫びには届かない。そして、彼女のプライベートを支える匡導に対抗しようとも勝てるわけがない。どれだけ周囲が引き離そうとも離すことはできない真に愛し合っているということを、嘘つきだからこそ初音は感じ取っていたし、知っていた。
──気遣って祥子が咄嗟に自分を呼ぶ名前ですら、妹のもの、それが初音の真実だった。
「一日経ちましたけど、今どちらですか?」
「目的地着いたよ、今三角初華と祥子が話してる、多分」
「多分……ってまさか、タバコ吸ってますね? 緊張感ないんですか貴方」
「お言葉ですがね八幡さん、俺があの二人に割って入るのは野暮でしょ、まァ明日の練習には間に合うよ」
「……信用して、いいんですね?」
「お前の信用してください、よりはずっと信頼できるよ、なんせ俺のお嬢だからな」
「誰が貴方のですか……というか、貴方も大概ですよ」
コテージに絶対に顔を出さない匡導は、少しでも観光気分を味わおうと高い山から見た夕焼けと、東京では見られないであろう風景を眺めつつ、せっついてくる海鈴を宥める役割を連絡係として全うしていた。
話が長引くと、朝までに帰れる保証はないという言葉は明かさないまま。
本編より代替先が増えているためより可哀想ですわね初華は。
そして再結成時にマネジメントコンビを結成したため打ち解けた様子の匡導と海鈴、元々そこまで相性は悪くありませんわ