Mare Inbrium   作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ

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穏やかな方は誰一人おりませんわ~!

投稿するのをすっかり忘れておりましたわ~! 申し訳ありませんでしたわ!


四章Ⅲ:胸中

 三角初華──初音と再び会い、そして現実を直視した祥子は一瞬だけ痛みを堪えるような顔をした。剥がれた仮面の奥にあった、初音の紛れもない真実の顔、祥子が知らなかった、知ろうともしなかった真実は、彼女が想像していたよりもずっと悍ましく、痛ましいものだった。

 

「……誰しも、秘密の一つや二つ持ってますわ、それを全て共有していなくても裏切ってるなんて思わない」

 

 ──だからと言って、諦めるという選択肢はなかった。初音は今、暗闇の底にいる。水没した静寂の海の底で膝を抱えて蹲っている。()()()()()()()()()()()と先程、宣言した以上は祥子に退路など最初から存在しない。

 

「わたくしだって」

「──知ってる」

「え?」

「さきちゃんとお父さんとどういう生活をしていたか、なんで烏森さんが羽丘の教師になったのか……()()()()()()()

 

 だが、最後まで打ち明けることのなかった秘密すら、初華が知っていたことに祥子は息を呑んだ。匡導との関係よりもずっと秘密にしていた、あの惨めで何度、父を恨んだか、顔を曇らせたか解らないあの苦痛の日々を知られていること、そして父が貶められたのは初華を豊川に呼ぼうとしていたことが発端だったということは、彼女には到底受け止めることのできない、どうすることもできない事実だった。

 ──いつか父をもう一度、祖父を見返して豊川の家に堂々と帰りたい。そんな祥子の眩いまでの理想は、一生を掛けても届かないところにあったのだから。

 

「……最後の便だよ?」

「ねぇ、来てくださらない?」

 

 夕暮れの色が濃くなっていき、汽笛が物悲しく響き渡る。結局、匡導は最後まで介入するつもりがない、彼は「豊川」の人間だと認識されている以上居ても初華を警戒させるだけだと知っていたからだが。

 

「さきちゃん、さきちゃん! あの、港は……?」

 

 来てほしいと外に出たものの、港とはまるで違う方向へ歩いて行ってしまったため、初華は困惑しながらも後を着いていく。

 登山道を歩き、辿り着いた先には大きな広場があった。そのベンチに腰掛けながら、祥子は昔を懐かしんでいた。

 

「別の場所みたいですわね」

「あ……汚いよ?」

「構いませんわ、また洗えばいいだけですもの」

「……虫いるよ?」

「虫、苦手ですの?」

 

 初音がずっと虫を苦手そうにしていたのには薄々気づいていた。とはいえ幼少期に虫取りをしていた人間が大人になってその虫に触れることを躊躇うということは往々にしてあり得る話であるため、祥子もそんなものかと思っていたのだが、彼女の反応は()()()()()()()()()()()()()()()()反応だった。

 

「……うん」

「虫取りの時、大きな蜘蛛に驚いて叫んだのは?」

「私じゃない」

「浜辺で大きな貝殻を拾ったのは?」

「違う」

「薔薇の木陰でクッキーを食べたのは?」

「ううん」

「それじゃあ……」

「初華と遊んだ記憶は()()()()初華のだよ」

 

 宝物のような、初華との幼い思い出が一つ一つ否定されていく。明るくて少年のような、夏の輝きに相応しい無邪気さを持つ初華、それは妹の、本当の三角初華だった。

 だが初音の言葉に引っ掛かりを覚えた祥子はベンチに寝転びながら彼女を見る。

 

「ううん、全部……初華の、私じゃない」

 

 彼女はそう言い直し、立ち上がった。まだ太陽は沈みきらず、星は見えない。

 今まであると思っていた自分と彼女の繋がりが悉く否定され、祥子は眉根を寄せた。まるで、他人のような感覚さえあった。

 諦めたように笑う初華を連れていくための言葉がどんどんと無くなっていく。

 

「この島も悪くないんだ、星がキレイだから……さきちゃんと出逢えて、少しでも一緒に居られて、すごく、すごく幸せだった……幸せなんて言える立場じゃないけど、この思い出があるから生きていけると思う、だから」

 

 彼女はもう、生きるのを諦めている。自分勝手に、全てを捨てて一人に成ろうとしている。残りの全てを一人でなんとかしようとしている。

 ──それは、嘗ての自分と重なった。自分勝手に「CRYCHIC」を捨て、そしてそれでも縋ってくれた長崎そよを、大切だった仲間を手ひどく罵った。自分都合の言葉を振り回し、傷つけた。

 

「──ご自分のことばかりですのね」

 

 だからこそ、同じ言葉を使う。あの頃の自分も、そして今の初華も、自分のことばかり考えるから上手くいかない。他人と関わる以上、どうしても秘密を抱えなければいけないことがある、本音と建前を別けなければならない時がある。仮面を被らねば、人と人は摩擦を起こして生きていけなくなってしまう。

 

「でも、解ったことがありますわ……一緒に星を観ましたわね、あれは貴女?」

「──っ!」

「やっぱり、星が好きなのは初音ね」

 

 言葉の中で、東京で再会してからの短い期間で初音について解っていたこと、一度部屋に泊まった時に気付いたこと、それは彼女が天体観測を趣味にしていることだった。東京ではキレイに星が見えないこともあってよくプラネタリウムに通っていること、だから理解することが出来た。

 だが彼女にとっては忘れてほしかった。あの時の記憶も、全て初華とのものだと思ってほしかった。なのに祥子は、気付いてしまった。

 顔を歪めて後退る。そんな彼女を、祥子は放ってはおけない。独りで死のうとする人間を、彼女は放ってはおけない。

 

「さきちゃん……?」

「初音、帰りますわよ!」

「え、どこに?」

「東京に決まってますわ! 近道を使えばフェリーに間に合いますわ!」

「えぇ、獣道だよ?」

 

 手を取って、今度こそ離さないとしっかりと握った。幼少の記憶を頼りに港まで。

 その時の祥子は、かつての「CRYCHIC」に居た時の輝きを持った表情をしていた。闇から仲間を救うためには、今の自分ではダメなのだと痛感していた。

 

「ご報告いたします、今フェリーに向かいましたので、早朝には到着すると思います」

「……初音も、か」

「ええ」

「匡導」

「はい、()()

 

 二人のやりとりを盗聴していた匡導は、先回りをした港で豊川定治に最後の報告をしていた。逃避行を続けながら、匡導は彼にずっと報告をしていた。コインランドリーに居る間に、買い物に行く時、チェックアウトをしてからも祥子が居なくなったタイミングで必ず。

 

「これで本当に最後だ、もう監視として傍にいなくていい」

「はい……」

「その代わり、これからも守ってやってほしい」

「それは、命令でしょうか」

「いや、儂の勝手な願いだ、相手が豊川である以上、お前だけでは難しい」

 

 電話口にあったのは婿に来た時に抱いた豊川家への恐怖、忘れ得ぬことはない恐怖だった。

 会長に成った時も、跡継ぎとして男児が出来なかった時も、妻が早逝した時も、挙句妻の忘れ形見である娘が愛した義息子を貶め、孫にまで手を伸ばす、他者の人生を踏みにじることになんの苦痛も躊躇いもない、化け物のように感じていた。

 

「──勝手な解釈ですが、ご令孫はそこまで弱いヒトではないと思います」

「なに……?」

 

 だがその上で、匡導はきっぱりと、烏森匡導として言葉を紡いでいく。確かに豊川家は恐ろしい存在だろう。はっきり言って関わり合いになりたくないとすら思っている。

 けれど祥子はそれに負けることはないという信頼を持っていた。今まで何度踏まれ、折られても立ち直ろうとまっすぐに前を向いてきた祥子を抑えつけられたのは、彼女が子どもだったからだ。世間知らずで、豊川という恵まれた家に生まれ、祝福され、愛されてきた。子どもであることを許されてきたからだった。

 

「では、任務は完了致しましたので……私は、俺は彼女と共に生きていこうと思います」

「それは……儂に祥子との交際を認めろと?」

「いえ、それは……既に清告さんから許可は頂いていますので」

「なんだと!」

 

 このサプライズには流石の彼も声を荒げるのか、と匡導は苦笑する。

 祥子との接近を禁止された間に匡導がやっていたことは「Ave Mujica」を通じて祥子の現状確認と作戦立案、情報収集、豊川定治に接触して万が一の場合は監視役として彼の下に就くという交渉、そして赤羽のアパートで清告が知らない彼女の話を、そして自分が彼女とどういう関係なのかを全て打ち明けていた。

 

「さきちゃん、烏森さんは?」

「はぁ、はぁ……匡導なら心配ありませんわ、きっと……」

「祥子、ギリギリセーフだな」

「ほら、言ったでしょう?」

 

 そうしてフェリー乗り場に辿り着いた祥子と初華の前を歩く匡導に、初華は苦笑する。二人の信頼関係はこんなにも強いのだと、言葉にせずともまるで伝わっているかのような関係を凄いと思うと同時に胸が締め付けられるようだった。

 

「はい、食べ物買っといたから」

「流石ですわね」

「到着は朝になるからな」

「さきちゃん……」

「でしたら初音も、今のうちにお腹に入れておいたほうがよろしくてよ」

 

 フェリーに乗り込み、おにぎりやパン、サンドイッチが入ったビニール袋を見せて祥子はその中から一つを取り出して食べ始める。

 少し離れてサンドイッチを食べ始めた匡導を見送りながら、初華は不安そうな顔をして彼女を呼んだ。

 

「さきちゃん、やっぱりいけないよ」

「無理やり連れてこられたってわたくしのせいにすればいいですわ」

「そんな……ダメだよ」

「……わたくしたちは運命共同体、貴女の人生、くださったのではなくて?」

「さきちゃんを裏切ってたんだよ? 私がさきちゃんを……」

 

 初華の視線がチラリと匡導に向けられる。その様子に祥子はやはり彼と豊川の繋がりがあるせいでぎくしゃくしているのだとすぐに理解出来た。

 だが初華も匡導も、彼女に人生を捧げたもの同士、すぐにとはいかなくてもせめて他のメンバーくらいは打ち解けてほしいと考えていた。

 

「……なかったことにしません?」

「え、なにを……?」

「貴女とわたくし、そして……匡導も含めた全てを取り巻く、不幸と後悔、しがらみの全て」

「それって」

「全てを忘れて、なかったことにするんですわ、そうすれば何にも囚われない」

「そんなこと……できないよ、許されない」

 

 沈んだ顔をした初華に眉を上げた祥子は匡導へと視線を送り、その表情をさらに険しくした。彼もまた、同じことを考えていたのだから。

 起こったことをなかったことにはできない。記憶を操作でもしない限り、知ったこと、体験したこと、思ったことを忘れることはできない。少なくとも初華と祥子の二人の間にあるものを忘却することは不可能だった。

 

「さきちゃん」

「祥子……?」

 

 悲しみに沈む初華、沈黙を続ける匡導に、そして幾ら足搔いても、足掻いても蜘蛛の糸のように張り付いてくる自分を取り巻く運命に対して、祥子はかつて歩道橋で叫んだように、誰にも届かない昏い海に向かって、心から叫んだ。

 

「いい加減、うんざりですわ──!」

 

 祥子の心の叫びは海に溶けていく、だが確実に二人の耳に届いていた。ずっとずっと隠してきた、祥子の内面、本当の彼女が重たい鉄面皮を破って顔を出していた。

 子どもで、我儘で、責任とか役割なんて関係ない、只一人の少女の人間としての叫びは続いていく。

 

「誰が許さないの!? 誰が決めたの!? どうして言うことを聞かなくちゃいけないの!? 初音も匡導も二人して!」

 

 身を乗り出して、今にも落ちてしまいそうになる程に前のめりになっても、叫ぶことはやめない。

 これまで抗ってきた全てに、立ち向かってきた、前を向いてきた全てに向かって祥子は遣る瀬無い、何が出来るわけでもないが故に、叫んでいた。

 

「この……バカ──ッ!」

 

 つま先立ちが、ついに足が浮いてしまったのを初華が慌てて後ろから抱き着くことで押しとどめた。匡導は、それを止めることは出来ない。もうとっくの昔に諦めてしまったものを吐き出している祥子に近づくことすらできずにいた。

 

「さきちゃん……」

「なんですの? わたくし、怒っているんですわ、わたくしの覚悟を……甘く見ないでちょうだい!」

「……うん」

 

 二人のやり取りに、匡導もまた手すりに腕を預けて息を吐き出していた。彼にはそれが精一杯、祥子のように叫ぶことも、初華のように受け止めることもできない。ただ、匡導は秋の夜空に声にならない、できない本音を打ち明けることしかできなかった。

 

「──苦労することになるぞ、匡導」

「豊川家、ですか」

「祥子は未成年だ、知られれば必ず、お前の教師人生に悪影響になる」

「……はい」

 

 電話の最後に掛けられた定治の言葉は悪辣ではない、むしろ優しさに似たものだった。教師に成りたかったことを知っていて、そしてそれを利用してしまった後ろめたさから、彼は祥子との関係を知って後、今日まで黙っていた。護ってくれるならば、それでいいと見逃していた。だが豊川家はそこまで温かみがあるわけではない、七つ年が離れていて、祥子が未成年で、匡導が教師で、飼い犬が主人と主従を越えた関係を築いていたなどと知られれば、どこにも居場所がなくなってしまう。定治はそれを忠告していた。

 

「すみません会長……俺は、約束してしまいました。祥子と地獄だろうと、なんだろうと何処までも傍にいると」

「必ず、上手くいかなくなる」

「ええ、ですから──」

 

 ──いずれ運命が、どうしようもなく二人を引き裂くのだというのならせめてその時までは、甘い夢に浸っていたい。

 定治はそれ以上の言葉は不要だと判断し、最後に「解った」とだけ告げて、電話を切ったのだった。

 




わたくしの解釈ではありますが、豊川定治は決して悪人ではなく、ただ豊川という恐怖の家に翻弄される憐れな方として描いておりますわ。
まぁあれだけ匡導の家に外泊しているんですもの、気付いていない筈ありませんわね。
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