Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
既に新幹線で帰れなくなっているため、もう一泊するという手を提案した匡導だったが、祥子はそれを否定する。高速バスという手があることは祥子も理解していたようで、三人分の席が空いていたそれに乗り込んだ。彼は離れたところで席を倒し、真っ暗なバスの車内で目を閉じることなく物思いに耽っていた。
「そうかァ、連れ戻せそうか」
「あァ、ごめん祖父さん、こんな事後報告になって」
「いやいや、いいってことよ……匡坊の思う通りでな」
「俺の、思う?」
「そうさ、誰かの期待に応えんでいい、匡坊の進みてェ方へ行きゃァいい」
祖父、恒彦に相談していた匡導はそこで言葉を止めた。進みたい方、誰かに望まれた自分に成ることばかりを考えていた彼にとってそれはどんな難題よりも、難しく感じられた。
まるで暗雲が霧となって目の前にあるかのような不安に襲われていた。
「教師になりてェ、って言った時とおんなじだ」
「……祥子の期待に応えただけだ、それも」
──匡導はわたくしの先生ですわ、なんでも知っていますもの!
かつてそう無邪気に笑う少女の言葉に踊らされ、目指した教師も今や平日だというのに何日も休んでいるのが現状だった。結局、自分がやりたいことだと思っていたものも全て、祥子に期待されていた自分だったということに変わりがないと匡導は首を横に振る。
「期待に応える、それも人間さな」
「俺は空っぽだ、誰かに発条を巻いてもらわなきゃ動かねェ、糸に吊られてなきゃ立つこともままならねェ器だ」
だから、少しでも人間らしい、少なくとも人間に見えるようにと自分を偽り続けた。まるで意思があるかのように、まるで自立しているかのように。
それでいいとさえ思っていた匡導が揺れてるのは、目の前で同じように糸に吊られ、悲劇を演じ続ける
「匡導」
「……祥子、三角は」
「寝ていますわ」
真夜中の高速道路、そのサービスエリアでの休憩時間で、結局寝付けなかった匡導がトイレから戻るとそこに祥子が立っていた。車が風を切る音だけが響くその夜闇に互いが互いを呼ぶ声が溶けていく。
「……祥子は、これからどうするんだ? 豊川には戻らないつもりみたいだけど」
「わたくしは──」
そこで、祥子は言葉を切った。当たり前のように、匡導は自分を受け入れてくれると思い込んでいた。かつてのように、あの部屋で毎日を過ごしていられると。
──だが、匡導の言葉にはそれが当たり前であるという認識がないことに気付いた。同時に、初華のことが頭を過った。彼女と共に暮らすという選択肢、それを匡導は提示していた。
「少し、考えますわ」
戸惑い、動揺、それを隠してなんとか呟いた。
二人はいつか運命が引き裂くことになる。だが祥子はそれをまだ先だと、少なくとも高校を卒業するくらいまでは猶予があると思っていた。そう思うことでその後のことを考えないようにしてきた。だが今、その運命の時が祥子の目の前にまで迫ってきていることを悟った。
「匡導……」
彼の背中に手を伸ばそうとして、まるで弾かれたように手をひっこめる。匡導の傍にいることを選べば、運命を先延ばしに出来るのだろうか。
もう晴れているというのに、祥子の目の前は雨が降り続けていた。積もりに積もった雨が祥子を海の底に沈め、嗚咽さえ彼には届かなかった。
まだ夜が明けないうち、車で豊川邸前にまで到着した祥子は閉まったままの門をよじ登っていく。明らかな不法侵入ではあるが、構うことなく祥子は自分の部屋に荷物を取りに行く。まだ、何処に行くかまで決めかねてはいるが、とにかく今は一刻も豊川から出ていくことを選んでいた。
「これ、全部?」
「入るだけでいいですわ……」
荷物を纏めようとしたところで電気が点けられ、入口へと向き直る。
そこには豊川定治の姿があった。完全に帰ってくる瞬間を待ち構えられていた、という事実に祥子は彼の顔を思い浮かべた。
「コソ泥のような真似を」
「荷物を取りに来ただけですわ」
「……初音、祥子を連れてきた時点でお前の役目は終わりだ」
「え……?」
「匡導から何も聞いていないのか」
「何を……?」
最悪の可能性、それに思い至り祥子は愕然とし、初華も表情を変えた。祥子を初華の元へ送り届け、そしてまた豊川邸に送り届けた。祥子の意思に反する形ではなく、彼女の意思を尊重した上で豊川邸に戻してみせた。
烏森匡導という存在を使って祥子を完全にコントロールしていた、それはつまり彼は祖父と繋がっていたのだという証拠だった。
「……ん?」
「──さきちゃんの、傍にいさせてください!」
「あ……」
「貴方に、豊川の家に迷惑は──!」
「あの男と同じ轍を踏むつもりか!」
それを知った初華は、祥子を守るために実父に反抗してみせた。震える手を隠すことも出来ずに、けれど恐怖よりも家族を守るための勇気を振り絞った一言、それを聞いた祥子もまた覚悟が決まった。
「今すぐ出ていけ、金輪際、豊川の敷居を跨いではならん」
「豊川、豊川って……そんなに偉いんですか? わたくしたちが何をしたって言うんですの? 到底受け入れられません!」
「お前は豊川の家の恐ろしさを……」
「──怖気づいているのはお祖父様でしょ!」
豊川の恐ろしさ、知らないのは事実だがそれに怯えて縮こまっているのはもう御免だと、祥子は運命に抗うことを選んでいく。
許されないとしても、運命が否定しようとも、祥子には言えずにいた一言を今度こそ伝えるために。
「わたくしも出ていきます、もうお祖父様の言いなりにはなりません、匡導にも命令なんてさせません──彼と二人で暮らします!」
「……さきちゃん」
「お父様のこと、よろしくお願いします!」
そう言って、祥子は最低限の荷物だけを持って出ていく。
例えこの選択が地獄の入口だったとしても、最果ての、地獄の底だったとしても彼と共に生きたいという気持ちはもう止めることはできなかった。匡導と一緒ならば地獄だって構わないのだと。
「ふふふふ、お祖父様の顔ったら、鳩に豆鉄砲とはまさにアレですわ、うふふ」
「……うん」
「……ごめんなさい、初音」
笑みから一転、祥子は眉を下げた。彼女は祥子と共に暮らすことを提案していた。祥子と二人で生きていくために勇気を振り絞っていた。けれど祥子はどうしても匡導から離れることは出来ない、彼の何も言わない背中を向けたとしても、その背中に縋ることを止めることはできなかった。彼の温もりだけは忘れることはできなかった。
「ん……死んじゃうかと思った」
「わたくしも」
「──っわぁ! む、虫……!」
「あぁ、虫ですの?」
「うわぁ……」
「ちょっと初音?」
小さな蜘蛛に怯える初華を揶揄って、追いかける祥子、二人の少女のような、まるで足りなかった幼い思い出をやり直すかのようなやりとりを、彼女がずっと大切にしていたピアノと母から貰った人形がそっと見守っているようだった。
「……で、なんで二人してびしょ濡れなの?」
「え、えっと」
「少し、はしゃぎすぎましたわ」
「まァ、いいけど……送っていくよ三角」
「はい」
後部座席に乗り込んだ祥子と初華はずっと、二人で手を繋いでいた。もう二度と、二度と離すまいと、何が相手だろうと無慈悲なこの世界で生き抜くための覚悟を、祥子はその手で表していた。
「さきちゃん、あのね」
「ええ」
「……烏森さんとケンカしたら、いつでも泊まりに来てね」
「覚えておきますわ」
だが、マンションの前で初華はそんな言葉を残し、するりと手を離した。本当はずっと傍に居て欲しい。いつか来る終わりの時まで、その一秒を永遠に感じるまで味わいたい、そう口に出したい気持ちを堪えて、けれど彼が居なくなる時がくればその時こそ自分の番なのだという決意を込めた。
──エントランスへと歩いていった彼女が、後ろ髪を引かれたようにふと後ろを振り返ると、まるで当たり前のように助手席へと移動する祥子の姿に、初華はこれでいいのだと微笑んだ。微笑むことが出来た。
「このベッドも、とても久しぶりに感じますわね」
「ここ最近、色々あったからなァ」
「本当に」
土や雨で汚れた服を洗濯し、風呂でゆっくりと身体を温めた祥子と匡導はベッドに転がり、漸く一連の騒動が落ち着いたことを再認識していた。
無論、終わったわけではないことも理解した上で、それでも束の間の平穏を柔らかな寝具に寝そべり目を閉じた。
「よかったよ」
「……よかった、ですの?」
「いや、現状はよくねェってのは解ってるよ。俺と祥子の関係も、ムジカのことも、勿論三角のことも」
「ええ」
「けど、それでも……祥子が此処に居る。手の届くところに、居てくれることに安堵したんだ」
「……匡導」
──彼の言葉に、祥子は目頭が少しだけ熱くなっていた。静寂の仮面を着けたまま、ずっと大人としての建前でしか言葉を紡いできた彼が、やっとその柵から抜けだしたことで少年のような素直な感情を表に出した。
祥子に触れる、愛することを何よりも望む、人間がそこにはいた。
「地獄まで一緒だと、言った筈ですわ」
「何度もね」
「貴方も、離れることは許しませんわ……匡導、貴方はわたくしの──」
「──ん?」
そこで言葉を切ったのは、匡導のスマホから電話を知らせる音が部屋に満ちたからだった。
彼がそれを確認し、少しだけ眉を寄せてから心底面倒そうな声音で応対する。そんなリアクションをする人物にあまり心当たりがなかった祥子は不思議そうな顔をした。
「解ってる、今帰ってきたとこなんだよ……本当だよ、三角や祥子にも確認してみてくれれば本当だって解るだろ──全く」
「……どなた、ですの?」
「八幡海鈴だよ」
「八幡さん?」
「今日、練習があるから絶対来てください、ってさ」
「……忘れてましたわ、えぇ……これから?」
「サボるなら連絡入れておいた方がいいよ、首を長くしてたみたいだから……お茶淹れてくる」
祥子の体感では一日が終わるような疲労感なのだが、海鈴にとっての今日はなんの変哲もない平日、日常の始まりでしかない。そんな事実に祥子は表情を崩した。
だが、数日もの間ほぼ音信不通状態だった彼女たちにも言わなければならないことが沢山あって、それは早い方がいいと判断した祥子は上体を起こし、匡導の背中を見送った。
──運命に背を向けても、いつかこの温もりや優しさといった日々は終わりを告げることになる。まるで昨日までが全て夢の出来事だったかのように、目が覚める時が来る。
漂ってくる紅茶とコーヒーの香り、二人分の飲み物はそんな微睡みを否定されているようで、祥子は長い息を吐き呟いた。
「朝の香りですわね」
時を止めることはできない。事実は変わらない。自分の生まれを否定することは出来ても、自分が豊川祥子であり、彼が烏森匡導であり、二人の関係が世間的にも社会的にも否定されるべきものであるという事実からは目を背けることはできないのだから。
「祥子、朝ご飯も準備したけど……って、祥子」
「今行きますわ」
「……うん」
彼が顔を覗かせた時、そこには羽丘の制服に身を包んだ祥子の姿があった。それが答えなのだ、と理解した匡導はすれ違いながら教師としてのスーツをクローゼットから取り出した。何日も休んでしまっているため冷たい目で見られるとしても、それでも自分のもう一つの役割と、彼女が与えてくれた自分の夢を形にするために。
「お送りします、お嬢」
「ええ、お願いしますわ、烏森」
全てが元通りになるわけではない。二人の関係は春とは決定的に違ってしまった。二人を取り巻く環境も、大きく変わっていった。
八幡海鈴も、若葉睦も、祐天寺にゃむも、三角初華も、変わらざるを得ない状況にまで追い詰められた。
「おはようございます、千早さん、高松さん」
「おは……ようございます」
「あ~、不良教師だ~」
「色々ありましてね、先日は巻き込んでご迷惑をお掛けしました」
「そよりんにも謝っときなよ?」
「……肝に銘じておきます」
彼自身の人間関係も、当初の予定よりも大きく様変わりしていった。祥子との秘密を知る人間、彼が羽丘で教師をしている理由を知っている人間、それでいて積極的に口外することのない人間、知り合いには恵まれたと匡導は内心で思いつつも苦手な相手と連絡を取ることを余儀なくされたことで胃痛を感じていた。
「なんなら今から会ってく?」
「いや、これからムジカのミーティングがあるんだ……また今度」
「先生が?」
「もう無関係とか、言う必要もねェからな」
こうして、彼は新しい日常へと歩みを進めていく。羽丘の教師であり、豊川グループ会長の孫娘の従者として、そして誰にも知られることのない、音を発することさえない静寂の仮面を被ったとあるバンドの裏方として、運命が喇叭を鳴らすまで、前を向いて歩いていくのだった。
匡導と祥子の物語はここで一区切り、後はエピローグの一話で本編はおしまいとさせていただきますわ。新アニメの北欧編始まったら戻ってくるかもしれませんし、戻ってこないかもしれません。