Mare Inbrium   作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ

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特別篇ですわ~! 大分本編から時間が進んでいますので色々すっとばされていますわ~!


異聞Ⅰ:バレンタインデー&誕生日

 節分が終わる前後からショッピングモールやコンビニなど至るところでチョコレートが前面エンドに敷き詰められ、ショッピングモールや百貨店などではチョコレート専門のブースが設置される。

 聖人三人の祝祭が製菓会社の戦略によって姿を変えた、だがこの国ではもはや毎年恒例、当たり前となったイベントの雰囲気を、豊川祥子は昨年までならばあまり興味を抱くことはなかった。

 女性が男性に贈る、というのが発祥であるが故に贈る相手が特にいるわけではなく、また贈り合う友人も居るわけではなかったからであったのだが、今年の彼女は少し様子が違った。

 

「……祥?」

「ああ、睦」

「チョコ、買うの?」

 

 睦と二人で出かけ、彼女が席を外し戻ってきた際に何やら考え込むような表情でチョコレートを見つめる祥子を見かければそう問うのは自然だった。

 祥子はバレンタインに対して積極的ではない、友達は勿論親族、家族にも渡したことがない。

 それは彼女が本来ならば()()()だということが関係していた。

 

「……別に、買うというわけでは」

「匡に」

「睦はどうしますの?」

「私は、あげたい」

「……そう」

 

 兄のように慕い、そしてそれとは別の思慕の情を募らせている相手、烏森匡導の顔を思い出しながら睦は呟く。

 女性が男性にチョコレートを贈り、それによって想いを伝える日、それがバレンタインデーなのだから彼女の気持ちはありふれており、自然なものだった。それ故に祥子は顔を曇らせてしまった。彼女がチョコを見ていた理由もまた、烏森匡導という男を思い浮かべていたからだった。

 

「睦、スケジュールを空けておいて」

「……え?」

「匡導の為、というわけではないけれど……折角思い立ったのだから、手作りにすると致しますわ!」

「手作り……でも祥、料理とかしたことないんじゃ」

「いちいち言いますわね……けれど確かに、睦だってそうでしょう?」

「うん」

「ですから、こういう場合は作れる方に教えを乞うのが賢い判断ですわ」

「……にゃむ?」

「いいえ、もっと適任がいらっしゃいますわ!」

 

 善は急げ、とばかりに祥子はスマホを操作する。一時期は連絡を絶っていたのに都合がいい、と少し内心で自嘲してしまったものの、彼女が今更そんなことを気にするような人物ではないという打算が入った連絡、丁度相手もスマホを眺めていたのか二コール目には「もしもし?」という声が聞こえてきた。

 

「もしもし、わたくしですわ。ええ、折り入ってお願いがあるのですけれど……お暇でしたら羽沢珈琲店までいらしてくださると幸いですわ」

 

 楽しそうに電話をする祥子の背中を眺めながら睦は少しだけ、口角を上げた。

 そして、自分のスマホに表示されたメッセージを見て素早く返事をしていく。もうすぐバレンタインデー、それは女性がチョコレートを贈る甘くて暖かい日、同時にもう一つのイベントがあることを意味していた。

 ──そんなショッピングから二時間後、夕方の羽沢珈琲店に祥子と睦が入店すると店員の元気な「いらっしゃいませ!」という挨拶に頭を下げる。

 常連というわけではないのだが店員の小柄な彼女は二人の顔を見て誰と待ち合わせているのかを察して待ち合わせ相手の席を指してくれる。

 

「……急に呼び出しておいて、私結構待たされたんだけど」

「申し訳ありませんわ、匡導を呼ぶつもりでしたが、生憎お祖父様の遣い走りをさせられているみたいで、思っていたより時間を取られてしまいましたの」

「いいけど……それで? 頼み事って何?」

 

 待ち合わせ相手は、長崎そよ、かつては同じバンドを組んでいた仲間であり睦にとってはクラスメイトでもあった。

 バンドを組んでいた当時には決してしなかったであろう態度で迎えられたものの、要件を訊ねる時には既に祥子の知る彼女に戻っていた。

 

「実は、バレンタインで渡すチョコを手作りしたくて……作り方と、出来れば場所もお借りできないかと思い、連絡した次第ですわ」

「あのヒトに?」

「それだけではございません、そよは勿論、ムジカのメンバーや立希、燈にも」

「……今年は別に、作るつもりなかったんだけどなぁ、うん、いいよ」

 

 こうしてそよの家で祥子と睦はバレンタインを手作りすることになった。喜びの表情をして紅茶(ダージリン)を注文する祥子の目を盗んで、睦がそよに視線を送る。やや呆れ顔で、けれど彼女の表情には負の感情は一切見えなかった。

 そして数日後、昼前のそよの家にはエプロンと三角巾まできっちり装着した祥子、睦、そして椎名立希の姿があった。

 

「……で? なんで私まで」

「え~、だって燈ちゃんにチョコ、あげるんでしょ?」

「なっ、なんで……あげるつもりだけど!」

「なら折角なら手作り、したくない?」

「別に既製品でも、気持ちの問題だし」

「手作りの方が、気持ちは伝わりやすいんじゃないかなぁ?」

 

 どうやら一理あったようでうぐ、と声にならない声を発した。本来の立希であればこういったイベントごとには無関心そうな印象を受けるのだが、連絡をもらう前から同じバンドの高松燈に何を渡せばいいのか、と悩んでいたため、文句を言いつつもそよからの連絡は渡りに船だった。

 

「ってか祥子、バレンタインとか興味あったんだ」

「そうですわね、今まではそれほど興味はありませんでしたわ……けれど」

「匡のため」

「ああ……男のためにね」

「立希も、似たようなもの」

「はぁ?」

「はぁい、そこまで……喧嘩すると全員追い出すから」

 

 なんの因果か、それとも必然か「CRYCHIC」の燈を除いた四人によるチョコ作りは、お互いに言いたいことを言って、真剣に向き合って、順調に進んでいく。睦や祥子、立希もまたお菓子作りの経験こそ乏しいものの不器用なわけではないため、特に躓くことはなかった。

 

「でさ、そよりんってば私のこと無視したんだよ、ひどくない?」

「それを俺のところに愚痴るのはどういう了見でしょうか、千早さん?」

「だって、祥子ちゃんも関わってるっぽいし」

「祥子が?」

 

 その頃、走狗としての役割を終えた匡導は偶然会った千早愛音に捕まったことでくだらない愚痴を聞かされていた。

 もうすぐバレンタインデーだというのは把握していたが、まさか祥子が手作りに挑戦しているとは思いもしなかったことで思わず訊き返す。

 

「先生はもらえるかもね~」

「だろうね」

「うわ……否定しないじゃん」

「まァ、あんまりバレンタインにいい思い出もないけど」

「あ、分かった。家族くらいしかもらえたことないんでしょ?」

「そんなとこ、一つはみなみさんからだけど」

「自慢じゃん」

 

 家族ではないにしろ、家族ぐるみの付き合いがあった女優の森みなみからのチョコレート、ということで愛音の少し小馬鹿にしたような口調が一転して呆れ口調に変わった。

 とはいえ、そもそも森みなみに苦手意識のある匡導からすればそれも甘くもないし、自慢でもないエピソードなのだが、愛音の「チョコを貰えなかったから僻んでる」という煽りへのカウンターとしては十分な威力を発揮していた。

 

「結局、一緒に居るんだね」

「……急になんですの?」

「あの烏森ってひとと」

「……よくないことだとは解っていますわ」

 

 オーブンレンジを眺めていた睦と祥子の後ろでそよがそう呟く。幾ら始まりが歪でも、祥子にとって匡導が必要な存在だったとしても、彼が教師であり大人であることには変わりはない。世間的に言えば醜聞以外のなにものでもなく、本来なら関係を断ち切るか責任を取るために教師を辞めるなどの対応が必要なものだった。

 

「知ってる? 未成年と大人ってセックスしちゃダメなんだよ?」

「えっ」

「立希?」

「い、いや……マジの話?」

「立希ちゃん、知らないんだっけ」

 

 ストレートな物言いに怯んだのは立希だった。彼女からすれば匡導は教師でありつつ祥子や睦、Ave Mujicaのメンバーと面識のある、事務所の関係者くらいの認識だったためまさか身体の関係が祥子とあるとは全く考えておらず完全に不意打ちだった。

 そよからすれば睦、もっと言えばモーティスが全てを暴露していたため周知の事実という認識だったのだが、頬を朱色にしてしまった立希の反応に肩を竦めてそれいじょうの追及を諦めた。

 

「それでも……匡導はもはやわたくしの一部ですわ……居なくなるなんて、考えるのも嫌なくらいに」

「……祥」

「同棲してたんだっけ」

「はぁ!?」

「立希ちゃん、うるさいよ」

「いや、だって……羽丘の教師でしょ?」

「そうだけど、そもそも羽丘に来た理由が祥ちゃんなんだって」

「そよ……あまり他人に明かすのは」

「どういうこと?」

 

 咎めようとしたものの立希の圧が強くなったことで諦めて経緯を話してしまう。またもや睦がしなくていい補足をしたことで、少し話は脱線してしまうが概ね話し終えたところで眉を吊り上げていた彼女は苛立ちを強くしていく。そんな教師が羽丘に、しかも燈とも話す程度の関係になっているという事実が、立希には我慢できなかった。

 

「匡は、祥にしか興味がない」

「それはそれでムカつくんだけど」

「立希は……燈のことになるとめんどくさいですわね」

 

 それを皮切りにバタバタと騒がしくなるキッチンを、睦はあくまで無表情で、そよは何処か楽しそうに眺めていく。

 運命だと思っていた繋がり、轍がこの時間を作っていること。遠回りをしてしまったけれどこうして話ができることを噛み締めるように。

 

「──全く問題なく、特に何かあったこともなく、淡々とチョコ作りだけをしましたわ」

「そ、そうか……じゃあ遠慮なく」

 

 バレンタイン当日、いつものように羽丘の音楽室で朝いちばん、チョコを手渡された匡導は苦笑いをしながらも恭しく受け取ってみせる。

 睦に聞いた話とは随分違うな、と思いつつもおそらく指摘すると面倒なことになることは解り切っていたためそのままにしておく。

 

「流石に教師が授業前にチョコの匂いを漂わせるわけにはいかないか……家に帰ってから、ありがたくいただくよ」

「感想は、別になくてもよろしくてよ」

「んじゃ、俺からもプレゼントだ」

「……わたくしに?」

 

 当たり前のように小箱を出されて、祥子は面食らったように固まってしまう。

 勿論、自分が今日誕生日だということは解っていた。物心ついた時から常に、自分の誕生日はチョコレートの香りと共に訪れるのだから。

 だが解っていたとしても、匡導から誕生日を祝われるということに彼女は驚きを隠せなかった。

 

「俺をなんだと思ってるんだよ、ちゃんと記念日は大事にするタイプなんだけどな」

「そう、ですわね……開けても?」

「どうぞ」

 

 期待と、幾許かの不安が入り混じった気持ちで祥子はその包みのリボンをほどいていく。大きさは手のひらにすっぽりと収まる大きさ、まるで指輪のケースのようだ、と思考する。もし指輪なら、それはある種のプロポーズなのではないか、彼の気持ちは知っているつもりでもまさかそこまでの覚悟があるなんて、と様々な憶測が脳裏を過りつつ、それを開けた。

 

「……は?」

「ジョークだよ、流石にいきなりアクセサリーってのもアレでしょ?」

 

 だが箱を開けてもそこには何もなく、祥子は怒りを隠すことなく匡導へと向ける。確かにもしアクセサリー、特に指輪ならばと身構えたものの、だからと言って冗談で済ますのは幾ら何でも悪質すぎると祥子は怒りを通り越し、思わずと言ったように瞳から涙がこぼれ落ちた。

 

「本当のプレゼントはこっち」

「……これは」

「海鈴と袋小路さんに色々交渉してさ、祥子のスケジュール調整してもらったんだよ」

 

 怒りに燃える祥子に対して匡導がスマホを見せる。そこには明らかに高級そうな露天風呂付の温泉旅館の宿泊予約だった。

 誕生日よりも日付は少し後にはなっているが、二泊三日でのんびりできるようになっていて、温泉街を観光する時間も取られていた。

 

「前に祥子が、ゆっくり旅行でもしたいって言ってたろ? だから奮発してみた」

「……悪質なジョークを挟むのは、なんなんですの?」

「ごめん、ちょっとだけ祥子の反応がみたくて」

「最低ですわ」

「だからごめんって」

「謝ったからと言って、簡単に許せるとお思い? それだけ、わたくしは怒っていますわよ?」

「……ごめん」

 

 匡導もまた、今の関係をどうにかしたいと思っていた。そのために前に進めばいいのか、それとも全てを終わらせた方がいいのか、感情と理性が出した結論は正反対を向いており、故に彼は祥子に答えを押し付けようとしてしまった。

 ──彼女はまだ未成年で、彼はもう大人、その二人を隔てる世間体という溝は埋まることがない。だが打算と依存で組み上げられた二人の関係は、外から少し衝撃を加えただけでは微動だにしないほど、強固なものになりつつあった。

 

「そろそろ吹奏楽部が朝練をする時間ですわ」

「……そうだな」

「ええ」

 

 項垂れ、椅子に座った匡導に向かって、立ち上がった祥子が左手を差し出す。その手を取って立ち上がった彼は握った手をゆっくりと重ねていき、彼女の指の間に自分の指を絡めていき、左手で腰を抱く。

 

「ま、匡導?」

「後二年経って、祥子が羽丘を卒業した時にまだ……その気があるなら、次はその()()()()()()()()()()を贈ってもいい?」

「……ええ、その時に貴方にわたくしの残りの人生、その全てを抱える覚悟がおありなら──内ポケットに隠したソレをこの指に通してくださる?」

 

 全てを見抜かれたことで匡導は彼女には敵わないな、と笑みを見せた。

 プロポーズをしようとしても、逆にし返されてしまえばもう男としても何も言うことができない、きっとこれからも祥子には敵わないのだろうと彼は未だ決まってもいない未来に想いを馳せていた。

 

「俺から想いを伝えようと思った、それがサプライズの誕生日プレゼントだったんだけどなァ」

「やり方がとんでもなく周りくどいですわ」

「仰る通り」

「それに──今日はバレンタインデーでもあるのだから、想いを伝えるのはわたくしからに決まっていますわ」

「……それもそっか」

 

 踵を上げて、すっかり日常になり始めた唇を重ねる感触も今日だけは特別なものに感じた。

 人形だった彼女は、自らの意思で覚悟を持って彼と触れ合い、共に歩み愛することを誓った。そこに他者の祝福がなかったとしても、それもまた覚悟の内。

 願わくばこの無邪気な甘味を啜るような陽だまりのような日々が続くことを夢に見て。

 

 




本編がこうなる保障はどこにもありませんわ、少なくともこんなラブコメのようになる前にはエンドマークはついているでしょうけれど。
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