Mare Inbrium 作:ネクタリス──我、飲酒を恐れる莫れ
Ave Mujica衝撃の武道館ライブから一夜が明けた。校内では当たり前のようにその話、特に1年B組の豊川祥子という人物が「オブリビオニス」だという話題でもちきり、他クラスからも生徒が押し掛ける事態にまでなっていた。
そんな騒がしい廊下の様子を匡導は遠巻きに眺めていた。睦は月ノ森であり、親が有名人であったり金持ちだったりすることは大した驚きを生まないため大丈夫だろうと思いつつ、逆に目立たないように過ごしてきた祥子がこうして注目されることに対して、声を掛けることもできずに踵を返した。
「こうなることは予想していたことですわ……想定外なのはそれが今、ということだけ」
「休み時間もずっと絡まれてたもんな、それだけ武道館ライブが──Ave Mujicaが受け入れられてたってことなんだろうけど」
「あのAve Mujicaのオブリビオニスがわたくしだった、という驚きではなく、
「音楽性が認められたわけじゃない、ってこと?」
「それが示すように、睦や初華と知り合いなのか、どういう経緯で誘われたのか、そういう質問ばかりでしたわ」
そんな人に囲まれる学校で過ごし、放課後すぐのこと、家具を取り扱う専門店で組み立て式の
だがそれらは全て「Ave Mujicaの音楽」が凄いのではない。それぞれが持っている肩書が凄いだけだった。
「つまり今のムジカは有名人がやっているから凄いバンド、になっちゃったわけか」
「腹の立つ言い方だけれど、その通りですわ」
素顔を晒す時に一番望ましい反応は「凄いバンドをやっていた人が実は有名人だった」というものであったのにも関わらず、待つことができなかった一人の内部犯によってより陳腐に、安売りをする形になってしまった。
尤も、叛乱を起こした人物はバンドというものそのものに拘りがなく、故に長く続けるつもりもないのだろうが。
「配信者だからな、バズりゃそれでいいのかも」
「バズ……?」
「一時でも話題になればいい、ってことさ、花火みたいなもん」
祥子からすると突如英語で「蜂の羽音」という意味のものと同じ音をした動詞を使われて困惑したが、匡導からの説明でなんとか吞み込んだ。
そして彼の言葉はまさしく、祐天寺にゃむの言動を理解するのに重要なものであると祥子は考えていた。目まぐるしく変化する流行、その日その日のトレンドを敏感に察知し、また発信していく動画配信者として、話題になることをすぐにやらないというのは機会損失だと捉えるという価値観の違いを、祥子はまるで理解できていなかったのだから。
「流行に乗るのがああいう手合いだろ? 流行を作る企業側とは目線が違うんだろうな」
「匡導は……随分と祐天寺さんを庇いますわね」
「庇ってない、祥子が理解できてなさそうだったから」
「余計なお世話ですわ……もとより、あのような方の考えることを理解などするつもりはないのだから」
「祥子──」
「急がないと、スケジュール会議に間に合わなくなりますわ──行きますわよ、烏森」
「……畏まりました」
匡導の目から見ても、祥子は精神的に追い詰められている。吐き出す先を見つけられずに苦しんでいるにも関わらず、匡導には何もできない。できることがあるとするならば月明かりの下で、一時の傷心を身体で埋めることだけ。
もし、それさえ無くなってしまえば、二人の間には何も残らない。教師を続けたとしても、二人が言葉を交わすことはなくなるのだから。
「お嬢……」
「まだ何かありますの?」
「いや……チェストの組み立てはしておきますね」
「そのくらいわたくしがやりますわ」
「意外とめんどくさいんですよ、アレ」
「……なら、帰ってきたら手伝ってくださる?」
「了解」
運転しながら、本当に訊ねたかったことは睦の様子だが、おそらくそこまで気が回っていないんだろうということは後部座席の様子からも伝わってきた。
ノートパソコンを使って打ち込んでいるそれは、台本の書き直しだった。ツアーで予定していた台本を、仮面を剥がしたものに変更し、ツアー終わりで新曲の発表も控えている。その全てのタスクが祥子にのしかかっているとなれば負担は計り知れない。
そこにメンバーの様子を見るなんてマネジメントまで詰め込む余裕など何処にもないことは、明白だった。
──連絡が取れる事務所側の関係者、袋小路に相談しようか迷ったものの、彼女のマネジメント手腕を加味して睦との相性はそんなによくないと匡導は判断していた。となれば、動くなら自分しかいないとも。
「終わったら連絡よろしくお願いします」
「ええ、では」
事務所前で降ろし、見送る。そのまま一本吸ってから家に戻ろうと胸ポケットを漁っていると、スマホが音を鳴らして暗い車内を明るくした。
その液晶に書かれた名前を見て、匡導は顔を引き攣らせつつも出ないわけにはいかないとゆっくり通話状態にして耳に押し当てた。
「も、もしもし」
「久しぶり~、匡くん」
「……お久しぶりです、みなみさん」
「え~、みなみちゃんでいいのに」
電話をかけてきたのは、睦の母でもある「森みなみ」だった。今日は仕事がないためゆっくりできるらしく睦たちを家に招待しようと画策していた彼女は、何処で耳にしたのか「Ave Mujica」になんらかの形で関わっている匡導を同席させようとしていた。
「匡くんにも久しぶりに会いたくなっちゃって」
「女子高生やみなみさんの空間に俺一人って、想像するとヤバいですけど」
「勿論、たあくんには内緒にしとくから~」
匡導に断り切れるだけの手札はない。相手は父と仲が良い、夫がそれを理由に匡導を遠ざけようとして、彼女が匡導をまるで自分の子どものようにかわいがる姿から二人の関係を邪推してしまう程に。
息子の立場としてこれ以上に関わり合いになるのすら億劫になる相手ではあるが、それとは別に豊川、若葉、烏森は家としての繋がりが強いためおいそれと関係を断絶できない。
「後二時間もすれば家に着くかしら」
「ではそれから一時間後に」
「はぁ~い、待ってるわね」
「失礼します」
本当に失礼かもな、と思いつつ自分から電話を切った匡導は、大きく息を吸い、紫煙を吐き出していく。
森みなみの、おそらく何か深い意図があるわけではない突発的な提案によって、なんの因果か彼は「Ave Mujica」が勢揃いしている場に参上することになってしまった。
しかもメンバーに対してどういう立場で接すればいいのか、という悩みもあった。教師としてではおかしい、祥子のお付きとなるとそれはそれとして教師であることの説明が面倒なことになる。だからと言って森みなみに紹介させるわけにはいかない。
「よし、烏森って部分で上手く説明して納得してもらおう……頼むぜクソ親父」
結局、烏森亘彦の孫であり烏森孝臣の息子という立場を取ることを決めた。祖父ならまだしも、親の名前は悪名という認識があるため使いたくはないがこの際仕方がないと割り切って車を走らせた。
荷物を置いたら、何処かの喫茶店で美味しいコーヒーでも飲もう。そう決めながら。
「本日はお招きいただき感謝いたします」
「祥ちゃん久しぶりね~、元気にしてた?」
「はい」
森みなみからの連絡を受け、会議を終えたAve Mujicaのメンバーが先に到着していた。歓迎のためにシェフの出張サービスを頼んだのか、リビングには豪華な食事が並べられており、にゃむが歓声を上げる。
「みなみちゃん、なんで」
「え~? 私の噂してなかった?」
「すごーい、なんでわかるんですか?」
そんな会話を繰り広げている頃、家政婦の山田に駐車場の門を開けてもらい、匡導が到着する。これから起こることに胃を痛めつつ、それなりに顔なじみである家政婦に頭を下げてから玄関を潜っていく。
すると、誰だという怪訝な反応をしたのが三人──海鈴、初華、にゃむで驚きの表情をしていたのが睦、おそらく予想していたのか無反応を貫いていたのが祥子だった。
「いらっしゃい、というかおかえり?」
「ここ、俺んちじゃないんで……お招きいただき感謝します、みなみさん」
「ふふ、匡くんは元気にしてた?」
「おかげ様で、新任ですから毎日が勉強です」
「えーっと、みなみちゃんのお知り合い、ですか~?」
疑問に耐えかねたのかにゃむが率先して質問を投げかける。身内での食事会と思いきや突如やってきた成人男性というのはそれだけ不審なのだろう、しかも若い男ということで森みなみとの繋がりもあまり見えない。困惑しつつも当たり障りのない形で問いかけられるのは彼女の胆力が故だった。
「あら、みんなは初対面なのね~、てっきりもう知り合いだと思ってたのに」
「──烏森匡導といいます」
「……烏森、あ、烏森Pの!」
「いつも父がお世話になっています、三角さん」
「いえいえ、こちらこそ」
そこで匡導は初めて父が「sumimi」のプロデュースにも関わっていることを知った。女好きのきらいがあり、前科のある父が未だにアイドル部門を担当していることについてはもう触れずにいたいところでもあり、特に溌剌とした明るさで人気の純田まなのような女性が好みとあれば、いらぬ心配をしてしまう。
「父の件で何かあれば是非、一報ください」
「え、あ……どうも?」
「では貴方は事務所の関係者ということでしょうか」
「そういうわけでもなくて」
「匡くんは私の息子みたいなものよ」
「違います」
初華に手渡した名刺には羽丘女子学園教師と書かれており、にゃむがそれを覗き込んで益々疑問を覚えたような顔をする。
故に祖父が「Ave Mujica」のスポンサー企業の重役であること、故に豊川、若葉の両家とも懇意にさせてもらっていることを簡潔に伝えていく。
「つまり、サキコとムーコの幼馴染ってこと?」
「そういうことになります、と言っても最近ではすっかり疎遠になっていましたが」
「匡さん……」
「睦、顔色悪いけど」
「……大丈夫、だけど」
だけど、という睦の呟きの先は彼が到着するまでにスタジオで上映会をするという話に戻ったことで凡その事情を掴むことができた。
昔から、睦にとってただ一つの居場所だったスタジオを
「……貴方、何故来たんですの?」
「みなみさんから直で連絡来て断れるわけないでしょ? 俺だって来たいわけじゃない」
「おかげでムジカにも面が割れてしまって、下手をすれば教師の仕事に支障も出ますわよ?」
「解ってるけど」
そして、そんな睦を理解してくれて拠り所としてくれる筈の彼の隣には自然と、まるでそうすることが当たり前のように彼女が居る。言い争いをしている姿は、けれどにゃむとしていたような口喧嘩とはまるで祥子の表情が違う。言い争うやり取りすらも二人にとっては当たり前の日常のようで。
『どうして……! 今まで放っておいてノコノコと……帰って! 顔も見たくない……帰って! あなたも裏切り者よ、あなたも、あなたも……!』
スタジオでは森みなみが主演を務めた「愛の埠頭」を上映しており、にゃむと海鈴がそれを本人と一緒に鑑賞していた。
セリフを覚えそうなくらい見せられており特に興味のない匡導は、昔の記憶を頼りにコーヒーを淹れ、祥子のために紅茶も淹れておく。
「夜ごはん、これでいいかな?」
「ええ」
「食べといた方がいいよ、徹夜するつもりなら特に」
「言われなくても解っていますわ」
「匡さん」
「睦も飲む? 淹れてくるけど」
「……うん」
スタジオという居場所を奪われてフラフラとしていた睦を座らせ紅茶を淹れて戻ってくる。
その温かさ、夏だというのに指先が冷えていたかのようにじんわりとした温かさに触れて息を吐いた睦を、匡導は気に掛けていた。
睦の両親は、実のところ殆ど睦のことを知らない。あのスタジオも彼女は「使っていない」と言うことも、普段睦がどうやって生活をしているのかも、きっと知らない。
「そういや、きゅうりありがとうって言い損ねてた」
「え?」
「夏休み前にくれたでしょ? 食費浮いて助かった」
「……うん、でも、枯れちゃって」
「
「そう、園芸部で育ててたんだってさ、そっか枯れちゃったか」
匡導の何気ない言葉が、睦の中で人肌の暖かさに変わる。仮面を剥がされ、眠れない夜を過ごしていた彼女にとって、それはまるで安眠剤のような、けれど優しい睡魔を呼び込んでくれるものだった。
張りつめていた糸がぷつりと切れるように匡導の肩に頭を置いて寝息を立て始めた。
「睦……睦?」
「寝てしまいましたわね……何か盛ったのかと疑いたくなりますわ」
「んなわけねェだろ……んんっ、顔色悪かったし、あんまり眠れてなかったんじゃないかな」
「……そうなんですの?」
「祥子……いや、今はしょうがないか」
上映会が終わり戻ってきた母親がそんな匡導と娘のツーショットを見て嬉しそうにスマホを構えながら「睦ちゃんって本当に私にそっくりで~」と、幼馴染二人にとっては聞き馴染んだ話をし始めたのをBGMに彼は眠りに堕ちた彼女の髪をそっと手櫛で梳いた。
──居場所さえ奪われた人形は、けれど一時の安らぎに身を委ねる。その揺り籠が、喩え誰かにとっての大切なよすがだったとしても。
初華の霊圧がありませんわね……