店主から侮られたキルエは仕事を過剰に押し付けられ、辺りがすっかり暗くなった頃にようやく家路についた。
道中で酒場の店じまいをしていたミアーダにまたパンを貰って励まされるが、その後に余計な好奇心に駆られて路地裏に入った彼は、その事をすぐに悔いた。
謎の大男が、人間を喰っていたからだ。
気付かれたキルエは全身全霊で逃げきるが、家に帰った彼は怯え震えていた。
(ま、ま、魔族だ。アレが犯人なんだ!)
血に濡れてギラつく牙。闇の中で輝く真紅の瞳。
(なんだアレは。ひょっとして吸血鬼なのか…?
だとしたら、魔族が人間に化けたんじゃなくて、人間が魔族に変わったって可能性もありそうだ)
噂話でしかなかった殺人事件が、今確かな実感となって彼の胸にのしかかる。
(でも、だとしたら日中は外に出られないはず。
ずっと屋内にいたらさすがに怪しまれるだろうし…アレか!
日光も十字架も効きませ~んってタイプか!)
だとすれば自分に勝ち目は無い、と即座に判断する。
(うう…だ、大丈夫、つけられてはいないはず!
何食わぬ顔でまた出勤すればいい…)
しかしその夜は眠れないまま、翌朝を迎えた。
「なんで…なんで俺ばっかこんな目に…ちょっと路地裏入ってみただけだろぉ…」
すすり泣くキルエ。
部屋の外からは、朝早い仕事の住人が職場へ出ていく音がしていた。
(そうだ、仕事…早く帰るためにも、今日は早めに出ねーと…)
そう思うのは頭ばかりで、身体は一向に動こうとしない。
(クソ…退屈だとかイキってたくせに、ちょっと怖い目に遭ったらもうこのザマか。
しばらく安穏な暮らしで、感覚が鈍ったんじゃねぇのか?馬鹿野郎!)
己を鼓舞してようやく立ち上がるが、今度は部屋から出られない。
(て、てて手が震える…!
なんだよ、もういいよ!俺なんか仕事サボってクビになっちゃえばいいんだ!)
己の臆病さに呆れてふてくされかけたその時。
ぐぅ~。
(…腹、減ったな。メシ食ってから考えるか…)
本能の欲求が恐怖を一瞬でねじ伏せ、部屋の扉を開けさせた。
朝食を摂るため下の食堂に向かう。
(いつも通り部屋に持ち帰って食うか…いや、そうしたらまた部屋から出られなくなっちまうか)
「あらおはよう」
「お、おはようございます。今日の朝食をお願いします」
食堂の調理係と言葉を交わすと、すこし心臓の鼓動が落ち着いたようだった。
「失礼しますよっと~」
「あ…!」
その時ちょうど、笑顔の仮面を着けた黒衣の男が現れた。
普段は恐ろしいその仮面も、今は安心をもたらしてくれた。
「笑06さん!」
「お、坊ちゃん朝飯か?おばちゃん、俺には無いの?」
「だったらここに住んで働きな!」
「俺もう働いてるし…」
「じゃあ自分の金でメシ食いに行きなよ。給料いいんだろ?」
彼の勤める『埋葬衆』は、五王国と呼ばれる大国の国教であるシュハラ教の組織で、戦場で顧みられる暇もないほど溢れる死人を弔うため、彼らの裁量でどんな宗教様式の葬儀を行なってもいい事になっている。
精神的にも肉体的にもかなりキツイ仕事であるため、給金は中々良い。
「いや~おばちゃんの愛情籠ったごはんが食べたいのよ~…っと。
そういや爺さん居ないね」
「今朝はそうね。あの人いつもは早起きなんだけど」
「最近は軒下じゃなくて受け付けに居る事の方が多くなったし、やっぱり体調的にも外気に当たるのがキツくなってきたのかもなぁ。
あの人今年で86歳だぜ?そりゃ仕方ないって」
「ダインさん、なんでも1人でこなせちゃうから背負いがちだしねぇ」
「現役の頃からそうだったんだろうなぁ…ちょっと起こしてくる。
ほら、行こうぜキルエくん」
「え…俺もですか?」
「そうだよ、あの人お前の事気に入ってるみたいだし。
けっこうお前の話とかするんだぜ?」
「そ、そうなんですか?あの人が…」
普段は『おはよう』と『おかえり』以外は雑談しかした事のない相手が、そこまで自分を買っているとは夢にも思わなかったキルエである。
「じゃあ、一緒に行きます」
正直なところ、あの老人の顔を見て安心したい気持ちがあった。
「自分の部屋しか行き来してなかったですけど、ここあの人の部屋だったんですね」
「そうだよ、小さい部屋だろ。
本当なら英雄扱いで豪勢な暮らしができるのに、わざわざこの宿の主人を買って出たんだ」
「買って出た?」
「ここは一応、公営の施設だからな。そうとは思えないくらいボロいけど…くっ」
建付けの悪い扉を押し開ける。
「おい、起きなよ爺さん!寝すぎも身体に悪いんだぜ………」
「あ」
老人が倒れている。
素人目にも、脳卒中や心臓病の類ではないと診断できた。
なぜなら、胸がズタズタに裂けて切り開かれているのが一目で分かったからだ。
「う、そ…」
「爺さんッ…クソッ!!アンタ英雄だろうが、ふざけんなよ!こんな…!」
巨獣殺しの兵団長、【魍魎狩り】のヴァン・ダインは死んでいた。
「06さん。ギルドの人呼びましょう。
さすがにこれでは、生きているとは思えない」
「え?あ、ああ…そうだな!まずは通報しねぇと…ッ」
キルエは驚くほど冷静だった。
(
それは自責の念というより、事実確認に過ぎなかった。
更にその思考の奥には、もう一つの最悪な想像があった。
(…まさかな。ありえない)
そしてあの時の衝動が、また首をもたげる。
(身近な人間がやられたぞ。いいのか、このままで)
理性が駆け付けるのはいつもその後だ。
(いいに決まってるだろ。…いや良くはないけど。
俺にはどうにもできない、相手は凶暴な人食い魔族だぞ。
その上もし吸血鬼だったら、更にヤバすぎる…)
キルエの足はフラフラと外へ出ていく。
「お、おいどこ行くんだ!待てよ…」
他者の声の一切を切り捨てて、歩み至ったのはあの酒場。【血塗れの牡牛亭】。
ただ優しくしてくれる人に会って落ち着きたかったのか、それともこの時点で最悪の事態を予想していたのかは彼自身にも分からない。
だが酒場の前は、大勢の人が集まっていた。
「あの、これはいったい…」
「聞いてないのかい!?
ここの店主のザガートさんが死んじまって、嫁さんのミアーダまで行方不明に…」
「行方、不明?」
「ああ。血はあったけど、死体が見つからないんだって」
「……ッ」
キルエは走った。
そして自分の部屋に戻ると、他人の声も無視して部屋に閉じこもった。
そのまま仕事はすっぽかし、夜になっても出てくる事はなかった。
(なんでこんないきなり…ッ!死体が無いって…食われたのか?
いや、いやまだ大丈夫。ただの想像だ。理屈にもなってない)
部屋の中央でうずくまり、作業に没頭するキルエ。
ひたすらに、ただひたすらに。
「―おい、聞こえてるのか!」
部屋の外から男の声がして、我に返る。
(外暗っ…え、もう夜?ヤバい、集中しすぎた…!
1日あれば、この街から逃げられたかもしれないのに…!)
街に残って戦うか、何もせず逃げるかの二択だった。
だが身体は『戦う』の選択肢に没頭し、気付けば理性は沈黙していた。
(…もういいや。ここまで来たらやっちまおう)
「は、はい!どちら様でしょう?」
「捜査部の者だ。…子供という事もあるし、精神的ショックも考慮して間を置いていたが…さすがにこれ以上は待てない。
申し訳ないが、ヴァン・ダイン氏の死体を発見した時の話が聞きたい!」
「なるほど、分かりました」
キルエは座ったまま窓際に移動した。
「…?おい、扉を開けてくれ」
答えない。
「おい!中で何をしてる、扉を開けろ!
余計な事は考えるなよ!疑いが増すだけだぞ!」
やはり答えず、座ったまま。
「…無理やりにでも開けるぞ、いいな。
3、2、1!」
扉が蹴破られ、声の主が入ってくる。
獅子のたてがみを思わせるような髪型に、鎧のような硬質で巨大な筋肉。
まさに豪傑といった姿をした……あの人食い魔族だった。
「俺の家。突き止めたんですね。
逃げ切ったと思ったのに」
「ああ。追い掛けるまでもない」
「ダメじゃないですか…ここはダインさんの宿なんですよ。
扉を壊すわ、宿の主を殺すわ…やりたい放題やってくれますね」
「俺にはそれが許される」
キルエの目つきが険しくなる。
「許す?あなたには何一つ許されている事なんてありませんよ。
この部屋に入る事すらね」
「そうか。では止めてみろ」
男は部屋に一歩踏み込んだ。
「ほら、俺には許される」
そしてもう一歩入った瞬間。
床に見えにくい色の塗料で描かれていた呪文陣が輝き始めた。
「チッ、罠か…!」
否、床だけではない。四方の壁も天井にも、びっしりと描き込まれている。
「もう遅い。これは【条件に合った者を結界に引きずり込む法】という術です。
ははは、まんま過ぎて笑えますよね。
準備にクソほど時間がかかるし、『勝手に入ってきた者を対象にする』くらいシンプルな条件じゃないと発動してくれないし、めっちゃ使いづらいんすけど」
光は反転して黒となり、気付けば男は暗黒の地平に囚われていた。
「ど、どこだここは…ッ!」
『結界の中に、もう一つの術が組み込んであります。
うちの部族で信仰してる悪風の神バルガンという神様の領域に繋がるようになってます』
虚空から少年の声が嘲笑うように響く。
『…という訳で。
誰がテメェみたいなバケモンと正面から戦うんだっつーのバァカ!
せいぜいバルガンの眷属たちのエサとして役立ってくださいね~!』
「何を…ッ!」
闇の中から押し寄せるは、半獣半蟲の怪物たち。
男の巨体をも遥かに超えた、異形のパレードに呑み込まれていった。
「う…うおおおおッ!!」
結界の外、現実のキルエは窓に腰掛けて、眼前で揺れる黒いモヤの塊を見つめていた。
口調に反して、その顔は強張っている。
(封印完了。まだ最悪の事態にはほど遠い。
それに敵はコイツだけなのかどうか…)
ビシッ。
「…あ?」
黒いモヤが激しく揺れ始め、内側から溢れ出るように裂けた。
「ぬぅおおおおァアアア!!」
「結界の封印が、壊れて…!」
あの大男が、ボロボロの姿で…しかし五体満足のままそこに立っていた。
肩口には何かの牙、背中には虫の脚らしきものが突き立っている。
「ハァ、ハァッ…こんなデカブツ、俺は何匹も殺ってきたんだよ!」
「け、結界を壊して力づくで出てくるなんて…!」
「次だ!」
反応する暇もなく、大男が間髪入れずに接近する。
「次の手を見せてみろ…無いのなら、引導を渡してやろう!!」
「いやあるけど…う~ん、よいしょっ」
キルエは窓を突き破り、外へと跳躍した。
「両隣に誰も住んでなくて良かった。はい起爆」
「なッ!?」
部屋の四隅に仕掛けられた手製の爆弾が起動。
激しい焦熱と金属片が男の全身を襲う。
軽やかに着地したキルエは、それでもなお不安げだった。
「やっぱり…いや、でも…」
そしてこの男もやはり―
「はァッハッハッハ!!い、今のは…き、効いた、ぜ!
で、次は!?次は何を見せてくれる!?」
生きていた。右半身は吹き飛び、全身に穴が開いてもまだ。
「その不死性…吸血鬼ですか」
「おお、いかにも!手足を失っても首だけになっても生き永らえ、必ず再生する永遠の夜の王者!!
それがこの身体、この力だ!!」
「だとしても、今の爆発で街中が目を覚まし始めるでしょう。
時間が経てば経つほど、不利になるのはあなただ」
「それもいい、群がる傭兵どもを撫で斬りにするのも乙なものよ!!」
敵に逃げるつもりはなく、キルエを逃がすつもりもない事がすぐ理解できた。
「…ははは。いやしかし、俺も他人の事言えませんね。
借りてる部屋に落書きして、あまつさえ爆弾で吹っ飛ばして」
「下らん事を気にしている場合か?面白い奴だ」
「下らない?あなたがそう言うのなら、気にしなくていいか。
…ねぇ?宿のオーナーであるヴァン・ダインさん?」
「…ッ!!」
男の顔から怪物じみた凶暴性が薄れ、人の表情になった。
「気付かれてた、のか…」
しかしもっと虚脱感に満ちた顔をしていたのは、指摘したキルエ本人だった。
「外れててほしかったよ、こんな予想…」
「…フ、フフフ。どうした、聞いた本人がそのザマか?
お前に気付かれたくないから、こっちは死んだふりまでしたんだぜ。
まさかその日のうちに見破られるとはな」
「うるっさいんだよ、黙ってろジジイ!!」
アニマの中に突きあげる衝動が、ふっと消えていく。
前に魔族と戦った時、その衝動の原動力となった兵士たちは被害者だった。
ただ必死に生きて、戦って、魔族に蹂躙された。
だから気持ちよく怒る事ができた。
(んだよ…これじゃ全然スッキリできねぇよ…)
身近な人が殺されたから衝動が込み上げてきたのに、その身近な人が本当の敵だった。
そのやりきれなさは、衝動を打ち消してモヤモヤとした不快感だけを彼の心に残した。
(やっと暴れられると思ったのに………あぁ、そうか。
俺にとっちゃ身近な人の死も、ストレス解消のちょうどいい言い訳だったのか。
なんだ俺は。なんて見苦しい…っ)
「ダンマリか、小僧!さっきまでの軽口はどうした?
俺に見せてくれ、お前さんの本気を!!」
意気も闘志も萎え果てた彼は、しかしまだやらねばならない事があった。
(コイツから逃げなきゃ…)
自分に失望して心から死にたくなっても、痛いのは嫌だった。
「こんなの気づきたくなかった。
あなたと戦うなんて…」
「いつから気づいてた?」
「別に、カマかけただけです。
怪しいと思ったのは、敵が吸血鬼かもしれないと気づいた時です。
もし吸血鬼なら日光は嫌だろうなって…アンタ普段軒下で椅子に座ってるのに、最近は屋内にばっかりいるから。
あくまで可能性として、そうかもって」
「…全く、ずいぶんと吸血鬼に詳しいな。その歳で」
「でもさっき俺の結界を破った時、『こんなデカブツ何匹も倒した』って言うもんだから…トンデモな珍説だった仮説が裏付けられちゃって」
巨大な怪物を狩り続けた【魍魎狩り】のヴァン・ダインの逸話は、最初に聞いた時から印象深くキルエの頭に残っていた。
いつも自分が逃げ回るしかないあの巨大生物を狩るなんて、どれだけ強かったんだろう…そんな感心があったからだ。
「ポケーっとしとるように見えて、意外とよく見とる。
その通りだ、人間の姿でも日光は暑くてな…」
今となっては大して興味もないが、会話で時間を稼いでみる事にした。
「なんでこんな事…あなたは英雄なのに!」
「俺じゃない、若い俺だ。英雄と呼ばれるのはな。
戦場で自分よりデカい奴らを相手に戦ってると、自分は強いんだと思えた。
だがそんな俺が年を取るにつれ、確実に弱くなっていく。
次第に若さを見るのが耐えられんようになった…だから退役した」
「年を取るのは、当たり前の事でしょう…」
「その当たり前が!俺には耐えがたかった!!
若い連中が俺の昔の話をするたびに、己の老いを思い知っては死にたくなった!
だからヤツが現れた時、俺は一も二も無く話に乗った!
そして手に入れたのだ、永遠に若く、永遠に老いぬ力をな!!」
「ふぅん…」
特に感想は無かった。
自分には理解の出来ない感覚だから、この男にとってはそれが正しいんだろうと思った。
そして逃げられない事も分かった。
(話しながら、こっちの動きに敏感に反応しやがる。
…もういい、戦って決着付けるか)
それはあまりにも早計な…自暴自棄の結論でしかなかった。
「ちょっと待っててね。今本気出すから」
「よかろう!おおかた小細工だろうが…正面から受けてやろう。
今の俺は英雄の肉体を取り戻…」
その瞬間、男の顔面に棺桶が…そう、あの死人を入れる棺桶が激突した。
「がァアアアッ!?」
「よう、老いぼれの成れの果て…名も無き魔族さんよ」
棺桶は重厚な音を立てながら、連結した鎖で引き戻されていく。その先にいたのは…
「06さん…!?」
笑顔の仮面と黒いローブが、今は不吉そのものだった。
「英雄ヴァン・ダインは死んだ。俺が責任をもって埋葬する」
「貴様ァアアア…フハッ、フハハハハハッ!
およそ聖職者らしからぬ阿呆な小僧と思っていたが…貴様がまさか、悪名高き教会の『棺桶使い』だったとはなァ!!」
棺桶には、およそ厳粛とはいいがたい黄金の棘と、苦悶する死者の顔が彫刻されていた。
「キルエくん、逃げろ。今回の事は俺の責任でもある。
この魔族は俺が討滅する…ッ!」
「……あ、はい。じゃあ、それでは」
キルエは努めて丁寧に言葉を返したつもりだったが、どうしても冷めた声音になるのを抑えきれなかった。
(そうか。これは俺に関係ない物語だったのか。
なら脇役はさっさと退場しますかね…)
拗ねているような口調だが、実のところ本当にどうでもよかった。
(責任だの、役割だの、宿命だの。
どいつもこいつもよく背負うよな、そんな邪魔くさい荷物。
その点、俺は気楽なもんだ。このままこっそり街を出たって何の問題もない)
もううんざりだった。
この街に居残る理由など、何ひとつとして…
(…チッ)
否、まだ一つだけあった。
最悪の想像の、その先。
確かめれば確実に後悔する。
(あと、普通に危ないから死ぬかも。マジで行く理由なんて無ぇぞ。
…無いのに、なぁ)
遠方で、何かが壊れて崩れるような音がした。
(あっちか)
音の方に向かえば真実が分かる。
それはなんとなく分かっていた。
〈つづく〉