ご機嫌な朝食を胃袋に収めたキルエは、この宿の危険さを知り、慌てて部屋に帰ろうとする。
チンフイと、偶然同席した女と共に、3人はエレベーターで自室のフロアへと戻るのだった。
しかしこの時既に、3人は凶悪な殺人鬼の胃袋に収まっていたのだ。
「ここは既に…【結界殺人犯】メゾデルの腹の中…!」
壁も床もグニャグニャと蠕動し、悍ましい酸をあちこちから噴き出させている。
「人間の胃袋ってこんなんでしたっけ?」
「胃袋そのものって訳じゃないんでしょ。
魔法の中には、一定の空間と自身の体内を照応させ、同一化する術もあるというし…ねッ」
女は不意に壁へと拳を叩き込む。
壁は一瞬深く凹んだものの、すぐ元の形に戻った。
「ふむ。半端な力じゃ破壊もできないか。
多分、痛みすら感じてないだろうね」
「一応ダメージは通るんですかね?」
「そのはずだよ、胃とこの空間をリンクさせてる訳だし。
ただ、よっぽどの破壊力でないとこの胃壁は貫けなさそうだね」
足元の胃液から逃げ回っていたチンフイが、突然足を止める。
「…あっ!だったら、毒を飲ませれば死ぬんじゃねぇか!?」
「う~ん…でも多分こういう殺し方をする以上、毒物への耐性は強そうじゃない?
獲物が毒を持ってる可能性は割とあるわけだし」
「どの道、胃壁を貫通して血管や神経に届かないと、薬の効き目は薄いと思いますよ」
「あっはい失礼しました。もう黙ってます…」
所詮は素人考えだったか、とガックリ項垂れる。
そかし話を聞いていたキルエは、ふと何かに気付く。
「いや…でも…毒か。それ、良い案かもしれません。
ちょっと待っててください」
常に肌身離さず持ち歩いている秘伝書を取り出し、何かを検索した。
「…お、コレとかちょうど持ってたかも…おし!
俺が毒使うのに慣れてて良かったですね!」
「有効な毒でも見つけたの?」
「いや…その逆です。毒に対処するための薬ですよ。
その前に…少し待ちましょう」
「待つ?待つって何を?」
「胃液が大量に分泌されるまで」
「えっ…!?」
キルエはそりきり、足元を見つめて動かなくなった。
そうしている間にも胃壁から強烈な酸が吐き出され、床を満たしていく。
「ねぇ…靴がシュワシュワ言い始めたんだけど!?まだなの!?」
「ヤベッ、もう逃げ場が…!」
もはやチャプチャプと水音を立てるほどに、床に胃液が広がっている。
あと少しで足裏を焦がし、ドロドロに溶かし始めるだろう。
「こんぐらい溜まれば行けるか!
よし、全員離れてください!」
何かの丸薬を地面に投げ込み、走る。
「な、何の薬なのコレ!」
「嘔吐剤です。危ないモノを飲み込んじゃった時、すぐに吐き出せるように携帯してるんです。
コイツは胃液に触れる事で急激に膨張し、激しく泡立つ。
ちょっと泡立ちやすいように調合を弄りましたが…うわっ」
爆発的な勢いで泡が膨らみ、廊下を呑み込んでいく。
「ちょ、コレ私たちまで巻き込まれない!?」
「分かんないです、賭けなんで!」
「ていうか毒は効かないんじゃなかったのか!?」
キルエは首を振る。
「これは毒じゃない。ただ胃の中で膨らむだけです。
そうすると胃が異物として認識し、激しい吐き気を催させる。
嘔吐反射ってやつです…有効かは知りませんけど」
胃壁がビクビクッと震えだす。
『オゲェエエエッ!?』
そんな叫びが響いたかと思うと─突然ただの壁と床に戻った。
胃液も泡も、残さず消えて。
見渡せば、部屋とエレベーターの扉も戻っている。
「激しい刺激で魔法が解けたのか…ともあれ、お手柄ね」
「いいえ、彼の発想が無ければ思いつきませんでした」
「リップサービスどうも!俺が言わなくたって思いついただろ…」
チンフイは照れ隠し紛れに走り出す。
「ほら、さっさと部屋に帰─」
前方が爆炎に包まれる。
「…はい?」
「ヒィイイイイイヤッホォオオオオオオオ!!」
火だるまの男が、燃える涎を垂れ流しながら走ってくる。
「えええええ誰誰誰!?」
「伏せてッ!」
女がチンフイの頭上を飛び越し、男を蹴り飛ばす。
「ここが安全区画と知っての狼藉かしら?
はしゃぎたいなら危険行為が許される【死象区】の方へ…」
「あァ?…へへへ、遅れてるなァ姉ちゃん!
ちゃんと【亀甲網】チェックしてるかァ?」
この広大な宿の中には、独特の情報屋ネットワークが敷かれていた。
非公式ながら宿と連携し、客へ危険予報を知らせる事もある。
…だが逆に、犯罪者へと情報を流す裏のネットワークもあった。
「近々、【死象区】の方でドデカい鎮圧作戦があるらしい。
そのために、ここに常駐する治安スタッフのほとんどが、そっちに移動した。
ま、絶好のぶち殺し日和って訳だ」
「お前、バカなの?治安スタッフが戻ってきたら捕まるだけじゃない」
「まさか、ただ暴れる訳じゃねぇ!
俺らで結託して、この【生鶏区】を占拠するって寸法よ!」
「…そんな事、出来る訳ないでしょ。
出来たとしても、また鎮圧されるだけよ」
「そう思うか?
他の客はビビッて部屋から出て来ねぇ。妨害術式で通報も出来ねぇ!
そんで、ここには無数のイカレた殺人鬼どもが集まって手を組んでる!!
面白ぇ事になると思わねぇか、あぁ!?」
「結局逃げて隠れる事を選んだ逃亡犯どもが集まって、何を成すって?
冗談にしてもつまらないんだけど…」
女の目は冷ややかを通り越し、路傍の石を見るそれに変わった。
「2人とも、下がっていなさい。私が片付けます。
─『我が前に天命を示し給え』!」
女が両手を広げると、前方の空中に5枚のカードが出現した。
見慣れない魔法に、キルエが少し目を見開く。
「アレ、何だか分かります?」
「カード…符術の一種かな?
ウチだと妖怪退治のお札で使う術だけど…」
燃える男には心当たりがあったようだった。
「その魔法…まさか、テメェ!!」
「へぇ、お前のような下郎でも知っているの?
いいわ。我が術を拝せる栄誉、生涯の喜びとするがいい」
一歩進むたび、女の身体から神々しい光輝が溢れ出す。
宗教的感性を持ち合わせぬキルエすら、その光を一目見ただけで、眼前の女が神聖なる者であると理解できた。
「この聖女アルヴァの前に…敵として立った事の愚かさを知れ!」
「…聖、女?」
女はカードを1枚手に取って、男に見えるように示す。
描かれているのは、斬り付けられる罪人の絵。
そのカードは塵に還る。
「天命はお前の末路を示した。
…【宿命の刃】を受けよ」
「なにを…グッ!?」
男の頭部が、突然真っ二つに裂けた。男はもんどりうって倒れる。
「はい、おしまい」
(何だ、あの魔法…風の斬撃とかか…?)
「まァだだぜぇええ~ッ?」
男は立つ。割れた頭はすっかり元通りになっている。
「俺様の肉体は炎そのもの!!斬撃じゃ殺れねぇよ!!」
男は炎上しているのではない。炎が男の姿をしているのだ。
「なるほど。この宿にいるだけあって、凡庸な罪人ではないみたいね」
「凡庸?アホかよテメェは!
俺はテルニの街を震撼させた放火魔!【魔人炎】ブロウレス様だぞ!!
不滅の炎、生きる災いそのもの!!」
爆炎を両足から噴出させ、女の周囲を高速で飛び回る。
初速からジェット機を上回る速度で、とうてい人間の目には追えない。
「ごめんマジで知らない。まずテルニがどこよ」
「俺ァこのフロアの制圧を任されてる!!
メゾデルの野郎の後始末なんざさっさと終わらせて、お楽しみの虐殺タイムと洒落込ませてもらうぜェ!!」
「…あ~、身体が炎、とか言ってたっけ?
炎には死が無いとでも思ってる?」
ため息をつき、両手を組み、瞬間祈る。
「…『来たれ』。『我が魂を救い給え。そして赦し給え』!」
浮遊する4枚のカードが増えては消えてを繰り返すが、その真意を見抜く者はいない。
否、シュハラ教における唯一の最高位聖女の魔法を見抜く事など、誰にも出来はしないのだ。
「ま、コレでいいか」
提示したのは、囚われ嘆く者が描かれたカード。
「させねぇよ!!消し炭んなれやァ!!」
だがブロウレスは火の玉と化し、カードもろとも焼き尽くさんとする。
「これは【愚者の牢獄】。手間が省けたわ」
火球ブロウレスは聖女の眼前で静止し、黒い杭に突き刺された。
「ば、バカなッありえねぇ!!実体の無い俺に、こんな封印が通じるはず…!!」
「【静寂の水瓶】」
空中に水の球体が現れ、囚われたブロウレスをすっぽりと包み込む。
「がぁああああッ!!こ、こんなもの、蒸発させて…ッ」
「ご苦労様。もう消えなさい」
カードの1枚を氷の剣に変え、水に突き刺す。
刀身から放たれる冷気が熱を封じ込め、炎はたちまち小さくなっていく。
「オレ…オレ、ハ…!」
炎が消え、氷の塊が地面に散乱する。
「思ったより時間かかっちゃった。
…ごめんね、怪我は!?」
「無事ですよ…しかし、お人が悪いですね。聖女様」
アルヴァはばつの悪そうな顔になる。
「う…いや、せっかくのお休みだし、隠しておきたくて…」
「まさか聖女様が俺たちのような子供に興奮する変態だったとは驚きですが…」
「だから変態じゃねぇってば!!
…それよりほら、部屋に帰ろう、ね!?」
「そうだな、さっさと安全な部屋の中に…」
走りながら、チンフイの表情がこわばる。
「そういや、犯罪者たちが占拠してるとか言ってなかったか…?
部屋に籠っても、誰がメシを持って来てくれるんだ?」
「確かに、宿の人がいないわね。殺されたのか、逃げたのか…」
「下の階に戻って確認する、というのもあまり得策ではなさそうですね。
っつっても我々だけで鎮圧するなんて…」
2人の少年が、アルヴァを見る。
「まぁでも聖女様ならイケますよね」
「そ、そうだな。俺らみたいな弱者を見捨てるはずないもんな!」
「ちょ、ちょっと貴方たち…少しは手伝ってよ!?」
2人揃って肩を竦めた。
「いやいや聖女様!こんな子供を戦わせたりしませんよね?」
「そうそう!ていうか俺はホントに何の力も無いし!」
「息ピッタリでぶん殴りたくなるわね貴方たち。
ここに泊まる人間で、戦闘力がありそうなのは希少なの!
子供だって頼りたくなります」
亀甲楼に泊まるのは、戦いや殺しに特化した実力者だけではない。
チンフイのように希少な血筋の者や、特殊な技能を持つ一般人もいる。
とにかくレアな者なら誰でも泊まれるのだ。
…そして、そういう戦えない客たちが泊まるのが、この【生鶏区】。
つまり、頼れる者は少ないだろう。
「そうだ、キミたち。あのムキムキの仮面おじさんは?」
「あ、シャーヤさんがいましたね!
確かあの人の部屋は俺の隣です!」
「って、あそこだよね!?」
自室に近づけば、札鍵が光を伸ばしてそこを示してくれる。
キルエとチンフイの鍵が、並んだ2室を示す。
「の、隣だから…ここだ。おーい!!
聞こえますかシャーヤさん?寝てる場合じゃないですよ!」
無遠慮に戸を叩く。…が、反応は無い。
「ホントに寝てるのかも。彼には悪いけど、起きてもらいましょう」
「そうだな、いつ敵がまた現れてもおかしくねぇんだ。
そのうち部屋の中も安全じゃなくなるかも…」
「否。今は安全ですぞ」
老翁の声。
廊下の奥から、その主が歩いて来る。
「…えっと。お爺さんも犯罪者?」
「そう明け透けに言われると少々面映ゆいですな。
しかし、左様。私【死に至る楽園】ミョードと申す者」
「あぁ…聞いた事ある異名…」
「聖女様に認知していただけているとは、光栄ですなぁ」
老人は一歩ごとに杖を突きながら、ゆっくりと近付いて来る。
コン、コン、コン。
「後ろの人たちは自己紹介してくれないの?」
老人の背後には、何人か異装の者たちがいた。
異様に肥大した黒い左腕をもつ巨漢。白い面を付け大太刀を背負った者。一切武装していない痩せぎすの男。
「ええ、これから分かり合っていけばよいでしょう。
逃げ場は無いのですから」
杖で地面を突くたび、部屋の扉に紋様が浮かび上がる。
「それ、何してるの?」
「こうして、このフロアの宿泊部屋を封印して回っているのです。
中に居る者が出て来られぬように。外に居る者が帰れぬように」
「…たしかこの部屋の窓は中庭に繋がってるはず。飛び降りれば逃げられるんじゃない?」
「いいえ。私の封印術ならば、部屋まるごと封じる事も難しくはない」
「……ああ、思い出した。
そうやって、被害者は自宅にいるまま監禁され、餓死する。そういう手口だったわね。
【死に至る楽園】なんて大仰じゃない?要は監禁犯でしょ」
「ええ。人が最も安らげるのが自宅。
いわば絶対の安全地帯にいる人間が、そこから出られずに衰弱していく様は、実に美しい…!」
老人の穏やかな笑みは、漆黒の狂気を湛えた魔笑へと変わる。
「今回の事も同じですよ。この地獄と楽園が同居する宿において、唯一の平和な区画を我々が占拠する!
その時人々は、いったいどんな顔を見せてく…」
眼前に、聖女の蹴りが迫る。
「…慌てるな、聖女。
貴様の相手は俺たちでしてやる」
背後の1人が、大きな腕で受け止めた。
「馴れ馴れしいわね、犯罪者風情が」
「ククク、俺ァ
【悪魔の左手】と名乗れば伝わるか?」
「ええっと……」
聖女はいったん記憶を探り、心当たりが無い事を確認した後、また『知らない』と言うのは憚られるので無視する事にした。
「…ったく、気に入ったら犯罪者でも見境なく宿泊させて…!
そのせいで反乱起こされてたら世話ないわね!」
アルヴァは、己の背後にいる護るべき子供たちを想う。
「悪いけど、1人ずつの自己紹介は要らない。
神の裁きに名前は不要…ただ罪が分かってればいいんだから」
男は獰猛に笑い、黒い左腕を突き付ける。
こちらも一目見ただけで、人が本来直視すべきでない邪悪な物体である事が分かった。
「神の裁き?ジョークにもならんなァ」
「へぇ?どうしてそう思うのかしら」
「俺がこうしてここにいるのが証拠だ。
裁きも罰も、受けた事ぁねぇな」
「あら…それでは聖職者として、こちらも証明してあげなくてはね」
その言葉を受けた聖女アルヴァは、清浄なる笑みで返した。
「ここで聖女と出会ったこと。それがお前への罰よ」
〈つづく〉