崩れ落ちる塩の柱
渇き癒せぬ死海の水
滅び果てた星の残光
二度と戻らぬ愛しき日々よ
First monologue
──母のことが大好きだった。
優しくて明るくて、例えるのなら、そう、暖かな陽光みたいな人。
(「愛してるわ、ジーク」)
幼い頃の俺は母の優しさに寄りかかってばかりの甘ったれだった。泣き虫で、弱虫で、たった1人の家族である母がいなければ何もできなかった。
(「大好きよ、私のジーク」)
けれど、成長してからは違う。母の代わりに働いて、母が少しでも穏やかに暮らせるようにと願っていた。そのためになら俺はなんだってできる、と。
俺は母さんのことがほんとうに大好きだった。
「ジーク!見て!脚が治ったのよ!」
……母は、こんなふうに笑う人だっただろうか?
ぎゅうと強くこちらの手を握って笑う母親はハイになったようにキンキンと高い声でそう言った。どうしてかうまく視線が合わない目を見開き、何がそんなにも楽しいのか狂ったようにケラケラと笑って、俺の名前を何度も呼ぶ。ジーク、ジーク、ねえ、ジーク、と。
「ジーク!ねえ、貴方も母さんの体が治って嬉しいでしょう?」
「……母さん、どうして失くなった脚があるの」
「どうしてそんな顔をするのジーク?ねえ、喜んでくれるでしょう?」
「……おかしいよ、失くなったんだよ。壊死してた。右の膝から下。切って、俺が焼いたんだよ。一晩かけて確かに俺が焼いたんだ」
「もう杖なんていらないの。誰の助けがなくても1人で歩けるのよ!ねえ、わかるでしょう、ジーク!私が今どれだけ幸せか!」
「普通、足は戻らないんだよ、母さん。ねえ、母さん、これはなに?母さんは何をされたの。母さんは何になったの……?」
「奇跡……!ええ、奇跡よ、ジーク!あの御方がこの私に奇跡を与えてくださったの!あの御方にふれていただけで私の脚が戻ったの……!」
痛いほどに手を握られていた。母は俺の手を掴んだまま、新しく生えた脚で知らない屋敷の中をどんどんと進んでいく。引き摺られるままの俺は混乱していた。意味がわからなかった。
だって、もう何年も前に失くなった脚が再び生えてくることなんてありえない。あれが焼けて骨になったのを確かに俺は見たのだ。それなのに、目の前の母には当たり前のように軽やかに駆ける両の脚があった。
喜ぶよりも、怖かった。
目の前の出来事が何ひとつ理解ができなかった。
喚く母は知らない生き物になったみたいだった。
目の前の生き物が本当に母親なのか、わからなかった。
「そんなわけない。医者にだって脚は生やせないよ、母さん」
「いいえ!医者ではないわ!あの御方は神様よ!」
母がそう叫ぶように言った瞬間、俺は顔を歪めて俯いた。
「……神様、なんて軽々しく言うなよ」
肌に当たる冷たい感触。咄嗟に首からかけていた十字架を服の上から掴む。
村の司教は敬虔で厳格で偏屈な人だった。けれど、悪い人じゃなかった。家が貧しくて子供の頃から働いてばかりの俺を気にかけて神様の物語を聞かせてくれた。いつか救いが来ると小さな十字架を首に掛けてくれた。
その人が言っていたんだ、軽々しく神の名を語ってはいけない、と。
決して信仰心があるわけではない俺にもそれが大切なことなのだということはわかっていたから。
けれど俺の言葉は届かなかったのだろう、母は屋敷の奥にあるとある部屋の前まで辿り着き、厳かな態度で中へ声をかけ、重い扉を開く。
俺を部屋の中へ突き飛ばすように押し入れて、母は甲高い大声で喚いた。
「ジーク!我が息子ジークフリード!さあ!貴方も敬い尊びなさい!私たちの神たるユーハバッハ様を!」
無理矢理連れてこられたこの部屋の奥、そこで目に映ったのは広いベッドの上で半身を起こした細い体つきの少年。
柔らかな漆黒の髪と、神秘を宿したかのような紅い瞳。
うつろでいながら確かな意思を持つその瞳と視線が重なり合ったあの瞬間のこと。
今思い返しても、悍ましい出会い。
あの時の俺たちは親が邪教に狂った子供と、邪教の神に祀り上げられた子供だった。
恐怖と混乱と、嫌悪。
顔を強張らせる俺をその目に映して、三日月のように口角を歪めたあの日のお前。
すべてはもう世界の始まりのように遠い。
現でありながら夢よりも捉えがたい、あの夜のこと。
それが運命と呼ばれるものなのだと、俺が知ったのはずっと遠い未来の先の先のことだった。