「お前な!今日外出るつったのお前だろうが!なに寝坊してんだ!」
「だから悪かったと言っただろう」
「悪かったと思ってる態度じゃねえんだよ!起こそうとした俺に初手で裏拳かますのはよ!」
昨晩の雨はすっかり上がり、晴天の空が窓の形に切り取られている。
差し込む陽の光が部屋の中の明度を高くする。ベッドの縁に腰掛けたユーハバッハはクローゼットを開いて主人の着替えを引っ張り出しているジークフリードの背中を眺めた。
じっと見つめていればその視線に気がついたのか、バッと勢いよく振り返ったジークフリードが「ぼんやりしてんな!」と叱るように言う。
やれやれと思いながら、ユーハバッハは顔を洗うために用意されたボウルの水に手を入れようとする。視線を落とした先に、揺れる水面。そこに映った子供の顔は無表情で不健康そうだ。あまり長く見ていたいものでもないと、水の中に手を差し入れて崩すように水面を揺らす。人の顔がぐにゃりぐにゃりと揺れ、崩れ、歪む。それを見つめる。じっと、ずっと。
「早くしてもらえますー?お前が朝飯食わねえと俺も食えねえんですよ、坊ちゃん」
ユーハバッハの着替えをベッドに放りながら近づいてきたジークフリードを見上げて、ユーハバッハはぼんやりとしていた意識を現実に戻す。それから彼を見つめたまま小首を傾げる。
「ジーク」
「んだよ」
「袖が濡れた」
「捲れよバカ!」
慌てた様子で彼の袖を捲ってやるジークフリードにされるがまま、ユーハバッハは(使用人気質が板についてきたな)と思う。
過失で袖を濡らしたこちらを放ることもなく世話を焼いてくる。これが性根なのか親愛なのか、判別に迷うところだ。
ある程度の支度をして、朝食のためにテーブルを挟んで向かい合う。
これまでは散々待たせていたユーハバッハだったが、ジークフリードが食事の前の祈りを捧げる間だけはユーハバッハが待つ側になる。ジークフリードの祈りが終わってから、二人は食事を始めた。いつもの景色。
口では急かす割にきちんと待つジークフリードは、食事中、ユーハバッハが気怠げに時間をかけながら朝食を摂るのを見て自分の食べるペースを合わせていた。
「なに、ねみぃの?」
「お前に叩き起こされたからな」
「実際に裏拳で叩かれたのは俺だろうがよ」
他人の歩幅に合わせるのが上手い男だと思いながら、ユーハバッハは不意にジークフリードの母親のことを思い出した。
「ジーク」
「ん」
「メリダとは会っているのか」
「あ?会ってるよ、毎朝顔見せに行ってる」
「……ならいい」
唐突な話題にジークフリードはやや困惑した顔をしながらも、振られた話題を途切れさせることなく続けた。
「ここで仕事とかもできてるらしくて、元気そうだよ、母さん」
「そうか」
「……思うところがないわけじゃねえけどな、俺は。でも、母さんはお前に感謝してる。幸せそうだよ、毎日」
その言葉にユーハバッハは視線を上げたが、ジークフリードは頑なに同じテーブルを囲む相手へ視線を向けなかった。そしてお互いにそれ以上この話を広げることもなかった。
「叱られたらお前のせいにする」
「好きにしろ」
ジークフリードがユーハバッハと連れ立ってこの部屋から出るのは初めてだった。
ジークフリードとしては、むしろこの子供はこの部屋の中で軟禁されているものだとさえ思っていたものだから、ユーハバッハが彼の意思で出ることを選択できるということにさえ驚いていた。
扉を開いて一歩踏み出す。静まり返った屋敷の空気に、なんとなく音を出すことさえ憚れてジークフリードは黙ったまま階下へ向かう。その半歩後ろをユーハバッハもまた唇を閉じたままついていく。
長い廊下を進んでいく。厚いカーペットが敷かれているために二人分の足音が響くことはなく、床に染み込んでは消えていくばかり。
廊下を歩き、階段を降りてなお、誰ともすれ違うことのない屋敷。自分や母も含めて人が住んでいるはずなのに、この屋敷はいつも廃墟のような空虚さと陰鬱さを纏っている。だから少し、苦手。ジークフリードはいつもそう思っている。
だから一階の玄関に辿り着いた時は酷く安堵した。
待ち遠しい開放感に早まりかける歩調は、けれど隣を歩く少年の歩幅に気がついて抑えられる。ふと下げた視線に、気がついたユーハバッハが顔を上げる。
そうして二人の視線が合いかけた時だった。
「何処へ行くつもりだ、ジンツァー」
背後から向けられた地を這うような低い声にラストネームを呼ばれて、ジークフリードはびくりと肩を揺らす。無音の空間に突如生まれた音に驚いて震える心臓が痛いほどに早鐘を鳴らす。
その声は知っていた。
だから体を強張らせたまますぐに振り返る。
「ブルクハルトさん……」
視線の先にいたのは神父じみた格好をした壮年の男だった。
少し前にジークフリードが深夜の屋敷の廊下で側近と話しているところを盗み聞きしたあの時の教祖じみた立場の男。彼こそがブルクハルトだった。
この男が何者なのか、実のところジークフリードはあまり詳しいところは知らない。けれど、この屋敷で一番権力を持っているらしい人が目の前の男であることは察していた。
名を呟いたまま立ち止まるジークフリードに、ブルクハルトはグッと眉間に皺を寄せると下がった口角のまま唇を開いた。
「ユーハバッハ様を連れて何処へ行くつもりなのか、と聞いている」
鋭く厳しい声音に再度そう問われてジークフリードは喉が渇くのを感じる。
ジークフリードはこの人が笑っているのを見たことがなかった。いつもこの世の全てを憎んでいるかのように眉間へ深く皺を寄せた厳めしい顔つきばかりをしている。
その上、平均よりも背丈があるものだから話しかけられると、いつもその蛇のような目に高いところから射抜かれるような感覚になって少し怖い。
「あ、えっと、ユ……」
名前を、愛称を呼びかけて、寸前で止める。この人の前でユーハバッハと気安い姿を見せてはいけないと思った。
「外へ行きたいと、言って……おっしゃってられた、ので、お連れしてます。一人だと危ないと思って」
ジークフリードにしては珍しく訥々と言葉をこぼす。あまり慣れていない敬語は崩れており、潔癖そうなブルクハルトの眉間の皺がぐっと深くなるのが見えた。
その厳しい表情に、ジークフリードは無意識に自分の体でユーハバッハを隠すように半歩身をずらす。ブルクハルトはそれにさえ物言いだけな表情を向けた。
「主の名も呼べないのか」
ユーハバッハのことを呼びかけてやめたことに対しての言葉だろう。ブルクハルトはジークフリードの首にかかっている十字架へ視線を向けて嘲るように鼻を鳴らす。
ジークフリードがユーハバッハの名を呼べないのは事実だったが、彼の物言いが癪に感じられて言い返す。
「……畏れ多いですから。気安く名を呼んで良い方ではないと思っています」
そう言ってから内心(あだ名をつけておいてどの口で言ってるんだ……)と思ったが、その呼び名がジークフリードにとって畏れ多いのは事実だった。
そんな子供の反抗心を感じてか、ブルクハルトは「随分敬虔だな」と皮肉げに冷たく返す。それからジークフリードの碧い瞳をじっと見つめた。
「……やはり君のような者をそのお方と引き会わせるべきでは──」
男がそう言った時、誰かがジークフリードの手首を掴む感触があった。
触れられた感覚にジークフリードはハッとして自身の腕へ目を向ける。
彼の手首を掴んでいたのはユーハバッハだった。
表情の読めない紅い瞳に視線を向けられて、ジークフリードはやや困惑しつつもその目を見つめ返す。
ユーハバッハはまるでその存在が見えていないかのようにブルクハルトを無視すると、ジークフリードの手首を掴んだまま玄関扉のほうへ歩き出す。そう強くもない力で腕を引かれたジークフリードは唐突なユーハバッハの行動に困惑しながらもされるがままその手に導かれて、彼の後を歩く。
「あ、こら、急に……待てって……」
背後の大人に聞こえないように小さくそう声をかけるが、ユーハバッハはそれさえ無視して歩いていく。
ジークフリードは自分より背の低い少年に腕を引かれて前のめりになりながらも、ブルクハルトを振り返った。
廊下に立ち尽くすその男は眉間に深い皺を刻んだまま、じっとこちらを見つめていた。段々と遠くなる彼から感情は読み取りきれない。
ジークフリードは最低限の礼儀としてブルクハルトに軽く会釈をして、また前を向いた。
「ユーフェン」
外界と繋がる扉を抜けた先、蒼天の下はあまりにも眩しかった。降り注ぐ日差しに目を焼かれながら、ジークフリードは自身の腕を掴む少年を呼ぶ。
けれどその呼びかけに気を止めることなく、ユーハバッハはある程度まで歩みを進めてからようやくジークフリードのほうを振り返った。
「なあ、ユーフェン。よかったのか、あの人。置いてっちゃったけど」
「お前がまだブルクハルトと話していたかったのなら戻っても構わないが」
「……や、それは、ちょっと……」
「だろう」
ユーハバッハはジークフリードから揶揄うように楽しげに口角を上げる。それから静かに掴んでいた手を離した。離されてもなおジークフリードの手首には、触れられていた時の小さな手のぬくみと感触が微かに残る。
昨夜の雨に濡れた木々が太陽の光を受けてきらきらと反射して、その眩さにジークフリードは目を細める。
屋敷の裏庭へ並び歩いて向かいながら、その途中にふとユーハバッハは足を止めて屋敷の上階の窓へ視線を向ける。つられて立ち止まったジークフリードがどうかしたのかと問うように視線を向けて首を傾げた。
ユーハバッハは屋敷から感じた視線を振り払って、すぐにまた歩き出した。それを追って、何も問わずにジークフリードも歩き出す。
「怖えんだよな、あの人」
「ブルクハルトか」
「ああ。あの人、前も深夜に廊下でなんかこそこそ悪そうな話してたんだよな。側近の、あの女の人と」
「リドリーだな。……それより、ジーク、夜に部屋を出たのか?」
「いや、ちょっとだけ扉開けて盗み聞きしただけだけど」
「……なんだ、つまらん。夜に出歩く度量もないのか。お前は本当に真面目というか、遊びがないというか……」
「だ、だってみんな夜は部屋から出るなってすげえ言うじゃねえか。つか真面目なのはいいことだろ」
多少の口の悪さや気の強さはあれど、ジークフリードは根本のところで真面目な質だ。
すべきと言われたことはするが故に祈りは欠かさず、してはならないと言われたことはしないが故に今もなおユーハバッハの名を呼べないのだから。
振り返るなと言われたら振り返らないし、開けるなと言われたら開けない。そういう青年だ。
とはいえ、しないだけで好奇心が無いわけではないことは知っていた。だからユーハバッハはわざと意地の悪い問いかけをする。
「ジーク、何故夜に出歩くなと言われるかわかるか?」
「さあ、知らねえけど……」
知りたそうな顔を浮かべながら首を傾げるジークフリードに、ユーハバッハは口角を上げて答えた。
「この屋敷にはお前にだけは絶対に見せたくないものがあるからだ」
「……ユーフェン」
「なんだ」
「なんでそうやって気になる言い方すんだよ……ダメっつわれてんの気になってくんだろうが……」
「どうやら私には意地悪の才能があるらしいからな。それが出たのだろう」
「意外と根に持ってんな、お前……」
呆れた顔で肩をすくめるジークフリードは、ユーハバッハと共に屋敷の裏庭に足を踏み入れる。渡橋のある大きな池と、その周りを囲むような鬱蒼とした森。
振り返れば屋敷は木々の隙間から微かに見える程度で、いつも屋根に上がるために出入りする窓があんなにも小さい。改めてここの敷地の広さを実感する。
「で?なんだよ、お前は俺と仲良くお喋りしながら散歩がしたくて外に出てきたのか?」
池のそばにしゃがみ込み、水面へ視線を落としながらジークフリードはそう問いかけた。
周囲の木々によって影がかかる水面は穏やかな微風に揺れて幾何学的な波紋を浮かべる。落ちた葉が波紋に揺らされて微かに上下してはゆっくりと薄暗い水の中に沈んでいった。
「いや、今日は違う」
「明日はその可能性があんのか」
「あるぞ」
「あんのかよ」
しゃがむジークフリードのそばに立つユーハバッハは腰に手を当てたまま、空を見上げる。微かに雲はあるが晴れている。空の真上にある太陽は薄い雲を突き抜けて陽光を地に落とす。良い天気だった。
ユーハバッハは懐から親指の爪ほどの小さな何かを取り出すとそれを指の間に挟んでジークフリードへ見せ、問いかける。
「これが何かわかるか?」
「はあ?」
唐突に見せられたそれへジークフリードは視線を向ける。
彼の指の間にあるのは、縁には何らかの文字が彫られたコインのような形状の白い物体だった。
その文字は過去に見たことがあるヘブライ語に似ているように見えたが、確証は無く、ましてやジークフリードにはそれを読み解く能力も無かった。
見せられたそれを困惑しつつ眺め、口を開く。
「いや、わかんねーけど。なにそれ」
「わからないか。当然だ。わかるはずがない質問に困惑するお前を見て悦に浸るための質問だからな」
「いよいよ性格の悪さを隠さなくなってきたな。そろそろこいつのこと真面目に叱ったほうがいいのかな。将来が不安過ぎる」
遠い目をして溜息をつくジークフリードのことなど気にせず、ユーハバッハは指の先でそれを弄びながら言葉を続けた。
「これは撒き餌だ」
「撒き餌?あー、釣りみてえな?」
「ああ、圧縮した私の霊力を霊子で造った器に閉じ込めたものだ。ただの霊子の器では中身に耐えられないからな、器を強化するために呪文を刻んでいる」
「あー、お前の霊力がめっちゃ入ってるコインってことか」
「頭の弱い要約に感謝するとしよう」
「感謝してる時に使う語彙じゃねえんだよな。で?それがなんだよ」
問いかけるジークフリードに、ユーハバッハはゆるりと口角を上げた。明らかに悪いことを考えていますという表情に気がついて、ジークフリードはげえと顔を歪めた。嫌な予感しかしないが、しかしそれから逃げられる気もしなかった。
「お前も森へ矢を放つばかりでは飽きただろう」
「そんなことない俺毎日超楽しいスーパーハッピーサイクロンエブリデイ」
「これを砕くと私の霊力が一定範囲に拡散し、それに釣られて虚が集まってくる」
「なるほどな、絶対に砕くなよ」
「だから、砕く」
ジークフリードが素早く立ち上がり彼の手を止めようとその腕を掴むより早く、ユーハバッハの指が撒き餌を砕いた。
器は容易く壊れ、その中から溢れ出したユーハバッハの強い霊力が霧のように森の中へ拡散していく。
それを唖然とした顔で見つめていたジークフリードはユーハバッハへ視線を向けた。それに気がついた彼が顔を上げ、その紅い瞳を弓形にしてみせる。
「人間も四つん這いを経てこそ二足歩行になれるのだ。実戦に勝るものはない。楽しくなるぞ、ジーク」
「こンのバカがよォ!」
ジークフリードの悲鳴じみた叫びに、木に止まっていた数羽の鳥が勢いよく飛んでいった。