「つまりは、あれか、お前は何回も生まれてて、えーっと、だから合計だと結構俺より長く生きてて、だからいろいろ詳しい……ってことか」
「…………まあ、いい」
「なんだその釈然としてない顔。いや、ちゃんとわかってるよ。うまく、言葉にできないだけで」
ユーハバッハの激白を、ジークフリードは端的に言語化しようとして失敗していた。
魂、転生、力の具現。元はなにも知らない一般人だったジークフリードには理解と想像がつかない世界の話ではある。
寝転がっていたジークフリードは地に手をついて半身を起き上がらせると、胡座をかいて座る。それから自身の頬を掻いて、少し落ち込んだ空気に居心地悪そうに座り直す。
「ユーフェン」
「なんだ」
「なんでお前はそんなシュンってしてんだよ」
「は?……私が?」
「そうだよ。さっきまで意気揚々と俺をいじめてたくせに急にしおらしくなりやがって。いいからここ座れ」
ジークフリードはそう言ってすぐ隣の地面を叩いた。ユーハバッハが微かに渋るような様子を見せると、すぐに声が飛んでくる。
「お前は俺より年下だろ。年下なら年上の言うこと聞けよ」
「……さっきの自分の発言と矛盾していると思わないのか」
「それはそれ、これはこれ、だろ」
ジークフリードは眉を下げると軽く息をついてから、もう一度ユーハバッハのことを呼ぶ。変なところで強情だと知っているユーハバッハは諦めたような顔でその隣に座る。
なんでもない森の中で二人並んで地面に座り込む。場所が森か屋根かの違い程度で、それはさして変わらない日常の景色だった。
「……ジーク」
「おう」
「本題はここからだ」
「へ?」
きょとんとした顔をするジークフリードに、ユーハバッハは肩を落とす。そうだ、ユーハバッハが霊王の力の具現であることも、転生を繰り返す存在であるということも、これからする話の前提に過ぎない。
「お前の宗教観では理解し難いだろうが、私は自己の魂を保持したまま転生を繰り返している」
「ああ、さっきもそう言ってたな」
「そして私は本来、もう少しだけ早くこの世に生まれてくるはずだった」
温かい澱みの中のことを覚えている。死海のような羊水のようなあの空間。なにもなくて、すべてがあって、さみしくて、みたされていた時のことを。
堕ちていくその先の微かに指先を掠めるような感覚のことを、今もなお、ずっと。
「私は生まれていくはずの魂に寄生し、それを自分のものに塗り替えて己のものにする。そういうふうにできている。だから、あの時も同じようにそうしようとした」
「……ああ」
「だが、できなかった。拒絶されたのだ。それは魂にではない。むしろ魂は私を受け入れてくれた。拒絶したのはその外側だ。あれは狂信者の擬似的な
「…………」
聞き馴染みのない言葉の群れ。必死に話についていくジークフリードは眉間に皺を寄せながら、不意にこれ以上話を聞いていいのか不安になる。
自ら望んで問いかけておきながら、知ってしまったが最後もう二度と戻れないのではないかという予感が心臓に張り付いて止まない。
心の奥底で何かが疼く。知らないはずの何かを思い出しそうになる。何かを忘れている。そんな気がした。何かを忘れていたことを思い出しそうになる気がした。微かな痛みに似た感覚。
顔を上げて、その紅い瞳を見つめる。きっとそれをずっと昔から識っていた。そんな気がした。それを、その魂と重なり合ったあの感覚を。
その不可思議な感覚にジークフリードは蟀谷を押さえながら咄嗟に声を絞り出す。
「待て……まって、ユーフェン、なあ、俺……知らないのに、きっと識ってる気がして……」
「……お前を傍で見守っていた司祭は優秀だった。概念同然の状態とはいえ、霊王の力を退けたのだから」
「あ……」
「ジーク」
こちらの名を口にするユーハバッハと目が合う。笑っているように見えた。泣きそうにも見えた。
どうしてそんな顔をしているのかわからなかった。
「……私のことを、覚えているか?」
……その表情に、覚えていると言ってやりたかった。
けれど、なにも覚えていなかった。知らない。なにも覚えていない。
当然だった。それはジークフリードが生まれてくる前の出来事。肉体としての五感は無く、知覚と呼べるものは何も無かった。残るものがあるとすればそれは微かに残る魂の記録。けれど二人の間にあったのは概念の書き換え。忘却補正。事象としてジークフリードの魂はユーハバッハに塗り潰されなかった。だから、そんなことは起こらなかった。すべてを消して白紙に戻した。そういうことにされた。
消されたという事実だけが微かな痕跡として世界に残る。ジークフリードが感じているのはその残滓のようななにかだけ。
だから、覚えていない。
そう、ジークフリード・ジンツァーはなにも覚えていない。なにも、知りはしない。
だから、答えられない。
顔を歪めながら何も言えずにいるジークフリードを静かに見つめながらユーハバッハは言葉を紡ぐ。
「滅却師の力は血筋においてのみ覚醒する。だが、お前の血縁に滅却師はいない。お前の血潮の中に滅却師の力は無い」
懐かしむように目を細める目の前の子供はまるで老成した仙人かのようだった。それでいて、長年の時を経て再会した友のようでもあった。
「お前の滅却師の力が存在しているのは、その魂の中にだけ」
ユーハバッハは口元へ僅かに微笑みを湛えると、ジークフリードの胸元へ手を伸ばした。彼には直接ふれず、彼を守るような十字架越しに彼へふれる。
「あの時、私が奪うためにふれた魂、それこそがお前だった。お前の魂と私の魂が混ざり合おうとしたあの瞬間、
温みには遠い。硬い十字架の感触だけがユーハバッハの指先にある。欠けていた魂がその先にあると知っていたから、ふれられなかった。
深く息を吐く。それから、言葉をこぼす。
「お前の魂の中に、私の魂があるのだ」
「……ユーフェン」
その呼び声にユーハバッハは答えなかった。奪い続けるばかりの魂が、初めて奪わずにいられたヒト。その時にはわからなかった奇跡のような存在が今は何よりも眩く、尊かった。
「……ジーク。ジークフリード・ジンツァー」
その響きを好ましいと思っていた。
私にならなかったお前の名を呼べることが、嬉しかった。
「私は、お前の中にある私の魂を取り戻さなければならない。……お前が生きている限り、私の魂はずっと不完全だ」
……例えそれが、いつか自分の手で殺さなくてはならない一瞬の輝きだとしても。
ジークフリードがいる限り、ユーハバッハの魂は欠損し続ける。
生まれた時からずっと己が不完全なままだと気がついていた。それは孔のように、傷のように。他者の魂では補うことなどできるはずもない。そして、魂が欠けたままでは全知全能の力を得ることなど不可能だと気がついていた。
あの時取り零した己の魂を取り戻すためには、ジークフリードの魂ごと奪わなければならない。
そしてそれは、ジークフリードの命を奪うことと同義だった。
ユーハバッハは俯いたまま、ジークフリードへ縋り付くようにその胸へ爪を立てる。
吐き気がした。きっとジークフリードもそうだろう、と思った。彼は今どんな顔をしているのだろう。恐怖か、嫌悪か、憎悪か。ずっとそばにいた者が己を喰らうことを望む化け物だと知って、一体どんな顔をしているのだろう。ユーハバッハは顔を上げることができなかった。
そんな彼の小さな背中にジークフリードはそっと掌を置く。薄い布地越しに感じる手の温もりが今のユーハバッハにはひどく、痛かった。
「ユーフェン」
何度も呼ばれた名を再び呼ばれる。すっかりその呼び名に馴染んでしまった。その文字の羅列が、己を指していると理解するようになってしまった。それくらい、お前のそばに居過ぎてしまった。
俯いたまま顔を歪めるユーハバッハへ、ジークフリードはその背に手を置きながら、言った。
「じゃあ、いつにする?」
「………………は?」
あっけらかんとした声音に、ユーハバッハは思わず顔を上げた。
初めて、他人から何を言われているのかが理解できなかった。
初めて、他人が何を言っているのかが理解できなかった。
目を見開いて困惑するユーハバッハに、ジークフリードはいつもと変わらない表情で唇を開いた。
「え?だから、お前に返さないといけないんだろ?魂ってやつ。いつ返しゃあいいの?」
「は?」
「いや、だから、俺は全然身に覚えねえけど、俺は生まれる前にお前から魂をもらってる。んで、それをお前に返さなきゃいけない。だからさ、いつ返したらいい?いつが都合良いわけ?お前としては」
「は!?」
「うわ声デカ。お前腹から声出せんだな」
まるで借りたゲームの話をしているかのような気安さ。いつもの軽口のような態度でジークフリードはそう言って笑う。ユーハバッハは思わずジークフリードの胸倉を掴みながら、混乱したままの頭で無理やり言葉を吐き出す。
「……は?……お前……ジーク、お前、お前は、馬鹿……なのか……?」
「誰が馬鹿だ、マジな顔で人の悪口言うな」
「お前は自分が何を言っているのかわかっているのか……?いや、私が何を言ったのか本当にわかっているのか……?」
「んなこたあ、わかってるよ」
「……ッ!わかっていない……!お前は何もわかっていない……ッ!」
ユーハバッハはジークフリードに掴み掛かったまま顔を歪める。ユーハバッハは自分が怒っているのか、悲しんでいるのかさえわからなかった。ただただ胸の奥が苦しくて、それを吐き出すように声を荒げる。
「魂とは人の肉体を動かす核となるものだ!そこに魂がなければ人の体などただの肉塊に過ぎない!私は、その魂をお前から奪うと言っているのだ!いいか、物分かりの悪いお前にもわかるように言ってやる……!」
引き攣る喉。一瞬の躊躇いを、確固たる意思を持って踏破する。後には戻れないとわかって、叫ぶように言った。
「私はお前に死ねと言ったのだ!」
「……ああ、わかってるよ」
それなのに、ジークフリードは当たり前のようにそう答えた。呆然と見つめるユーハバッハを見つめ返しては、「お前が思うほど馬鹿じゃねえって」と口角を上げる。
「……死んでも、いい、と?」
「まあ、人間みんないつか死ぬしな。……あ、いやこれは流石に雑な言い方だけど」
ジークフリードはそう答えてから、固まったままのユーハバッハの目を覗き込んで笑う。普段ならば見ることのないユーハバッハの激昂する姿が興味深くて仕方ない様子だった。
「まあ、こっちの話も聞けって。俺だって別に何も考えてないわけじゃねえしさ」
ジークフリードは宥めるようにユーハバッハの背を軽く叩くと、少し視線を上に上げて考えながら話し出した。
「俺がお前の魂を持ってるって、お前だって別に今気がついたわけじゃねえだろ?結構前から気が付いてた。気が付いてて、言わなかった。多分、今日俺が聞かなかったらお前はきっと言わなかった。違うか?」
「…………そうだ」
「やっぱな。だからって、内緒にしといてそのうち何も言わずに俺を殺そうと思ってた……ってわけでもないんだろ?」
問いかける体をしながらも、ジークフリードはほとんど確信を持ってそう口にする。彼がそう思う理由はひどく単純だった。
「だって、もしそう思ってたのならなんでお前は俺にいろんなこと教えてくれたんだって話になる。どうせ殺すのに、虚のこと、滅却師の力のこと、その力の使い方のこと、なんでそんなことたくさん教えてくれたんだ。なんでどうせ殺す相手と、一緒に屋根登って鳥なんか造ったんだよ」
「…………」
答えられないユーハバッハに、構わないとばかりに手を振ってジークフリードは眉間の皺を緩めて相好を崩した。それから自身の胸倉を服が皺になるくらいに硬く握るユーハバッハの拳をゆっくりと解いてやる。そして「……わかるよ」と穏やかな声で彼は言った。
「俺たち、一緒にいて結構楽しかったよな」
ほんの少しも疑う様子のない顔でジークフリードは綻ぶように微笑む。
その声に、言葉に、ユーハバッハはようやく理解に至ってしまう。
どうしてこれまで何度も転生を繰り返しては続けてきた簒奪に強い嫌悪を抱くようになってしまったのか。どうして目の前にある己の魂の欠片を奪う事を躊躇い続けてしまったのか。どうして、いつか、きっといつかと先延ばしにして目を逸らし続けてしまったのか。
……初めての友だった。
くだらない話をして、馬鹿なことをして、ささやかな秘密を共有して、笑い合う。そんなありふれた、どこにでもあるような、得難い出会いだった。
「別に今すぐじゃなきゃダメってわけでもないんだろ?だからさ、ユーフェン、いいよ。お前が望む時に返すよ。だって元からお前のものなんだ。『誰に対しても借りがあってはなりません』だろ?ならちゃんと返さないとな」
ジークフリードは解いてやったユーハバッハの手を取ると、子供をあやすようにその手をゆらゆらと揺らす。揺らされるその手のように瞳を揺らがせながらユーハバッハは無二の友を見つめた。
嗚呼、と息をこぼす。
呪われたほうがマシだ。そう思った。憎まれたほうが、恨まれたほうが、よほど良い。それならどれだけ良かっただろう。そうだったのなら、その憎悪を杭にして心へ刺し続けながら生きていくこともできたはずなのに。
何も言えないまま表情を失くすユーハバッハに、ジークフリードは少し呆れた顔で「めんどくせぇ奴」と笑った。
死ねと口にするくせに、じゃあ死んでやると返せばそれはそれで嫌だという顔をする。
その矛盾が面倒くさくて、しかしあっさりと割り切れてしまうより好ましく思う。自己矛盾を抱えながらそこに決着をつけられずに生きていくことこそが人間らしさだろうと思うから。
「仕方ねえな、面倒くさいお前にありがたい説教でもしてやろう。お前がとびきり嫌いそうなやつだ」
ジークフリードは気取ってそう言うと指を一本立てた。無意識にそこへ視線を向けるユーハバッハの様子を見つめながら唇を開く。
「
ジークフリードは刺した指の先をくるくると回す。それはどこまでも高い空と、彼の夢想の中で空よりさらに高いところにある天を指している。
「木に生える葉のひとつひとつも、空に流れる雲が千切れていく様子も、毎日変わることのない時間の流れも、俺の手の皺の一本一本も、人と人の出会いも、この世に溢れるあらゆる出来事も、そして当然お前のことも、全て主が作り、主が管理している。何の例外もなく、一部の隙も無く、だ」
「……私の嫌いな話だ」
「言っただろうが、お前の嫌いな方の説教をするって」
表情の硬さは残れど文句を言えるようになったユーハバッハに少し安堵しつつ、ジークフリードは続ける。
「すべては神の思し召しってやつだよ。俺たちが偶然や運命や奇跡と思うような出来事も全部初めから主が人々を救うために作った道筋の中なんだって」
露骨に嫌そうな顔をするユーハバッハに、ジークフリードは気にせず笑って言った。
「誰一人として取り零されてなんかない。すべては経綸の中にある。お前が生まれたことにも、俺たちのこの運命にも全部意味があるんだよ」
きっと生まれ育った村で得てきたものなのだろう、穏やかに語りかける声音とその考え方は一人の信徒として清らかなものだった。もしもそのような運命の道があったのならば、ジークフリードは故郷の司教を師と仰いで聖職者になっていたのかもしれない。
「……下らない」
けれどそれはユーハバッハにとって唾棄すべきものだった。神も、その経綸も、運命も何もかもが下らなく、無価値で、塵同然だった。
「すべては神の経綸?すべてのことには意味がある?……なんて、下らない。神なんてものはいない。真に神がいるのならば、救われるべき人間など生まれない。神が初めから正しい者のみを作るはずだからだ。初めから全ての者が救われているはずだからだ」
ユーハバッハはジークフリードの手を軋むほどに強く握り込むと、それを彼の胸に強く押し付けた。睨むような目つきでその碧い目を逸らさずに見つめる。
「神とは己の正しさを信じ切れない人間の弱さが作り出した幻想だ。経綸など、自分に不都合な事象に対して都合の良い理由をつけるための言い訳に過ぎない。すべてのことに意味があるのなら、人を殺し、奪うことでしか生きられない化け物にも意味があるのか?すべてのことが決まっているのならば、奸計によって死ぬことも許されないまま世界の礎にされることさえ正しさだというのか?……私が、お前を殺すことにも価値があると、そう言うのか?」
答えてみろ、と色濃く染まった紅玉がジークフリードへ迫る。
何度も何度も生と死を繰り返してなお辿り着くことはなかった。何度も見てきた。人の死を、苦しみを、嘆きを、愚かさを、裏切りを、絶望を、憎悪を、悲しみを。何度生を繰り返してもそれはあり続けた。真に救われる者などいなかった。一度だって救われたことなど、なかった。
吐き捨てるような言葉をジークフリードは真正面から受け止める。ユーハバッハが神や宗教を嫌悪していることを知っていた。その理由も今のジークフリードには少しだけわかる気がした。だから、あえて笑って見せる。
「ユーフェン、あのさ、俺もちょっとだけわかるよ。信じ切れないよな、神様なんて」
ジークフリードは内緒話をするように声を潜めて、それから悪戯気に笑う。ユーハバッハはその表情に不意をつかれたような顔をした。痛いほどに握っていた手から少しだけ力が抜ける。それをむしろこちらから握り返して、ジークフリードは唇を開いた。
「人は弱いから自分達に降りかかる困難に理由をつけたくて神を生み出した。そんな考えがあるのも知ってる……し、ちょっと納得する気持ちもある。あんま人には言えないけどな」
「……背教者め」
「うるせえな、そもそも俺はそんなに敬虔じゃねえんだって。……まあ、でもさ、仮に神様が人に作られたものだとしても、人が弱いから神様を作ったなんて俺は思わねえよ」
「ほう、人間讃歌でも語るつもりか?人は弱くない、とでも?」
挑発するようなユーハバッハの言葉に、けれどジークフリードは気にするでも無く口元に小さく笑みを作って首を横に振った。
「……ううん、きっとお前の言う通り、人は弱いんだ。だからきっと弱くても生きていけるように、少しでも前を向いて歩けるように、生きていくための杖として神様を生み出したんじゃねえかな」
これはちょっとした祈りに近い。正しい答えなどない。そうであって欲しい、というささやかな祈りに過ぎないから。
「弱さを自覚して、それでも真っ直ぐ正しく生きようとすることは強さだと思う。片脚が無いからって杖をついて歩く人を、俺は弱いとは思わない」
そう呟いてから、ジークフリードは一度深く瞼を閉じる。
ジークフリードが思うに、ユーハバッハは救われたいのだと思う。救われたい。生まれたことを許されたい。自らの存在を肯定したい。
けれど、既存の神や宗教ではそれを満たせなかった。知れば知るほど、己の存在が肯定できなくなっていく。だから嫌悪し、拒絶し、突き放した。
「……結局人間讃歌の話ではないか」
「……そんなつもりじゃなかったんだけどな」
だからこそ、ジークフリードは彼のために死んでも良いかなと思ったのだ。
死ぬのが怖くないと言えるほど無知ではなかったけれど、あまり迷うことなく死ぬための選択肢を選べるくらいには無知だった。
ジークフリードはあんまり死について知らなかったから、「ユーハバッハのために死んでも良い」というジークフリードの言動が、ユーハバッハにとって「自分は他者に命を捧げられるほどの価値がある」という意味になるのではないかと思ったのだった。自分が大切に思う他者の命と等しいだけの価値があると思えるようになるのではないかと思ったのだ。
しかし、それはこれまでに何千何万という命を無理矢理己へ捧げさせて生き存えてきたユーハバッハには無意味だった。
それどころか、友にそんな事をされてむしろデカめのダメージを受けていた。
ジークフリードもユーハバッハの反応的に、己の付け焼き刃の説教では何にもならなかった事を察して少し反省する。微かな沈黙。吹き抜ける風だけが不自然に爽やかだった。
「ユーフェン」
「……なんだ。言っておくが宗教の話はたくさんだぞ。もう聞きたくもない」
ユーハバッハは首を横に振って、ジークフリードの手を離した。それから小さく丸まるように膝を抱えてその膝に自身の頬を押し付ける。
ジークフリードも少し疲れて、なんだかこれ以上真面目な問答はしたくなかった。その場に仰向けに寝転がって、問いかける。
「魂が足りないってどんな感じ?」
「いつも小腹が減ってる感じだ」
「うける」
それから兎を造って遊んだ。ユーハバッハの造る兎があまりにも酷いから、本物の兎を探しに敷地の中を二人で歩き回った。
兎は見つからなかった。
◇
Owe no one anything, except to love each other, for the one who loves another has fulfilled the law.
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
『ローマの信徒への手紙』より