「ジャガイモってさあ」
「ああ」
「食うとうまいじゃん」
「なんだ急に」
「でもなんか、俺が調理したのを食うと毎回腹が痛くなる」
「……それは芽を取ってないだけではないのか」
「目?」
「ああ、芽には毒があるからな」
「えっ?ジャガイモって目があんの!?」
「あるだろう、植物なのだから」
「えっ!植物ってみんな目があんの!?」
「何を言っているんだお前は。あるに決まっているだろう。農夫だったくせにそんなことを知らなかったのか」
「し、知らなかった……。えっ、目を取るって、なんか可哀想だな……。やっぱ抉るのか?」
「何をもって可哀想という思考に至るのかまるでわからないが、そうだ、窪みのところを抉り取る必要がある」
「あー、ジャガイモのあの窪みか……あれって目だったんだ……そう思うとたくさんあってキショいな……」
ウワーと嫌そうな呻き声を上げながら、ジークフリードはユーハバッハの部屋のベッドの上に寝転がって足をばたつかせた。
本人たちにその感覚が無いため形骸化しているとはいえ、仮にも主人と使用人の関係である。
主人のベッドの上で寝転がる使用人の姿などというあまりの不敬っぷりだったが、ジークフリードは大人に見られてないし別にいいやと思っている。
その上、他でもない主人たるユーハバッハが塵ほども気にしていない。
彼はソファに座ったまま、自分とジークフリードの間に些細な認識の違いが生まれていることには流石に気がつけず、ジークフリードに対してどうしてこの男はこう変なところで無知なのだろうかと改めて思っていた。
つまりは二人のいつも通りの日常である。
数日前に交わした魂や転生の話を経てもなお、二人の関係は変わらなかった。毎日のように顔を突き合わせて、食事をし、会話をし、滅却師の力を扱う練習をし、また明日と言って別れる。そんな日々の繰り返し。
自分はそのうちユーハバッハに殺されるという事実を、ジークフリードは当たり前のように受け止めて日々を生きている。
覚悟は幸福と言った者もいるが、それに近しい。己の運命を受け入れ、腹を括ったとも言えるだろう。自己犠牲を厭わない精神性は従順な子羊だったが、腹の決まり具合は戦へ向かう戦士のそれだった。
むしろ容易く友の生殺与奪権を得てしまったユーハバッハのほうが困惑していた。
友を殺さなくてはならないこと。そして当の友が抵抗するどころか「殺していいよー」とヘラヘラしていること、そんな状況に困惑していた。
なので今は期日がないのをいいことに考える事を放棄している。むしろ何故ジークフリードの覚悟がそんなにも完了し切っているのかがよくわからないくらいだった。
開け放った窓からは穏やかな風が入り込み、ユーハバッハはそれに目を細める。
ユーハバッハの胸の裡にあるのは何度生を繰り返しても変わることのない諦観だ。すべてを真正面から受け止めるには、現実は、世界はあまりにも重く苦しい。人は死ぬ、それは変えようの無い定め。
だからずっと考えていたことがあった。
死とは無だ。かつて人は生と死の境界が曖昧な世界を壊して、世界を三界に分けた。そのくせ人類は死を踏破できないまま、たった一人の楔を頼りに今にも崩れ落ちそうな世界を生きている。
死を踏破できない限り、人は必ず虚無に帰すしか無い。死がある限り、人は救いようが無い。終わりに向かうだけの消費される生命に過ぎない。
だから、望まずとも生かされる命を終わらせ、繰り返される生と死を止め、死という恐怖からあらゆる生命を解放する。
この世から、死という概念を失わせる。それこそが、ユーハバッハという神による救済。
数奇な運命を辿り続ける自分にだからこそ成し得るそれが人類における救済なのではないか、と。
……けれど、ユーハバッハはそれが建前に過ぎないと内心で気がついていた。
真に死の恐怖に怯えているのは自分自身に過ぎないと。
本当に救われたいのはユーハバッハ自身であり、そしてユーハバッハが本当に救いたいのは──。
「……ジーク」
「あんだよ」
「私の部屋に大量に兎を増やすな」
「お前のつまんねー部屋に可愛げを足してる」
ユーハバッハの足元を数羽の兎が駆け抜けていき、ベッドの上では兎たちがわんさか跳ねている。挙句、図々しい兎がソファに腰掛けるユーハバッハの膝に乗ってきた。
以前のように足蹴にしてやろうかと思ったが、なんとはなしにふれた体毛が思っていたよりも柔らかく、その気が失せる。兎はユーハバッハの腿と腿の橋になるように体を伸ばして寝転がる。その頭に手を置いてやれば、兎は耳を倒して目を瞑った。
「いいぞ兎!そのままユーフェンの膝の上でうんこしろ!」
「したら殺す」
兎は震えることしかできなかった。
そんなこんなで、ジークフリードは部屋の床を兎をいっぱいにした後、日が沈む前に「また明日な」と言っていつもより少し早く部屋を出て行った。
前にユーハバッハと裏庭を歩いたのが楽しかったのか、母親であるメリダと少し外を散歩をする約束をしていたらしい。
黄昏の中、よく似た赤毛の二人が屋敷の庭を歩いているのを、ユーハバッハは部屋の窓から眺めた。
ジークフリードはいつもよりずっと緩い歩調で歩いていて、時折母と楽しげに言葉を交わしているらしく笑った顔のままよく動く口が見えた。
それを眺めるユーハバッハの内心に、筆舌難い感情が湧いてくる。
もしかしたら自分だったかもしれないジークフリードと、もしかしたら自分の母親だったかもしれないメリダの並ぶ姿を前に生まれてしまった感傷。
嬉しいのか、哀しいのか、羨ましいのか、淋しいのか、そのどれでも無いのか、自分でもよくわからない。ただもしも自分がジークフリードの魂を奪って生まれてきていたら、あの眼下の景色が生まれていなかったことだけはわかる。
ユーハバッハが一番最初に殺すのは、その肉体に一番長く接触していた母親だからだ。
自分には作り出せない景色、ましてあの二人と自分が共に並ぶことなどあり得なくて、許されるはずもなくて、脳裏に浮かびそうになるもしもの空想を何度も殺した。
目を焼く光。目を瞑る。薄い瞼に西日が刺さる。
瞼の裏に焼きつく景色を、手に届くことのない奇跡を、──美しいと思った。
メリダ・ジンツァーの死亡が確認されたのはその翌日のことだった。
「ジンツァー」
地を這うような低い声がジークフリードのラストネームを呼んだ。向かい合うソファのそれぞれに腰をかけたまま、ジークフリードはブルクハルトへぼんやりと視線を合わせる。
ブルクハルトの執務室に入るのは初めてだったが、彼らしい部屋としか言いようがなかった。執務机の上は最低限のものしか置かれておらず、本棚には隙間無くきっちりと本が入っており、私物と思われる類は見えない。人を招く事を前提とした部屋とはいえ、彼の真面目で几帳面な性格が表れているようだった。
そんなことをふわふわする頭のどこかで考えていた。
「……母君のことは残念だった」
「ああ、いや、そんな……」
「彼女を最初に見つけたのは君だと聞いていたが、本当か?」
「はい」
母の死体を最初に発見したのはジークフリードだった。
いつものように朝に母親へ顔を見せに行った彼はいつものように彼女の部屋をノックした。特に返事は無かったが身内だからといつものように気にすることなくドアノブを回し、いつものように声をかけながら中に入ったのだ。
その先にいつも通りじゃない彼女が彼女の体が彼女の死体が彼女だったものがあった。それを見つけたのがジークフリードだった。
「すまない、とても……ショックだっただろう。君に見せるものでは無かった。我々大人が先に見つけるべきだった」
「いえ……朝は、いつも会いに行ってたから……」
「私も確認したが、およそ人の所業ではなかった。あんな事をする者は悪魔の類に他ならない」
自分の母親の死体がどんなものだったか、ジークフリードはあまり覚えていない。今朝のことなのにあの時の景色は酷く曖昧で、漠然としていて、何を見たのか何を見てないのかもよく思い出せない。ただ、それでも穏やかな顔をしていたことと、右脚が失くなっていたことだけは覚えている。それしか。それだけは。
物憂げにこちらを見つめるブルクハルトの様子が珍しくて、この人もこんな顔をするんだなとジークフリードはなんともなしに思った。あまり関わりもせずに怖い人だと判断していた事を内心で反省する。
「すまないが、彼女はこちらで埋葬させてもらう。あのような姿を君に見せるのは、きっと彼女も望まないだろう」
「はい」
そうかもしれないと思った。でも実のところあまり何も考えていないまま返事をしたような気もする。ただ、今の自分にはしなくてはいけないたくさんのことができる気もしなくて、だからブルクハルトの提案はむしろありがたかった。ジークフリードは「ありがとうございます」と礼を口にする。そうすればブルクハルトはむしろ眉間にぐっと強く皺を寄せた。
「悲しみを否定する必要はない。だが死を不安に思う必要もない。罪と死が原初の人類によってもたらされたように、我々は恵みと義の賜物を救世主により齎されているのだから」
「そう、ですね……」
懐かしい言葉に頷いてから、ジークフリードはふとこの人も教えの言葉を引用するのだな、と思った。この屋敷で神と扱われているユーハバッハが嫌悪していたものだから、ブルクハルトも同じように嫌悪しているものだと思い込んでいた。
なんとなく不思議に感じて、ジークフリードはぼうっとブルクハルトを見つめる。そうすれば、彼は真っ直ぐに青年の瞳を見つめながら唇を開いた。
「ジンツァー、今の君に何かを判断するというのは酷く難しいことだと思う。だが、聞いてほしい」
「はい」
「……君は、此処を離れて故郷に戻ってはどうだろうか。元より君がこの屋敷に来たのは母君の意思だろう。彼女がいなくなった今、君がこの場所に居続ける理由もあるまい」
「……それは………」
「誤解しないでほしいのだが、なにも君を追い出したいわけではない。ただ、今の君に必要なのは心を休められる安全な場所のはずだと思っているだけだ」
不思議な事を言う、とジークフリードは思った。
まるでここが安全な場所
「……あの、ブルクハルトさん」
「ああ」
「俺、まだ、うまく考えられなくて……だから……」
「いい、構わない。ゆっくりと考えてほしい。いつ答えを出してくれてもいいんだ。故郷に帰る事を選ぶのならば送り届けるし、君が此処にいたいというのならば私は君を守ろう。それ以外の選択肢だってたくさんある」
「……それ以外?」
「ああ、此処でも故郷でもない場所なんて、世界にたくさんある。それに君は……」
不意に言葉を途切れさせたブルクハルトにジークフリードが不思議そうな視線を向けると、彼は少しばかり青年を見つめた後に小さく首を横に振って「君は善良な人間だ。きっとどこででも生きていける」と口にする。その口元は小さく微笑んでいるようにさえ見えた。
その後、話を終えて部屋を出ようとするジークフリードをブルクハルトは最後に呼び止めた。
「これを君に」
そう言ってハンカチを差し出した。
それを見てジークフリードは咄嗟に自分の目元に手をやる。自分が気がついていないだけで泣いているのかもしれないと思ったからだ。けれど、その目元は少しも濡れていなかった。
そんなジークフリードの様子にブルクハルトは慮るような声で言った。
「悲しみとは大抵、後から来るものだ」
「ブルクハルトさん……」
「これから必要になるかもしれないだろう、持っていなさい」
「……ありがとう、ございます」
清潔そうな白のハンカチを受け取って、ジークフリードは目の前の大人に頭を下げた。
そうしてブルクハルトの執務室を出てから、ジークフリードは不意に1人になりたいと思った。
漠然とした不安や寂しさに襲われて、首から下げている十字架を無意識に握り込む。今はただ安心できる場所を探して、ふらふらと歩き出す。
「……それで、何故私の部屋に来る」
呆れたような声音に、けれどジークフリードは何も返さなかった。
突然ユーハバッハの部屋にやって来たかと思うと、ジークフリードは彼のベッドの上に横たわって何も言わずにただただぼんやりと空中を眺めてばかりいる。
ユーハバッハはその傍に座りながら、返事をしない友人に肩を落とす。
何故ジークフリードがこんな様子なのか、何があったかについてはこの部屋から出ていないユーハバッハにもわかっていた。何が起こったのかということについては、むしろ誰よりも知っていたと言える。
無音の部屋。窓が閉められた密室の中では空気の動きが無い。いつになく空気が重かった。
「……1人になりたかったんだよ」
ふとジークフリードがぽつりと呟いた。ユーハバッハは彼へ視線を向け、その矛盾した発言に問いかける。
「ならば何故私がいるとわかってここに来た?」
「…………だって、1人はさみしいし」
か細い声でそんなことを言ってから、ジークフリードはベッドの上で胎児のように小さく丸まった。唯一の肉親を亡くして嘆き、消沈する姿は痛ましい。だからこそ、ユーハバッハは彼が何故ここに来たのかわからなかった。
「ジーク、お前は愚かではない。だから本当は理解しているのだろう」
問いかける体をしながら、ほとんど断定するようにユーハバッハはそう口にする。抱えた膝に額を寄せて身動ぎしないジークフリードを見つめたまま、ユーハバッハは息を吐いた。
「メリダを殺したのは誰なのか」
「……殺されたとは限らないだろ」
「いや、殺された。人間があんな死に方をするわけがないだろう」
「……死に方とか、よく覚えてない」
「ならば思い出せるよう教えてやろうか?彼女の身体は肉が融──」
「ユーフェン」
遮るようにジークフリードはユーハバッハの名前を呼んだ。そのあまりにもか細い静止の声に、けれどユーハバッハは咄嗟に言葉を止める。
「……その話、いやだ。やめてよ」
「…………」
「怖い話、しないで……」
「………………ああ、すまなかった」
微かに怯えを纏った声に、ユーハバッハは頭が冷えるのを感じた。冷静ではなかったのはお互いにだった。
それでも、とユーハバッハは内心で独りごちる。
メリダを殺したのは私だ、と。
ユーハバッハは自らの力を分け与えた者から力を簒奪することができる。任意のタイミングで強制的に奪うことも可能だが、そうしなくてもユーハバッハに力を与えられた人間は長くは持たない。
早ければ数日、長くても数年で怪死し、ユーハバッハに力が返ってくる。そして今のユーハバッハに他者から強制的に力を奪う理由はなかった。
メリダが死んだのはユーハバッハの意思による簒奪のためではなく、彼女に与えられた時間が終わったことによるものだった。
ユーハバッハが望む望まないに関わらず、その時がやって来た。ただそれだけのこと。
「……ジーク」
目を伏せ、ユーハバッハは友の名を呟く。
何故救われるべき善良な者ほど世界の嘆きに晒されるのだろう。
何故自分は護りたいものからこそ奪わねば生きていられないのだろう。
答えがあるのならば、教えて欲しい。
その意味を、価値を、理由を。
「ユーフェン」
不意に名を呼ばれて、ユーハバッハは視線を彼へ向ける。ジークフリードは体を起き上がらせると、ぐっと腕を天井に突き上げて伸びをした。それから深く息を吐いて、自分の両頬を両手で挟むようにして叩く。
「おし!ユーフェン、さっきは大人げない反応して悪かった。でもお前も意地の悪いことしようとしてたから喧嘩両成敗な。むしろ若干お前の方が悪かったぞ。その性格の悪さ早く治せよ、もう無理そうだけど」
「……お前のその切り替えの速さはなんなのだ……」
「切り替えてねえわ。引き摺りまくりだっての」
先ほどまでの落ち込みっぷりが嘘のようにいつも通りの声音に戻ったジークフリードに、ユーハバッハは驚き以上に呆れ、呆れ以上に訝しんだ。
そんなユーハバッハの反応に鼻を鳴らしたジークフリードは「俺がいつも通りだと文句あんのか」と返す。
「……虚勢はいつか破綻する」
「虚勢じゃねえよ。思い出したの、俺は」
「なにを?」
「幸せそうだった、って」
ジークフリードはそう言って口角を上げる。その表情をユーハバッハは静かに見つめ返す。
「わかってるよ、俺だってそこまで馬鹿じゃない。前にお前は魂を奪うとか命を奪えるとかそんな話をしてた。だから今回のもきっとお前の力なんだろ」
「……そうだ。私は他者の魂に力を与えることで、その者の傷や孔を埋めることができる。だが、それは期限付きだ。やがて私の力は与えられた者の魂を侵食し、蝕んでいく。そして人間の魂はそれに耐えられずにやがて自壊する」
「……母さんは、だからってことか」
「そうだ、私に与えられた時点で……彼女の脚が治った時点でこの結末は決まっていた」
目を逸らすのは卑怯だと思ったから、逸らさなかった。
それを誠実さと呼ぶにはあまりにも遅すぎると知っていたけれど。
「そっか」
「……ジーク、思う事があるのならば口にしろ」
「なんだよ急に」
「お前の目の前にいるのは母親の仇だぞ。「殺してやる」の一言も言えないのか」
「なんでそうなる」
「なぜそうならない」
「仇だと思ってねえからだよ」
本心からの言葉だとわからないようなユーハバッハではなかった。なかったからこそ、その言葉が理解できない。小さく零した「どうして」という言葉がジークフリードに届いたのかそうでないのか、それでも答えは返って来た。
「母さんさあ、俺が思ってた以上に脚失くしたこと気にしてたみたいなんだよな。まあ働きに外に出れねえし、奇異の目で見られるし、1人じゃできないことも多かったからさ。俺は別によかったけど、俺の手を借りるのも、本人は望んでそうじゃなかった」
「だろうな、他人への依存を前提として生きることは辛いものだ」
「うん、だから母さんはユーフェンに脚を治してもらえて幸せだった。自分の脚で立って、歩けることが何より嬉しかったんだって言ってた」
「……だが、そのせいで彼女の運命は捻じ曲がって死んだ。彼女はこんなにも早く死ぬはずではなかった」
「それでも、だよ。苦しみながら長く生きるのと、生き生きと早く死ぬことのどちらがより幸せかなんて俺は知らない。けど、死ぬから人は不幸なんだって言うのなら、生きていた時の幸福からも目を逸らさないで欲しい」
「……そう、言えるものなのか……」
「……なあ、ユーフェン」
人の死は悲しい。けれど、その悲しみは生きていた時の幸福を白紙にできるものではない、と彼はそう口にした。
嗚呼、何故救われるべき善良な者ほど世界の嘆きに晒されるのだろう。
何故自分は護りたいものからこそ奪わねば生きていられないのだろう。
──何故、奪われ続けてきた者ほど、誰かに与えようとするのだろう。
「ありがとう、お前のおかげで母さんは幸せだった」
その時、ジークフリードはようやく涙を流した。
ユーハバッハに向けて綺麗に笑って、その笑顔のまま頬に涙が伝う。
それからジークフリードは決壊するように顔を歪め、俯き、喉を引き攣らせて幼子のように泣いた。
子供の頃ならまだしも、成長してからはもう長いこと涙を流していないジークフリードは上手く泣くことができなくて、苦しそうに痙攣する喉で必死に浅い呼吸を繰り返す。
それを前にユーハバッハは固まった。絶望でも恐怖でもない感情で、他人がこんなふうに涙を流す姿を見たことがなかったのだ。
目の前で何か大変なことが起きているが、どうしたらいいのかわからない。そんな状態だった。
けれど、何もしないということも出来ず、ベッドの上のシーツを無理やり引っ張ってジークフリードの顔に押しつける。
「うっくく、なんだよ、っ、息しづら」
「お前が、急に泣くのが悪い……」
「もっと、他にあるだろ、なんか、こんなデカいシーツじゃなくてさあ」
シーツから顔を出してジークフリードは呆れたように笑う。濡れた赤い目元に怯むが、笑っていたからひどく安堵した。まるで赦されたかのような、そんな感情を抱いた。
その時、ユーハバッハはジークフリードを前にして初めて、そしてようやく本当の意味で安心したのだ。
前提として、長く深い絶望の中にいた者は他者へ助けを求めることが難しくなる。
それは諦観故にであり、恐怖故にであり、苦痛故にであり、自己嫌悪故であり、根本的にはその絶望そのもの故にである。
絶望の中にいるものには救われる覚悟がない。
人を救うために第一に必要なのは、その者に救われるための覚悟を抱かせること。
差し伸ばされた手を掴み、震える脚で前に進むためには、顔を上げ、立ち上がる必要がある。
自分は立ち上がってもいいと、自分は救われてもいいと、差し出された手を信じていいのだと、そう思えることこそが第一となる。
そしてそれが、ようやく今だった。
ジークフリードにその自覚は無かっただろう、それどころか彼はユーハバッハのことを救われる必要のある存在とさえ思っていなかったに違いない。
それでも、彼が彼らしく在るというただそれだけのことがユーハバッハにはどこまでも得難く、尊い、彼方の光だった。その光は泥濘の底にまで届く。星だけが己の輝きを知らない。
「……ジーク」
ユーハバッハは薄いシーツ越しにジークフリードの手を掴む。
薄い一枚の躊躇いはあれど、握られるのを待つのではなく、彼自身の意思でその手を掴んだ。
「明日の夜……そうだな、夜が更け、日を跨ぎ、月が傾く頃に、私の部屋へ来てくれないか」
「いいけど、どうした?急に……」
これは賭けだ。最後の賭け。
もしもそれに勝ったのならば。
「目が乾くほどに、罪深いものが見られるぞ」
──世界だって