肉塊は自身の死に気がついたのか、ようやく動くことを止めた。途端に静まり返る部屋の中、揺れる蝋燭の火が周囲の影という影をすべて歪ませる。
「……なに、今の……。なにを、されてたんだ、お前は……」
その静寂に満たされた部屋に、ジークフリードの震える声が落ちる。ベッドのそばに立ち尽くす彼は返り血の飛沫で汚れた顔を晒したまま、ただ茫然と帰り道を失った幼子のような表情でユーハバッハを見つめる。
「いつかお前に見せてやると言っただろう?……これが儀式だ」
乱雑に扱われて軋む身体を、けれどユーハバッハは気にすることなくベッドの上で半身を起き上がらせた。汚された身体で、しかしそんなものはどうでもいいとばかりに弓形に口角を上げ、闇夜に光る紅い瞳で困惑する友を映す。
「儀式……?お前の力を分け与えるってやつか?身体に触れればいいって話だったろ?手に触れば……こんなことをする必要なんて……」
「ああ、だが最も効率が良いのが体液と粘膜による接触だ。私が力を……いや、私から力を奪うための方法として、と評するのが正しいか」
「……体、液」
目の前で行われていた悍ましい景色とその言葉の意味が繋がってしまったのだろう、ジークフリードは顔を歪ませると咄嗟に自身の口を手で覆う。
耐えきれず崩れ落ち、床に膝をつけると激しく胃を痙攣させて嘔吐した。
「なんだってよかったのだ、血液だろうが精液だろうが腸液だろうが咥内だろうが直腸だろうが。方法など、いくらでもあった。ただ結果として私という肉体に求められたのがこれだったというだけの話だ」
苦悶の声を上げながら嗚咽を漏らし、胃の中のものを吐き出すしか現実に耐える手段を持たない青年に、ユーハバッハは言葉を紡ぎ続ける。
酸に塗れた咥内と生理的な涙に歪む視界。目の前をチカチカと明滅させながら、ジークフリードはベッドの縁に手をつく。目を瞑れば涙が溢れた。手の甲で乱雑に口元を拭って、ふらつきながらも立ち上がる。
「……ユーフェン」
「どうした、ジーク」
「
光の無い瞳で、それでも悲痛に眉を歪ませながらそう問いかけた。蝋燭が彼の顔に落ちる影を揺らめかせる。
ユーハバッハにはその問いかけの意味がわかっていた。だから決して嘘はつかずに、けれど己の望むままに答える。
「お前とメリダは知らなかった。……お前たちは決して私を傷つけなかった」
そう口にして微笑む。それだけでジークフリードは表情を歪めた。「……ああ」と失望によく似た吐息をこぼす。彼は羽織っていた上着を脱ぐと、それをユーハバッハの肩に掛けた。
「……ここはきっとソドムだ」
肌が隠れるようにと優しい手つきで体温の残り火だけを与えて、悲しげに目を伏せる。一度深く目を瞑って、再びそれを開いた時にはもう覚悟を決めていた。
「……でも、ロトはいない」
ユーハバッハの前に立つジークフリードの手の中にはすでに弓があった。それに視線を向ければ、ジークフリードは口元に小さく笑みを作る。
「ごめん、俺の勝手だから。お前には何も関係ないから」
「ジーク」
「ただ、俺がそうしたいだけだから」
「違う。違うだろう、ジーク」
去ろうとする彼を引き止める。振り返るジークフリードへユーハバッハは手を伸ばした。
その時にはもう己の望みは叶っていた。だから独りにするつもりなど微塵もなかった。当然、独りになるつもりも。
ユーハバッハは普段と変わりない表情で口角を上げる。不遜に、完全に、誰の助けもいらないとばかりに。
「ジーク、私を助けてくれ」
そう口にしたユーハバッハに、本来救いの手など不要だ。彼は無力ゆえに救われる側ではなく、無力を救う側の存在だからだ。救いなどなくとも生きてゆけるからこそ、彼は神であり、力の具現であり、化け物であり、完全な存在なのだから。
それなのに、不完全な己を許してしまった。
魂のとこしえの欠落を望んでしまった。
彼と共に紡いできた短くも愛おしい日々がユーハバッハを神ではなく、人間にしてしまったから。
もしも私を救う者がいるとするのならば、ジーク、お前がいい。
他の誰でもなく、お前であってほしい。
故にユーハバッハは静かにその掌をジークフリードへ差し出す。
それを前に、ジークフリードは不意を打たれたような表情をした。
躊躇いと逡巡は彼にしては長く、されど夜が明けるよりは遥かに短い。
助けてと伸ばされた手を振り払うことができるのなら、ジークフリードはとうにこの屋敷にいなかっただろう。
いつかのように、ジークフリードはユーハバッハへ手を伸ばす。
あとほんの少しで触れ合うというタイミングで、一瞬の躊躇いを見せた彼の手。けれどその躊躇いさえ彼はすぐに踏破する。
ジークフリードの手がユーハバッハの手を握った。
温かい掌がシンと冷えた手を掴んだ瞬間、ユーハバッハはその手を握り返す。
ユーハバッハは救われたかった。
ジークフリードは救いたかった。
お互いが望み合って、お互いが赦し合った。
罪があるのなら共に分かち合おう。罰があるのなら共に受けよう。それでも残る希望があるのならば護ろう。
「……ああ、ユーフェン、お前を助ける。俺は必ずお前を護るよ」
たとえその果てに待ち受けるのが、救いのない破滅だけだとしても。
それが2人の選択だった。
一人で部屋を出たジークフリードは広い屋敷の部屋をひとつひとつ訪ねて回る。
激情から成る己の愚かな行いに、他者の救済という免罪符が与えられてしまったことを自覚しながらも、ただそれを成すためだけに。
月も傾く夜更け、大抵の者は眠りについていた。
その仮初の死を、とこしえの眠りに変えていく。
時折目を覚ましている者もいたが、そのような者もこちらに気がつく前にその命を断ち切る。
ジークフリードにその知識や経験は無かったが、魂が霊力の辿り方を教えてくれた。そうやって例外無くひとつひとつを丁寧に殺した。地を這う蟻の群れを指先で潰すように。
屋敷の人間を殺し回った後、ジークフリードは最後に一つの部屋の扉の前に立った。先日訪れたばかりの場所。
扉に触れようとした時、中から声がかけられる。
「ノックは不要だ。君ならばいつでも歓迎するとも、ジンツァー」
その声はジークフリードが来ることを知っていて、ジークフリードが来ることを待っていた。
重い扉を開けば、広い部屋の一番奥に置かれた執務机の前にその人は立っていた。
高い背丈、蛇のような鋭い瞳、纏った神父服。
背後の大きな窓には丸い月。逆光を背負いながら彼はそこにいた。
「こんばんは、ジンツァー。会えて嬉しい。だが、夜は部屋から出てはいけないと伝えたはずだ」
「ブルクハルトさん……」
「言いつけを破るような獣性が君という清廉なる者にも存在するとは興味深いな」
「…………」
「ああ、責めているわけではない。答えを出しに来たのだろう?いつでもいいと言ったのは私だからな」
そうして男は、──ブルクハルトは微かに口角を緩めた。
弓を手に、ジークフリードは無表情のまま彼を見つめる。返り血を纏い、暗い瞳をしたまま弓を手に持つジークフリードが何をしてきたのか理解していないブルクハルトではない。理解した上でなおひどく嬉しそうな様子でジークフリードへ向き合う。戯れるように机の上に置かれた本の表紙を指先で撫でた。
それを見つめながら、ジークフリードはブルクハルトへ問いかける。
「……あなたに聞きたいことがあります」
「もちろん、何でも答えよう」
「……ユーフェンに、あんなことをさせたのはあなたですか?」
「ユーフェン?……ああ、なるほど。尊き主の名を呼ばないために、あの厚かましくも主の名を騙る悪魔に仮の名を与えたのだね。……ああ、なんて素晴らしい。やはり君は敬虔で美しい。神の手先として君ほど相応しい者もそういまい」
「……悪魔?」
その表現にジークフリードは疑問を覚える。
この屋敷の人間はユーハバッハを神として崇めているはずだった。だからこそ、彼は神の名を冠しているのだ、と。ましてブルクハルトはその筆頭とさえ思っていた。けれど、明らかに異なる口ぶりに訝しむ。
「……あなたは何者なんですか……?」
「君の同志だ、ジンツァー。……いや、ジークフリードと呼ばせてもらおうか」
ブルクハルトはフッと息を吐いてから、纏う神父服の襟の中からネックレスを、そしてその先にある十字架を取り出して見せた。
それを視認して、ジークフリードは反射的に自身が首から下げている十字架へ意識を向ける。
「……私は君と同じ神を信仰する者。そしてあの悍ましい悪魔を滅するために、教会より遣わされた
十字架が月光を受けて輝いた。身分を明かしたブルクハルトは驚きに目を開くジークフリードを見つめて頷く。彼は目の前に弓を持つ者がいることさえ気にせず、隙だらけにも執務机に軽く寄り掛かると言葉を続けた。
「私は今夜、あの悪魔の部屋へ立ち入る者がないよう人払いの結界を張っていた。触れた者に催眠をかけ、その場から離れたくなるように促すもの。……君も、それに触れただろう?」
「……! あの時の……」
ユーハバッハの部屋に近づいた時に感じたあの他人に脳を触られているかのような感覚と、「戻りたい」という強烈な感情の濁流を思い出す。やはり自分の意思では無く、無理やりに捻じ込まれた偽りの感情だったらしい。
「通常あれはただの人間が拒絶できるものではない。それを君は確固たる意思だけで乗り越えた。素晴らしいことだ。向かう先が淫魔同然の穢れた悪魔の元とはいえ、君のその精神の強さは驚嘆と賛辞に値する」
「……今夜は随分饒舌なんだな、結局何が言いたいんだよ」
「ふ、君はそちらの方がいいな。飾らない君も美しい」
友への暴言が不愉快で敬語を外したジークフリードに、けれどブルクハルトは表情を緩める。
やけにこちらに対して好意的なことばかりを口にする目の前の男に、ジークフリードはむしろ警戒を強めた。彼に好かれる理由が無いからだ。
そんな警戒を察してなおブルクハルトは言葉を続ける。
「ジークフリード、聖職者を志す気はないか?君の信仰心は本物。君はその穢れなき精神のまま神の代行者になるべきだ」
「…………は?」
唐突な勧誘にジークフリードの思考が一瞬停止する。
何故この状況で、そんなことを口にしているのかがまるで理解できなかった。ジークフリードはブルクハルトを殺すためにここに来たとわかっていないはずのないのに。
「急に、何言ってんだ……?」
「言葉の通りだ、ジークフリード。君には信仰心と強い意思がある。それを救うべき弱者のために使うべきだ、と言っている」
「……ここに来るまでに俺が何をしてきたのか、わかってないわけじゃねえだろ」
「屋敷の人間を殺してきたのだろう?君のその行いは正しい。ここの人間はみな、主への信仰を忘れた異教徒。死によってその罪を雪ぐのは当然のことだ。ここがソドムならば、君は差し詰め神の使いたる天使だな」
「正気か?」
「教えにもあるだろう。『あなたは女と寝るように男と寝てはならない』。まして悪魔とはいえ幼子への強姦など、許されるはずもない」
強姦は許されないと当然のことを当然のように口にしたブルクハルトに、ジークフリードは呆然と表情を歪めた。震える唇で、か細く問いかける。
「……あなたが主導したんじゃないのか……?ユーフェンをあんな目に遭わせるために、あの男を……」
「ああ、その通りだ。私が咎人を集め、悪魔を犯すように促した。あの悪魔から力を奪い弱らせるためにな」
「……は?」
躊躇いなく肯定するブルクハルトに、ジークフリードは目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えた。他者にここまでの怒りを抱くのは初めてのことだった。
「……ッ、ふざけるな!あんたのせいじゃねえか!あんたがあいつを苦しめといて、そのくせそんなこと許されるはずもないって、他でもないテメェが抜かすのかよ!」
膨れ上がる怒気に任せて叫ぶジークフリードへ、けれどブルクハルトは変わらない態度で言葉を紡ぐ。
「人は正しく生きるべきだ。例えどのような困難や誘惑があろうとも、人は教えの導く通りに人として正しい選択をしなければならない。例え己の中に悪徳があり、それを肯定する誘惑をされたとしても、確固たる意思の元その誘いを拒絶しなければならない。それが正しい人の在り方というものだ。愚者はみなただそれだけのことさえできなかったが故に滅んだ」
「そのくだらない正論がなんなんだよ……!」
「正しく生きられぬ者を神は救わない。だからこそ人は正しく生きねばならない。それができないのならば救い無き魂として死ぬほかないのだ、悲しいことだがな」
「それとあんたのやったことに何の関係がある!」
声を荒げて睨むジークフリードに、けれど変わらない声音で淡々と言葉を紡ぐ。
「悪を討つためだよ、ジークフリード。神の名を騙るあの悪魔は人を邪教へ誘惑し、たくさんの人を殺めた。放置すればさらに多くの者が救いを得ることなく死ぬ。……他者を破滅に導くことしかできぬ哀れな魂だ。あれは最早生きていても死しても救われることはない。ならば疾く塵に還してやるが慈悲だろう」
告げられた言葉に、ジークフリードは言葉を失くして息を呑んだ。
……生きていても、死しても救われることはない。
その言葉に、ジークフリードはいつか、森の中でユーハバッハから向けられた言葉を思い出す。
(「人を殺し、奪うことでしか生きられない化け物にも意味があるのか?」)
あの時、答えられなかった問いかけが今もまだ胸の中で傷のように残り続けている。
ただ生きているだけで正しく在れない者はどうすればいいのだろう。
神の教えに背くことでしか生きる術の無い者はとこしえに救われないのだろうか。
……そんなの、あまりにも哀しすぎる。
言葉を失って俯くジークフリードへ、月輪を背にブルクハルトはその手を差し出した。
「君ならばわかるはずだ、ジークフリード。共に来なさい。私と共にあの悪魔を討ち、神の代行者として人々を救いに導くのだ」
……きっと、あの人の手を取るのは正しいことだ。
ジークフリードはそう思った。
きっと神様はその手を取った自分を尊んでくれるのだろう。そして自分自身も神と共に正しき道を歩めることを喜ぶはずだ。
……かつての自分だったのならば。
俯いたまま、ジークフリードは強く拳を握って声を絞り出す。
「……あなたの言葉の意味も価値もわかる。理解もできる。きっとあなたは正しい」
善人を救い、悪人を討つ。そうしていけば悪は減り、世界はより良くなる。きっとその選択は正しい。
誰も傷つかない世界。誰もが笑い合える世界。幸福に満ちた世界。きっと、それは正しい。
魂の繋がりを認識したからなのか、今のジークフリードはユーハバッハがどんな存在なのか理解し切っていた。
人から力を奪わなければ生きていけない存在。ひとたび簒奪を止めれば、その身体は退化し、四重苦の肉塊に成り果てる。それを恐れるのならば人を喰らい、奪い、殺す他ない、と。
この世界で、人を殺さなければ生きていくことができない生き物など許されるはずもない。
人から奪わなければ目を開くことさえままならない生き物など、望まれるはずもない。
わかっている。何が正しくて間違っているのかなんて、わかっている。わかっている。
それでも、と青年は顔を上げて真っ直ぐにその正しい人を見据えた。
「……それでも俺はあなたの手を取らない」
「それは、何故?」
「俺の手はもう埋まってる。悪いが同僚探しなら他所を当たってくれ」
世界があいつを救われぬ存在として取り零すのなら、俺だけはその手を離さないでいたい。
ただ手を握ってやっただけで嬉しそうな顔をしていたことを覚えている。俺がつけたあだ名を気に入っていることを知っている。くだらない話で笑っていたことを覚えている。こっちをバカにしたような顔も、得意げな顔も、怒った顔も、たまに見せる不安げな顔も、年相応な寝顔も、ちゃんと知っている。何も取り零さない。何も離さない。
俺があいつの手を取ったことも、あいつが俺の手を握り返したことも、決して間違ってなどいないと、他でもない俺自身がそう信じていたいから。
「故郷へ帰るか、ここに残るか、それ以外の選択をするか。前にあなたに問われたな。だから今ここで答えを出す」
そう口にしながら弓に矢を番える。
そして、その矢の先を躊躇いなくブルクハルトへ向けた。
「俺はユーフェンと一緒にこの屋敷を出る。例え誰に許されなくても構わない。俺は俺の意思であいつを護るよ」
そう言って、ジークフリードはとうに括った覚悟を見せる。
それを受け止めたブルクハルトは微かに目を伏せ、執務机の上にあった本を手に取った。それは神の教えが記述されたバイブル。彼にとっての愛着の品であり、大切な原初の記憶。
差し伸べた手が振り払われるのはブルクハルトにとって初めての経験ではない。何度教えを伝えようとしても信じぬ者は皆そうだった。そして彼の前から去っていき、やがて罪を抱えて死んでいった。救えなかった者たちのことを忘れたことはない。
「……嘆きはしまい。これは試練だ。私が君を正しき道へ導けるか否か、そして君が悪魔の甘言を振り払い正しき道へ戻れるか否かの」
酸化した血の跡が残る表紙を優しく撫でてから、その古びた本を開く。その中から一枚のページがひとりでに破れ、ふわりと舞い上がっては地に落ちていく。
「しかし須臾とはいえ、君との不理解が哀しい」
落ちたページは瞬間、一振りの剣となって地に突き刺さっていた。本を懐に収め、代わりにその剣を手に取ったブルクハルトはジークフリードを真正面から見据える。
「──君の青い空は、私には血よりも赤い」
鋭く放たれたジークフリードの矢を、ブルクハルトの剣が素早く弾く。
静かな月夜、それを口火に最後の戦いが始まった。
◇
『とこしえのソドム』(牢獄P)より一部引用
楽曲検索に存在しなかったため、こちらに記載します。
◇
オリキャラVSオリキャラという謎展開、しばしお付き合いください。すんません、言うたほど長くなりません(多分)