バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

16 / 42
Lord, have mercy

 

引き絞った弓から矢を放つ。音を置き去りにするほどの速さで男の頭蓋を狙って放たれた矢を、しかしブルクハルトは容易く剣で打ち払う。

 

「遅い」

 

振るう剣の勢いで前進した男は素早くジークフリードとの距離を詰める。

青年に対人戦闘経験が無いことは一瞬の交差だけでわかっていた。魔を滅する聖職者として数多の修羅場をくぐってきたブルクハルトとは天と地ほどの経験の差がある。そしてそれはジークフリード自身もよく理解していた。

 

迫るブルクハルトに対して、後ろへ距離を取りながら再び弓に矢を番える。しかし、下がるジークフリードへブルクハルトは躊躇いなく距離を詰めていく。

 

「いいのか、その程度の距離は私の間合いだぞ」

 

剣の届く範囲まで容易く敵の侵入を許したジークフリードへ、ブルクハルトは剣を振り上げる。

向けられる矢を真正面から見据えたブルクハルトが青年へ向かって剣を振り下そうとした瞬間、男の側面に何本もの矢が飛んできた。

 

「ほう」

 

それに気がついたブルクハルトが素早く剣で側面からの矢を防いだのを見て、ジークフリードは弓に番えていた矢を放つ。先ほどまでより近い距離で放たれた矢を、しかしブルクハルトは最低限の体の動きだけで避ける。

 

「なるほど、そういう能力か」

「……ッ!」

 

不意を打ったはずの攻撃さえ、掠りもしない。

軽く払うように振られた剣をジークフリードはほとんど転がるように無様に避ける。剣の先端は青年の服の袖を裂き、その中に肉を掠めた。薄くとも一文字に切られた右腕と与えられた痛みに彼の身が一瞬竦む。それを虚勢だけで振り切って、立ち上がった。それを見つめながら男は青年の前に立つ。

 

「ジークフリード、無意味な抵抗はやめなさい。勝てないと知って戦いを止めることは逃走でもなく敗北でもない。ただの理解だ。私は君に理解を望んでいるのだ」

 

剣を手にそう淡々と告げるブルクハルトへ、ジークフリードは挑発するように口角を上げた。抵抗を示すように彼へ引き絞った矢を向ける。

 

「さっき俺の意思の強さを褒めてくれたのは誰だっけな」

「……私だな」

「ああ、あんたのお墨付きだ、俺は止まらねえよ。止めたきゃ手でも脚でも捥いであんたが止めてみろ」

 

圧倒的な力の差を理解してなお気丈に振る舞う青年に、ブルクハルトは微かに口角を緩めた。

彼のその無鉄砲にも似た若さがいじらしかったし、他者のために強大な相手に立ち向かえる心の強さが愛おしかった。

そしてそれと同じだけ、いや、それ以上に彼にそこまで想われているあの悪魔が憎たらしかった。

 

「……ああ、君の言う通りだ」

 

ブルクハルトは微笑んだ。

 

そうするとしよう(・・・・・・・・)

「……ッ!?」

 

瞬間、ジークフリードの右腕が麻痺したように動かなくなった。

力を失った右手は矢を離し、そのままだらりと重力に従って体の横に垂れ下がる。離された矢はあらぬ方向へ飛び、部屋の壁を無意味に破壊して消える。驚愕に目を見開き、自身の右腕へ視線を向けるジークフリードへ、ブルクハルトは告げる。

 

「君の腕はもう動かない」

「……!?」

「人は己の罪の前に無抵抗になる。例え誰が見ていなくとも、神は君が犯した罪を見ている。そして、君自身も。犯した罪、そして君が覚えた罪悪感こそが君の体から力を奪うのだ」

「……罪悪感、だと?」

「人を殺したのは初めてだろう、ジークフリード。友のためだと免罪符を得ても、君が他者の命と人生を奪ったことに変わりはない。その事実に内心で君は罪悪感を覚えている。故にその手は動かなくなった。これ以上、罪を重ねぬために」

「……嘘だな。さっきあんたに腕を切られた。原因は罪悪感なんかじゃなくてそっちだろ」

 

そう返しながら、ジークフリードは体で右腕を隠しながらその状態を確かめる。右腕はもちろん、右掌も動かない。指先に力を入れるがこちらも動く気配はない。肩は動くが、それだけ。ただ重たいだけの肉塊と化した腕を揺らすくらいにしか役に立ちそうにはない。

 

それになにより、弓矢を使えなくなったということの影響はあまりにも大きい。

左手で弓を、右手で矢を持ち、それを番えて戦う以上、どちらか片方だけでも失えば両方が破綻する。

 

もちろん弓が無くとも矢を撃ち出すことは可能だ。しかし、あの日森の中で虚を倒すべくユーハバッハと共に弓を使って矢を放った経験を経てしまったジークフリードに、弓のない矢で強大な敵に撃ち勝てるイメージが湧くことはない。

 

滲む焦りを奥歯を強く噛むことで隠そうとするジークフリードへ、ブルクハルトは余裕故に答える。

 

「君の考察は間違いではない。そして私の言葉にも嘘はない。私の剣は他者を斬った時、その者の抱える罪悪感の重さに応じて力を奪うものだからだ。……とはいえあの程度の擦り傷で、君の肩から下が動かなくなるとは思いもしなかったが」

「気にしいで悪かったな。流石に人を殺して何も思わずにはいられない」

「さぞかし心苦しいだろう。これでも神父でね、懺悔ならばいつでも聞こう」

「お気持ちだけもらっとく。だって懺悔は赦しを求める人がするもんだろ」

 

ジークフリードは振り払うように左手を前へ突き出す。瞬間、彼の周囲に数多の光の矢が生まれる。その先端はすべてブルクハルトを指し示す。命を狙われていると分かっていながら、彼は眉ひとつ動かさずに唇を開いた。

 

「闇の道を往こうとする君を私は止めねばならない。だが、月が落ちるまでに言葉で君の意思を変えられるとは思っていない。だからまずはその四肢を止めよう。そして、君を動けなくさせた後、私はあの悪魔を殺しにいく」

「……はっ、なるほど、わかりやすいな。じゃあ俺はあんたがユーフェンのところに行くまでにあんたを殺せばいいわけだ」

「その通り、素晴らしい計画だ。机上の空論であることを除けば、だが」

「まだ実行されてもないのにそんなことを言えるなんて、あんたは預言者かなんかか?」

 

瞬間、ジークフリードは矢を放つ。微かな時間差をもって次々と射出されるそれらさえ、ブルクハルトの命にはほど遠い。

矢を避け、打ち払うブルクハルトへ、ジークフリードは無理やり周囲から霊子を引き摺り寄せると、目の前が見えなくなるほど大量の矢を作り出した。

眼前に壁があるかのような密度で、双方が互いの体を視認できなくなるほど大量の矢を構築したジークフリードは天に向けた左手を勢いよく振り下ろした。

剣で弾けないほど、その身で避けられないほどの物量で──

 

「押し潰す!!!」

 

群にして個と化した弾幕はたったひとりの男に向けて撃ち出される。それは鋭利な刃を持つ巨大な壁が音を置き去りにするほどの速度でぶつかってくるようなものだ。

弾幕はその直線上にあった全てを薙ぎ払い、部屋の中にあった机やソファごと窓や壁を轟音を立てて突き破っていく。吹き飛ぶ壁、崩れる天井、調度品は全て消え去り、半壊する部屋。

しかし、屋敷の外に物が落下する大きな音はしない。机もソファもすべて、数多の矢によって粉々に砕かれたからだ。パラパラと破片が落下するような音だけが聞こえる。

 

巻き上がる粉塵によって視界は悪い。

咳き込みながらジークフリードは周囲を探る。流石にあの人も死んだのだろうか?あまりの感触の無さに戦いが終わったのかどうかさえ判断できない。

 

霊子を無理やり自分の支配下に置いて、高速で大量の矢を構築するという作業は思っていたよりずっと負荷がかかるものだったらしい。

目の前がサイケデリックな蛍光色でぱちぱちと点滅する。ぐらぐらと目眩。ふらふらとふらつく身体。耐え切れずに壁に背をつけてずるずると座り込む。

 

……ああ、そうだ、霊力。霊力を辿って生きてるか確認すればいいのか。

そう思って立ちあがろうと、左手で壁に手をついたその時だった。

 

ジークフリードの左手が貫かれた。

 

鋭い刃がジークフリードの手を壁に縫い付ける。

手の甲に突き刺さった剣は皮を破き、骨を断ち、肉を裂き、反対側の掌まで破くと、その果てに硬い壁に突き刺さって止まった。貫通。蝶を針で留めるように通してその手が貫かれた。

 

磔刑の如きそれを碧い瞳に映した彼は、何が起こったのかわからなかった。理解し切るよりも先に襲いかかってきた激痛に、青年は耐える選択肢も掴めずに叫んだ。

 

「……あ゛、ああああああああ゛ッ!!!!」

 

響き渡る絶叫。思考が全て痛みに塗り替えられる。痛い痛い痛い痛い!!!他のことが考えられなくなる。喉から声を撒き散らす以外にできることがなくなる。知らない。こんな痛み知らない。こんな痛み、経験したこともない。生理的な涙が溢れる。目の前が歪む。泣き喚く以外にできることがなかった。

 

「いい攻撃だった」

 

そんな青年の前に、男は立つ。

微かに乱れた髪を掌で押さえつけながら、怪我ひとつなく彼の前に立ってみせた。

 

「しかし攻撃や粉塵で相手を見失うところは良くないな。まして、攻撃の後に君自身がまともに戦闘続行できないというところもだ。相手を倒し切れなかった時、窮地に陥るのは君だ。今、この瞬間のように」

「……ッ、グ、ギィ……ッ!」

 

ブルクハルトはジークフリードの手を剣で突き刺したまま、新たに生成した剣を手にする。

ジークフリードの右腕は弛緩したまま垂れ下がり、左手に刺さる剣を抜くことさえできない。両腕を封じられて青年は今度こそ抵抗の手段を失くす。

浅く荒い呼吸を繰り返し、激痛を必死に耐えようとする青年はブルクハルトを睨むように見つめる。それを真正面から受け止めながら男は言った。

 

「神は正しい者しか救えない。それは神が人を思うからこそ、善人と悪人を同列に扱えないからだ。……ジークフリード、私は君を護りたいのだ」

 

彼は本心からそう口にした。

 

「君を護るためならば、君の護りたい者を踏み躙ることさえ厭わない」

 

そう口にしてブルクハルトは兎の首を折るように容易く彼の両脚を斬る。そうすればもうジークフリードはその場に崩れ落ちるしかなかった。地に座り込むことしかできなくなった彼を見下ろしながら、男は滔々と言葉を紡ぐ。

 

「神の教えを知っている君は、自分が間違った選択をしていることに気がついているはずだ。あの悪魔の手を取るなどという愚かな真似はやめなさい。神は敬虔なる者しか救わないのだから」

 

そう口にするブルクハルトは微かに目を伏せ、古い記憶を想起させる。

 

ブルクハルトの母は彼が腹の中にいる時に死んだ。死体から取り上げられた彼は孤児院で育つ。喪失はあれど幸福な日々だった。似たような境遇の子供たちと兄弟のように過ごしていた。

 

その日常さえ、唐突に破壊された。

現れた悪魔は全てを喰らった。優しい先生たち、大切な兄弟たち。全てが無惨に血と肉に還る中で、ブルクハルトだけが生き残った。

縋るように、聖書を抱きしめていたブルクハルトだけが。

 

その時に知った。神は敬虔なる者しか救えない。

だからもう2度と誰もあんなふうに死なないように神の教えを訴え続けた。そのために聖職者になった。

救わなければならない。護らなければならない。それが生き残った者の役目だ。それだけが大切な人たちを救うことも護ることもできなかった己に与えられた唯一の使命だと信じて。

 

そのためならば、どんな修羅場の中にでも立とう。数多の人間だって殺してみせよう。その果てに私は地獄に堕ちてもいい。その代わりに救われる者がいるのならば、私は贖罪の山羊で構わない。

目の前の青年から向けられる怒りも憎しみもすべてを受け入れよう。

 

「そこでしばし待ちなさい。さよならを教えてあげよう。今は悲しいだろうが、いずれ君も私の正しさを理解する日が来る」

「ッ、くそ……やめろ……ッ!ユーフェンに近づくな!」

 

ブルクハルトはジークフリードに背を向けて、部屋の出入口へ歩を進める。

あの悪魔を、ユーハバッハという名の子供を殺すために。

 

散乱した瓦礫を踏み躙って進む。

己の使命をそれと定めながらも、ずっと目を逸らし続けている自覚はあった。けれどもし直視してしまったらもう、立つことさえできなくなるとわかっていたから。

 

自分が進む道が正しいのかどうかなんて考えてはいけない。

初めて会った時から一度も笑った顔を見たことがなかった子供が脳裏に浮かぶ。必要なことだからとその身体を陵辱した。仕方のないことだからと傷つけ続けた。それでもあの子供は泣かなかった。笑うこともなかった。感情の無い人形のように、薄暗い瞳でこちらを見つめるだけだった。

 

それが笑っていた。

ジークフリードを前に年相応の子供のように笑っていた。

屋敷の庭を並んで歩いていく楽しげな子供たち。それを冷たい屋敷の窓越しに見ていた。

 

……私が護りたいものはああいう景色だったのではなかったのか。

返ってきてしまいそうになる自答から目を逸らす。

 

考えてはいけない。通り過ぎて仕舞えばいい。すべて終わらせて仕舞えば、思い出さずに済む。後悔さえ踏み付けて道を進もう。これまでのように、これからのように。

そうしてこの部屋から出ようとした、その瞬間。

 

「………………え?」

 

ブルクハルトの胸を刃が貫いた。

 

自分の胸から生えたその剣はブルクハルト自身のものだった。それを見つめて、彼は困惑する。破損した心臓が血を巡らせる先を誤らせて、彼は吐血する。鮮血、目が覚めるような赤だった。

背後から刺されたのか、と気がついてゆらりと振り向く。

そうすれば、壊れ切った部屋の中心に彼が立っていた。

 

「……ジーク、フリード……」

 

数メートル離れたところで、矢を放った後の残心の姿まま、彼は確かにそこに立っていた。

 

その弓でもって、ブルクハルトの剣を彼に向かって放ったのだろう。

しかし、真っ直ぐにこちらを見つめる彼は、確かにブルクハルトの能力によって四肢の力が奪われているはずだった。立つどころか、這うことさえ不可能なはずだ。それが何故。そう思った瞬間に、気がつく。

 

青年の四肢の周りが月光を反射してきらきらと瞬く。

天井に造り出した吊り手から、彼の身体を吊るすように張り詰めるストリングス。それに気がついて、理解する。

 

「……なるほど、造れるのは弓矢だけでは無いということか」

 

ジークフリードは作り出した糸で自らの体をマリオネットのように操ると、体を無理矢理に動かして矢を放ったのだ。

当然だ、弓を造れるのならば、その弓を張る弦を造る程度容易いに決まっている。

 

それは後の世に数多の滅却師たちによって重ねられた研鑽の果てに「乱装天傀」と呼ばれることとなる技術。

その入り口に無様ながらも自力で辿り着いたジークフリードはぐっと眉間に皺を寄せながら動かない身体を無理矢理糸で操って、矢を番える。

 

「……ごめん、俺は弱いから、不意打ちじゃなきゃあんたを殺せない」

 

そう口にするジークフリードにブルクハルトは思わず苦笑した。戦いなど大抵、不意打ちと後出しの繰り返しだ。そんなことも知らない戦闘素人が、申し訳なさそうな顔でこちらに矢を向けるのが不思議で笑ってしまいそうになる。

 

「でも、罪悪感が力を奪うっていうのなら、その剣はきっとあんたにも効くんじゃないのか」

 

ブルクハルトに刺さったのは彼自身の力によって生成された剣。

己の毒で死ぬ蛇がいないように、この力がブルクハルトに効くことはない。……本来ならば。

 

けれど、ジークフリードの言葉にブルクハルトはどうしてか「確かにそうだな」と納得してしまった。効くはずのない自分の毒が、効いてしまうと認識してしまった。それが致命傷。

 

瞬間、ブルクハルトはその場に崩れ落ちた。

抱え続けてきたこれまでの罪悪が今度こそ本当に彼を追い詰める。四肢も身体も貫かれた体の中身も、その全てから力が抜けていくのを感じた。四肢は力を失い肉塊に成り果てて地に転がり、口から溢れる鮮血の味さえわからなくなる。倒れ込み、身動きできない状態になって、思わず笑う。

 

「ふ、ふふ……弱ったな。これが私の終わりか」

「ブルクハルトさん……」

「気にするな、私が奪おうとし、君が護った。それだけのことだ」

 

喋れているのが奇跡のような状態なのだろう、彼の血が部屋の中に小さな赤い海を作る。立ち上がる意思もなくその場に倒れたブルクハルトの姿に、この戦いの終わりを悟ったジークフリードが弓を下す。一度目を伏せ、それから真正面に自分が殺す相手を見つめた。

 

「……ブルクハルトさん、俺は今まで教えの言葉が正しいと思って生きてきた。多分、きっとそれも間違いじゃないってわかってる」

「だが君はそれを選ばない。……理由を聞いても?」

 

わかり切っている答えをそれでもブルクハルトは問う。自問自答で自分で得た答えよりも、今は他者の得た答えが聞きたかった。ずっと1人でばかり考え続けてきたから。

静かな夜にただ自分のためだけに紡がれる言葉が、声が、愛おしかった。

 

「あいつ、寂しそうだったから。ずっと助けて欲しそうだって、気づいてた。そいつがようやく言えたんだ、助けてって」

「……ああ」

「あいつの手を取るのは愚かだって、あんたは言った。でも救いを求めて伸ばされた手を掴むことがあんたの言う愚かさなら、俺は愚かでいい。いつか後悔するのかもしれない。俺もあいつも破滅していくだけなのかもしれない。けど、構わない。間違ってていい」

 

月明かりが満ちる開け放たれた部屋に風が吹き込む。向かい風、ブルクハルトは目を細める。

それでも、と顔を上げて真っ直ぐに立つ青年が男には星の輝きのように見えた。

 

「……俺はあいつの友達だから」

 

ずっと、目を逸らしていた。

あの幼い頃、自分が聖書を抱きしめたのは神に救いを求めたからではないということ。

ただ目の前で行われる殺戮が怖くて身を守りたくて、咄嗟に縋り付ける何かであればなんでもよかったのに。

 

嗚呼、本当に、馬鹿らしい。床に放られた自身の手を見る。

どうして私はあの時、傍にいた死にゆく友達の手を握ることさえできなかったのだろう。

 

ジークフリードが愛おしかったのは、大切な人の手を握り続ける彼が成りたかった理想の自分に似ていたから。

ユーハバッハが許せなかったのは、救いを望みながらも何も成せないままの彼が大嫌いな自分に似ていたから。

 

「同病相憐れむ、か。……いや、なんて馬鹿らしい自己嫌悪だ」

 

懐の聖書の表紙についた血は友のものだった。こちらを護ろうと庇ってくれたあの子のものだった。

例え向かう先が冷たい死だけだとしても、その掌の中に温もりひとつ残せてやれたのならば、そちらの方が余程救いだったろうに。

ブルクハルトは視線をジークフリードに向ける。護りたい、とそう言っていた。きっと彼は、彼らは自分のようにはならないのだろうとそんなことを思う。

 

「ジークフリード、君は友を護るのだな」

「……ああ」

「護るとは口で言うほど容易いことではない。別れは常に唐突に訪れる。我々の目は前しか見えず、我々の腕は思うより短い。困難な時ほど覚悟は鈍り、後悔は常に終わってからやってくる」

 

ブルクハルトの懐から聖書が滑り落ちる。古い血は鮮血に濡れてもうどこにあるのかもわからない。それでもその表紙を慈しむように見つめた。生かされた命の理由が、わかったような気がしたから。

 

「それでも覚悟を決めたのならば、……何に代えても護り抜きなさい。失ってからの後悔は、どんな痛みよりも耐え難い」

 

彼の体はもう動かない。そう時を待たずに心臓も止まるだろう。誰かの手を握ることもできない。せめてもと言葉でその背中を押す。

 

「君はもう友の元へ行くべきだ。こんな静かな夜に独りは寂しい」

「……うん、あの、ブルクハルトさん」

 

もう糸がなくとも己の脚で立てるジークフリードは今にも泣きそうな子供のように眉を下げると「ありがとう」と言った。

 

「母さんのこと、あの時、俺何にもできなかったから。弔ってくれて、ありがとうございました」

「……律儀だな、君は」

「それと、ハンカチも」

 

ジークフリードはブルクハルトが貸してくれたハンカチを取り出すと、放られた彼の掌の上に置いた。

 

「……俺よりも、あんたにこそ必要そうだから」

 

その言葉にブルクハルトは少し目を瞬かせて、それから破顔した。

 

「本当に律儀だな、君は。……だが、ありがとう」

 

 

 

 

 

友達の元へ向かうため、ジークフリードは男に背を向けて歩き出す。

長年首から下げていた十字架を外して、この部屋に置いていく。不思議と手放すことに抵抗はなかった。

 

部屋を出る瞬間、不意にもしも出会い方が違ったらもう少し違う結末があったのかもしれない。そんな思いが胸をよぎる。

後ろ髪を引く罪悪感に振り返りそうになって、やめる。

 

振り返ったら、きっと塩の柱になってしまうから。

 

 









そんな予定なかったのに、オリキャラ戦に丸々一話を使ってしまった……すまぬ………。
お付き合いいただきありがとうございました。

今度こそ、次の話でこの章の最終話です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。