バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

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binary heart

 

「おい、飯だぞ」

 

食事を乗せた盆を両手に抱えて、脚で扉を開けながらジークフリードは部屋の中に入った。

この乱暴な立ち振る舞いを見られていたならば屋敷の大人たちに酷く叱責されただろう。しかしジークフリードはそんなこと気にしなかったし、他でも無い部屋の主が気にしなかった。

ろくにノックもせずに部屋の静寂を打ち破ってやってきた青年へ、喉を鳴らすような小さな笑い声が届く。

 

「……お前が来てから5日余り。随分と従順になったようだな、ジークフリード」

 

部屋の主であるユーハバッハはソファに腰をかけたまま読んでいた本をパタンと閉じると、年相応と呼ぶには邪気の混ざった表情で笑った。

 

そんなユーハバッハの姿を、ジークフリードは眉間に皺を寄せながら瞳に映す。

ユーハバッハは見た目だけで言えば10歳程度の童子だ。しかし、その口調や立ち振る舞いはまるで高貴な立場に身を置く大人のようだった。そのアンバランスさこそが彼を崇める者たちをなお魅了したと言えるだろう。

 

そして彼の美しい見目もその一因だった。

緩くウェーブのかかった漆黒のような髪は風に揺れるだけで人の目を奪い、コントラストのような白皙の肌は大理石のような冷たさを感じさせる。そしてその中に埋め込まれた神秘的な光を抱く紅い瞳は、静かに見つめるだけで他者を狂わせる魔力を有していた。

彼の姿を、彼の奇跡を目に映してなお正気でいられるものなどいるはずもないだろう。

 

……それがジークフリードには気持ち悪くて仕方なかった。

母に生えた脚のように、まるで小さな子供の体に無理矢理バケモノを詰め込んでいるかのような困惑。作り物みたいな美しさ。ちぐはぐな違和感と矛盾。そのおかしさを悦び、崇めたてる周囲の大人たち。

自分より小柄な子供を流し目で見やったジークフリードは鼻を鳴らすとそっぽを向いて言葉を返した。

 

「うるせえな、何が従順だよ。こんなところに無理矢理連れてこられてこき使われて、奴隷みたいなもんじゃねえか」

「望んだのはメリダだ。メリダがここで暮らすことと、お前が私のそばに付くことを望んだ。こちらは彼女の思いを汲んだだけのこと。お前に文句を言われる筋合いもないな」

「人の母親をファーストネームで呼ぶんじゃねぇ!なんかキショいんだよ!」

「それより、ジークフリード、屋敷での生活には慣れたか。使用人部屋は狭かろう、望むのならお前のための犬小屋を庭に用意しても構わないぞ?」

「誰が犬だボケ!つか、いらねえよ!こんな気色悪りぃ屋敷、とっとと出てってやんだからな!」

 

ユーハバッハの言葉にジークフリードは青筋を立てながらも、己の役割を果たすかのようにテーブルの上へ彼のための食事を並べ始めた。

 

 

ジークフリード・ジンツァーは、裕福でも貧困でもない村に生まれた10代半ばの青年である。

生まれる前に亡くした父親と病をきっかけに片脚を失くした母親の代わりに農夫として勤勉に働いていた中庸で普遍的な、言ってしまえばよくある境遇のどこにでもいるような青年だった。

 

彼の母の脚が突如として再生するまでは。

 

彼に触れるだけでどんな病も怪我も治るという奇跡を起こすユーハバッハの噂、「そんな非現実的なことがあり得るわけもない」という当たり前さえ忘れ切って、彼の母は藁にもすがる気持ちでその御伽話へ手を伸ばしてしまった。

それが本当に藁であったのならば、彼女と彼女の息子の運命が狂い出すことはなかったのだろう。けれど掴んでしまった蜘蛛の糸は確かに彼女を掬い上げてしまった。糸を伝い、天へ登る先で見た光に焼かれ、女は目を無くした。ユーハバッハという邪教に堕ちたのだ。

 

他者の不足を満たし、そして最期には奪い取る。

そんな非情なユーハバッハの力も、表面上だけを見ればただその肢体に触れるだけで病や怪我が治す奇跡の力でしかない。それを目の前で見た誰もが神の存在を信じた。

 

やがてユーハバッハはその体の齢が十になる頃には新興宗教の神として周囲の大人たちの手によって祀り上げられていた。

すでに子供のものではない知能と能力を得ていたユーハバッハは自分の周囲で勝手に積み上がっていく箱庭を酷く愚かしいものだと思いながら黙って眺め続けていた。壊そうと思えば壊せただろう。彼の力を持ってすれば、生かすも殺すも何もかも彼の思うままにすることができた。

 

けれど、ユーハバッハはそれを選ばなかった。

閉鎖的でありながら狂信的な、決して大きくはないその邪教の根城で、彼は望まれるがままに美しい偶像としての役割を果たし続けることを良しとした。

いつだって壊せる。いつだって掌握できる。だから今はいい。

……いつか見た未来を追い越す日が来るまでは。

 

その頃はまだ全知全能とも未来視とも呼べないような拙く曖昧な視界の中で、ユーハバッハは確かにひとつの可能性を見たのだ。

 

──あれはどこまでも広がる空。赤く色づいた世界の始まりのような景色の中で、誰かの冷たさに寄り添っていた己の姿。

 

……いつか、そう、いつか。

かつて見た幻のような未来(ユメ)が己の目前にやってくる日を待っているだけ。

 

 

 

「おい、ニヤニヤしてねえでさっさと飯食えよ」

 

さて、ユーハバッハのための食事の用意をしたジークフリードは今や彼の使用人という立場だ。

これは彼の母親であるメリダ・ジンツァーの嘆願によるものだった。「どうか我が息子をお傍に置いて、ユーハバッハ様の奇跡を見せて差し上げて欲しい」と。

 

その結果、故郷の村から無理矢理連れてこられたジークフリード青年は、善良だった母を狂わせたという現状どう頑張っても悪印象しかないユーハバッハの使用人として、日中はほとんどずっと彼のそばにいることになってしまったのだった。この5日間で眉間の皺が深く強固なものになってしまったことを、ジークフリードも自覚している。

 

不機嫌そうなジークフリードの様子にむしろ機嫌を良くしながらユーハバッハは自身の席に腰を下ろす。そうすればテーブルを挟んだ向こう側でジークフリードもまた同じように座る。

食事もまた2人で囲まなくてはならない決まりになっていた。向かい合わせになったジークフリードは食事を前に両の手で祈りの形を作り、瞼を閉じる。

 

祈りの言葉を口にするほど敬虔深くはない。しかし祈らずに食事を始められるほど不信心でもなかった。

例えそれを面白がるように眺める視線が不愉快だったとしても。

 

「……毎回言ってるだろ、先に食ってろって」

「好きで眺めているだけだ。偶像崇拝に縋る様とはかくも憐憫を煽るものなのだな、と」

「よくわかんねえけど、馬鹿にされてることだけはわかるからな」

 

祈りを終えて目を開いたジークフリードは絡めた両手の指を解いてカトラリーを手に取る。例えどれだけ旨い飯だろうと、例えどれだけ美しい相貌をしていようと、気に食わない輩の顔を見ながらする毎度の食事は気が滅入って仕方なかった。

 

「お前はお前の神に祈るというのに、己が神に祈っているだけの屋敷の者へは嫌悪の目を向けるのだな」

 

スープの中へスプーンの先を差し入れながら、ユーハバッハは嗤う。それが安い挑発だと分かっていながら、ジークフリードは肩を揺らしてしまう。唇を噛み、居心地悪そうに目を伏せる。

少なからず図星だった。向けられた言葉が心を穿つ。他者の祈りを蔑むつもりはなかった。しかし自分が彼らを見る時、胸の内に抱く感情が決して綺麗なものではないことも理解していた。

 

「……だって、気持ち悪りぃだろ。母さんはおかしくなるし、ここの大人はお前みたいなガキを神だと思い込んで崇め立ててる。おかしいんだよ、ここは」

 

この屋敷にいる限り逃れられない異常と恐怖にまだ子供と評されて当然の齢である彼は眉を寄せる。

母親がおかしくなったこと、周囲の大人が皆似通った様子であること、……何よりも、自分よりずっと幼い子供がそんな環境に閉じ込められていること。それが真っ当に生きてきた青年には耐え難い異常な空間だった。

 

「見たこともない人物の絵空事を信仰するより道理が通っていると思うがな」

 

皮肉るようなユーハバッハの言葉にジークフリードは反射的に顔を歪める。自らの中の僅かながらも純心な信仰と、よく世話を焼いてくれた故郷の司祭との思い出を踏みつけにされたような心地だった。

けれど目の前の相手を納得させられるような答えを返せなかったのもまた事実だった。ジークフリードは一度黙り込んでから、ふと胸の内に浮かんだ問いかけを口にする。

 

「なあ、お前」

「なんだ」

「……そもそも、お前はこんなところにいて……幸せなのか?」

 

向けられたその問いかけの中に混ざるこちらを慮るような感情。この環境を嫌悪しながら、その中心で神の真似事をする子供のことを心配するという矛盾じみた感情。ユーハバッハは興味深そうな表情を浮かべると微かな思案の後、愉しげにゆるりと口元を緩ませる。薄く開いた唇の隙間から彼は言葉を吐き出す。

 

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

「なんだよそれ、自分のことだろ」

「己も他人も関係ない。幸福とは相対評価だろう、だが今の私は己の知覚範囲の世界のことしか知らないのだ」

 

返された言葉にジークフリードは訝しげな表情を浮かべたまま、その言葉の意味を探るように見つめ返す。

 

「お前が故郷で得てきた幸福など知るはずもない。私が在るのはここだけ。此処以外、知らない。此処こそが平均であり中央、今この現状こそが私にとってのゼロなのだ。わかるか、相対が無い故に誰も今の私の幸不幸を断ずることはできない、と」

 

この箱庭しか知らないから、比べるための他の世界を知らないから、己が幸福か不幸かさえ判断できないと彼は言った。それは世界の真理を語るというより、変えようもない事実を吐き出したかのようなつまらなそうな声音だった。

その言葉にジークフリードは何か言いたげに唇を震わせる。そして「……だったらお前こそ、こんなところから──」と唇を開いた彼を前に、ユーハバッハは遮るように言葉を紡ぐ。

 

「だがまあ──」

ユーハバッハはその紅い瞳を弓形に細めて告げた。

 

「現状、私の世界において最も客観的に私を観測できるのはお前だけなのだろう」

 

この瞳に未来が映る日はまだ遠く、目を開いたばかりの赤子かのように、世界はまだうつろに等しい。時折未来によく似た曖昧な夢の破片を掠める程度。己の身は全知全能にはほど遠く、箱庭の信者たちは皆盲目。

 

だから今この時、目の前の青年以上に目を醒ましている者もきっといない。

 

「ジークフリード・ジンツァー、お前が共にいることを許そう。私が望む限り、お前が望む限り、果てしないほど長く私の傍に。そしていつかお前の天秤で判断すると良い、私が幸福だったのか否かを」

 

ユーハバッハはそう告げると満足げな表情を浮かべて、背凭れへ体重を掛ける。

ジークフリードは訳がわからないという顔をしてから、呆れたように「馬鹿野郎」と吐き捨てた。

 

「こんなところすぐに出てってやるっつってんだろうが」

目の端を一瞬掠めた景色にユーハバッハは喉を鳴らして笑った。

 

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