バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

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「ユーフェン!遊びに行こうぜ!」

 

それはとある昼下がりのことだった。

補佐官であるザイドリッツが所用のためユーハバッハの執務室を退室し、足音も気配もすっかり遠ざかった頃、部屋の窓を元気よく開けてやってきたのがジークフリードだった。

 

少し前からずっと屋根の上に薄らとあった気配。それがようやく現れて、執務机の前に腰掛けていたユーハバッハは窓辺へ視線を向ける。

手ぶらでラフな私服を纏ったジークフリードに対して、ユーハバッハは白の騎士団制服の上に闇のような真紅のマントを纏ったかっちりとした格好をしていた。

そんなユーハバッハの前には積まれた大量の書類、そしてその手に握られたペン。

 

どこからどう見ても仕事中の姿である。

ユーハバッハはペンを持っている手を軽く上げてジークフリードへ見せつけると唇を開いた。

 

「……見ての通りだが」

「こっちも言った通りなんだが」

 

ジークフリードはあっけらかんと答えた。軽い足取りで机越しに彼の前までやってくると、積み重なった書類の塔をちらりと見てはうへえと嫌そうな顔をした。

 

「毎日毎日部屋に篭ってばっかり。そんなだとアレになるぞ」

「アレとはなんだ。外を駆け回り過ぎて人の言葉も忘れたか?」

「『Not in Education, Employment or Training』ってやつ」

「不思議だな、お前は誰のもとでEmployment(就労)しているつもりだ?」

 

ユーハバッハはニートどころか帝国規模での雇用主であった。

反論を気にすることなく、ジークフリードは「楽しいか?それ」と書類を指差す。その指を見て、ユーハバッハは溜息に似た吐息を吐いた。

 

「楽しい楽しくないの話ではない。君主としてやらなくてはならないことだ」

「それって今すぐか?今日やらないとこの国が滅びる?どうしても今じゃないとダメか?」

「もしそうなら私はお前を大聖弓(ザンクト・ボーゲン)で我が帝国の外にまで飛ばしている」

「じゃあ暇ってことだな。遊びに行こうぜ」

 

ジークフリードはもう一度そう言った。

ユーハバッハからペンを取り上げると、代わりにその手を掴む。

 

例えどれだけ立場が変わろうとジークフリードにとってユーハバッハは無二の親友であり、可愛い弟分である。それはどれだけ年月を重ねようとも変わることはない。

友達とは遊びたい。仕事まみれの弟分が露骨に飽きた顔をし出したなら連れ出したい。

 

ユーハバッハとて、例えそれがジークフリードからの誘いだったとしても、本当に今の仕事が重要ならばその手を振り払ったことだろう。けれどそれをしなかった。つまるところ、そういう話である。

 

「ザイドリッツが困惑するだろうな」

「確かに、お前が急にいなくなったら誘拐かと思って驚くよな。じゃあこいつを置いていこう」

 

ユーハバッハを誘拐できる人間がいるのなら見てみたいものではあるが。

 

ジークフリードは机の上へ、霊子で構築した兎を置く。

突然皇帝陛下代理となった兎は何もわかっていない顔でぴくぴくと耳を動かすばかりだった。

 

 

 

 

 

その日、何の前触れもなくそれ(・・)を目に映した城下の民は戸惑いと怯えを抱えたまま、ただそれを遠目に見つめる他どうすることもできなかった。

 

城下の街に二人組の男たちがいた。

溌剌とした雰囲気のある赤毛の男と、どこか威圧感のある顔つきをした長身で黒髪の男。

それを、特に後者を目に映した民衆は思った。

 

……あれ、陛下じゃね?

 

白のシャツと黒のスラックスというラフな格好をし、莫大な霊圧を最小限に抑えてはいるものの、その姿は噂に聞く光の帝国皇帝陛下のものだった。

彼の隣にいるということは、赤毛の男は皇帝の懐刀だろう。

 

「ここのじゃがいものパンが超うまい」

「そうか」

 

皇帝陛下とその腹心が城下でパンを買い食いしている。

 

冷静になって見ると若干の面白さが勝つその風景も、臣民からして見れば若干の恐怖を纏っている。

側から見ていた数人が恐る恐るといった顔で自身の頬を抓っていた。が、痛みでは醒めない現実を知ってその恐怖の景色を二度見していた。

 

皇帝ユーハバッハとは、一般的な臣民にとって畏怖の対象である。

 

騎士ならばともかく、そも通常城下の民がその姿を目に映すことは無い。それ故に時折流れてくる真偽の定かではない噂程度にしか彼のことを知らないのが通常である。

 

その時折流れてくる噂というものは「何百年も生きている滅却師の始祖」だとか「滅却師のものとは異なる恐ろしい力で各地を制圧した」だとか「天を突くような長身で目が合うと石になる」だとか「ワインの代わりに人間の生き血を啜る」だとか「圧倒的犬派」だとか。

とかくそんな根も葉もないような、それでいて火の無いところに煙は立たないような、是とも非とも言えない類のものばかりなのだった。

 

「ほらよ」

 

そんな戦々恐々な噂でしか知らないような皇帝陛下が腹心から渡されたパンを素直に手に持っている。

渡されたパンをじっと見つめている。

すんすんと鼻を鳴らした。匂いを嗅いでみたらしい。

またじっと見つめている。

 

そんな二人の様子を見ていたパン屋の主人は、たまにふらりとやってきてパンを買っていく常連が陛下の懐刀であったこと、その懐刀が自分の作ったパンを陛下にオススメしているという状況に混乱して目を剥いて泡を吹いていた。可哀想によ……と誰もが思った。

 

腹心が毒身代わりに先にパンを口にしてから、皇帝を見上げて笑う。

 

「食ってみ、うまいよ」

「……ん」

 

進められるがまま、決して大きくはない一口でパンを齧った皇帝はそれを咀嚼し、嚥下する。

その様子を見ていた懐刀が「うまいだろ?」と当然のように口にすれば、それを受けた彼は微かに目を細めた。それから雰囲気を和らげて小さく唇に弧を描く。

 

「……ふ」

 

笑った、と周囲の誰もが思った。

庶民が口にするような素朴なパンを食べて、美味しいと笑ったように見えたのだ。

 

威圧感はあれど、ユーハバッハの見目は精悍で整った顔立ちをした壮年の男性である。

そんな人が、花が綻ぶように微笑んだ。

それは見ていた周囲の人間の目を奪うに容易いことだった。

 

ましてやそれは元々臣民が抱いていた恐怖のイメージをぐるりと反転させるに十分なものだったのだ。

意外な側面を見て親しみを感じてしまった。

俗な言い方をすれば、つまるところギャップ萌えに近い。

 

もしや噂ほど恐ろしい人ではないのではないか?

顔立ちや霊圧にこそ威圧感はあれど、根っこは我々と変わらないただの人間なのではないか?と。

 

周囲の民は皇帝へ向けていた警戒や恐怖を和らげ、いつしかお忍びで外を歩いているのだろう彼らをそっと見守ろうという心持ちになっていた。

 

ちなみに、パン屋の主人は自分の作ったパンが美味しくて皇帝が笑ったのだと思い、戸惑いと喜びのあまりパニックになって自分が吹いた泡に溺れて窒息しかけながら膝から崩れ落ちていた。よかったな……と誰もが思った。

 

……まあ、実際のところ、ユーハバッハはそのパンが美味しくて笑ったのではなく、口の端にパン屑をつけたままにしているジークフリードのそのアホヅラが面白くて笑っただけなのだが。

 

それに気が付かないジークフリードもまた、ユーハバッハが自分が好んでいるパンを同じように好んでくれたのだと思って嬉しそうに笑う。

 

「な!な!うまいだろ?そっちの通りにもいい店があってさあ、ユーフェン、お前を連れていきたいところはまだたくさんあるんだよ」

「あまり引っ張るな、ジーク」

「あー、でも食べ物ばっかだと晩飯入んなくなってザイドリッツに怒られるか。じゃあ次はあっち行こうぜ」

「好きにしろ」

「シッ!……いいか、誰にも内緒だぞ。……ちょっと行った先に猫の集会場がある」

「……猫か。鼠取りとしての価値はわかるが、そこまで好きではない。我が儘で好き勝手で何を考えているかわからんからな」

「なに?自己紹介?」

「従順で素直でわかりやすい犬のほうが好きだ」

「ふーん、俺は猫好きだよ。味は犬のほうが好きだけど」

「食欲の話をするな」

 

圧倒的犬派の噂だけは本当らしい。

 

 

 

 

 

 

「それで、何が目的だ?」

 

猫の集会場とやらに向かう最中、ユーハバッハは隣を歩く友へそう尋ねた。

こちらを連れ回し、人目に晒して、それでなんでもないは嘘だろう。

そう思うユーハバッハに対して、ジークフリードはあっけらかんと答えた。

 

「目的なんかねえよ。お前と遊びに来ただけなんだからよ」

「……また適当なことを」

「でもよかったろ?こうやって城下を歩かないと、自国の民がどんな生活をしているのか見えねえし」

「民の様子なら定期的に報告をさせている。何よりその程度、視えているぞ」

「それは見てるって言わねーの。実際に歩いて聞いて食べないとわかんねえこともあるだろ」

 

パンの最後のひとかけらを口に放りながらジークフリードはそう言った。いつまでもパン屑をつけたままのジークフリードに、ユーハバッハは微かに目を細めて「口についているぞ」と教えてやる。

 

そんなやり取りをしながら二人がとある大きな屋敷の近くを進んでいた時、不意に第三者が現れる。

 

「ジークフリード様?」

 

彼の名を呼んだのは大らかそうな雰囲気を纏ったふくよかな体型をした婦人だった。服装からしてそこの使用人なのか、屋敷の門のそばに立つ彼女は驚いたように口元に手を当てている。

 

「おお、モニカ」

「まあまあまあまあ!ジークフリード様!なんてちょうど良いところに!」

 

モニカと呼ばれた婦人はパッと花開くように笑みを浮かべると、ジークフリードに駆け寄ってその手を握った。

 

「聞いてくださいませ!ほんの3ヶ月前に奥様がご出産なさいましたの!近頃は体調も戻ってこられて、お庭に出てらっしゃいますのよ。ジークフリード様は恩人ですもの!奥様と坊ちゃんにどうかお会いになってくださいまし!」

「3ヶ月!?赤ちゃんじゃん!」

「3ヶ月ですもの!赤ちゃんですわ!」

 

そうやって親しげに話す二人をユーハバッハは静かに見つめる。それに気がついたモニカと呼ばれた婦人は、背の高いユーハバッハを見て目を丸くした。

 

「あら、そちらの方は?」

「友達!」

「まあ、お二人揃って男前ですこと!是非ご友人もいらっしゃってくださいな!」

「だって!ユーフェンも赤ちゃん見に行こうぜ!」

 

良いも悪いも返す前に、ユーハバッハはジークフリードとモニカにぐいぐいと手を引かれて屋敷の中に引っ張り込まれる。ユーハバッハはもうどうにでもなれという気持ちだった。

 

 

事の始まりは以前街でサボタージュをしていたジークフリードが大荷物を抱えたモニカを助けた事だった。

ジークフリードが彼女の荷物を屋敷まで届けたところ、その屋敷の奥方が重い悪阻のために庭先で倒れかけていたのに気がついて、屋敷の中まで抱きかかえて運び、医者まで呼んできてくれた、と。

モニカの口にした恩人という言葉はここから来ているらしい。

 

その話を聞いてユーハバッハはジークフリードに対して「お前はまたそうやって人を誑かして……」という気持ちと、「お前はまたそうやって臣民を助けて……よくやった流石我が騎士、我が英雄」という気持ちの両方を抱いた。とはいえ、話が話であるため、後者の気持ちの方が強いのだが。

 

「ふふ、初めてお会いした時、ジークフリード様ったら私を「お嬢さん」だなんて呼んでくださったのですよ、もう四十もとっくに過ぎていますのに」

 

そう言って微笑むモニカの言葉に、ユーハバッハの気持ちが一気に前者に傾いた。

 

「ジーク……」

「な、なんだよ……」

「この節操無しが」

「だって100歳以上歳下だぞ!お嬢さんだろうが!」

 

右手をジークフリードに、左手をモニカにそれぞれ引かれるがまま進むユーハバッハは大きな屋敷へ視線を向けて呟いた。

 

「……しかし、クライヒ家か。お前の縁が本当に偶然ならば相当なものだな」

「ユーフェン、この家のこと知ってるのか?」

「ジーク、お前の頭の軽さには頭痛がしそうだ。私が知らぬわけがあるまい」

「……?」

 

そんなやりとりしているうちに、やがて屋敷の庭にあるガゼボが見えてくる。

その中で、絹のような黒髪をした女性が赤子を抱えてベンチに腰掛けている。

彼女こそ、この屋敷の当主の妻であるクラウディア・ロイース・クライヒだった。

 

「奥様〜!」

「クラウディア〜!」

 

彼女は明るく信頼のおける使用人と、かつて自分を助けてくれた恩人が手を振ってこちらへやってくることに気がついて、嬉しそうに笑顔を浮かべる。

 

しかし、その二人が手を引いて連れてきている長身の男を目に映した瞬間、その笑顔が凍りついた。

 

「なっ……!こ、皇帝陛下……っ!?」

 

立場上、ユーハバッハの姿を知らないはずのない彼女は突然のことに驚いて思わず目を剥く。

我が子を抱きかかえたまま、慌てて立ち上がり再度目の前の景色を確認する。

 

使用人であるモニカと、顔馴染みであるジークフリードに手を引かれてやってくる、この帝国の最高権力者。

 

……うちの使用人がおててを繋いで皇帝陛下を連れてきちゃった。

 

クラウディアの頭の中で、不敬罪、財産没収刑、一族粛清、帝国追放のワードが乱舞する。

青ざめたまま硬直するクラウディアに、やってきたモニカとジークフリードはどうしたのだろうとキョトンとした顔を向ける。

その二人と異なり、なぜ彼女がそうなっているのかを察しているユーハバッハは小さく溜息をついてから言葉を紡ぐ。

 

「……当代クライヒ家の者か」

「は、はい!クライヒ家当代当主ナイトハルト・ベアテル・クライヒの妻、クラウディア・ロイース・クライヒでございます。今、当主は間が悪く家を空けておりまして……皇帝陛下がいらっしゃるというのに何のお迎えもご準備も出来ておらず申し訳ございません!」

 

深く頭を下げるクラウディアだったが、ユーハバッハとて彼女の非を責めることなどできるはずもない。元よりこちらが、というよりジークフリードが唐突に招かれてやってきたものである。

未来でも見えない限り、突然皇帝が来ることを予見などできるわけもないのだから。

 

二人のやり取りに、ジークフリードは小首を傾げて「ユーフェン、知り合い?」と気の抜けたことを問いかける。ユーハバッハは呆れた顔を彼へ向けて答えた。

 

「私がお前と共にこの地へ来て国を建てる際に、早々に建国の協力を申し入れた家の内のひとつがクライヒ家だ。かつてのクライヒ家当主が我が帝国の成立に寄与している。それをこの私が知らぬわけがあるまい」

「滅却師の父たるユーハバッハ皇帝陛下のお力添えをすることは誇り高きこの血を継ぐ滅却師にとって当然のことです。我々の陛下への忠誠の心は代を重ねようと変わることはありません」

 

背筋を伸ばし、意思強くそう口にしたクラウディア。

ユーハバッハはその心に応えるように言葉を返す。

 

「クライヒ家の献身には今もなお感謝している」

「勿体なきお言葉にございます」

「……だが、固くなる必要はない。私は友のついでに屋敷へ招かれただけのただの男だ。玉座は無く、皇帝としての衣も纏ってはいない。我が身を皇帝と証明するものは何もないのだ。故に、今の私のことはそこらの木だとでも思うが良い」

「そ、そういうわけには参りませんが!?」

 

気を遣わなくて良いという意味の言葉ではあるが、ユーハバッハへ忠誠を誓う家の者であるクラウディアの立場からすればいくら皇帝がそう言おうともその言葉の通りにすることなどできるはずもない。

どうしたら良いものかと慌てるクラウディアの腕の中で、不意に「ふにゃあ」と子猫のような鳴き声が上がった。

 

「赤ちゃんだ!」

 

瞬間、ジークフリードが嬉しそうに声を上げて、クラウディアの腕の中を覗き込む。

彼女の細腕の中には生まれたばかりの小さな赤子が収まっていた。

 

母の腕の中の赤子は向けられる視線の群れを気にすることなく、気ままに身動ぎすると薄く開いた目で空中をぼうっと見上げる。

ジークフリードは口角を上げたまま、落ち着かない様子で赤子に向かって手を振ったり、「こんにちは!」と声をかけたりしている。ろくに反応が無くても酷く楽しそうだ。

 

「かわいい……!クラウディア、ちょっとだけ撫でて良い?ちょっとだけ!頭だけ!ちょんって!」

「ええ、勿論構いませんよ、ジークフリード様。……抱き上げてみますか?」

「いいの!?」

 

クラウディアの手から赤子を受け取ったジークフリードは恐々とした表情で腕の中に小さな命を収める。

母とは異なり安定を欠いた腕に、察しの良い赤子は再び猫のような声を上げてぐずる。途端にジークフリードは戦闘中にもしたことがないような引き攣った顔で「え、あ、どうしよっ、どうしよっ」と声を潜めながら周囲へ助けを求めた。

 

「ジークフリード様、腕はもう少しこちらへ」

「ふにゃあ、ふにゃああ」

「ひっ、ひええ……」

「大丈夫ですよ、驚いているだけですもの」

 

そうやって恐々と赤子を抱き上げるジークフリードと彼を見守る女性たちを、ユーハバッハは少しばかり離れたところから静かに見つめていた。

 

昼過ぎのやや傾いた陽の光がガゼボの中に差し込み、その中を日影と日向で分かつ。

 

赤子を抱き抱えるジークフリードとその傍にいる彼女たちは日向で陽の光を浴びている。

それをひとり見つめるユーハバッハの立つその場所は日影となっていた。

 

ユーハバッハの爪先からほんの2歩程度進んだ先には日向と日陰の境界線があった。あちらは明るくて、ここから彼らのほうを見るのは少し眩しい。

 

瞳に映るは、絵画の中のように穏やかで美しい景色。

ユーハバッハは目を細めてそれを見つめるだけ。

境界線の向こう側の景色に、彼はかつて自分が見た夢を思い出す。

 

思い出すのは、いつかの屋敷。

箱庭のような部屋の窓から見下ろした黄昏。

薄い瞼を越えて、目を灼く光。

その中にいたメリダとジークの姿。

 

あの景色の中に、あの二人のそばに、自分もいられたらと願ってしまった、あの儚くどうしようもない夢のことを。

 

それは決して口にしてはならない夢想。

願うことさえ許されない我が罪の景色。

夢を見た時にはとうに終わり切っていた夢。

 

美しいと、護りたいと思うのならば触れてはならない。

とうの昔にわかっていたことだろう。所詮この手は奪い、壊し、殺すことしかできないのだ、と。ジークフリードがこの手を握ってくれたとしても、その事実だけはとこしえに変わることはない。

 

だからただ、この仄暗い場所から見つめるだけ。

美しいから、愛おしいから、護りたいから、手を伸ばさない。

この境界線は越えない。越えられない。それで良い。そうであるべきだ。諦めではなく、ただの事実としてそれを受け止める。……それなのに。

 

「ユーフェン」

 

不意にその名を呼ばれる。

声の主は当然ジークフリードで、彼はこちらを見つめたまま、穏やかに微笑んだ。

 

「お前も赤ちゃん、抱っこさせてもらえよ」

 

そう当たり前のように口にするジークフリードに、ユーハバッハは目を伏せて静かに首を横に振った。

 

「……私はいい。私には──」

「あ!ははーん!お前さては赤ちゃん抱っこしたことなくてビビってんな!」

「大丈夫ですよ、陛下様!抱っこくらい猿にでもできますわ!首もとうに据わってますもの!」

「モ、モニカ、不敬よ……」

 

届けられる見当違いな言葉にユーハバッハは肩を落とす。ジークフリードのその挑発に乗ってやる理由もなかった。

どうであれ、自分が触れて良いものではない。頑なに近づかないユーハバッハに、やがて焦れたようにジークフリードが眉間に皺を寄せた。

 

「ったく、お前って本当にさあ……」

 

そう言って、ジークフリードはユーハバッハのいる日影の方へ、一歩足を踏み出した。

ところがその瞬間、揺れに気がついた腕の中の赤子がぐずりだす。途端にジークフリードは動けなくなった。

人様の赤ちゃんを泣かせるのが怖い。やだ、ごめんなさい、嫌わないでください。ただそれだけの立派な理由である。

 

「あわ、あわわわ!ユーフェンお前早くこっち来てくれ!俺もう動けない!この子泣いちゃうから!あー!泣かないでくれ頼む!このままじゃこの子より先に俺が泣く!」

 

ジークフリードは困り切った顔でそう口にして急かす。それを理解しながら、それでも動けないユーハバッハは咄嗟に自身の手を見る。

奪い、壊し、殺すことしかできないこの掌。

こんなもので一体どうしてその柔い命に触れられるようか。

 

「陛下」

 

そんなユーハバッハへ、不意に穏やかな声が届く。クラウディアのものだった。

 

「ユーハバッハ様、どうかこの子を抱き上げて、祝福をくださいませんか?」

 

クラウディアは、一人の母親は確かにユーハバッハへそう言った。祝福を、と。

祝福。一体この罪深い手で抱き上げることの何が祝福だと言うのだろう。いつかきっと奪う。いつかきっと壊してしまう。いつか、きっと、きっと……。

 

「大丈夫だって、ユーフェン」

 

昔と変わらない、こちらを慮るような穏やかな友の声が耳に届く。

それに背中を押されるようにして、ユーハバッハはほとんど無意識に一歩日向の方へ足を進めていた。

その顔は無表情に見える。けれど、長い付き合いのジークフリードにだけはその奥にある怯えと戸惑いが見えていた。

 

「大丈夫だ」

 

もう一度、ジークフリードはユーハバッハへそう言う。

それが決定的だった。

 

日向と日陰の境界線の上で、ユーハバッハはジークフリードから差し出された赤子を受け取り、その腕の中で抱き上げる。

 

あまりにも小さな体だった。

身動ぎする体は柔らかいのに、その中身はずっしりと重い。布越しだと言うのに、腕にはっきりと伝わってくるほどにその体は熱を持っていた。

ぱたぱたと振られた小さな赤子の手がユーハバッハの服の袖をぎゅうと掴む。壊すのが容易いと思えるほどに酷く小さな手、指、爪。

真っ赤な頬、灰色がかった瞳。小さな唇からふにゃあと猫のような声が上がる。けれど泣くことは無かった。

赤子はユーハバッハの腕の中で瞼を閉じる。ここが世界で一番安全な場所だとでもいうかのように何の怯えもなく眠りに就こうとする。

 

込み上げてきそうになる何かに耐えながら、その姿をただ静かに見つめたユーハバッハはクラウディアへ問いかけた。

 

「……名は?」

「ヒューベルトと名付けました。ヒューベルト・アレクサンダー・クライヒです」

「アレクサンダー……。帝国を建てようとした私に傅いたあの時の当主の名がアレクサンダーだったな」

「……覚えてらっしゃるのですね、陛下」

 

クラウディアは溢れそうになる感情を努めて抑えるようにそう口にした。

果てなく流れゆく時の中でそれでもかの人に忘れられていないということは、一体どれだけ尊いことだろう。

 

「……ヒューベルト」

 

ユーハバッハはその子供の名を呼んだ。

まだ己の名さえわかっていない赤子はユーハバッハの腕の中で寝息を立てる。

 

ユーハバッハは何度も繰り返される内心の躊躇いを踏破して、ヒューベルトの頬にその掌でそっと触れた。

 

それは温かく、尊い、命の熱だった。

 

 

 

 

 

 

 

ユーハバッハもジークフリードも、どこかぼんわりとした心のまま言葉少なに帰路に着いた。

心がホワホワする。すごく、あったかかった。命。命、あったかい。

 

「おや、お二人とも随分と楽しい散歩をされてきたようですな」

 

そうやって何の気もなしに城に帰ってきた二人を出迎えたのはザイドリッツだった。

 

ただし、ただのザイドリッツではない。

 

ピクピクと蟀谷に青筋を立て、左手で皇帝陛下代理である兎の首根っこを掴み、右手で霊子兵装である銃を持ちながら、満面の笑顔を浮かべたザイドリッツが、である。

 

ユーハバッハとジークフリードは顔を見合わせた。

何はともあれ、叱られるまでがサボタージュである。

 

ユーハバッハは抱えている仕事を全て終えるまで執務室から一歩も出してもらえなかったし、ジークフリードはぐるぐると簀巻きにされて城の敷地にある一番高い木から吊るされた。

 

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