「よろしいのですか、陛下」
ザイドリッツからの問いかけにユーハバッハは何のことかと問うようなことはしなかった。
椅子に深く腰掛けたまま、書類を抱えるザイドリッツへ視線を向ける。
その視界に重なるようにして見えた景色。愉快だ、と言ったら嘘になる。己のものに他者が気安く触れることへ不愉快を感じる程度には彼とて人間であった。
ユーハバッハは深く息を吐くと、その深く響くような声で告げる。
「……この目は未来を視ることはできても、人の心まで視ることは叶わぬ」
ユーハバッハの紅い三重の重瞳を前にしても、ザイドリッツは怯むことなくその目を見つめる。異形だとは思わない。それも含めて敬愛する陛下の姿だと彼は思っている。
「故に、語られた言葉や為された行動だけが心を表す。そこから曖昧模糊な心とやらを推量する他にわかりあう方法を得られぬのが人の限りだ」
「言葉は感情を前に無力であるとお考えで?」
「ふ、私とてそこまで虚無主義に傾倒する気はない」
「失礼いたしました」
ユーハバッハとザイドリッツは仕事の隙間でほとんど軽口のようなやり取りを交わす。
「他者の言葉に己の心を救われた経験がある。他者の心は見えずとも、己の心くらい観測できねば、心などどこにも無いのと変わらない」
「ジークフリード殿ですか」
「……ザイドリッツ、お前はすぐに私とジークフリードとを結びつけるな」
「陛下がそのような顔をされるのはジークフリード殿に関わることくらいかと思いまして」
「……そのような、とはなんだ」
「お気になさらず。己の目は己の目で見えないものですから」
ザイドリッツはユーハバッハの執務机の上に書類を追加すると「こちらもお願いします」と言った。積み上がった書類を前に、ユーハバッハは唸る。
「……ジークフリードを唆して、道草を食っておくべきだったな」
「陛下の確認が必要なものです。内勤の人員が増えても、陛下の仕事量は変わりません」
「むう」
お手伝いはしますから、とザイドリッツは苦笑した。
「悪い、待たせたな、ムフート」
「いえ、時間通りです、教官」
屋外の訓練場で待つシュトゥル・ムフートの元へ現れたジークフリードは常日頃大多数の騎士がよく見る、戦闘指南の教官であり、皇帝の懐刀としての隙のない姿だった。
ジークフリードととて外面と内面を切り替えるだけの社会性はあるし、時に自分の姿がユーハバッハの名代になることを理解している。
逆に言えば、親衛隊の前など名代になるはずもない場所ではただの昼行燈になるのだが。
「では、よろしくお願いします」
「ああ」
木製の模擬刀を構えるムフートを前に、ジークフリードもまた模擬刀を手にその切先を彼女へ向けた。
教官をしていると意欲のある騎士から個人的に指導を貰いたいという要望は少なからず来る。「いちいち応えていてはキリがない」とはヒューベルトの苦言だったが、できる限り応えたいとジークフリードは思っている。騎士たちが強くなることは結果的に騎士団の、そしてひいてはこの国のためになるのだから。
「はっ!」
斬り込んできたムフートの剣を肩を下げることで避ける。踏み込みは浅い。一打目は牽制で次が本命だろう、そう判断したジークフリードの予測通り喉を狙った突きが飛んでくる。その刃を峰で下から弾き、開いた胴を薙ぐ。それを後方転回の要領で避けるムフートを見逃してから、一拍置いてジークフリードは追撃する。あくまでも指導であり、負かすことが目的ではない。
過不足ない、というのがジークフリードから見たムフートへの印象だった。尖った部分は無いが、剣術においても霊子操作においても求められるだけの技量は持っており、言ってしまえば平均よりやや上といった評価だった。
とはいえそれはあくまでも戦力としての評価である。彼女は真面目で性格にも癖はなく、向上心があり、仲間との協調も取れる良き隣人であるとジークフリードは思っている。
「この辺りにしよう」
「はい、ご指導ありがとうございます」
約1時間ほど模擬戦とその反省会を繰り返して指導を終えた。肩で息をしつつも頭を下げるムフートが再度顔を上げるのを見てジークフリードは目を細める。
彼女へ休憩を促して、二人でガゼボに入る。自分が立っていれば気を遣うだろうと思い、ジークフリードは進んで座り、彼女にも座るよう口にした。素直に腰掛けた彼女へ、ジークフリードは日陰の涼しさに心地よさを感じながら唇を開いた。
「しかし、向上心があるんだな、君は。全体指導でも結構扱いているからな、個人的に指導してくれと言ってくる者は少ない」
「いえ、そんな大層なものではありませんよ。ただ、己の弱さを自覚しているだけです」
「強さや弱さというものは画一的に測れるものでもない。騎士団に入ってから何度も戦場に立った君が変わらずここにいるということが君の強さを証明していると思っている」
「他でもない教官にそういっていただけると自信になります」
「君の自信の一助になれたのなら、この堅苦しい役職にも価値はあったな」
そう言って笑えば、ムフートも表情を緩めて笑った。彼女は揃えたい膝の上に置いた両手の指を絡ませながら、「その、私は教官に憧れています」とはにかんで言った。それからパッと両手を前に出して、慌てた様子で「あ、も、もちろん、騎士として、です!」と付け足した。その様子を微笑ましそうに見つめてジークフリードは唇を開く。
「それは、光栄だ」
「ええ、その、本当です。私は騎士としてこの国の平和のために戦っておられる教官を、ジンツァー親衛隊隊長を尊敬しています」
「ありがとう。……しかし、平和、か」
「……教官?」
礼を口にして、けれどジークフリードは彼女の言葉に微かに目を伏せた。その様子にムフートは眉を下げて伺う。
「なにか、憂いでもあるのですか?」
「憂い、か。……そうだな、憂うことばかりだ」
そう呟いてからジークフリードはムフートの目をただ真っ直ぐに見つめて問いかけた。
「ムフート、君はこの国をどう思う?」
「……ええっと、それは、どのような意味ですか……?」
「この国が平和のために戦っていると、君は本当に思うか?」
まるでそう思っていないかのようなジークフリードの問いかけにムフートはひるんだように言葉を失くす。それから彼女は咄嗟に周囲へ視線を向けた。この言葉を自分以外の誰かが聞いてはいないか、と。
「心配しなくて良い。周りには誰もいない。だから君に聞いているんだ」
「どうして、私なのですか」
「……親衛隊は皇帝の賛同者だ。こんなことは話せない。俺はこれまで長く君を見てきて、君は信用に足ると思った。それでは理由にならないか?」
真っ直ぐな視線にムフートはその瞳を揺らがせる。ジークフリードが何を考えて、何を思って自分にそんな問いかけをしたのかわからず、戸惑いに頭を混乱させながらも言葉を紡ぐ。
「その、た、確かにこの国は長く周辺領地との戦いを続けています……。ですが、それは滅却師の統一と陛下による庇護のためであって……だから、必要な戦いであると……」
「そう思う?」
「…………教官はそう思われないのですか?」
「ああ、思わない」
ジークフリードははっきりとそう答えた。
その堂々とした口振に、ムフートは小さく「え」と呟く。彼女の困惑を置き去りに、彼は話を続ける。
「言うまでもなく、この国が建つ前から滅却師はこの地で生きていた。多少の諍いはあれど、それぞれの領地を持ち、その中で彼らは生き続けてきたんだ。それを無理に統一するということは彼らの歴史と矜持を傷つけることに他ならない」
「そ、それは、そのような一面もある、かもしれませんが……」
「ユーハバッハによる統治に賛同する滅却師をこの国に受け入れることは問題ない。だが、それを望まない相手を武力で押し黙らせて併合することが本当に良いことだと俺は思わない。どんな正しさも人の死の上にあるべきものじゃないはずだ」
「教官……」
ムフートの目を見つめ返してジークフリードは内心を曝け出すかのように続ける。
「ユーハバッハの今の統治は間違っていると俺は思う。今のあいつに俺の声は届かないが、何をしてでも止めたい。……今まで何人も殺してきて、今更馬鹿らしいだろうが、争いは好きじゃないんだ。もうこれ以上、人を殺したくない。本音を言えばそれだけのことだよ」
目を伏せて、ジークフリードはムフートへ告げる。彼女は皇帝との意見の対立を口にされて、ただ絶句したまま、信じられないものを見たような顔をする。言葉を紡げないまま、視線を彷徨わせる彼女に、その表情を目にしたジークフリードは眉を下げて首を横に振った。
「……すまない、君にする話ではなかった。困らせてしまったな、忘れてくれ。密告してくれても構わない」
微かに顔を強張らせたまま立ち上がろうとするジークフリードに、ムフートの内心に微かな罪悪感が生まれる。離れて行こうとするその人を行かせることもできず、彼女はジークフリードの右手を咄嗟に掴んだ。
「お、お待ちください……!」
「……ムフート」
彼を留めようと彼女は咄嗟に口を開く。
なぜ彼が自分にそんな話をしたのか、とうに察していたから。
「……教官は私の出自をご存知だからお話したのでしょう?」
「……」
「誰に吹聴したこともありませんが、隠したこともありません。……私は戦争孤児です」
「……ああ、知っているとも」
「まだ幼い頃、帝国との戦争によって私の住んでいた土地は帝国に併合されました。その時の争いによって街は焼け落ちています。……私の家族ごと」
「それも、知っている」
それが己の罪であるかのように、痛ましい表情でジークフリードは頷く。それから掠れた声で自嘲したように言った。
「君の家族が死んだ戦いにおいて、帝国側の指揮を取ったのは俺だよ、ムフート」
「……存じております」
「俺を恨むか」
「……っ、そのように思ったこともあります」
「当然だな、君には俺を殺す権利がある」
そう口にするジークフリードは彼女の前で無防備だった。武器を振りかぶったとて、それは変わらないのだろう。今ならば、彼を仇として殺すことができるのかもしれない。
そう思いながらも、ムフートは彼の手を握ったまま、静かに首を横に振った。それは彼のためでもあり、自分のためでもある。
「罪無く生きていられる者がこの世界にどれだけいるでしょうか。不幸に身を委ねたり、死を望むことを償いだと私は思いません」
「……君は俺に生きていても良い、とそう思うのか?」
「生きて、抱えた罪以上の価値を示すことこそが償いなのだと信じたいのです」
彼女の言葉に、ジークフリードは譫言のように呟いた。
「……抱えた、罪以上の価値……」
「私も騎士として人を殺しました。他者を非難できる立場ではありません。だからこれは自己正当化と同じです。それでも、そうでありたいし、そうであって欲しい。そう願います」
ジークフリードは何かに耐えるようにグッと瞼を閉じた。小さく嘆息する。それからゆっくりと目を開いて、ムフートへ向けて微笑んだ。
「ありがとう。いや、こんなことを言う権利さえ無いのだろうが…………君の言葉に救われる」
彼女はその言葉に首をゆっくりと横に振った。
「……私の方こそ、です。ずっと、必要な事だと思おうとしてきました。戦争も、併合も、家族の死も。すべては平和のために必要な事だったのだと思うことで、不信を押し殺して、無理やり過去を肯定しようとしていたんです」
それからジークフリードの手を強く握って、目を伏せた。紡がれる声が揺れる。
「でも、あなたが言ってくれました。正しさは人の死の上に成り立つものではない、と。押し殺さなければ生まれてしまう私の心は誤りではなかったのだと初めてそう思えた」
顔を上げて彼女は笑った。それからジークフリードへ告げる。
「あなたを、あなたの心を信じたいです」
「ああ、俺も君に信じて欲しい。信じてもらえるように努力させてほしい。また二人で話したい。今夜、時間をもらえないか」
「ええ、是非」
そうして話を終えたムフートは心の曇りを無くしたような晴れやかな表情をしていた。
では、また、と去っていく彼女の背をガゼボの日陰の中でジークフリードは見つめていた。その背が見えなくなるまで。
それから彼女に握られた右手に視線を落とす。
遠い昔にこの手で彼の手を握り、彼に手を握られたことを思い出す。誰のものとも異なる温み。忘れられるはずもない。
「……『我々の目は前しか見えず、我々の腕は思うより短い』……だったか。あの人の言葉じゃないが、悪魔の手を取ったようなもんだな」
自嘲するようにジークフリードは笑って、悪魔の右手で自身の目元を太陽から隠す。
「俺と一緒に地獄に堕ちてくれ、ユーフェン」