「飯食わないのか、ニキータ。食堂も閉まるぞ」
夜更け、談話室の椅子に腰掛けたままのニキータへ世話焼きな性分のアルゴラは声をかける。
彼女の精神性は常に健康的だ。よく食べ、よく動き、よく眠る。夕食時には必ずと言っていいほど食堂にいる彼女がこの日に限っては誰かを待つように談話室に篭ってばかりいた。
ニキータは入り口近くのアルゴラへちらりと視線を向けると言った。
「約束してるから、いい」
「……ジークフリードだろう。約束したのはわかるが、あいつもああ見えて忙しい奴なんだ。理解してやれ」
「別に隊長のために待ってるわけじゃない」
ふんとそっぽを向くニキータにアルゴラは肩を落とす。言葉で容易く動いてくれないくらい強情なことも知っている。
「……無理はするなよ」
構われたくない時だってあるだろうし、ニキータも限界を感じたら彼女なりに判断できるだろう。
アルゴラはそれだけ言って、談話室を離れた。
一人に戻ったニキータは机に突っ伏しながら溜息をついた。今夜一緒にご飯食べようって言ったのに。
「隊長の嘘つき」
よく晴れていた昼とは打って変わり、月の見えない曇天の夜だった。
昼間に二人で話をしたガゼボ、灯の無い暗闇の中で夜と同化するかのようにジークフリードはそこにいた。
真っ黒な服装、赤毛を隠すように被られた帽子さえ黒く、普段の白い制服を纏う彼とは別人のような雰囲気を纏っていた。
彼と同じように人目を避けるために黒い服を纏いながらやってきたムフートは一瞬声をかけるのを躊躇う。
……知らない人かと思った。
普段の快活さや明るさが無いからだろうか。どう声をかけたものかと惑っていれば、こちらに気がついたジークフリードが視線を向ける。一瞬重なった視線に、どうしてか蛇を思い出した。けれどその視線の鋭さも、ムフートを認識した途端に霧散する。
「ああ、来てくれたのか」
よかったと言って彼が笑った途端、それまでの張り詰めた空気が消える。強張っていた体から緊張が無くなり、ムフートは静かに彼へ近づいた。
「お待たせしてしまい申し訳ありません、教官」
「気にしなくて良い。むしろ君を待たせずに済んでよかった」
それからジークフリードは普段は纏め上げているムフートの髪が下ろされていることに気がつく。その視線に気がついて彼女は微笑む。
「髪で肌を隠した方が良いかと思いまして。ですが、今夜は月もありませんし、見え辛かったですね」
「夜目は利く方だ、君を見失うことはないよ」
彼は微笑むと、自身の隣に座るよう彼女へ言った。近い距離になることへ微かに躊躇いを見せるムフートにジークフリードはバツの悪い顔をしながら口を開く。
「ああ、その、すまない。もし他人の我々が共にいる姿を見られたら隠れて逢い引きでもしていた、ということにしようかと思ってね。隠し事は別の隠し事で覆った方が露見しないかと……」
「そういうことでしたか、その、すみません……要らぬ躊躇いを……」
「謝らないでくれ、当然の警戒だ。あくまでも見せかけだよ、俺から君には指一本触れない。神に誓ったって良い」
少し戯けたように両手を上げてホールドアップをするジークフリードに、ムフートは笑みを形つくりながらも警戒を抱いたまま彼の隣に腰掛けた。
その警戒を理解しているジークフリードは拳一つ分の距離を保つ。一瞬の沈黙、口火を切ったのはムフートだった。
「……教官、聞きたいことがあります」
「もちろん、何でも答えよう」
「……何故、謀反を考えられたのですか」
その問いが来るとわかっていたのだろう、驚く様子もなくジークフリードは小さく頷くと唇を開いた。
「君はユーハバッハがどんな生き物か知っているか?」
「……生き物、ですか?その、人間とか滅却師とか、そういう意味合いでしょうか?」
ムフートの反応にジークフリードはゆっくりと首を横に振る。そしてはっきりと口にした。
「あの男は悪魔だ」
「悪魔……」
告げられた言葉をムフートはほとんど無意識に繰り返す。彼女が理解に至るより前にジークフリードは語り出す。
「この国では病人の死が早いことを知っているか?病を患った人間の先は長くない。何故ならユーハバッハがその者たちの命ごと力を奪うからだ」
「え……?お待ちください、話が、よく……」
「ユーハバッハという存在は、他者から力を、命を奪わずには生きることができない生き物なんだ。人が動物の肉を口にして命を繋ぐように、ユーハバッハは他人の命を奪うことでその力を己に取り込み、生き永らえる。200年生きているという噂は畏怖から来る流言じゃない。事実なんだ」
そんな御伽話のようなことがあるわけが無いという気持ちと、しかしユーハバッハという強大な力を持つ者を前にしたことがあるが故に納得してしまう気持ちの両方があった。
困惑に揺れる彼女の瞳を前に、ジークフリードは淡々と続ける。
「絶えず戦争を繰り返すのは、人が死ねばその人の力がユーハバッハのものになるからだ。ユーハバッハは人を殺し、奪うことでしか生きられない化け物であり、この国はその化け物を生かすためだけの巨大な生命装置に過ぎない」
「…………その、つまり、彼は己が生きるためだけに、不要な争いを起こし続けている、と?」
「ああ、そうだ。この国は血を流し、死体を積み上げるためだけにある。この国が平和になる日なんてものは、とこしえに来ない」
「それは、なんて……」
悍ましい、と彼女は呟いた。そうして理解する。
幼少期の戦火も、己の家族の死も、全てはただ化け物が生き永らえるための生贄でしかなかったのだ、と。
「ユーハバッハは殺さなければ、平和は訪れない」
ジークフリードは立ち上がると、彼女へ向けて掌を差し出した。
「君ならばわかるはずだ、ムフート。共に来てくれ。我々は共にあの悪魔を討ち、真の平和を勝ち取らなければならない」
その掌を前に、ムフートの目が揺らぐ。
……信じていいのだろうか?
疑心と信頼は天秤の上で揺れ動く。踊らされているのかもしれない。けれど、もしもそうだとしても先手を取られたのはこちらだ。その時点で選択は限られてしまっている。
だって、きっとこの人はもう
「……ジンツァー教官」
「ああ」
「あなたは私のことをどこまで知っているのですか?」
「この国を内側の力だけで崩すことは難しい。欲しいのは外側からの力だ。戦争孤児は他にもいるが、それでも君を選んだ。これは
「……ご存知、だったのですね」
「伊達に長生きしていないものでね」
肩を落として、彼女はどこか仕方のないような顔で笑った。その笑顔にジークフリードもまた苦笑に似た笑みを返して告げる。
「ムフート、君はブラック家の人間だろう」
その言葉を彼女は否定しなかった。
浮かべた笑みのまま、ジークフリードを静かに見つめて小さく顎を引く。
「君を利用してすまない。だが、帝国はすでにブラック家を滅ぼすことを決めてしまった。ブラック家は帝国に抵抗できる残り数少ない外側の力だ。失われるのは困る。私は君たちにとっての第五列でありたい」
「いえ、こちらも帝国の情報を得たくてあなたに近づきました。していることは変わりません」
彼女は差し出すジークフリードの手を取った。
ムフートはその硬く大きな掌に安堵を感じながら立ち上がる。
自然と二人はその手を離すことなく、ガゼボを出て暗い夜の中を歩く。
ひと気の無い夜、広大な城の敷地の端にある鬱蒼とした林の中を二人は身を隠すように進む。
「君のことが知りたい」
ジークフリードはそう言った。その言葉にムフートはわざと真面目な顔を作って返す。
「……今そんなことを仰られると誤解されますよ」
「……されてもいい、と思ってる、んだが……」
彼はどこか口の中でもごもごと籠るように言った。照れている、のだろうか。ムフートは思わず自身の頬を内側から噛んだ。そんな彼女の隣でジークフリードは苦笑しながら言う。
「その、例えば、名前とか。シュトゥル・ムフートは流石に偽名だろう?」
「ええ、流石に偽名です。……私の生まれた時の名はゾフィア・ビューラー」
「ゾフィア、か。綺麗な名前だ」
「……ありがとうございます。私は家族を亡くした後、当主様に拾われました。あの方は私を家族のように受け入れて、一族の姓を名乗ることを許してくださった。だから、ゾフィア・ビューラーはいません。その名の人間はあの日、家族と共に死にました」
ムフートは、ゾフィアはジークフリードの前で穏やかに微笑んだ。その名を口にできることが嬉しいと笑っていた。
「私はゾフィア・ブラックです」
彼女がそう口にした瞬間、ジークフリードは立ち止まる。そうして隣を歩いていた彼女の手を引き、真正面からその顔を見つめた。彼女の手を握り、優しく微笑んだ。
「君の大切な名を教えてくれてありがとう」
それからその穏やかな表情のまま、続けた。
「殺すなよ、ニキータ」
「え?」
瞬間、ゾフィアの側頭部に衝撃が走る。
不意打ちのような激痛に身体が地面に激しく叩きつけられた。
「……ぐっ!?」
何が起きたのか分からず、碌に声を上げることさえできないゾフィアの両腕が背中側で拘束された。引き離された手の中の体温は混乱の中で掻き消える。誰かに強く背中に乗り上げられたまま、鈍器で殴られた側頭部を地に押し付けられる。低くなった彼女の視界には冷たい地面とジークフリードの黒い靴だけが見えた。
「ジンツァー隊長、ブラック家の間諜と思わしき人物を確認しました。この場で拘束します」
「拘束を許可する。だが、最終的な処遇は陛下が判断される。殺すな」
「はっ」
ゾフィアを殴りつけた霊子兵装の銃を手にしたむま、彼女を押さえ付けるニキータ。突如彼女が現れたことに驚く様子もなく、ジークフリードはニキータの行動に上官として許可を出した。彼女は霊子で構築した縄で素早くゾフィアの四肢を拘束する。
拘束されながら、ゾフィアはジークフリードを見上げて憎々しげに顔を歪める。その時にはもう彼女も状況を理解していた。
「……騙した、ということですか」
「結果的にはそうなるな。お前が俺にそうしたように」
「全て嘘だった、と」
「嘘も言ったし、本当も言った。……ああ、夜目が利くと言ったのは嘘だ。実際は全然見えないから霊力で補強してる。ダサいから内緒にしてくれ」
「ユーハバッハを殺す気は?」
「あいつのためなら誰を殺してもいいと思ってる」
「狂信者が」
「そんな言い方しないでくれよ、考え抜いた果ての答えだ。……確か、半年くらい」
「所詮あなたもユーハバッハと同じ悪魔だというわけですか」
「天使と呼ばれるより余程光栄だよ」
ジークフリードは大して面白くもなさそうな顔でムフートからの恨み言に答える。それから彼女に向かって素っ気なく言った。
「案外、俺を信じるのが早かったな。もう少し時間が掛かるものだと思ったが」
「……
「その結果、ブラック家はスパイを送り込んでいたことがバレてしまった。ブラック家に救われたお前がブラック家を滅ぼすトリガーになるというわけだ。君主を守ることこそが騎士の本懐だろうに」
「……騙しておいてその意地の悪い物言い。さっきの紳士的なあなたの方が好きでした」
「紳士的な振る舞いってのがわからなくてな、200年前に殺した神父の真似事をしたんだが、その結果むしろ自分が一番ダメージを喰らってる。もう一生やらねえ、こんなロールプレイ」
「さっきまでの隊長ちゃんとキモかったしね」
「えっ」
味方であるはずのニキータに背後から撃たれてジークフリードはショックを受けた。固まるジークフリードを尻目に彼女は続ける。
「恋人いたことないって言うからこういう色仕掛けみたいな作戦、下手だと思ってた。つい心配で来ちゃったし」
「い、色仕掛けはしてないし、あの、その話あんまり大きい声で言わないでもらえますか……」
「もしかして、隊長って童貞なの?」
「ニ、ニキータ、あの、ニキータさん」
震えるジークフリードを差し置いて、ニキータは万が一にも自害されないようにゾフィアに猿轡を噛ませる。苦しげに呻くゾフィアの背から降りたニキータは地に伏す間者を指差して言った。
「隊長、こいつ運んで」
「あ、はい」
もはやどちらが上官かわからない。
「そうか」
差し向けられた間者を前にして、ジークフリードからの報告を受けたユーハバッハが口にしたのはそれだけだった。
シュトゥル・ムフート、もといゾフィア・ブラックは四肢を拘束されたまま、ユーハバッハの執務室の中央でジークフリードに跪かせられている。
ジークフリードとニキータが戻った時には既に部屋の中に他の親衛隊も武装した状態で全員集まっていた。それを目にしたゾフィアの体から微かに残っていた抵抗が失われたのを、彼女を抱えていたジークフリードは感じ取っていた。
「陛下、これはブラック家による明らかな敵対行動です。もはや和解の道はないかと」
ユーハバッハへそう口にしたのはヒューベルトだった。口に出さずとも他の親衛隊も同様の意見なのだろう、異を唱える者はいなかった。そしてユーハバッハもまたその言葉を否定しない。ただ静かに呟く。
「嘆かわしいことだ。死に急ぐお前たちの浅慮を理解することは、私には世界の果てよりも遠い」
真夜、静かな部屋の中に彼の低い声だけが響く。
ゾフィアは無抵抗のまま、けれど不愉快げに顔を歪めて口を開いた。
「……我らが何故その浅慮を選んだのか、あなたには永遠にわからないのでしょうね」
瞬間、ヒューベルトが抜刀し、その刃をゾフィアの首へ向けた。部屋の灯りがサーベルの刃を煌めかせ、それがゾフィアの肌に映る。
「貴様、誰の許しを得て口を開いている。譫言を語るその喉を裂かれたいか」
怒気の混ざったヒューベルトの声。けれどそれをユーハバッハは軽く手を上げて抑えた。
「構わぬ。ヒューベルト、剣を収めよ」
「はっ、申し訳ありません」
君主の言葉に、素早く納刀したヒューベルトが一歩下がった。
それを見届けてから椅子に腰掛けていたユーハバッハは立ち上がり、ゆっくりとゾフィアの元へ近づく。
立ちはだかる塔の影のような男はただ黙ってそこにいるだけで他者を萎縮させる畏怖を纏っていた。
それは例えるのならば、生き物が先の見えない暗闇を前に怯えることに近い、根源的な恐怖のようなものだった。
無表情に見下ろしながら、ユーハバッハは色の薄いその唇を開く。
「語るがいい、お前たちの言葉を、心を。何度も与えてきた機会のうちの一つだ。例えこれが最後になるとしても」
近づく死と目の前の男への恐怖から制御できない身体の震えに侵されながら、ゾフィアは締まりそうになる喉で必死に言葉を紡ぐ。
「あなたには私たち弱者の声が聞こえないのでしょう。殺し、奪い、踏みつけてきた数多の命など、あなたにとっては地を這う蟻と変わらない。だから我々は敵対することを選んだ。あなたを前に、言葉は何の役にも立ちはしないから。この言葉だって、あなたには吹き抜ける風と変わらないのでしょう」
吐き捨てられた言葉を、ユーハバッハはただ静かに受け止める。紡がれた言葉を理解してもなお、その本質には届かない。水の中の泡を手に入れようとするようなものだ。
「会話とは口だけではできぬものだ」
不意にユーハバッハは言葉をこぼす。ゾフィアは押さえつけられたまま顔を上げ、男を見上げる。
「互いに口で語り、互いに耳で聞く。それこそが真っ当な人と人との対峙であろう。故に我らは何度もお前たちへ問いかけ、何度もお前たちの言葉へ耳を傾けた」
ユーハバッハはゾフィアを見つめながらも、しかし彼女という個人を見てはいなかった。彼女と、彼女の背後にある者たちへ向けて言葉を紡いでいく。それは理解のためではなく、ただ断絶を明確な形とするためだけに。
「叛逆の意志は無いか、と私は尋ねた。ブラックは無いと答えた。私たちはそれを信じたかったが、叶うことはなかった。とうに私の城へお前という間者を入れていたのだからな」
「……あ、ああ……」
押し潰すかのような霊圧を前にゾフィアは動けなくなる。飛ばさないように意識を保つのがやっとのことで、滔々と語られる言葉へ言葉を返すことなどできるはずもなかった。
「偽りを口にし続けたのはお前たちだ。傾けるこちらの耳へ虚言を語り、名や立場を偽り、本心を語らず、それでもなお耳を傾けろと言う。こちらへ刃を向けながら、力を振るうなと言う。その矛盾をあと幾度繰り返せばいい?」
ユーハバッハはゾフィアへ掌を向ける。
「お前たちへ語る言葉はとうに無い。お前たちの声を聞く耳も既に無い。我らからそれを簒奪したのは他でも無いお前たち自身だ」
ユーハバッハの手に光が灯る。
そして、美しいその青白い光は瞬きの間に部屋を染め上げるほどに強く輝く。
「かつて私を凌辱した神父は言っていた。神はいる、と。もしも本当にそれがいるのならば、天の国にてお前たちの言葉に耳を傾けるだろう」
光が消えた瞬間、ゾフィアの身体から力が抜け落ちる。
押さえつけていたジークフリードが手を離した途端、彼女の身体は地を倒れ伏す。見開いた目、動かない喉、力の無い四肢。
その鼓動は既に止まっていた。
「陛下、ブラック家への侵攻は如何なさいましょう。今から命を出せば、夜明け前には各部隊の準備も──」
「時は今、そして部隊はお前たちだ、親衛隊」
ザイドリッツの問いかけに、ユーハバッハはすぐさま答える。その言葉に全員の視線が集まるのを当然のように受け止めて皇帝たる彼は続けた。
「間者は定期的に外部と連絡を取るものだ、時が経てば異変は察知される。早いに越したことはあるまい」
そしてユーハバッハは親衛隊一人一人の顔を見つめると、当然のように告げた。
「まして、お前たちは
向けられた信頼に否と答える親衛隊などいない。彼らは胸を張り、真っ直ぐに背筋を伸ばすと皇帝へ声を揃えて「ありません」と返した。
それに頷くユーハバッハはジークフリードへ視線を向ける。
「ジークフリード」
「はっ、すぐに
「お前の準備が終わり次第出立する」
「承知いたしました」
そう言って死体を抱えて部屋を出るジークフリード。そのやりとりを見ていたニキータが隣に立つアルゴラの制服を引っ張る。
「ねえ、今の陛下と隊長のやりとり、どういうこと?」
「ん?ああ、今から急に攻め込んだら、ブラック家としてはなんで攻められたのか理由がわからないだろう?」
「うん、あっちはまだスパイに気が付かれたって知らないだろうし」
「だから、こういう理由で攻め込みましたってすぐにわかるものが必要になる。つまりは──」
「あのスパイの死体?」
「そうだ、だが女とはいえ死体を丸ごと持っていくのは重いし手間になる」
「うん」
「だから必要な部分だけ持っていくってわけだ」
「なるほど」
妥当なのは首から上だろう。言葉にはしなかったがニキータも察した。
ジークフリードの準備はそう待たずに終わった。戻ってきた彼の腕の中には小さな木箱が一つあるだけ。それを馬小屋から連れ出した愛馬にくくりつけていた。
「先頭はヒューベルトに任せる。陛下を中心に、ザイドリッツとアルゴラは両翼を、ニキータは俺と共に殿だ」
月の無い曇り空の夜、親衛隊とユーハバッハは馬に乗り、南のブラック家の領地へ向かう。静かな夜、あまりにも静かすぎる夜に、複数の馬が駆けていくその足音だけが響いては、一瞬で遠くへ走り去っていく。
真面目な顔で背筋を伸ばして部隊の指揮を取っていたジークフリードだったが、進んでいくうちに段々と背中を丸めていく。そして、ついに耐えきれずにぐうと腹を鳴らした。釣られるようにしてニキータの腹も鳴る。横並びの二人は顔を見合わせる。
「……晩飯食べてない、俺」
「隊長のせいで私も食べてない」
「ニキータのは俺のせいじゃないと思う」
「でも約束破った」
「それはごめん」
「いいよ」
「ありがと」
「子供の喧嘩か、お前たちは」
後ろのジークフリードとニキータのやり取りに気がついてか、少しだけ馬の速度を落としたアルゴラが二人へ近づく。そして、彼らに向かって何かを投げ渡した。
「お?」
「なんだ?」
「食堂の担当に頼んで用意してもらったものだ。パンに今日の残り物を挟んだ程度だが、多少腹は膨れるだろう」
紙の包みの中には具材を挟んだパン、所謂サンドウィッチが入っていた。
キョトンとしていた二人の顔がアルゴラの言葉でパッと表情を明るくする。
「アルゴラ!ありがとう!命の恩人!大好き!」
「アルゴラ!ありがとう!いいやつ!大好き!」
「わかったから静かにしろ」
きゃっきゃと喜ぶ声を背に、アルゴラは定位置に戻る。
戻ってきた彼は隣で馬を走らせる陛下に対して無言というのも居心地が悪く、思わず「騒がしくしてしまい申し訳ありません」と頭を下げる。
そうすればユーハバッハは彼へ顔を向けた。
「……構わぬ」
月の無い夜、それ故にアルゴラにユーハバッハの表情はよく見えない。
けれどなんとなく笑っていたように見えて、アルゴラは見惚れたかのように言葉を失くした。