バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

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The night called you

 

月明かりなど要らないくらい、明るかった。

人命を吸って青い炎は空を目指し、煙は天と地を繋げる。

 

炎は崩れた城の瓦礫を飲み込み、数多の死骸を燃料としてさらに燃え盛る。

ジークフリードはそれをただ、眺めていた。

 

 

 

ほとんど不意を打つ形だったからだろう、ブラック家の制圧は容易かった。

当主にゾフィアの首を見せたのはジークフリードで、激昂した当主が彼へ弓を向けた途端にその首を弾いたのはヒューベルトだった。それが開戦の合図。

開戦とは言っても当主という司令官を失くした兵隊など烏合の衆で、ジークフリードはユーハバッハの護衛として彼のそばに立ち、時折ヒューベルトたちをフォローするように矢を打つ程度で事足りた。

 

戦いが始まったばかりの時には絶え間なく聞こえていた悲鳴や怒号さえ段々と小さくなっていった頃、ユーハバッハの大聖弓が空に浮かび、天から地へその矢を向けた。

 

「ジーク」

「……ああ」

「かつてお前をソドムの天使などと評した神父は間違っていた」

 

ユーハバッハはそばに立つジークフリードの名を呼んだ。応える古き友へユーハバッハは唇を開く。

ユーハバッハは青白い弓矢が浮かぶ空を見上げた。

 

「お前とは、天より降り注ぐ灼熱の硫黄と炎である」

 

教えに曰く、ソドムの街は神が天より落とした灼熱の硫黄と炎によって焼かれ、滅ぼされた。

滅びをもたらしたその力こそがジークフリードであると彼は口にする。そうでなければ、あの屋敷の中から出ていくことができた己がロトになってしまう、と。

 

ユーハバッハは城へ向けて矢を落とす。

巨大な矢は城を貫き、崩し、瓦礫へ変えていく。矢は燃え盛る炎へと姿を変えると、城も人も何もかもを飲み込んだ。青白い炎は周囲の霊子を吸い込んで燃え広がっていく。それは夜にのみ咲く月下美人の美しさによく似ている。朝になればここに残るのはひとつの焦土だけだろう。

 

「『私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように』。私とて、そう願っていたのだがな」

「……この地に預言者(エリヤ)は来なかった。それが答えだろうよ」

「ふ、打てば響く。信仰を捨て幾千の夜を越えながらもお前は変わらないな」

「背教者に教えの話を振るお前の意地の悪さをどうにかしたほうがいいな」

 

ジークフリードは呆れたような声音でそう返してから、轟音を立てて燃え盛る業火を見つめた。もはや悲鳴も怒号も聞こえない。

それは声を上げる者がいなくなったからなのか、あるいはこの炎が纏う轟音のために全てが掻き消されてしまっているからなのか、彼にはわからない。

 

ふとジークフリードは思い出す。

 

自分は大きな炎が怖かったはずだ、と。

 

けれど、今の彼はこの業火を前にしても何も恐ろしいと思わない。

それどころか、何故炎を恐れていたのかも思い出せそうにない。

 

「なあ、ユーフェン。俺ってお前に炎が怖いって話をしたっけ?」

「……聞いたこともないな」

「そっか」

「なんだ」

「昔からずっと苦手だったんだが、何で怖かったのか思い出せなくてさ。でも子供の頃にお前へ話していたらお前が覚えてくれてるかなって」

「生憎だがそのような話は聞いたこともないな。私と出会ったばかりの頃を言っているのなら、怯えて虚勢を張っていたあの頃のお前が私にわざわざ弱みを見せるとも思えんが」

「……確かにそうなんだよな」

 

苦笑するジークフリードを見下ろしながらユーハバッハは言った。

 

「ジーク、恐れていたという過去の理由を思い出す必要はあるのか?覚えていないということは、忘れてしまえる程度のことだったのだろう」

 

……大事な記憶だったような気もする。

誰かのために走り出した一番最初の理由だった、気がする。

けれど、ユーハバッハにそう言われるとその程度だったような気もする。

 

「まあ、いいか。お前の炎だから怖くない、ということにしておく」

 

そう口にしながら立ち昇る業火の揺らめきとその影の中に記憶を取り戻す鍵はないかと思って見つめるが、けれどそこに何も見つけられなかった。

 

 

 

殲滅を終えて戻ってきた親衛隊へ、ユーハバッハは帰城することを伝える。先導する親衛隊の後を、ユーハバッハとジークフリードは追うように続いた。

 

馬に乗って瓦礫の山を離れようとした時、ジークフリードはこの場所に僅かに残る人間の気配を察する。

まだ生きている人間がいたようだ。

 

……では、殺さなくては。

霊子兵装を構築しようするジークフリードに気がついたユーハバッハは構うなとばかりに彼の名を呼んだ。

 

「ジークフリード」

 

止めるようなその声音に、兵士としての顔を見せていたジークフリードの顔が普段のものに戻る。いいのか、と視線で問う彼にユーハバッハは言葉を紡ぐ。

 

「……人は何かを得るために別の何かを手放した時、手放した事実を肯定するため得た物の価値をより高く感じようとするものだ」

「……なに?お前また俺の話してる?そんなに俺のこと好きなの?」

「していないが」

「してねえのかよ」

 

じゃあ何言ってるのかわからん。

そんな顔をするジークフリードにユーハバッハは静かに語る。

 

「お前は違う。お前を前にあらゆる現実は価値を等しくする。故にすべては無価値に過ぎぬ」

「……悪口?」

「だが度し難いことに、万物の中で唯一価値を持つお前の光は、他者にとっては打ち棄てるに等しい塵芥でしか無いのだ。……私にさえそれは理解し難いことだが」

 

困惑するジークフリードの碧い瞳に映っていたのは、ただ唯一、ユーハバッハだけだった。小首を傾げるジークフリードに、ユーハバッハは微かに口元を緩める。

彼のその瞳に己が映っていること、己の目に彼が映っていること、それがユーハバッハにとってどれだけの意味と価値を持つかさえ本質的には理解し得ぬままなのだ。

 

「……褒めてる?」

「哀れんでいる」

「なんなんだよ」

「だが、喜んでもいる」

「なんで?」

 

その問いかけにユーハバッハは答えなかった。

代わりに祈りに似た言葉を返すだけ。

 

「私だけはお前のその目の曇りが晴れぬことを祈り続けていると知っておくがいい」

 

それだけ口にして馬を行かせるユーハバッハに、いくらか遅れながらジークフリードは馬を歩かせて首を傾げた。

あまり難しいことはわからないが、ユーハバッハのことはわかる。

 

多分肯定されている。

この在り方を必要とされている。

 

そう思った。それならいいかと彼は機嫌良く馬を足で軽く叩いて急かすと、当然のようにユーハバッハの隣に並んだ。

 

後ろは振り返らなかった。

振り返ろうとも思わなかった。

 

 

 

 

 

「親衛隊諸君お疲れ!今日は全員休みって言ってやりてえところだけどブラック家についての事後処理がある。土は土にと言いながら、一族郎党滅ぼしたら滅ぼしたでそのための事務処理をしなきゃなんねえんだから国家運営ってのは面倒だよな!!」

「口が過ぎるだろ、流石に」

「声量と内容が下等」

「つーわけでこれから通常勤務開始時間までは全員休息。その後午前はヒューベルトとニキータへ待機命令を出す。まあ、待機命令っつってるが、実質的な休息時間と受け取ってしっかり寝てくれ。いい夢見ろよ。申し訳ないがザイドリッツとアルゴラは通常通り朝から勤務、その後入れ替わりで午後から待機とする。変則的で悪いな。何か質問は?」

「我々は構いませんが、陛下とジークフリード殿はどうなさるのですか?」

「俺らは夜に寝る!以上!お疲れ!解散!」

「はい、集合」

「お疲れじゃなくて」

「つまり、お二人は通常通りの勤務にあたられると?」

「ジークフリードはともかく、陛下にそのようなことはさせられないだろう」

「そうだな、ジークフリードはいいとして陛下にはお休みいただかなくては」

「お前らユーハバッハにだけは優しいね?」

 

帰城した彼らは皇帝の前で親衛隊隊長であるジークフリードからの指示を受ける。まだ日が明ける前のことだった。

やんややんやと部下たちから厳しい声を向けられててんやわんやするジークフリードを無表情ながら面白げに眺めていたユーハバッハもやがて助け舟を出す。

 

「こちらを気にかける必要はない」

「ですが……」

「お前たちとよく似た形をしながらも、我らはお前たちと同じ存在ではないのだ。睡眠も食事も、お前たちほど必須のものではない」

 

そう言った途端親衛隊たちの視線がジークフリードへ向く。毎日3食しっかり食べ、時にはおやつを食べ、昼寝もする我らが隊長である。

その視線に気がついたユーハバッハは「ジークフリードのそれは道楽だ」と口にした。ジークフリードも「そう!」も頷く。人間にとっての生命維持さえ所詮己にとっては娯楽に過ぎない自覚はあった。

 

「故に気にかける必要はない。お前たちが真に私を思うのならば今はその身を休めるがいい」

 

そこまで言われてなお食い下がれる者はいない。

そうして今度こそ、この場は解散となったのだった。

 

 

 

 

慌ただしい日さえ、終わって仕舞えば喉元を過ぎた熱となる。

太陽が昇り、天に至り、やがて沈み、月が昇る。

ジークフリードがその日の仕事を全て終え切った真夜、晴れた空には満月が浮かんでいた。

 

靴の裏で空中を踏みつける。

涼しい風が吹き抜ける月明かりの夜、自身の歩く先を霊子で固めながら職務を終えたジークフリードは夜の空を歩いていた。

足元に見下ろす城は日中は騎士が行き来して騒がしいが、今この時間はすっかり静まり返っている。明かりの落とされた城は薄暗く、ところどころで夜番の騎士のためにカンデラが灯されている程度。けれど降り注ぐ月明かりは目を細めたくなるほど明るく、空を往く夜鷹さえ見つけられそうだった。

 

目はよく冴えていた。

昨日から丸一日以上寝ずに働き続けていながら、ジークフリードはほんの少しも眠くなかった。体はまだ起きていたいと語る。

大人しくベッドの中に潜り込んで意識が落ちるのを待つこともできたが、ふとした時に戻ってきそうになる喉元の熱を夜風で冷ましたいという気持ちのほうが強かった。

 

ふらふらと夜を歩いて辿り着いたのは城の敷地の奥にあるガゼボだった。ちょうど昨晩の今頃、間諜を一人陥れた場所。何ともなしにそこに腰掛ける。

 

吹き抜ける風は穏やかに彼の頬を撫でたかと思えば、被っていた黒い帽子を奪い取ろうと強く吹いたりする。

飛ばされまいと帽子を掌を押さえた時、上空で吹き抜ける風に雲が流されて月を隠した。

周囲の木々は城から微かに届く灯りを遮った。厚い雲の向こう側に隠されて月光は彼の元まで届かない。

それによって夜目の利かないジークフリードの視界はほとんど真っ暗になる。開けていても閉じていても変わらないからと瞼を閉じた。

 

目を失くせば風の音が先ほどよりも良く聞こえる。音、熱、風、頬、指、光、匂い。鋭利な感覚は体温さえ感じ取り、ジークフリードは堪えきれずに口元に笑みを浮かべた。いつまでも知らぬふりをしても良かったが、それはむしろ自分のほうが耐えられず瞼を開く。その時にはもう雲は月のそばから去っていた。地に落ちる月影が夜をより鮮明にさせる。

 

「お前は夜を切り取ったみたいだな」

 

ジークフリードは独り言のようにそう言った。誰にも届かぬかと思われたその声は、傍の人影に受け取られる。微かに口元へ笑みを形作ったその人影に、つられるようにジークフリードは笑って彼の名を呼ぶ。

 

「なあ、ユーフェン」

 

ガゼボの屋根の下、音も無くジークフリードの隣に影のように座っていたのはユーハバッハだった。

 

黒い服を纏った彼はジークフリードの言葉の通り、夜を切り取ったかのような出立で佇み、吹き抜ける風がその黒髪を揺らすことを許した。

 

「楽しそうな夜更かしだな、ジーク。それで碌な目に遭ったこともあるまいに」

「いや別にそうでも……あるか、あるな」

 

確かに夜更かしをさせられて楽しかったことはあまり無い気がする。単に碌でも無い思い出ばかりが記憶に張り付いているだけなのかもしれないが。

 

「なんだよ、小言を言うためにわざわざお前まで夜更かししに来たのか?」

「なに、星を見たくなっただけだ」

「星ぃ?」

 

ジークフリードは訝しげに夜空を見上げた。今晩は月が明る過ぎる。その明るさに掻き消されて星など碌に見えはしない。

 

「星なんて見えねえよ」

 

見上げていた月の眩さに目を細め、微かに眉間に皺を寄せたジークフリードがそう言いながら隣に腰掛けるユーハバッハへ視線を向ける。

ユーハバッハは空には一瞥もくれないまま、ジークフリードを見つめて穏やかな表情で唇を開く。

 

「そうでもない」

「ふうん?」

 

よくわからないが、ユーハバッハが満足ならばいい、とジークフリードはそれ以上問わなかった。

彼が口を閉じれば始まる沈黙。居心地の悪くないその時間がいくらか流れたのち、不意にユーハバッハは口を開いた。

 

「ジーク、憂いでもあるのか」

 

その問いかけにジークフリードは一瞬目を丸くして、それから苦笑する。

 

「なんでわかんの、お前は」

「お前の魂は私のものだ。その翳り程度、手に取るようにわかる」

「人の魂を勝手に自分のものにすんな。……まあ、でも、そりゃそうか。俺の魂の中にはお前の魂があるんだからな」

 

ジークフリードは笑ったまま肩の力を抜き、背もたれへ深く体重を預ける。軽く視線を上げると星の見えない夜の空を見上げて笑う。

 

「昨晩、気がついたことがあるんだ」

 

ジークフリードの言葉にユーハバッハは察するものがあった。

 

昨晩、つまりは昨日のちょうど今頃はジークフリードが間諜であるゾフィア・ブラックを陥れていた時だった。

 

それがいくら必要で、ユーハバッハのためであったとしても、ひとりの人間を、そしてひとつの一族を騙し討ち同然に殺し、滅ぼしたことにジークフリードが何も思わないはずもない。

 

この行いを、私の命令をジークフリードは厭っているのだろうか。

ユーハバッハは己の内心の揺らぎを感じながら、魂の半身たるジークフリードの言葉に耳を傾けた。

 

「ムフート……いや、ゾフィアと話をするために昨日の夜にいろいろ準備しててさ、夜闇に紛れるのにいいかなって黒い服を選んだんだ。上下どっちも黒い服で、赤毛が目立たないように帽子も被って。任務とはいえ一応女の子と会うわけだから最低限身だしなみを整えようと鏡とか見てさ、それで気がついたんだ」

 

ジークフリードは真剣な顔でユーハバッハへ言った。

 

「なんか、俺って黒い服似合わないな……って」

 

なんか、思ってた憂いと違うな……。

彼の言葉を耳にしたユーハバッハは思った。

ちょっと微妙な顔をするユーハバッハを置いて、ジークフリードは話を続ける。

 

「でも、普通黒い服が似合わない奴っていないだろ?誰だってとりあえず黒を着とけばなんとかなる……。俺はそう思ってるし、自分もそうだと思ってた。けど鏡に映った自分を見るとなんかすげえ違和感があってさ……その時は着替える暇もなくムフートのところに行って仕事したんだけど。……でも昨日からふとした時に思うんだよ、俺って黒似合わないのかなって。親衛隊の奴らに聞いてもいいんだけどさ、ザイドリッツとアルゴラは優しいから気を遣って似合うって言ってくれるだろうし、ヒューベルトは似合ってても似合ってないって可愛く照れ隠ししてくるだろうし、ニキータは、いやニキータっていうか、女の子にそんなこと聞くのは、な、なんか恥ずかしいし……」

(よく喋るな……)

「似合ってないって感じたの、偶然かなって思って今日も黒い服を着てみたんだけど、なんかもうよくわかんなくなってきてよ。だからお前に聞きたいんだけど」

 

彼の言った通り、黒い服を纏ったジークフリードは立ち上がるとユーハバッハの前に立って見せた。

 

「やっぱ俺って黒は似合わないか?お前はどう思う?」

 

そういって試着室の中のようにくるくると回って見せる。

ユーハバッハも鏡扱いされたのは初めてだった。戸惑いを胸の内に覚えながらユーハバッハは答える。

 

「……そうだな、星の輝きを前にあらゆる色彩は価値を失うと私は思うが」

「いや今は似合うか似合わないかの2択の話をしてんだよ、話を逸らすな。ポエムを読むんじゃねえ」

 

叱られた。

どんな色でも似合ってるよ!の婉曲表現は塵ほども伝わらなかったらしい。

仕方なくユーハバッハは再度唇を開いた。

 

「……似合わぬとは思わん。お前は普段から白を纏うが故にその対となる色彩を纏う己に違和感を覚えるのだろう」

「おお、なるほど」

「あとは個人的な私の好みの話になるが、お前は黒より白の方が似合う」

「そうか、なんか俺もそんな気がしてた」

 

ジークフリードがそう言って嬉しそうに笑ったので、ユーハバッハは少しだけ眩しげに目を細めた。それを見てジークフリードは自身が被っていた黒い帽子を脱ぐと、ぽすりとユーハバッハの頭の上に置いた。

キャップのつばで視界の一部が見えなくなり、それによって月の一部が欠け、降り注ぐ光もまた欠ける。

 

「……ジーク」

「ん?」

「これは、何の真似だ?」

「お前が眩しそうな顔してたから。貸しといてやるよ。お前は黒も似合うし」

 

逆光の中で笑うその姿が紅い瞳に映る。

どれだけ月日が過ぎ、顔立ちも背丈も変われど、その人懐こい笑みは変わらない。

そう思った時、ユーハバッハの手がジークフリードの手に掴まれた。立ち上がらせようと引っ張るその手に驚きながらも抵抗はしない。

 

「なあ、ユーフェン、少し歩こうぜ」

「朝晩と外を歩かせてやらねば満足できんとは面倒な習性だな」

「だれが散歩をねだる犬だ!」

 

立ち上がればぐいぐいと手を引かれる。抵抗する理由もなく、ユーハバッハは繋がれた手に連れられるがままガゼボを出た。

 

昔から手を握るということがひとつのコミュニケーションのようなものになっていたせいか、互いの手を取り合うことに抵抗は無い。あだ名と同様、流石に他人の前ではしないが。

この行為に他意など無い。これは人が安心感を求めて自分の体を自身の腕で抱き締めようとする行為に近しいのだから。

 

ガゼボを出て、月明かりの下に出れば当たり前のようにジークフリードから手を離される。

童子のようにいつまでも仲良く手を繋いで歩きたいわけでは一切無いが、与えられた体温が遠ざかるとそれはそれでつまらない気にもなる。手持ち無沙汰になる掌をじっと見てから呟いた。

 

「……リードでも用意すべきか」

「それ俺の話じゃないよな?」

 

訝しげな目に見つめられたユーハバッハは無言を返事とした。向けられる視線がさらに怪しむようなものに変わる。

じっと見つめながら、瞳の色に合わせるか髪の色に合わせるかを考えていたら、半歩距離取られた。

追いかければ逃げる。逃げるから追う。

いたちごっこを面白がって笑う背中をユーハバッハは急ぐ訳も無く歩いて追いかけた。

 

 

「柄のある布ってあるだろ。兎がいっぱい描いてある布とかあったらいいのにな。俺が仕立て屋ならそれでシャツを作る。襟とボタンがあるやつな」

「そうか」

「お前はシャツを作るなら何の柄がいい?」

「犬と星」

「ふーん、変な柄。それをお前が着るの?」

「着るのはお前だ」

「俺なのかよ」

「その服を纏ったお前を椅子に座らせて、画家に描かせる」

「急にどうした?」

「私は長時間黙って座っていることに耐えられないお前が居心地悪そうにもぞもぞ動いては画家に叱られているのを眺めに行く」

「暇かよ」

「動けないお前のそばで食事もする」

「本当に意地が悪いな、お前は」

 

夜風を浴びながら、二人は城の広い敷地の中をただ行く当てもなく歩く。

月の下で互いが互いの影のように寄り添いながら、特に意味もないくだらない会話を交わし合う。

 

「できた絵はどうすんの。暖炉にでも焚べるのか」

「ふむ、執務室に飾るか」

「嫌だよ。公的な場所に変なもん置くな」

「そうなるとお前の部屋に置くしかなくなるな」

「なんでだよ、自分の部屋に置け」

「お前の部屋に彩りを与えてやろう」

「いいよ、俺もう部屋に絵飾ってるし。ちゃんと良い額に入れて」

「あれは早く捨てろ」

「嫌だね、世界で一番気に入ってる」

「いつまであんなもの取っておく気だ」

「いいだろ、なんか魔除けになりそうだしな」

「あれがあるせいで私はお前の部屋へ行けない」

「魔除けになってんなあ、お前が昔描いた虚の絵」

 

けらけらと笑うその横顔をユーハバッハは見つめる。

あまりにもくだらなく、どうでもよく、眠ればすぐに忘れてしまいそうな会話だった。それなのに、そんなものが居心地良く感じてしまうのは何故なのか。

 

「ジーク」

「なんだ、絵は捨てねえからな」

 

落ちた月影、へこんだ笑窪、やや大きな耳、喉を鳴らす笑い声、人より高い体温、掌。

 

その掌を求める人間は幾千といるのだろう。繋いだ手を離して、他者の願いに応えることだってできるのだろう。

 

それなのにその手はユーハバッハのためだけに塞がれている。これまでも、これからも。

 

不意にユーハバッハは立ち止まる。数歩先を進んでからそれに気がついたジークフリードも立ち止まり、振り返る。

どうしたのかと問いかけるその真っ直ぐな碧い瞳を見つめ返しながら、ユーハバッハは彼にしか聞こえない声で言った。

 

「……お前を前にすると、私は自分がただの人間であるような気がしてならない」

 

そう言った途端、ジークフリードは目を丸くして、ポカンと口を開きっぱなしにする。

それからゆっくりとその顔を穏やかな笑みに変えていった。ゆるりと弧を描いた唇から言葉が生まれる。

 

「なに、お前は逃げてしまいたいの?」

 

その言葉に是と答えたのなら、きっとお前は私の手を取ってどこまででも攫ってくれるのだろう。

 

一夜にして主を失くした城の混乱など尻目に、昔のようにまた二人で当て所もなくいつまでもずっと世界を流離うのだ。

数百年経ってからまたこの地にふらりとやってきては何もかもが変わり果ててしまった有り様を見て、何もかもが変わり果ててしまったと言葉を交わし合う。

そうやって永遠のようなたった一瞬を消費し続けていつまでも、ずっと二人で旅をし続ける。

そんな未来を選ぶことだってできるのだろう。

 

いつまでも、ずっと。

 

いつまでも、の終わりのことを考える。

ずっと、の最果てのことを考える。

 

人を動かす根源となる感情は恐怖だ。

ユーハバッハは終わりを考える。最果てを考える。

永遠のようなたった一瞬を消費し続けていつか来る終わりに辿り着く時を。

やがて私が死に、お前が死に、私が生まれ、お前が生まれない、それから先の「いつまでも」のことを。お前を失くした私が歩いていく「いつまでも」「ずっと」続く道のことを。

 

……嗚呼、それはなんて恐ろしい。

 

果てのない永遠が欲しい。

今この一瞬という永遠が欲しい。

終わりのない光に埋もれた円環の途が欲しい。

 

お前を隣に繋ぎ続けるための掌が欲しい。

 

「……ジーク」

「おう」

「お前の部屋に秘蔵のワインがあるだろう」

「なんで知ってんだよ」

「ベッドの下の木箱の中だ」

「だからなんで知ってんだよ」

「せっかくだ、今夜開けることにしよう」

「なんでお前が決めてんだよ」

「グラスもふたつ用意しておけ」

「俺が飲めねえって知ってるだろ」

「知っている」

「こいつ……。で、場所はお前の部屋か?」

「屋根の上で構わん。今晩はこの目に星を映したい」

「だから月が明る過ぎて星なんか見えねえって今日は」

「月明かりがなくては私の星が見えない」

「もう酔ってんのかお前は」

「……故に城へ戻るぞ、ジーク」

 

逃げるためにお前の手を取りはしない。

言外にそう伝えればジークフリードはそれを答えと受け取って笑った。

 

「……そうか」

「ああ」

「いいよ、ユーフェン。俺はお前が幸せならいい」

 

穏やかに告げられたその言葉に心は微かに怯む。

世界にとっては己は塵芥に等しく、救いようのない悍ましき化け物に過ぎないとして、それを知っていてなおどうしてお前はそう笑っていられるのだろう。いつまでも、変わらずに、ずっと。

 

「……この身の悪辣を知ってなお、そう言えるか」

「それが理由になるのか?」

「縊り、水底へ沈める理由にはなるだろう」

「……なんだよ、忘れたのか?」

 

立ち止まるユーハバッハの前に立って、ジークフリードは苦笑する。どこか呆れたような、仕方ないなと慈しむようなそんな表情だった。

 

「先に俺へ手を差し出したのはお前の方だったろ、ユーフェン」

 

その笑みを前にユーハバッハは言葉を失くす。

今や遠い昔、出会ったばかりで互いのことなど何も知らなかったあの頃。

 

(「ふれてみろ、私に」)

 

狂った屋敷の中で怯えながらも気丈に振る舞う子供から向けられる視線が気に食わず、その敬虔な信仰心を踏みつけ、恐怖と良心を天秤にかけた選択を迫ったあの時のこと。

 

美しい思い出ではないはずだ。心は不安と不信に塗れていたはずだ。私の幸福を祈る理由になるはずもないのに。

 

「……それが理由になるのか?」

「まあ、生きていく理由くらいにはなるだろ」

「……あれが?あんなものが?」

 

あんなくだらない記憶を、幸福だったと言えるのか。

あんなつまらない過去を、生きていく理由にしてしまえるのか。

立ち止まったまま動けずにいるユーハバッハに、ジークフリードは眉を下げて相好を崩す。

 

「あれがなきゃ俺ら、友達になってなかったろ」

 

世界が一瞬、黙り込んだ。

絵画の中のように風は止み、雲は止まり、ユーハバッハは息を忘れる。発光する感覚の中にいるようだった。溢れそうになる何かに耐えながら、一度深く目を瞑り、開く。

 

許されている、と思った。思えばずっとそうだった。

ジークフリードの隣でならば、息をすることに許可は不要だった。

 

帰ろうぜ、と笑うジークフリードにユーハバッハは張り詰めていた息を吐く。

彼の隣に並ぶために一歩踏み出す。目の端が瞬いた。きっと月など無くても、星がある限りこの夜は明るい。その輝きのそばにいるためにならばこの身はとこしえに続く夜にだってなろう。

 

ユーハバッハはジークフリードの隣に並び、共に歩き出した。

伝えたいことは数多にあって、胸の内の喜びを無理に押さえつければ、結局呆れ返った声と言葉が溢れる。

 

「……お前はよほどの被虐趣味か、そうでなければ腹を刺される才能がある」

「喧嘩売ってんのか?」

「ジーク、お前と二人だけの星座でも作るか」

「だから今日は星が見えねえんだって。ってか、星座って、ふふ、んはは!お前ってほんと面白いな!」

「くっ、星よ、それ以上我が目を灼いてくれるな……」

「怖、なに?お前には何が見えてんの?」

 

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